【目 次】

・平家の軍勢、園城寺、興福寺を攻撃、兵火で大津、奈良の街は焼亡-平家仏敵に(840年前)[改訂]

・幕府、鎌倉市中にも防犯のため篝屋(かがりや)を設置し住民に勤務させる。自身番の先駆けか(780年前)[再録]

・伊勢国山田、寛文の大火「鉈(なた)屋火事」-大火後山田奉行、外宮中心の防火町づくり進める(350年前)[改訂]

・京都元禄3年の大火。断片的な記録と異なる被災数だが、焼失面積から1000余戸焼失と見る(330年前)[再録]

・文政から天保へ改元[1] 、己丑の大火と文政京都地震による(190年前)[再録]

・明治14年東京神田松枝町の大火。地震、空襲を除く東京で最後の1万戸以上全焼の大火災(140年前)[改訂]

・インフルエンザ全国にまん延、スペインかぜを除き1万5673人と死亡者が突出(90年前)[再録]

・日航機駿河湾上空ニアミス事故事件。100名が重軽傷、業界用語“ニアミス”が流行語に(20年前)[再録]

【本 文】

○平家の軍勢、園城寺、興福寺を攻撃、兵火で大津、奈良の街は焼亡-平家仏敵に(840年前)[改訂]
 1181年1月4日~22日(治承4年12月10日~28日)
 
1160年1月26日~2月11日(平治元年12月9日~25日)の平治の乱で、政権の中枢に躍り出た平清盛を中心とする平家だが、この戦いに敗れた源氏を中心とする反平家勢力も潜行していた。
 その旗頭となったのが以仁王(もちひとおう)で、王は平家一族の支援する高倉上皇の兄であるのにも関わらず、皇位継承の争いに敗れ親王宣下も受けられず、その上、1179年12月(治承3年11月)平清盛がクーデターを起こし、後白河法皇から政権を奪取した際、長年知行していた城興寺領も没収されていた。
 その以仁王が、1180年5月(治承4年4月)平清盛が娘徳子が生んだ安徳天皇を即位させ、国政を把握したことに対する不満が高まったことを決起の時ととらえ、ついに源頼政を誘うなど平家追討の令旨(皇子の命令)を、源氏など諸国の反平家の武士たちに出すにいたる。
 以仁王の令旨を知った平家は6月16日(旧暦・5月15日)王の邸宅を襲撃するが、頼政からの急報でこれを知った王は辛うじて隣国大津の園城寺(おんじょうじ:三井寺)に逃れかくまわれる。22日(旧・21日)平家は園城寺攻めを決め、翌23日(旧・22日)頼政は以仁王と合流し平家打倒を目指したが、園城寺側の意見がまとまらず、やむなく寺を出て興福寺を頼り奈良へと向かった。しかし27日(旧・26日)平家の追撃を受け以仁王、頼政ともに戦死した。
 だが諸国の源氏は次々と挙兵、まず9月15日(旧・8月17日)に源頼朝が伊豆で、10月4日(旧・9月7日)には木曽義仲が信濃で、12月(旧・11月)には近江源氏の山本義経が挙兵するなど、平家の身辺は一層あわただしくなった。
 これらの動きに対し、平家は反対勢力の中心となっている大津の園城寺や奈良の興福寺を攻撃することとし、1181年1月4日(旧・12月10日)、まず平盛俊軍が園城寺を攻めて山科で僧兵たちを敗り、翌5日(旧・11日)には園城寺及び近辺に放火、同寺は金堂(本堂)を残して全焼した。武士勢力による最初の仏教寺院攻撃である。しかしこの際、平家軍は金堂に火がまわらないように鎮火に努めたとの記述が、当時の公家の日記「玉葉」や「山槐記」にある。
 また園城寺の門前町大津など多くの在家(民家)も兵火により焼失したものと思われるが「平家物語」では1853棟としており、最近の「大津市史」などでは被災数を明記していないが、園城寺の盛況さから見ても多数の民家が兵火にかかったことは間違いないだろう。
 ついで21日(旧・27日)、平重衡及び道盛率いる平家軍は反平家の牙城、興福寺を攻撃することになる。
 重衡軍は興福寺僧兵の防御最前線である木津川を難なく渡り、街道沿い民家を焼き払いながら般若坂から北方の奈良へ侵攻、道盛軍は奈良坂を経て西北から奈良に迫った。
 奈良における戦闘は夜間に及び、たいまつ代わりに興福寺周辺の民家に放火した炎が折からの風に乗って各所に飛び火、元興寺、東大寺などに延焼、東大寺では法華堂、二月堂、正倉院などを残すのみとなり、本堂の大仏殿、講堂、戒壇院、三面僧坊など主要な建物が焼失、大仏は首が融解した。主な攻撃対象であった興福寺は被害が甚大で、寺内にあった金堂、講堂を始め各堂や院など49棟が全焼、寺外にあった子院37棟、塔2基が全焼した。なお春日大社は攻撃の対象にならず焼失も免れている。
 奈良の焼失範囲は、およそ北は般若寺辺りから南は新薬師寺の西方と元興寺に及び、東は東大寺東塔や興福寺東里から西は両寺の西里に及ぶという広大なもので、興福寺、東大寺とともに奈良の街はほぼ全焼した。
 この“南都焼亡”と呼ばれた事件は、当時の人心に大きな衝撃を与えた。
 当時、平安京京都の北都に対し、平城京だった奈良は、794年11月(延暦13年10月)桓武天皇による長岡京を経て平安京への遷都後も南都と呼ばれた仏教の聖地であり、宗教的文化都市だった。この都市の焼亡は奈良~平安時代にわたり継承された文化の消滅を示す事件で、大寺院が既得権を守るために武装兵(僧兵)を雇い政治に介入、それを討伐するために焼亡させてしまった平家は、貴族や寺院勢力を始め、当時の文化人を完全に敵に回し、平家一族は“仏敵”と呼ばれ、平家討滅を目指す源氏に大きな名目を与えてしまった。
 (出典:大津市編「新修 大津市史 第2巻 中世>第一章 部門の台頭>第一節 源平争乱>源平の合戦 38頁~44頁」、奈良市史編集審議会編「奈良市史 通史2>第三章 寺社の都>第一節 源平二氏の抗争と南都 149頁~154頁:以仁王の挙兵と南都、奈良炎上」、原文・現代語訳「平家物語 巻第四>三井寺炎上」、日本全史編集委員会編「日本全史>平安時代>1180-84(治承4)231頁:平家の放火で大仏炎上、灰と化した行基の遺産」、池田正一郎著「日本災変通志>平安朝時代後期>治承4年 178頁~180頁」)

○幕府、鎌倉市中にも防犯のため篝屋(かがりや)を設置し住民に勤務させる。自身番の先駆けか(780年前)[再録]
 1241年1月11日(仁治元年11月21日)
 1185年12月(文治元年11月)、源頼朝の要求をのみ日本国惣地頭に任じて以来、政権の実権を次々と鎌倉に奪われていった京都の朝廷は、50年経って自らの力で市中の治安を維持することもおぼつかなくなり、遂に1238年8月(嘉禎4年6月)幕府は、京都市中の辻々に篝屋(かがりや)を設け、京都御所を警護する大番役勤務の武士たちに詰めさせ、市中の警備を命じた。
 この篝屋は、925年6月(延長3年5月)朝廷の太政官が、京都市中の治安維持のため辻々に設けた“道守屋”の伝統と教訓を引き継ぐもので、江戸時代の辻番所、現在の交番へと続いている。
 幕府はこの日、京都に設けた篝屋の実績を評価、首都としてかっての平安京に匹敵する20万人の人口を擁する大都市に成長した鎌倉の防犯のため篝屋を設け、住民に勤めさせることとした。
 吾妻鑑には“今日爲鎌倉中警固(鎌倉市中の防犯のため)、辻々可燒篝之由被定(辻々にかがり火をたくことが決められた)、省宛保内在家等(各町内単位にそこの住民たちの負担とし)。定結番(順番を決め)。可勤仕之旨(勤めるよう)。被觸仰保々奉行人等(それぞれの町内の管理者に命じた)”とある。
 文中には“辻々にかがり火をたく”とあって篝屋を設けるとはないが、一晩中たくかがり火の番が必要だし、その場所に勤務せよとのことだから、番屋ができていてもおかしくはなく、一般的には鎌倉にも篝屋が設けられたと理解されている。但し鎌倉は京都の場合と異なって、住民を防犯活動に駆り出した訳で、篝屋の建設費用は、江戸時代の“自身番”と同じように町内持ちだったかも知れない。いうなれば“自身番”の先駆けか。
 なお、4年半後の1245年7月(寛元3年6月)には、夜の防犯を強化するため、今度は全民家に松明を用意させ、夜討ちや殺人事件などがあった場合、大声を上げて走り出るよう各町内(保内)の管理者に命じている。市中の辻々に設けた篝屋に知らせたのであろう。
 (出典:歴散加藤塾別館・吾妻鑑入門「第卅三巻・仁治元年庚子十一月大二十一日庚戌」。参照:2018年8月の周年災害「幕府、京都市中治安維持のため篝屋設置」[改訂]、2015年6月の周年災害〈上巻〉「太政官、盗賊横行に対し京都市中の辻々に“道守屋”設置命じる」、2015年7月の周年災害「幕府、夜の防犯のため全民家に松明を置かせる」、2022年1月の周年災害「江戸町奉行、家持町人に自身番所設置を命じる」[改訂])

○伊勢国山田、寛文の大火「鉈(なた)屋火事」-大火後山田奉行、外宮中心の防火町づくり進める(350年前)[改訂]
 1671年1月5日(寛文10年11月24日)
 夜四つ半(23時ごろ)、山田上中郷出屋敷(現・伊勢市常磐町)鉈屋世古(せこ:狭処→細い道:小路)に住む未亡人の独り住まいから出火、炎は折からの冬の伊勢地方特有な強い西風にあおられて延焼した。
 火は浦の橋から上中郷一帯に燃え広がり、曽禰、一之木、一志久保と東へ延焼、次いで宮後西河原、下馬所前野、岩淵、岡本及び小田橋と山田の市街地を焼き尽くし、翌朝五つ半ごろ(9時ごろ)ようやく鎮火した。
 神社では月夜見宮が炎上したが御神体は運び出すことが出来たという。また、伊勢神宮の御師(おんし)で山田奉行の下で山田の統治に当たっている三方家24家の内19家が焼失している。
 49人が死亡、山田惣中(自治区域)9768軒の約6割、5743軒が焼失、土蔵1177棟、寺院189寺が焼失するという未曽有の大火であった。
 この日、山田奉行の桑山丹後守は江戸滞在中であったが、大火後さっそく今後の防火対策を講じることになる。
 まず、翌2月(寛文11年1月)、市内にある宮中(伊勢大神宮・外宮)火消番の設置を三方家に命じ、3月1日(旧暦・1月20日)には、山田惣中など三方家管轄下の町々に対し、3月11日(旧・2月1日)から宮中火消番を務めるよう触れを出した。非番の者でも、宮中近くで火災が起きた場合は、すぐさま駆けつけ消火に当たるように定められ、まず町家よりも外宮神宮本位の消火体制であった。
 次いで旧・6月6日(旧・5月10日)山田奉行は、大火で焼失した家々や類焼は免れたが宮中に近い民家、寺院に対し立ち退きを命じ火除け地を造成、1672年4月(旧・寛文12年3月)には、町家との境に土手を築くことを三方家に命じた。この土手に合わせて築かれた幅2間(6m)の堀が後世百閒掘と呼ばれるようになった。
 また1672年2月1日(旧・寛文12年1月3日)には、三方家は奉行の方針を徹底させるために廃寺の吟味、寺地の坪数の報告をするよう触れを出し、各町々の年寄(世話役)は廃寺および僧侶一代限りの小庵の名を三方家に報告、158の寺が移転、60の寺が解体され、山田奉行による外宮の防火を中心とした町づくりは終わる。
 (出典:荒木駿著「記録が語る伊勢市の災害17頁~27頁:寛文十年の大火(鉈屋の火事)」、宇治山田市役所編「宇治山田市史・下巻>第2章 変異>第1節 火災1551頁~1553頁:寛文の大火」)

○京都元禄3年の大火。断片的な記録と異なる被災数だが、焼失面積から1000余戸焼失と見る(330年前)[再録]
 1691年1月7日(元禄3年12月9日)
 この日の京都の大火については、多くの文献が記録にとどめているが、諸記録ことごとく断片的で、被災数も異なっている。
 まず幕府の公式記録の一つ「常憲院殿御実紀」は、第6代将軍徳川綱吉の治績を記したものであるが“この九日京火災の旨所司代より注進あり”と、かなり素っ気ない。京都で火災があったと京都所司代から報告があった。とそれだけである。
 では出火場所をほかの記録で確かめると、歴代天皇の治績記録「続皇年代略記」は“京都下立売”、当時の珍しい話しなどを集めた「年代著聞集」は“新町通”、京都火消の活動記録「火消録」は“禁裡(皇居)付近”、最後に同時代の関白近衛基凞の日記「基凞公記」は“新町下立売”と記録した。
 さすがに近衛基凞だが、京都の住所表記がわからないと新町と下立売を一緒に読んでしまいそうなので京都の地図を見てみる。すると、京都御所つまり「火消録」が言う“禁裡”の西側に、東西に走る“下立売通”と南北に走る“新町通”が交差している個所を発見することが出来る。ちょうど京都府警本部のあるところだ。その日、このあたりから出火したことは間違いあるまい。
 次に延焼範囲だがこれは「年代著聞集」しか載っていないが“南北二丁(町)、東へ六丁(町)余り焼失す”とある。南北へ約220m、東西へ約660m、つまり14万5200平方mが灰となったということである。
 では、何戸焼失したかということだが、「続皇年代略記」と「火消録」は“一千余戸”とあるが、関白基凞公は三百余軒が焼失する”と記録している。当時、延焼した範囲に何棟の家が建っていたかわからないが、皇居の近くでもあり公家屋敷が多く集まっていたようだ。またそれぞれの記録の焼失単位の“戸”と“軒”だが、戸が出入口という意味から、現在の単位“世帯”、軒が“のき”という意味で現在の“棟”と考えれば、1000余戸と300余軒の差の意味もわかるが、当時延焼した場所に、江戸や大坂のような棟割り長屋があったのかどうかはわからない。公家の邸宅の隣家が棟割り長屋というのは想像がつかないが或いは大通の店が数多く焼けたのか。武家屋敷のように公家の邸宅の中に従者の住居があり、それを一戸と数えたのかも知れない。
 総務省消防庁の“大火”の定義によれば、建物の焼損面積が3万3000平方m(1万坪)以上を指す。その点からこの日の火災は大火と言え、また14万5200平方mに近い焼損面積の近年の大火を探すと、1995年(平成7年)1月の阪神・淡路大震災における神戸市長田区の被害がそれに近く14万2945平方mの焼損面積で焼損1130棟、1453世帯が被災とある。「続皇年代略記」と「火消録」の一千余戸”焼失で間違いなさそうだ。
 330年ほど前の大火で建物の大きさも市街構造も異なるが、以上の点からもこの火災は京都史上に残る大火の一つといえよう。
 (出典:国立国会図書館デジタルコレクション「国史大系 第12巻 徳川実紀第四編>常憲院御実紀 巻22>元禄三年十二月 362頁」、小鹿島果編著「日本災異志>火災の部八十一頁(138頁):元禄三年十二月九日」[追加]、池田正一郎編著「日本災変通史>近世 江戸時代前期398頁:元禄三年十二月九日」)

○文政から天保へ改元、己丑の大火と文政京都地震による(190年前)[再録]
 1831年1月23日(文政13年12月10日)
 改元の理由として上げられたのは、改元前年の文政12年3月21日(1829年4月24日)に発生し約37万軒が焼失2800人余が死亡した江戸三大大火の一つ、己丑(きちゅう)の大火。また直接には、改元の年の7月2日(1830年8月19日)に起きた京都及び畿内に起きた文政京都地震で、1600人余が死傷している。
 (参照:2019年4月の周年災害「江戸文政12年三大大火の一つ己丑の大火」[追加]、2020年8月の周年災害「文政京都地震」[改訂])

○明治14年東京神田松枝町の大火。地震、空襲を除く東京で最後の1万戸以上全焼の大火災(140年前)[改訂]
 1881年(明治14年)1月26日
 前年の暮れ12月30日に鍛冶町から出火し2188戸を焼失したばかりの神田で、1月26日の午前1時半ごろ、今度は松枝町22番地、塩崎組次郎方の火の気のない物置から出火した。放火ではないかとされている。
 炎は折からの北西の強風にあおられて松枝町一帯に燃え広がり、北へ延びて岩本町へ、斜めに東南方向へ転じて大和町から元岩井町さらに江川町方面へと一挙に拡大した。
 出火したのが真冬の深夜のことで、寝静まっていた神田一帯の家々では、飛んでくる火の粉に驚いて起きた時にはすでにあたり一面が火の海となっており、何一つ持ち出せないまま身一つで逃げ道を探すのが精いっぱいだったという。
 一方、強風に押されて元岩井町に伸びた炎は更に周辺の町々に延焼し東神田一帯を焼き尽くした。燃えさかる炎は、午前4時過ぎに材木町河岸から日本橋亀井町に飛び火、またもう一つの炎は弁慶橋方向へ抜けて午前5時前には日本橋馬喰町へと広がり、隣接の横山町、米沢町から同町裏手の若松町、薬研堀町の片側を焼いた。火勢は更に東へ飛び、神田川沿いの元柳町、吉川町まで及んで両国警察署も焼失、午前10時過ぎには風向きが西に転じたため、両国橋を超えて本所、深川を南へとひとなめに焼き尽くした。
 この火事は、出火より16時間半後の午後6時10分、神田、日本橋、本所、深川の4区、52か町12万7697坪(42万1400平方km)、1万637戸(1説には約1万5000戸とも)を全焼、3万6542人の被災者を出してようやく鎮火している。1万戸以上を焼失した大火というのはこれ以降、関東大震災、東京大空襲以外、東京は経験していない。
 (出典:東京の消防百年記念行事推進員会編「東京の消防百年の歩み>明治中期>神田の大火 43頁~45頁:明治十四年一月の大火」。参照:2020年12月の周年災害「明治13年東京神田鍛冶町の大火」[改訂])

○インフルエンザ全国にまん延、スペインかぜを除き1万5673人と死亡者が突出(90年前)[再録]
 1931年(昭和6年)1月
 1月に入り流行性感冒(流感:インフルエンザ)が東京を中心に流行し始めた。
 1月下旬の東京府下(現・都下)では患者数83万人余となり、10日間で464人の死者が出たという。死亡者のピークは翌2月で全国で4510人が死亡、この年は合計1万5673人が死亡している。
 死者の多くは乳児で0歳児が3789人と24%を占めた。また道府県では東京府が1166人死亡と突出し、大阪府772人、新潟県713人と続いているが、気温の低い北海道、東北、北陸地方は新潟県を除けば大半の県が200人前後で済んでいる。
 季節性インフルエンザの流行は、1918年~1920年(大正7年~10年)にかけて世界的な大流行を見た「スペインかぜ」を除けば、1934年(昭和9年)の1万142人死亡以外、死亡者が明治・大正期の2倍近い昭和期でも、例年の死亡者は年間平均約5000人ほどで、1927年~28年(昭和2年~3年)の「世界かぜ」の流行期でも8~9000人死亡と済んでいるのを見ても、この年の死亡者は突出している。
 (出典:昭和史研究会編「昭和史事典>1931(昭和6年)108頁:流行性感冒、全国的に蔓延」、内務省衛生局編「法定伝染病統計>第二表 原因別死亡>9.流行性感冒、第四表 原因及月別死亡>9.流行性感冒・全国、第五表 原因別及年齢階級別死亡>原因番号9」)

○日航機駿河湾上空ニアミス事故事件、100名が重軽傷、業界用語“ニアミス”が流行語に(20年前)[再録]
 2001年(平成13年)1月31日
 日本航空907便、東京国際空港(羽田)発、那覇空港行きボーイング747-400D型機は、東京航空交通管制部の上昇指示に従って高度約3万7000フィート(約1万1300m)付近を上昇飛行中、同管制部からの指示により、高度3万5000フィート(約1万700m)へ降下を開始した。
 一方、同社958便、釜山国際空港発、新東京国際空港(成田)行きダグラスDC10-40型機は、飛行計画に従って高度3万7000フィートで愛知県知多半島河和VORTAC(航空無線標識)を通過、大島VORTACに向けて巡航中だった。
 午後3時55分ごろ、両機は駿河湾上空3万5500フィート(1万820m)~3万5700フィート(1万880m)付近で異常接近(ニアミス)し、双方が回避操作を行ったが、JAL907便は急降下の際。乗客411名、乗員16名の内、シートベルトをしていなかったり通路を歩いていた乗客7名、客室乗務員2名が重傷、乗客81名、客室乗務員10名が軽傷を負った。
 事故後の2002年7月に公表された国土交通省航空・鉄道事故調査委員会の事故報告書によると、事故の引き金は東京航空交通管制部の訓練中の航空管制官が、両機が同じ3万7000フィートで航行し接近する危険に気づき、いずれかを降下させて接近を解消することにした。
 その際、JAL958便に降下指示をするつもりが誤って同907便に降下指示を出し、訓練監督官もこれに気づかなかった事にあるとし、マスメディアも事故原因として大きく報道した。ところ便名を間違えてもどちらかが降下すれば避けられる事故なので、事故調査委員会の認定は間違いだとの世論がわいたが、結局、昨年2010年10月26日付けて最高裁は上告を棄却し、関係した航空管制官と訓練監督官2名の業務上過失傷害罪での有罪が確定した。
 しかし事故が起きた直接の原因は、航空管制官がJAL907便に降下指示を出した直後、衝突防止装置(TCAS)が両機の接近を把握し同便に逆の上昇を指示、同958便には降下指示を出した所にある。
 この時、航空管制官の指示を受けていない同958便はTCASの指示に従って降下を開始したが、指示を受けていた同907便も指示に従い降下を継続、その結果両機が接近していくという事態が生じてしまった。
 事故当時、旅客機にTCASの搭載が義務づけられて1ヵ月立った段階で、航空管制官の指示とTCASの指示が異なった場合の対応についての規定が明確にされておらず、TCASに従って上昇した場合、エンジンの性能がこれに応えられる設計になっているかどうかも、パイロットに提供されていなかったという。このシステム運用上の不備を両被告の弁護団は主張したが、取り上げられることなくこのたび刑は確定した。
 また「ニアミス(異常接近による危険な状態)」という用語は航空業界の言葉であったが、この事故当時、流行語になったのも記憶に新しい。
 (出典:運輸安全委員会編「航空>報告書検索(事故、2001年1月)>古いものから表示>2001年01月31日・静岡県焼津市付近海上上空>概要」、YouTube動画「日本航空機駿河湾上空ニアミス事故(再現ドラマ+TV報道画面」、航空・鉄道事故調査委員会編「航空事故調査報告書・日本航空株式会社所属 JA8904」

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