【目 次】

・京都治承2年の大火「次郎焼亡」公設スーパー東市を含む東西繁華街焼失[改訂]

・幕府、大名火消の初期消火、江戸城内の防火、消火要項定める[改訂]

・江戸町奉行、将軍日光社参に際し、河岸端、橋際、橋の上での商売、小屋がけなどを禁止。
 その後何度も禁止令出すが黙認へ-神田火災後、材木置場の河岸端からの移転は実施[改訂]

・江戸町奉行、玉川上水完成を受け、消防水利強化のため井戸の掘削指示[改訂]

・越中氷見享保10年の大火、町の8割以上焼く[改訂]

・江戸町奉行、火事場建具改役を置き、避難路、消火隊進入路の確保、延焼防止を役目に

川口善光寺参詣の渡し船転覆、負傷者多数

・江戸牛込天保13年通寺町の大火、江戸城北の要地焦土と化す

・大坂安政5年道頓堀難波(なんば)新地焼、大坂随一の繁華街110町焼く

・文久2年麻疹(はしか)大流行、江戸だけで24万人が死亡、幕府崩壊の一因に[改訂]


【本 文】

京都治承2年の大火「次郎焼亡」公設スーパー東市を含む東西繁華街焼失(830年前)[改訂]
 1178年4月20日(治承2年3月24日)

“夜半許。七条北。東洞院東中許洞院南焼亡(その日の夜中あたり、七条大路の北側で東洞院大路と交差するあたりの東中ほどから出火しその南側を焼いた)”。
  これは、江戸時代の大学者、塙保己一が編集した群書類従巻第108に掲載されている“清獬眼抄”が、“後清録記”から転載した大火の記録の冒頭部分だが、以下それを読み解いてみる。
 炎は東洞院大路の南側を焼いたのち、折からの東風にあおられて七条大路を西へ西へと延焼。焼失範囲は、北は北小路南側あたりまで、南は七条大路南側で東洞院大路の西角(家経卿御堂所)から八条坊門小路沿いに朱雀大路まで。また北小路南側あたりは、七条大路沿いに朱雀大路まで焼失し、東洞院大路から朱雀大路に至る南北の範囲がすべて灰となった。東から西へと町数で50~60町が焼失した火災だったが、公設のスーパーマーケット街“東市”を含む繁華街だったので、市民の衝撃は大きかった。
 口さがない京わらべは、今回焼けた地域が、前年の1177年6月3日(安元3年4月28日)に起きた安元の大火で焼け残った南側地域であることから、政争で退位させられ流刑地で憤死した崇徳院のたたりの第2弾とし、院の意を受けた、京の北郊、愛宕山の大天狗“太郎坊”の再度の仕業と噂しきり。前回の御所や政庁、公家屋敷街を焼いた安元の大火“太郎焼亡”に対して、今回は庶民街を焼いた“次郎焼亡”だと名付けた。
 (出典:京都市消防局企画室編「京都消防と災害>第2編 災害記録>第2章 自治体消防発足以前 596頁~597頁:8 次郎焼亡」、国立国会図書館デジタルコレクション「群書類従,第5輯 巻第108>公事部30 清獬眼抄1151頁(582コマ)」、池田正一郎著「日本災変通志>平安時代後期>治承2年:174頁~175頁」。参照:2017年6月の周年災害「京都安元3年の大火「太郎焼亡」、史上最大級の大火災」)


○幕府、大名火消の初期消火、江戸城内の防火、消火要項定める(370年前)[改訂]
 1646年4月29日(正保3年3月14日)

 幕府では、1641年3月(寛永18年1月)に起きた、江戸最初の広域大火、桶町の大火の教訓を生かし、それまでの訓練も装備も不充分な大名による“奉書火消”を改め、大火約1年半後の43年11月(寛永20年9月)には、本格的な火消部隊として常備消防“大名火消”を創設したが、この日、この部隊の初期消火のあり方と、江戸城への防火および消火任務について定めた。
 初期消火については“一.火事之節(時)は、(火元が)侍屋敷、町屋にかき(ぎ)らず、其(の)火元(の)近所之者(が)出合候而(集まって)、成程(できる限り)火消可申事(消火にあたるように)”とあり、自分の屋敷を中心とした地域消火での自己責任をまず明確にしている。
 次は火消の役割だが “一.火消之面々者(は)、先(まず)火本(元)に罷出(出動したら)防見候而(消火中も状況をよく見て)、風つよく御曲輪之内(江戸城内)あふなき体に候はゞ(危ない状況になっておれば)、火元を指置(差し置き:見捨てて)、御曲輪内に火入不申候様 (火が入らない様) 防可申事(防ぐ事)”。とある。
 この“火消之面々”というのは、3年前の1643年(寛永20年)に創設された大名火消のことで、大名火消は屋敷内で消火組を編制し、ともあれ屋敷近くの火元に“罷出”るが、火元の消火活動中も風の方角など状況判断を行い、江戸城内に延焼しそうな状況となれば、消火中の火元も、時には火元近くの自分の屋敷さえも見捨てて“御曲輪内”に駆けつけ、城内への防火体制をとらねばならず、大名火消の最優先の任務は、常に江戸城内の防火であった。この矛盾から57年3月(明暦3年1月)の明暦の大火の翌月、江戸っ子から“防ぎ大名”と異名をつけられた、江戸城延焼防止専任の“方角火消”が誕生することになる。
 次は江戸城と住居が遠いときや休日での動きだが“一.火消之衆(大名火消たち)、宿(住居)遠(く)非番之分者(休日の時でも)、風強(き)時火事出来(しゅったい)候はゞ(火事が起きた場合は)、縦触無之候とも(たとえ指示が無くても)、向寄(最寄り)次第(近い消火組から)、御城近所迄罷出(江戸城近くまで出動し)、其趣(その旨)御城え注進可有之事(報告すること)”。とある。江戸では火事が多くこの決まりでは、ほとんど休まる時もなかったようだ。
 また“一.夜廻(巡回)昼廻之面々(夜の巡回の場合でも昼の巡回の場合でも) 風吹(き)候得ば、当番非番(当番の組も休日の組も)共に御城の風上を見廻(り)、万一火事出来候はゞ(万一火事が起きれば)、成程(できる限り)消候様に差(指)図可仕候(消火するよう指示をする)、若(もし)うさんな類(たぐい)もの候はゞ(不審な者がいれば)、とらへ可申事(捕らえること)”。とあり、江戸城外を巡回する任務もあり、その巡回中、江戸城風上で火事が起きた場合の消火活動や、不審者の逮捕などもその任務としている。
 さらに“一.寄場(消火組の参集場所)に罷出候面々(は)、風下の者不罷出(参集することなく)、宿々に有之而、火をも防可申事(自宅にいて防火に努めること)”。と、自分の屋敷が風下の場合は、江戸城に参集しなければならない面々も、延焼してくる危険性があるので、その場合は自宅防火をすると決められている。
 (出典:東京都編「東京市史稿>No.4>市街篇第6 141頁~142頁:消防制」。参照:2011年3月の周年災害「江戸最初の広域大火・桶町の大火-大名火消と木場の誕生」、11月の周年災害・追補版(3)「幕府、初の組織的な大名火消制度創設」[改訂]、2017年3月の周年災害〈上巻〉「1657明暦江戸大火「振袖火事」世界三大大火の一つ起きる」[追加]、「幕府、方角火消を初めて任命-江戸城延焼防止に専念“防ぎ大名”の異名」[追加])


○江戸町奉行、将軍日光社参に際し、川べり、橋際、橋の上での商売、小屋がけなどを防火上禁止。
 その後街角も禁止対象になるが、最後は黙認へ-神田火災後、材木置場の川べりからの移転は実施[改訂]
 1648年4月20日(慶安元年2月28日)

 7日前に道路や下水の整備についてお触れを出した江戸町奉行は、これも将軍日光社参に際する町民に対する施策でこの日は「覚」として、日常生活におけるさまざまな市中禁止令を出した。
 なかでも交通や消火・防災上、問題になるとして、辻々(街角)や橋際(橋のたもと)、河岸端(川べり)、橋の上での商売、川べりでの小屋がけ、積んだ薪の高さなどが禁止または制限され、中には街角での鞠(まり)けりもある。
 禁止令は初めの相撲取(力士)の下帯の生地から始まり、最後は町内で道路に打ち水をするときの注意事項まで23項目に及んでいるが、消火・防災に関連した禁止令の中で、まず商売禁止令とでもいうべき項目は“一.方々辻々橋際ニ而、かけ(賭け)、ほうひき(宝引き:福引き)仕間敷事(しないように)”“一.町中河岸端ニ而的いさせ申間敷事”だが、その中で“的い(射)させ”とは、弓で矢を的にあてる遊技の事で矢場とも呼んだ。言うなれば江戸時代の射的場である。ついで“一.橋之上ニ諸商人乞食置申間敷事”とあり、川べりや橋のたもとで禁じるだけでなく、橋の上での商売や乞食の物乞いまでも禁じた。
 当時の江戸は、浅草川と呼ばれていた隅田川と江戸城に挟まれた神田から日本橋、京橋にいたる地域に市街地が広がり、江戸湾から江戸城周辺に物資を運ぶ運河や河川が縦横に整備されていた。
 当然、河岸の道も橋も現在より数多くあり交通の要所であったが、その幅はそれぞれ狭かったようだ。川べりの道路は、いわゆる横丁とほぼ同じで3間(5.5m)幅が多く、橋は江戸を代表する日本橋が1618年(元和4年)に架橋されたときの幅が4間2尺5寸(7.7m)、1657年3月(明暦3年2月)の明暦の大火後、江戸の市街を拡げるためと避難路として、60年1月(万治2年12月)に浅草川対岸の下総国に向かって架橋された両国橋が、幅4間(7.3m)というから、ほかの橋は主な道路とつながっていても、幅3間(5.5m)ほどしかなかったのではないかと思われる。
 このせいぜい3間幅の川べりや橋の上、そのたもとなどで賭博場や福引き、矢場などが開かれ、商品が並び、乞食がいるともなると、それだけでも道幅や橋の幅が狭くなる上に、人だかりがしてろくに人が通れない状況となり、ふだんでも交通の妨げになってくる。
 特に近くで火事が起きた場合など、集まった人々は我先に逃げようと、商売道具や商品を踏みつけるは、川に落ちるは、で、大混乱になる。その上、そこに火事!との知らせで、火事現場に馬を飛ばして駈けつける使番などが現れようのものなら、大混乱もいいところで、死傷者の出る騒ぎになってもおかしくはない。または橋のたもとや橋の上に散乱した商売道具が炎を呼び橋が焼け落ちる危険もあったろう。町奉行所が禁止令を出すのは当然の処置であろう。
 またこの“橋之上に諸商人乞食置申間敷事”という禁止令は、1年4か月後の翌49年8月(慶安2年7月)に“町中橋之上、両橋詰(橋のたもと)并(ならびに)辻々道中(街角)ニ商売人有之ニ付、往行(往来)狭(くなり)候間、堅置申間敷候事(堅く置くことを禁じる)”と、今度は“往行狭候間”と禁止理由を明示した上で再度禁止している。
 ところが、この街角を商売の禁止場所としたことで、禁止対象が増えた。
 まず、翌50年5月(慶安3年4月)には、川べりや街角での“古かね買(古金属商)”が禁止され、6年後の56年8月(明暦2年7月)になると、辻立(街角での販売、曲芸など大道芸)、辻相撲など街頭での大道芸人による見世物が禁止され、同年10月(同年8月)、いよいよ橋のたもとや街角で店を開いていた辻髪結(理髪業)も対象になり、ほとんどの街頭での庶民のささやかな商売、小商いが禁止されることになった。ちなみに、慶安元年の最初の禁止令にある“辻に而鞠(まり)けさせ(蹴ること)申間敷事”と明暦2年の禁止令に出てくる“辻鞠”だが、これも大道芸人による曲芸的見世物の様だが、通行の邪魔になるとして禁止された。若い衆の遊びとしても同様だろう。
 ところで、避難路という防災目的のために江戸防備の目的を捨ててまでして架橋した両国橋だが、その目的が守れるよう、架橋翌61年4月(万治4年3月)には、火事の際に橋の上や橋のたもとへ、避難の際の諸道具を置くことを禁じたが、同年11月(寛文元年9月)と2か月後の翌62年1月(同年11月)には、そのほかの橋も含めて商売禁止のお触れを、口調を変えたり禁止場所を増やすなど立て続けに出している。
 禁止令の口調は、49年8月(慶安2年7月)の時には“乞食同前之事”と念押し程度だが、12年後の61年11月(寛文元年9月)になると、禁止令の対象が増えたこともあり、この間、なかなか徹底されなかったようで、商人だけでなく、行人(托鉢僧)、願人(願人坊主:大道芸人)などが、相変わらず橋のたもとや橋の上で小商いをしているのを“差置申間敷事(放っておくな)と、しかり飛ばし、翌62年1月(同年11月)には、算置(占い師)も禁止対象に含め、また場所としては今で言えば商店街の入口にあたる町中の木戸際も禁じた。これは現在でもそのような所によく占い師や托鉢僧がいるので、彼らが目指す場所は古今同じなのだろう。
 ところが、この街角や橋の上、たもとでの商売禁止のお触れは、その後もなかなか徹底しなかった。なかでもあろうことか、防災目的で橋のたもとに広大な空き地をつくり火除け地とした両国広小路が様変わりしていく。というのは、ここは公共用地だから地代の取り立てもないし、仮設なら恒久的な建物ではないからよろしかろうと、無断で見せ物小屋が出現した。
 お触れによれば仮設であっても商売は禁止されている筈である。ところがその内に、水茶屋(喫茶店)から飲食店、講釈場(講談などを語る小屋)まで現れ、江戸の一大歓楽地となってしまった。町奉行所は、仮設でも届け出があれば、当然禁止したであろう。そこで無断での目的外使用が始まった。それも防災上一番危険な見せ物小屋である。幕府と町奉行所も、江戸っ子の欲求と巧妙な立ち回りに押されたのか、当時、街々で現れ出した店火消など、町人の自衛消防力に期待したのか、結局は黙認となってしまったわけである。
 次いで建築物などの禁止令だが、それは“河岸端ニ作り置候小屋、雪隠(トイレ)早々こわし取可申事、残置候者有之ハ(ある場合は)、代物壱貫文過料たるべき事(1貫文の罰金に処す)”と“かしはたニ積置候薪、壱間(1.8m)より高く積申間敷候、壱間より高く積申候ハゞ、壱貫文可為過料事”という二つの禁止令がある。
 これらは川べりの道路が狭くなることに対する禁止令だが、小屋は物置で、雪隠も含め向かい側の家の造作であろうか。積んだ薪は、薪売り業者か、風呂屋、湯屋などが必要に応じて積み上げたものと思われる。それぞれ必要性があり、人だかりもしないので、1貫文(約2万円程度)の罰金にしたのだろうが、中には罰金を支払ってそのままにした豪の者もいたかもしれない。
 ただし、この薪の高積みが大火を呼んだ事例があり、江戸における防火対策上大問題となった。それはこの日から約90年後の1739年4月11日(元文4年3月4日)に起きた、神田明神下より出火し、下谷から柳原に及んだ神田火災である。
 当時、神田川の筋違御門橋に隣接する佐久間河岸とそれと並行する神田佐久間町や和泉町界隈は、江戸時代初期からの材木商を含む商人と物流の一大流通拠点で、江戸湾から入って来た船が運んだ商売物の材木や薪が、常に佐久間河岸端にうず高く積み上げてあり、よく火事の火だねとなっていたという。特に神田火災の日は、これらの材木や薪のほとんどに延焼し、大火となったという。その後、この材木置き場は幕府に召し上げられ、代地としていったん深川猟師町が与えられ、後に、日本橋の材木商たちが1701年(元禄14年)に深川の埋立地に白力で造成した深川木場へ移ったという。
 (出典:日本全史編集委員会編「日本全史>江戸時代>1648(正保5・慶安1) 536頁:江戸に市中法度出る。市中整備と生活統制がねらい」、東京都編「東京市史稿>No.4>市街篇 第6>442頁~444頁:市中取締令」、近世史料研究会編「江戸町触集成 第1巻>正保五戊子年「二月十五日慶安と改元」4頁~5頁:7 覚(市中取締令)」、東京都編「東京市史稿>No1.>橋梁編 第1 99頁:日本橋架橋」、同編「同史稿>No1.>同編 第1 166頁~174頁:両国橋創架」、近世史料研究会編「江戸町触集成 第1巻>慶安二己丑年15頁:37覚」、同編「同集成 同巻>慶安三庚寅年16頁:43覚」[改訂]、同編「同集成 同巻>明暦二丙申年51頁:143覚、144覚」[改訂]、高柳真三+石井良助編「御触書寛保集成26>火事并火之元等之部766頁:1441万治四丑年二(三の誤り)月」[追加]、近世史料研究会編「江戸町触集成 第1巻>寛文一辛丑年122頁~123頁:322覚」[改訂]、同編「同集成 同巻>寛文一辛丑年125頁:328覚」[改訂]、東京都編「東京市史稿>No.2>変災篇 第4・836頁~844頁:元文四年火災>二.三月四日火災」、エキサイトブログ提供「新江戸百景めぐり>31両国広小路」[追加]。参照:2018年4月の周年災害「江戸町奉行、将軍日光社参に際し、道路、下水整備に関するお触れ出す」 [改訂]、2月の周年災害・追補版(3)「江戸町奉行、火災時、車での荷物運搬、橋や道路上へ置くこと禁止」[改訂]、2017年11月の周年災害「幕府、明暦の大火を機に江戸の街の大改造行う」[改訂]、2018年11月の周年災害「町内に町奉行与力指揮下の官製・町火消(店火消)“火消組”編成へ-ほとんどの町人は無視」[改訂]、2011年3月の周年災害「江戸最初の広域大火・桶町の大火-大名火消と木場の誕生」)


○江戸町奉行、玉川上水完成を受け、消防水利強化のため井戸の掘削指示[改訂]
 1655年4月26日(承応4年3月20日)

 井戸の掘削が指示された前年1654年8月2日(承応3年6月20日)、玉川上水が完成し江戸の町々に給水された。
 寛永年間(1624年~43年)に完成していたといわれる神田上水が、主に武家地に給水されていたのに対し、玉川上水は、京橋、日本橋を含む当時の江戸市街の隅々まで給水された。江戸っ子の自慢“上水(水道)の水で産湯を使った”が生まれたゆえんである。
 同上水は、多摩川の羽村(現・羽村市)で河水を取り込み、四谷の大木戸に作られた水番所までは川のように地表を流し(開渠)、そこから地下に埋設された石造の樋(石樋)で大きく分水し、必要に応じて木樋でさらに分水、最後は竹樋で各町々へ道路に沿って分水された。町民は給水路に合わせて井戸を掘り生活用水などに使った。その井戸は一般の井戸のように地下水をめがけて掘るのではなく、上水路めがけて掘ったので上水井戸とも呼ばれた。その井戸を江戸町奉行が、消防水利として掘るように指示したのである。
 玉川上水が江戸市中に給水されるまでの消防水利は、主に天水(雨水)を大きなおけ(天水桶)に溜めていた。
 江戸町奉行が町人に対し初めてまとめて出した防火の心得は、48年6月(慶安元年4月)の初代将軍徳川家康の33回忌に当たり3代将軍家光が日光社参(参詣)するに際してのものだが、消防水利については“家之前手桶に水を入置”と、家の前に取っ手のついた小さな桶に水を入れて置くようにとの指示程度で、これは大平洋戦争中(1941年~45年)空襲に備えて家の前にバケツに水を入れて置くようにとの指示と同じで、水一杯で大丈夫なの?と言える、体裁をつくろった指示だった。
 ところが、翌49年2月(同年12月)の最初の防火指示というべきお触れになると“町々水ため桶、手桶、天水桶ニ水ヲ入置可申候”と、当時としては最大限の消防水利指示となっている。
 それがこの日の町触れになると、消防水利として井戸の掘削を指示することになる。
 まず“町中火之用心井戸之儀”として“一.壱町之内両ヶ輪(両側)ニ、火之用心井戸八ツ堀可申候(下略)”。“一.壱町之内六拾間(約109m)より長き町ニ者(は)、両かわ(側)ニ井戸拾(10か所)ほり可申事。”“一.横町并(ならびに)(町)会所ニ者、両かわ井戸貳ツ(ふたつ)掘可申事。”“一.片町(道路の片側だけの町)壱丁ニ者、井戸四つ掘可申事。但御定(規定)より井戸数、前々より多(き)町之分は不苦候間、其儘差置可申候(そのままの用意でよい)。井戸数不足之町者、右之通(規定の数になるように)掘置可申候。若(もし)町々商売ニ構(かまい)候ハゞ(じゃまであれば)、海道之地形並ニ(道路に沿って)ふたをいたし、差置可申事(用意をしておくこと)。” と、非常に具体的に井戸を掘る必要な数を指示した上、商いのじゃまにならないようにと配慮した指示を出している。
 一方、上水道がまだ通っていない町に対しては“(略)跡々被仰付候(以前から指示の)水溜桶之外ニ、壱町之内、両側ニ水溜桶八ツ掘入(井戸のように掘って入れ)、壱ヶ月ニ壱度宛水(を)入替、不断水切不申様ニ仕(水を切らさぬようにし)、往行並(通り沿いでは)ニ切ふた仕(ほこりが入らぬように、蓋をしておく)、為火之用心之差置可申事。”とこれも具体的な配慮をした指示となっている。
 (出典:東京都編「東京市史稿>No.2>上水篇 第1・190頁:警火井鑿開」、黒木喬著「江戸の火事>第四章 江戸の防火対策>三 警火令と住民 141頁」、日本全史編集委員会編「日本全史>江戸時代>1654(承応3) 549頁:玉川上水の開削に成功、江戸の飲料不足が解消する」、東京都水道局編「玉川上水の歴史」。参照:2018年6月の周年災害「将軍日光社参に際し、町人たちに町の防火・警備について初のお触れ」[改訂]、2019年2月の周年災害「江戸町奉行、火災シーズンを前に、町方に一連の「警火の町触」出す」[改訂])


○越中氷見享保10年の大火、町の8割以上焼く[改訂]
 1725年4月9日(享保10年2月26日)

 越中氷見(現・氷見市)で、全町1200軒のところその内1000軒余を焼くという大火に見舞われた。
 その日は西南の風が激しく吹いていた。巳の刻(午前10時ごろ)、上伊勢町の鍛冶職四郎三郎の細工場の火が飛び散り、出火した。炎は細工場から居宅へとたちまちのうちに燃え移り、強風に乗って近隣の家々を焼き払い、土蔵をなめ寺を焼いた。
 日中、氷見の町のほとんどすべてをなめ尽くし、夜に入っても炎の勢い収まらず、ようやく鎮火したのは亥の刻(午後10時)ごろで、ちょうど12時間燃え続けていた。
 当時、氷見は加賀藩に属していたので、今石動(いまいするぎ)町奉行の山崎九郎右衛門が藩家老の本多安房守政昌に火災の模様を報告した注進書が残っている。
 それによると、被害は高札場、町屋千何百軒と外に寺方御坊6か寺、寺方塔頭(子院)御坊寺家6軒。町屋米蔵、土蔵、納屋200、船4艘、米2203石、雑穀175俵、夏網猟(漁)道具12流分、ほしか(干鰯)等俵物1万4693俵、右之通焼失仕候、とある。
 また死亡者はなかったこと、先の注進書では焼失した町屋千何百としていたが、調査後、氷見惣(総)家数1200軒余で焼け残った家は200軒余と報告、そのほか藩の塩の収納蔵と米の収納蔵が無事だった事を報告している。
 (出典:氷見市史編さん委員会編「氷見市史 1 通史編 1>第7章 環境変動と社会の変化>第2節 気候変動と飢饉・騒動>二.飢饉と救恤・騒動>大火・地滑りと波害 694頁」[追加]、同編「氷見市史 3 資料編 1 近世 506頁:102氷見町大火につき注進書」)


江戸町奉行、火事場建具改役を置き、避難路、消火隊進入路の確保、延焼防止を役目に
 1725年4月(享保10年3月)

この月、江戸町奉行所の役職の中に新しく“火事場建具改役”が置かれた。

そんな役があったんですか?と、疑うほど聞き慣れない役職だが、ともかくお上(かみ)をおそれない江戸っ子である。火事ともなると、自分の財産大事で、恐れ多くも将軍様のお住まいになる江戸城の郭内でさえ、避難の荷物を運んでしまう皆様方で(まさか町人ではないだろうが)、中にはすごい人たちがいて、衣類や家財道具どころか、たたみや戸、ふすま、障子など建具さえも取り外して運んで避難する人たちもいて、それらが道路や橋の上などに放置や散乱などされていると、避難や消火の妨げになるどころか、延焼の火だねとなる危険性がある。そこで1662年12月(寛文2年11月)次のお触れが出た。“町中火事出来(しゅったい)之時分、(中略)畳戸障子抔(など)を海道(街道)え出し置、往行之道ふさけ(ふさげ)候儀。堅仕間鋪(敷)候(してはならない)。”
 ところが63年もたつと、禁止のお触れに背いてまでも持ち出す輩がいて空文化したので、ついにこの“火事場建具役”を置かざるを得なくなったというところであろうか。その役目は、火事の時に巡回して空き地を確保すること、とあり、与力3騎に同心4人がついたという。与力3騎と同心4人の役割分担はわからないが、半端な組み合わせであり、広大な火事場を検分するのに3騎+4人が1組になり巡回したとは考えられず、与力1騎が先駆けして重点か所を見つけ、その報告に基づき、残りの2騎と4人が2組に分かれて検分し、建具置き去り現場付近担当の町廻同心や町役人などを指図して整理させたのだろうか。
 この役職が置かれる前は、同心による“町廻り”が勤めていたという。ところが1721年(享保6年)に町廻同心の役目が、防火から町の風俗犯の防止へと重点が移ったので、新役職を置いたという説があるが、態勢が強化されている点、やはり遺棄物の大型化と取締の強化が目的で、新役職が置かれたあとも、町廻同心の役目は犯罪防止のほか防災上の市中観察があり、この役目には、火事の規模により町廻同心も参加していたのではないか。ともかく、避難路、消火隊の進入路の確保、延焼防止は消火の際の絶対条件で、火事場建具改役は重要な役目であった。しかしなぜか、この役職は1780年代の天明期には姿を消しているという。
 またこのほか、西の強風の吹く秋10月(新暦11月)から翌年3月(同4月)までは、火災シーズンで放火が多いこともあり、32年4月(同17年4月)には“風烈廻役”も置かれ、牛込、巣鴨、大塚、小石川、本郷、丸山辺りなど、江戸城の風上に当たる地域を巡回し、特に強風の時は麻布、青山辺りまでも巡回し、放火防止を担っていたという。
 (出典:西山松之助編・江戸町人の研究 第4巻 南和夫著「町奉行>第2章 与力と同心>第2節 与力・同心の分掌とその変遷>享保期の分掌 90頁~91頁)、東京都編「東京市史稿>No.4>市中篇 第8・153頁:火災町触」。参照:2月の周年災害・追補版(3)「江戸町奉行、火災時、車での荷物運搬、橋や道路上へ置くこと禁止-禁令効かず馬も登場、建具などを江戸城内に避難も」)


○川口善光寺参詣の渡し船転覆、負傷者多数
 1794年4月

江戸寄りの岩淵宿(現・北区)から、荒川対岸の川口宿(川口市)へと渡る渡し船が定員過剰で転覆、大勢のけが人が出た。
 この日は川口宿にある、平等山善光寺の御本尊・阿弥陀如来像の御開帳日で、大いに賑わっていた。特に同寺の御本尊は、日本最古の仏像と言われている一光三尊阿弥陀如来像を模造した尊像で、信濃の善光寺と同じ御利益があるとして江戸市民の信仰を集め、同寺は江戸から近い手軽な観光地としても人気を集めていたのであった。
 幕末の歴史考証家・斎藤月岑(げっしん)は、著作の武江年表に“(寛政6年甲寅3月)川口善光寺如来開帳、参詣群衆して、川口の渡し船覆り、怪我人多くあり”と記したが、その原因や日時も記録していないので詳細は不明であるが、同書に記録したというのは、かなりの大事件であったと思われる。
 (出典:国立国会図書館デジタルコレクション・斎藤月岑著「増訂武江年表巻之7>寛政6甲寅 167 頁(90コマ)」、平等山善光寺編「善光寺について」、浮間わいわいネット編「川口散策>安藤広重 川口のわたし善光寺」)

江戸牛込天保13年通寺町の大火、江戸城北の要地焦土と化す
 1842年4月17日(天保13年3月7日)

大久保通・神楽坂上交差点から早稲田通を上がり、音楽の友ホールまでの沿道を、江戸時代は通寺町と称し、文字どおり左右に寺院が山門を構えていたが、現在では正蔵院が残るだけである。その赤城下の通寺町から出火し大火災が起きた。
 卯の下刻過ぎ(午前7時過ぎ)、通寺町のあぶらげや裏町より出火、南の強風に乗って炎は舞い上がり、小日向から小石川一円を猛火に包み、大塚辺りまでを焦土と化した。そこから飛び火して白山より巣鴨、駒込、染井村(現・豊島区駒込四丁目~六丁目)までを灰とし、西ヶ原村(現・北区西ヶ原)の御用屋敷跡の寺院まで、北へ5kmほど焼け抜けた。申の下刻(午後5時ごろ)鎮火。直後飛び火して尾久村(現・北区)を焼失している(池魚録抄)。
 火災に遭った辺りは、江戸城北部の要地であり、町家や寺院が多く立ち並んでいたがすべて焦土と化し、死亡者、負傷者がおびただしかったという(武江年表)。
 註:出典資料の東京市史稿変災篇第5には、引用した池魚録抄と武江年表が掲載されており、同史稿には“重なる火災”と紹介しているが、両書を比較したところ同一の火災を掲載したものと判断、内容的に矛盾のある武江年表は一部引用とした。(出典:東京都編「東京市史稿>No.2>変災篇第5・606頁~607頁:天保13年火災」)


大坂安政5年道頓堀難波(なんば)新地焼、大坂随一の繁華街110町焼く
1858年4月8日(安政5年2月25日)

正午ごろ、角の芝居(道頓堀角座)から出火、折しも吹きすさぶ西南の強風に乗って四方八方へ飛び火が起き、火消

人足の手に負えず、道頓堀の相生橋が焼け落ちて北へと島の内に延焼した。七つ時(午後4時ごろ)、東北風に変わり、西は新川(現・阪神高速1号線)の南のはずれの田んぼまで、東は掘留まで焼け、大坂随一の繁華街難波新地(現・難波)一帯が全焼し、翌9日午前5時(旧歴・26日七つ時半)鎮火。
 被害は、町数で110町、かまど(世帯)数で1万5800余、土蔵焼損110棟、寺社16か所、風呂屋13軒、咄(はなし)講釈小屋8軒、見世物小屋5軒、芝居小屋5軒、芝居茶屋は南地のほか多数、飲屋料理屋85軒。
 (出典:玉置豊次郎著「大坂建設史夜話>17.大坂の災害記録>幕政時代後期の大火の記録 128頁~129頁:安政五年(一八五八)二月二十五日 道頓堀難波新地焼」)


文久2年麻疹(はしか)大流行、江戸だけで24万人が死亡、幕府崩壊の一因に[改訂]
 1862年4月(文久2年3月)

現在では生後1歳~2歳と5歳~7歳の2回に分けて、MRワクチンによる予防接種を行っているので、流行することはないし、成人での感染は非常に少ないが、江戸時代だけで13回も大流行をしたという麻疹(はしか)。文久2年はそのうち最悪、史上最大級の一例で、幕府崩壊の一因をなしたという。
 斎藤は、武江年表に記す“二月の頃、西洋の船崎陽(長崎)に泊して、この病(い)伝ヘ、次第に京、大坂に弘まり、三四月の頃より行はれけるよし”と、日本で流行した感染症のほとんどが外来種だが、この年の麻疹(はしか)は、新暦3月ごろ長崎に停泊した西洋の船から侵入し、京都、大阪を経て4,5月ごろ大流行を迎えたという。次いで“夏の半(7月中旬)より麻疹、世に行はれ(流行し)、七月の半(8月中旬)に至りては、蔓延(ますますまん延)し、良賎男女この病痾(やっかいな病気)に罹らざる家なし”と、8月中旬ごろには最盛期を迎え、身分の上下も性別もなく感染しなかった家はない状況になったという。
 また、その病状は“凡(およ)そ男は軽く、女は重し、それが中には妊娠にして命を全うせるもの甚だ少し、産後もこれに亜ぐ(次ぐ)”と、特に妊娠中の女性で命を落とさなかった人は非常に少なく、産後の人は次ぎに多かったようだ。またある病症例として、中国地方から江戸を訪れた僧侶の例をあげている“或は吐し(おう吐し)、咳嗽を生じ(咳をし)、手足厥冷(けつれい:手足が冷える)に及ぶ(中略)固(もと)より熱気甚しく、狂を発して水を飲まんとしては、駆(け)出し、河溝へ身を投じ、又は井(井戸)の中へ入りて死ぬもありし”。吐き気、せき、手足の冷えだけでなく、高熱を発して水中に身を投ずる患者も出たという。成人が発症した場合の症状の激しさを月岑は余すことなく伝えている。
 さらに、江戸の各寺が受け付けた麻疹で死亡した人の新墓は、23万9862基と、寺から奉行所へ報告があった。“寺院は葬式を行ふに遑(いとま)なく、日本橋上には一日棺の渡ること、二百に及べる日もありしとぞ”。全国の死亡者数は不明だが“去る午年(安政5年)、暴瀉病(コレラ)流行の時に倍して”と、数十万人が死亡したといわれた安政5年(1858年)のコレラ大流行の時よりも2倍も死亡者が多かったという。
 これはエピソードだが、江戸時代、流行期に麻疹(はしか)にかかり、免疫を得て生き延びた人はその次の流行期にかからずにすむが、達者でいたので年齢がわかったという川柳がある。“麻疹で知れる傾城(遊女)の歳”というやつ。26年前の天保7年の大流行の時かかり、今回は達者でいる遊女が、遊客に26歳より若く年令をその言っていた嘘がばれたという話。
 これなどは川柳のネタで済むが、済まなかったのは、この年の大流行の原因が、長崎に来た西洋船の乗組員が上陸して麻疹ウイルスを置きみやげにしていった事実であった。4年前のコレラ大流行もアメリカ軍艦の乗組員からである。これらのことは、うわさ話や当時の新聞“かわら版”で、庶民のほとんどの人が正確に知っていた。
 コレラが大流行した年の1858年7月(安政5年6月)アメリカと修好通商条約を締結、日本は220年余にわたる鎖国を解いた。その後オランダ、ロシア、イギリス、フランスと次々と修好通商条約を締結したが、それにより日本の金や銀の貨幣は海外へ流出、国内では物価が暴騰し庶民の生活は苦しくなる一方、そこへもってきて、西洋からもたらされたコレラや麻疹の大流行である。幕府に対する不信の念が庶民の中に芽生えたとしても不思議ではない。この4年後の66年9月(慶応2年8月)ほぼ全国的な寅年の大洪水が起こり、慶応大凶作となり、ついに民衆は各地で蜂起するか、討幕派の武士たちを支援する道を選び、その1年半後、幕府は崩壊する。
 (出典:国立国会図書館デジタルコレクション・斎藤月岑著「増訂武江年表巻之11>文久2年壬戌 310頁~311頁(162コマ)」、栄研化学株式会社編「modern media(モダンメディア) 2010年7月号(第56巻7号)>加藤茂孝著・人類と感染症との闘い 第7回『麻疹(はしか)』-天然痘と並ぶ2大感染症だった-」、坂井シヅ著「病が語る日本史>第二部 時代を映す病>十一 かっては「命定め」の麻疹 238頁~243頁:1 江戸時代の麻疹、2 文久二年の麻疹流行」。参照:2018年7月の周年災害「安政5年コレラ長崎に上陸ついに江戸へと拡がり、史上最大の流行へ」[改訂]、2016年9月の周年災害〈上巻〉「慶応2年8月四国・近畿・関東・奥羽諸国暴風雨“寅年の大洪水”幕府崩壊へ」、2016年12月の周年災害「物価騰貴と慶応大凶作-全国で民衆が一斉蜂起、幕府ついに崩壊」)

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