○読者の皆様へ

「周年災害」は2005年1月から掲載を開始し、10年単位で過去の大災害や特異災害、防災関連の施策などを記事化してご紹介しております。

そこで、① 記事化して各10年後に再度ご紹介する場合、見出しの変更程度か内容に大きな変更のない場合は、訂正のないものも含め[再録]と表示します。

② 内容が新しい情報に基づき訂正された場合は、目次と本文見出しの後に[改訂]、出典資料が改訂または変更になった場合は、資料紹介の後に[改訂]、追加の場合は[追加]と表示します。

③ 新規に追加した記事は、掲載月より10年前の災害などを除き[追補]と表示します。

また、書き残されている大災害や防災施策などについては“追補版”として掲載月と同じ月のものを選び、基本的には発生の古い災害等の順に補足記事化しております。

なお、各記事末に参照として、記事に関係ある最新の「周年災害」がリンクされ読めるようになっています。

【2020年1月の周年災害】

・備後守護、尾道浦を襲撃させ放火し、政所(まんどころ)民家など1000余戸焼く。

 武家勢力による旧荘園勢力との武力衝突、守護の幕府から自立を目指す側面も(700年前)[改訂]

・応永の乱、堺に立て籠もる大内義弘軍を幕府軍が攻撃、市街地は兵火で全焼。

 堺はその後も災禍に遭いながらも、南蛮貿易の拠点として人口8万人の大都市に成長(620年前)[改訂]

・奈良元和5年の大火「新町焼け」大坂夏の陣の避難民集落全焼か?(400年前)[改訂]

・幕府、本丸殿舎消失を機に“所々火消”を初めて任命、まず江戸城内将軍家霊廟を守る。

 城内を始め武家屋敷、幕府重要施設の防・消火体制強化(380年前)[改訂]

・東京神田明治2年相生町の大火-鎮火神社を創建、祭神を秋葉大権現と勘違いし地名が秋葉原に

(150年前)[改訂]

・東京京橋明治2年元数寄屋町の大火、これも放火か?(150年前)[改訂]

・高崎明治13年の大火、2500余戸消失(140年前)[再録]

・火災調査に関する規定、制定される(130年前)[追補]

・光明寺村織物工場女工焼死事件、農商務省調査報告書は記録する(120年前)[再録]

・鎌倉七里ヶ浜沖ボート遭難事故-唄い継がれる「真白き富士の根」、

 美しい唄の裏に隠された警告を無視した定員超過の船出(110年前)[改訂]

・明治43年1月北海道天塩沖、猛吹雪で漁船集団遭難、200人が犠牲に(110年前)[再録]

・阿波(徳島県)漁業団発動漁船、五島列島で暴風に遭い集団遭難と報道される。

遠く故郷を離れた東シナ海で漁業という職務に殉じた700の魂魄(100年前)[追補]

・警視庁大平警察署、管内に初めて横断歩道を設置“成績すこぶる良好”(100年前)[改訂]

・静岡昭和15年、未曾有の大火、飛び火で被災範囲拡大-画期的な広域支援動く、

東京から名古屋まで東海道沿いの消防隊が駆けつけた(80年前)[改訂]

・大阪西成線ガソリン動力列車脱線炎上、鉄道史上死亡者数最多の事故、

戦時体制下における過密ダイヤが背景に、動力のディーゼル化進む(80年前)[改訂]

・昭和15年北陸地方豪雪-被災状況を受け建物に対する積雪荷重の研究進む(80年前)[再録]

・昭和25年暴風害、九州で漁船集団遭難、関東で日光地方大荒れ(70年前)[再録]

○備後守護、尾道浦を襲撃させ放火し、政所(まんどころ)民家など1000余戸焼く。

 武家勢力による旧荘園勢力との武力衝突、守護の幕府から自立を目指す側面も(700年前)[改訂]

 1320年1月(元応元年12月)

 この月、備後国守護(現代でいえば広島県知事)長井貞重が、自らの管轄地であるべき同国尾道浦(港)に、配下の守護代官以下数百人の軍勢を差し向け、倉敷地(年貢米保管地)の政所(管理事務所)を襲撃して預所代官を殺害、政所を始め神社、仏閣、民家に放火、倉敷地の資産を略奪させるという一見不可思議な事件が起きた。

 尾道浦は現在の尾道市だが一漁村だった当地は、1166年(仁安元年)備後国中央部に大田荘(現・世羅町)が開かれ、平重衡(しげひら)が後白河上皇に荘園として寄進すると、尾道浦は年貢米の一時集積および積出港である倉敷地として開発され発展するところとなった。1185年(文治元年)、朝廷が源頼朝に対する諸国の荘園に対する守護、地頭職の設置を勅許すると、翌86年(同2年)上皇は直ちに高野山金剛峯寺に同荘園を寄進している。

 長井衆による襲撃当時、大田荘から尾道浦へ運び込まれる年貢米は、年間1840石余(約280トン)4600俵ほどにのぼり、同浦の倉敷地で一時保管され、高野山の総倉敷地(年貢米の総集積地)である紀伊湊に海路運ばれた。倉敷地の政所に預所代官が詰めていた由縁である。

 後白河上皇が、高野山に荘園を寄進した理由には、源頼朝が1185年3月(文治元年2月)、平家との戦いに勝利して政治の実権を握り、鎌倉に本拠を構え幕府を開く第一段階として、同年12月(旧・11月)に得た日本国惣地頭の権限で、対立している実弟・義経追討を名目に、惣追捕使(後の守護:現・知事)や地頭を任命して、京都の天皇家、公卿や有力な寺院、神社が支配している全国の荘園や国衙領(朝廷直属地)に対し支配を強めたということがあった。これにより以降、現地の荘園や国衙領の管理をしている預所と地頭との間で、職務権限をめぐる紛争が絶えないという状況となり、備後守護長井氏が尾道浦を襲撃したのも、この地を領地として治めようとしたのが背景であり、この当時、全国各地でこのような事件は、大なり小なり繰り広げられていた。

一方、有力な倉敷地を襲撃され略奪された高野山金剛峯寺では、翌21年9月(元応2年8月)同寺衆徒名で長井衆を糾弾、さらに翌月、後宇多法皇に陳情書を提出した。その「金剛峯寺衆徒解状」という陳情書によると、① 尾道浦は大田庄の倉敷地であり、初代将軍・頼朝が守護不入の地としたのにも係わらず乱入し、荘園の現地管理者・預所代官を殺害した。② 政所から神社、仏閣数か所、民家1000余戸に放火して焼き払った。③ 大船数十艘を用意し、貴重な財物を略奪し運び去った。④ 守護でありながらみずからの管轄地の住民をほしいままに殺害、刃傷を働いた。⑤ 守護は赴任した国の安全をはかるべきなのに、海賊に扶持(給与)を与え、賄賂を取っている。そのため津々浦々に山賊、海賊がはびこり、夜討ち強盗などが国内で狼藉に明け暮れている。⑥ それだけでなく、守護が国衙領を横領し、悪行の限りを尽くしているので、民の煩い(わずらい)ははかりしれない。とある。

この高野山の陳情を受けた法皇は、同年11月6日(旧歴・10月6日)、荘園保護のため、幕府の六波羅探題(京都の幕府機関)に、長井貞重の行状について調査と処罰を要求、探題は貞重を京都に呼び出し尋問を行い、その月の21日(旧暦・13日)守護から改易(解職)した。

幕府が貞重を改易したのは、陳情書の内容から尾道浦への襲撃がかなり本格的な侵略的軍事行動で、単なる威力業務妨害行為とは思えないと判断したのではないかと思われる。というのは、この事件は1333年7月(正慶2年5月)の鎌倉幕府滅亡13年前という時代を背景に起きており、幕府権力の弱体化を目前にした守護の幕府からの自立、領地大名(守護大名)化の動きとして危険性を察したからであろう。

しかしこのころ、各地、特に同じ西国の播磨(兵庫県)の赤松氏など守護たちの自立した大名化への動きは当時の幕府の手では止められようになかった。

(出典:日本全史編集委員会編「日本全史>鎌倉時代>1320-24(元応2-正中1)288頁:尾道浦で守護が狼藉、後宇多法皇、行状調査を命じる」、青木茂編著「新修尾道市史 第1巻>第1編 時代史概説(1)>第5章 中世(鎌倉後期)>第1節 備後の守護貞重 尾道を急襲 220頁~223頁:守護長井 尾道を襲撃」、海事都市尾道推進協議会編「海をめぐる歴史と文化>中世>開港みなと尾道~大田荘の倉敷地として」 )

○応永の乱、堺に立て籠もる大内義弘軍を幕府軍が攻撃、町は兵火で全焼。

堺はその後も災禍に遭いながらも、南蛮貿易の拠点として人口8万人の大都市に成長(620年前)[改訂]
 1400年1月25日(応永6年12月21日)
 50年余続いた南北朝の内乱を終結させた足利幕府三代将軍・足利義満の時代(1368年~1408年)は同幕府の全盛期であり、その政策の大きな柱に有力守護大名の勢力を弱体化し自らの権力を強化する狙いがあった。
 一方、大内義弘は本州の西端、長門、周防両国(山口県)を基盤に、九州の豊前国(大分、福岡県)の守護職で、弟・満弘が石見国(島根県)の守護職に任じられているなど、大内家で4か国を領する大大名であったので、いつかは幕府に狙われる危険性をはらんでいた。
 しかし義弘は幕府に忠誠を尽くし、1392年1月(明徳2年12月)将軍義満が11か国を領する山名家の内紛に介入して討伐の軍を起こしたときもそれに協力、戦功をたてた。義満はこの功をたたえ、山名家の旧領である和泉国(大阪府)、紀伊国(和歌山県)の守護職に任命、大内家は6か国を有することになる。ところがこれがこの日の堺の悲劇を生む。
 1397年(応永4年)、将軍義満は金閣寺で有名な邸宅、北山第(ほくさんてい)の造営を始め諸大名に人数の供出を求めたが、義弘は“武士は弓矢をもって奉公するもの”としてこれを拒否し将軍の不興を買う。また同年末、九州の南朝方生き残り反幕府勢力が筑前国(福岡県)で蜂起した際、隣国の守護としてこの討伐に当たったが満弘が戦死した。ところがこれに対し幕府から何の音沙汰もなく、義弘は不信感をつのらせるなど、両者の感情的なもつれは、その後深まっていく。
 一方、幕府は九州の反幕府勢力討伐後、義弘に上洛を命ずるが、義弘はそれまでの幕府による有力守護大名討伐策を想起してこれを拒否した。暗殺を恐れていたのかも知れない。
 そして2年後の99年11月(応永6年10月)、幕府からの再三の上洛命令に義弘はようやく重い腰をあげ、大軍を率いて和泉堺に上陸したがそこで腰を据えてしまった。室町時代、平時、守護大名は将軍のお膝元である京都に屋敷を構え常駐することが原則だったという。ところが九州での反乱が収束しても2年近く上洛しないのが異例の上、京都に近い堺に大軍を率いて腰を据えているのは、ただごとではなく、幕府から討手を差し向けられても致し方なかった。
 堺滞在中、義弘の陣営で上洛可否について激論が交わされ、仲介の使者も往復したが、ついに義弘は幕府と緊張関係にある関東公方足利満兼を推戴、幕府に疎んじられている今川貞世と提携、反幕府を貫く旧南朝方とも提携するなど、反幕府の態度を明確にし、堺に東西南北各16町(約1.75km)という広大な広さの防御陣を構え、井楼48か所、やぐら1700を備えたという。一方幕府は幕府で、諸国の御家人衆に動員を命じた。
 1400年1月3日(応永6年11月29日)、幕府軍が住吉口から堺に侵入、大内軍と激突し、以降23日間にわたる戦闘が始まる。この日、攻めあぐねた幕府軍は強風を利用し火攻めの策に出てやぐらを次々と焼き落とし、防御陣中に攻め込んだ。この攻めが功を奏し、大内方は次々と戦死、旧南朝方は遁走し義弘も戦死した。ところがやぐらなどにかけられた火は、強風にあおられ堺の街に延焼、町家1万軒が全焼したと伝えられている。
 乱後、幕府軍に降伏した弟の弘茂は、許されて長門、周防両国の守護職は安堵され、大内氏惣家を継ぐことになる。
 文頭で述べた南北朝時代は、1337年1月(建武3年12月)、当時の主役、武士の要求に反した政治を行い退位したはずの後醍醐天皇が、京都を脱出して大和国(奈良県)の吉野で復位し、京都の北朝と吉野の南朝に分かれ対立したことにより始まるが、当時堺の港はこの南朝方の本拠に近く、また隣接する南朝方の住吉大社宮司津守氏との関係で、南朝の外港として、南朝方の拠点である東北や九州との兵員や物資などの輸送港として発展した。この応永の乱で1万戸焼失というのは誇張があると思われるが、そのくらい当時、賑わっていたということだろう。
 堺の全盛時代は、この焼亡後、その立地と港湾設備や人材面などから、幕府と明との貿易港として訪れる。しかしその立地条件や経済的実力から、支配権をめぐる政治的紛争に巻き込まれ、たびたび兵火にかかっている。

例えば、1495年11月(明応4年10月)当時の和泉国守護細川元有と同勝信が宿敵畠山氏に屈し、同国に築城を許したので、1年半後の97年6月(同6年4月)失地を取り戻そうとした同族の細川政元に攻められ、同家家臣香西元長の軍勢に堺は放火され、大火となり人口3万人の市街地の大半が消失した。

次いで1532年8月(享禄5年6月)、この地を拠点とした足利義維(よしつな)政権(堺幕府)と摂津国人衆(在地豪族武士軍団)および一向一揆勢との戦いによる焼亡。翌33年1月(天文元年12月)には、これは失火だろうか約4000戸が消失したと伝えられている大火が起こり、1615年5月(慶長20年4月)例の大坂夏の陣において、堺が徳川方に寝返ったとされ大野治胤によって焼き討ちにされ焼亡するなど、さまざまな試練をくぐり抜けながらも、戦国時代の末期1582年(天正10年)には南蛮貿易、すなわちポルトガル、スペイン、明国(現・中国)との貿易拠点であり、それ故中立地帯であり、豪商など有力町民による自治都市として人口8万人を数える大都市に育っている。
 (出典:大阪府史編集専門委員会編「大阪府史 第4巻 中世編2>第4章 守護と国人と百姓>第1節 摂河泉における守護の動向>1 和泉の風雲 4頁~10頁:応永の乱、堺城火攻めと義弘の戦死」日本全史編集委員会編「日本全史>室町時代>1395-99(応永2-応永6)327頁:天命を奉じて暴乱を討て、大内義弘、応永の乱へ」。参照:2017年6月の周年災害「堺、細川政元の家臣香西元長の軍勢乱入し大火」、8月の周年災害追補版(1)「堺、兵火で3分の2焼亡、摂津国人衆、一向一揆勢と結び堺幕府の本拠攻める」、2013年1月の周年災害「和泉国堺天文の大火」、2015年5月の周年災害「大坂夏の陣で大野治胤、堺を焼き討ち」)

○奈良元和5年の大火「新町焼け」大坂夏の陣の避難民集落全焼か?(400年前)[改訂]
 1620年1月6日(元和5年12月2日)
 奈良も含めて、寺社の門前町や城下町は、家屋が密集していたうえ消火体制や施設の面で不備があり、冬の乾燥した空気と強風下では大火災になることが多かった。
 この日の大火の火元になった南新町は慶長年間(1596年~1615年)にはなかった町で、ここ4、5年の間に家が建てられ街となっていたという。この間、1615年6月(慶長20年5月)には豊臣氏が滅亡した大坂夏の陣があり、大坂城下はもちろんのこと、堺も豊臣方の大野治胤の手によって焼き討ちにあっているので、戦火と焦土を逃れた避難民が、平和な仏都に安らぎを求め、奈良の町の南側に急造りの粗末な家を建て身を寄せあっていたのだろう“新町”という名称からそれが察せられる。
 いずれにしてもこの日の火災は、南新町から高畠町にいたる一円を焼き尽くし、奈良の街の南側のほとんどが焦土と化したという。灰燼(かいじん)となった町家や寺社は1000軒とも3000軒、4000軒とも言われている。
 (出典:奈良県立図書情報館提供:村井古道著「奈良坊目拙解 第15巻 第5・40頁~41頁:南魚屋新町(或謂新町)」、奈良市編「奈良市史 通史 3>第2 章 奈良町の盛衰>第4 節 生活の動揺>うちつづく災害>奈良の火事 288頁」。参照:2015年5月の周年災害「大坂夏の陣で大野治胤、堺を焼き討ち」)

○幕府、本丸殿舎消失を機に“所々火消”を初めて任命、まず江戸城内将軍家霊廟を守る。

城内を始め武家屋敷、幕府主要施設の防・消化体制を強化(380年前)[改訂]
 1640年1月7日(寛永16年閏11月14日)
 この日の4か月前、1639年9月(寛永16年8月)、江戸城本丸殿舎が焼失した。
 火災の翌月10月12日(旧・9月16日)から本丸殿舎の再建に取りかかると、翌11月2日(旧10月7日)造営中の城内の警備を厳重にすると同時に、将軍親衛隊の“番方”に、江戸市中の神田筋、山之手筋、桜田筋の3方面の巡回(夜廻り)を命じ、翌3日(旧・8日)には、城内の防火及び消火役である“火之番”から分離して、火元だった江戸城大奥専任の火の番“奥方火之番”を任命するなど、城内での火災の再発を厳重に警戒した。
 次に消火体制の強化を図るべく、10日(旧・15日)には、それまで臨時の措置であった“奉書火消”役を播州(兵庫県)赤穂の浅野家以下6大名家に専任化した。

その次が、この日の“所々火消”の任命と“今度御本丸御作事(建築)中”という期間限定で、作事小屋や材木置き場だけでなく、西の丸を始め三の丸など城内の主要か所に8大名の臨時火之番を置き、2大名にその応援を申しつけた。
 所々火消というのは、江戸城内を始め幕府重要施設の防火約および消火に当たった大名家のことで、この日最初に任命されたのは、譜代大名の下総生実(あゆみ:千葉市)藩1万石の森川重政。担当場所は城内の紅葉山にある将軍家代々の御仏殿(霊廟)であった。その3年後の43年10月(寛永20年9月)には、二の丸火之番が置かれ、その7年後の50年9月(慶安3年8月)には、将軍の後継者や前将軍(大御所)が生活する西の丸に表火之番と奥火之番が置かれるなど、江戸城内の防火・消火体制は強化されていく。
 同火消はその後、1657年3月(明暦3年1月)、江戸市街の6割を焼失した明暦の大火の後、播磨山崎(宍粟市)藩3万石の池田恒元、越前吉江(鯖江市)藩2万5000石の松平昌明(昌親)を浅草御蔵(幕府の年貢米倉庫)の火消に任命するなど城外の幕府重要施設に所々火消が置かれるようになった。

次いで94年1月(元禄6年12月)西の丸山里火之番に筑前秋月(朝倉市)5万石の黒田長重と武蔵岩槻(さいたま市岩槻区)4万8000石の松平忠周を任命するなど、江戸城内の防火・消火体制は一層強化されていく。

そして98年10月(元禄11年9月)に勅額火事が起き、上野東叡山寛永寺の4代将軍家綱の墓所・厳有院廟が焼失すると、その廟の火消に備中岡田(倉敷市)藩1万石の伊東長救を任命した。そのほか、小倉新田(北九州市)藩1万石の小笠原真方を上野御宮(東照宮)、上野吉井(高崎市)藩1万石の堀田正休を上野の三代将軍家光墓所・大猷院廟、美濃苗木(中津川市)藩1万500石の遠山友春を芝増上寺の二代将軍秀忠墓所・台徳院廟の火消にそれぞれ任命している。
 その後、江戸城をはじめ周辺の主要な幕府重要施設には譜代大名家が、本所御蔵など周辺地域の重要施設には外様大名家を火消に任命し、最も多い時には36大名家がそれぞれ配置されていたという。
 この増えに増えた所々火消を整備したのが八代将軍吉宗で、1722年(享保7年)、江戸城は大手方、桜田方、二の丸、紅葉山、吹上の5か所。幕府の倉庫は浅草米蔵、本所米蔵、猿江材木蔵の3か所。寺社などは芝増上寺、上野寛永寺と東照宮、湯島の聖堂の3か所の合計11か所に絞り、大名火消各1名を割り当て所々火消としている。
 なお、専任化された6大名家による奉書火消も、3年後の1643年11月(寛永20年9月)に任命された大名火消16大名家も、その消火活動の対象が江戸市中の町家ではなく、江戸城と周辺武家屋敷および幕府重要施設であ利、なかでも57年3月(明暦3年2月)に任命された方角火消に至っては、江戸城延焼防止専任の“防ぎ大名”だったので、この所々火消と合わせれば、これらの幕府施設などにはかなり強力な布陣で臨んでいたことになる。
 (出典:東京都編「東京市史稿>No.2>皇城篇第1>本丸殿舎の営造 1184頁~1185頁:閏十一月十四日」、西山松之助編「江戸町人の研究>第1章 江戸における武家火消制度>第4節 所々火消および方角火消の成立 102頁~103頁」。参照:2009年11月の周年災害「幕府、本丸殿舎全焼を受け、奥方火之番を任命し表火之番と分ける」、同「幕府、奉書火消を専任化し初めて組織的消火体制に」、2007年3月の周年災害「1657江戸明暦の大火『振袖火事』」、2018年10月の周年災害「江戸元禄11年の大火『勅額火事』」)

○東京神田明治2年相生町の大火-鎮火神社を創建、祭神を秋葉大権現と勘違いし地名が秋葉原に

(150年前)[改訂]
 1870年1月13日(明治2年12月12日)
 午後10時ごろ、神田相生町20番地の塗師職金次郎方から出火した。
 この火災で火元の相生町をはじめ松永町、佐久間町一丁目、花田町、元佐久間町、久右衛門町、栄町、亀住町など近隣8か町が全焼した。この地域は現在のJR秋葉原駅のほぼ東側一帯になるという。なお炎は、佐久間町二丁目、花房町、平河町など3か町にも延びている。
 焼失戸数、およそ1100戸、1人死亡。火災の原因について、神田区役所が東京府に提出した報告書によると「怪火なり」とあり、放火と見られている。
 この大火を機に東京府では“府下の人口稠密(ちゅうみつ:密集している)、火災甚敷(はなはだしく)、殊に冬春之際、西北風烈敷(はげしく)、外神田辺(あたり)ヨリ出火候節ハ、大火ニ相成候儀、是迄度々有之、諸人の難渋不一方(ひとかたならず)候に付”として、翌1871年11月9日(明治3年10月15日)、今回の火事で類焼した町内10か町のうち9000余戸の町家を整理して火除け地とし、その中央に東京を火災から守るため、火の神の火産霊神(ほむすびのおおかみ)と水の神の水波能売神(みずはのめのかみ)および土の神の埴山毘売神(はにやまひめのかみ)の三柱を祭神として勧請し、鎮火社を創建した。

ところが、特に前年のこの大火で被災した市民は、当時、火防(ひぶせ)の神として信仰を集めていた秋葉大権現が勧請されたものと思い、この鎮火社を秋葉様または秋葉さんと呼ぶようになり、鎮火社のある火除け地を秋葉さんの原っぱ、転じて秋葉原と呼ぶようになったという。
 ちなみに秋葉の火除け地には、1888年(明治21年)秋葉原駅が建設され、この時、鎮火社の秋葉さんは秋葉神社として台東区松が谷に移転している。
 (出典:東京都編「東京市史稿>No.2>変災篇第5>明治二年火災>976頁~978頁:3 十二月十二日火災」、東京の消防百年記念行事推進委員会編「東京の消防百年の歩み>明治初期>神田の大火 20頁:明治二年の大火」)

○東京京橋明治2年元数寄屋町の大火、これも放火か?(150年前)[改訂]
 1870年1月29日(明治2年12月28日)
 夜中の子の刻(午前1時ごろ)、京橋元数寄屋町(現:中央区銀座五丁目)の米屋・餅春のかまどの不始末から出火した(続武江年表)。
 炎は南鍋町から南佐柄木町、山下町、加賀町と延び、八官町、山城町、丸屋町、鎗屋町あたりも炎はひとなめにし、尾張町から銀座町あたり、木挽町、新橋も焼け落ち、汐留芝口三丁目で焼け止まった。
 現在の町並みで言えば、銀座四丁目付近から新橋・汐留まで延焼し、31か町3402戸全焼、22人死亡。

神田相生町の大火の16日後である。相生町から南へ3kmほどの近さで、日本橋、京橋と中心街に続く数寄屋町からの出火である。「続武江年表」では米屋の失火としているが、管轄の京橋区役所の答申によれば、この火災も“起き火不詳”とあり、放火かもしれない。

東京での戊辰戦争、彰義隊の乱(上野戦争)が起きて1年半、薩長新政府の下、江戸っ子の気持ちは揺れていたのか。
 (出典:東京都編「東京市史稿>No.2>変災篇第5>明治二年火災>978頁~979頁:十二月廿八日大火」)

○高崎明治13年の大火、2500余戸消失(140年前)[再録]
 1880年(明治13年)1月26日~27日
 午後9時ごろ本町から出火、折からの激しい北風にあおられて次々と延焼した。
 まず炎は、久蔵町から田町、連雀町を焼き払い、翌日の午前1時過ぎ、檜物町まで灰にしてようやく焼け止まった。2500余戸焼失、土蔵50余棟が崩落。
 (出典:高崎市史編さん委員会編「新編高崎市史 通史編 4 近代・現代>第1章 近代高崎の成立>第6節 社会生活の諸相>(2) 災害と生活苦への対応>災害と消防 171頁~172頁」)

○火災調査に関する規定、制定される(130年前)[追補]

 1890年(明治23年)1月31日

 江戸時代、災害の記録などは幕府の公記録「柳営日次記(りゅうえいひなみき)」などにまとめられているが、その元になっていたのは江戸では町奉行所の日誌であろう。当時、各役所では管轄下の出来事を必ず業務日誌の形で残していた。

 明治に入りこの慣習は続いたが、この日、消防の世界では新しい記録制度を制定した。訓令第3号として制定された「出火報告および巡査配置心得」である。

 この規定では、当時、消防本署(現・東京消防庁)は内務省警保局管轄下の警視庁の一部門であったので火災調査は警察官の業務とされ、そのため訓令名の後半が「……巡査配置心得」となっている。。

 主な内容は、第1条で出火現場に近い警察署には“出火アルヲ知リタルトキハ確報ヲ待タス(ズ)先ツ(ズ)其方位ヲ”消防本署など関係機関に“電報スへ(ベ)シ”とし、“火元ノ住所氏名消失ノ戸数町数並ニ発火原因鎮火時刻等ハ之ヲ知リ得ルニ従テ其度通信スヘシ”と規定、担当の警察官に早期通報とその後の報告を義務づけている。

 また第8条では“出火場所所轄ノ警察署ニ在テハ(おいては)鎮火後十時間以内ニ火災調査表ヲ調整シ消防本署ニ報告スヘシ”と規定、消防本署への調査票の提出を義務づけている。

 その後若干の修正を経て、1927年(昭和2年)12月28日、それまでの火災調査に関する通達を統合整備して「火災調査並報告規定」を制定、これが現在の「東京消防庁火災調査規定」の基になっている。

 なお各道府県では、当時、東京と同じように消防は各道府県警察の傘下にあり、同様な規定を制定し実施していたが、いつの時代でも、国や自治体における火災を始め防災のさまざまな施策は、古来より積み重ねられてきた、これら業務日誌や調査記録などを基に企画・検討され、法律・条例その他の施策として制定され、国民の財産や生命を守っている。

 このようにわが国では、古来より政治家、役人を始め多くの人たちが、日記類を中心にそれぞれ貴重な時代の記録を残し、これらが政策に生かされていたが、この美しい伝統が、最近「美しき国」を標榜する政権の下で、それを担う役人を中心に喪われようとしている。次の下記「光明寺村織物工場女工焼死事件」で紹介した、明治時代の「農商務省調査報告書」の事実に忠実で客観的な報告の内容を良く読んでもらいたいものだ。

 (出典:東京の消防百年記念行事推進委員会編「東京の消防百年の歩み>昭和初期>火災調査並報告規程の制定 201頁:従来の火災調査、火災調査並報告規程の制定」、早稲田大学図書館編「柳営日次記」)

○光明寺村織物工場女工焼死事件、農商務省調査報告書は記録する(120年前)[再録]
 1900年(明治33年)1月23日
 事件の起きた光明寺村を含む愛知県の北西部一宮地方は、古代から絹織物の生産地として知られ、江戸時代の18世紀中ごろになると、桟留縞(唐桟:とうざん)と呼ばれる上質の絹織物の産地として名声を博し、現在の尾州織物の基礎をつくるなど、古来より織物工業の一大産地である。
 事件はそのような織物工場の一つで起きたもので、当時の工場労働者、特に女性労働者の悲惨な状況が起こした事件として、報告されている。
 その報告書の一つに、事件の翌年1901年(明治34年)、国の農商務省商工局(現・経済産業省)の工務課工場調査係が、全国の産業別の労働者の状況を客観的に詳細に行った調査報告書「職工事情」がある。
 事件の概要が報告されているのは、織物職工事情の第7章・職工の住居に関する報告の中で、実例としてまとめられているが、その章の全文を読むと光明寺村の事件は、まれな事例ではなく、当時の織物工場ではどこでも起こりえた事件であることがわかる。ここに第7章の一部と事件についてまとめた個所を引用してみよう。
 “織物職工の多くは寄宿者にして、そのほとんど全数は女工なるを以てその間弊害の生ずること一層甚だしとす”“自家製造(経営者の自宅敷地内に工場がある中小零細工場)に類する工場においては寄宿舎の完全なるもの稀にして、その名寄宿舎というといえども、その実質は勿論体裁すら備うるものなしというも敢えて過言にあらず”
 “工場の寄宿舎における室内の状況を見るに、大概一畳につき工女一人を容るるも、往々二畳につき工女三人位に当たることなきにあらず”“室内の通風採光に関しては無論不完全なり。しかも掃除不行届なるを以て大抵一種の臭気を存す”“寄宿舎における避難設備に至りては全く絶無のもの多し。寄宿舎の多くは二階建てなるにもかかわらず、多くはその一隅に階段一ヶ所を設くるのみにして、非常口の設備なく、たまたま非常口として一隅に引戸を設くる所あるも平時はこれを閉鎖せり”とある。この報告は事件のあった工場についての報告ではなく、全国の平均的状況を報告している。
 そして実例に入る。“尾張、美濃地方における工場中、工女の風紀取締上終業後寄宿室の出入口に錠を下すものありとはしばしば聞く所なりしが”と、まず報告書は記す。これは国の調査に際し、経営者が「あれは工女が終業後、男恋しさに外出し問題を起こすから施錠をしたのだ」という報告をしたのを受けて、そのまま“風紀取締上”と書いたのだろう。実態は工女があまりにも過酷で悲惨な労働条件に絶えかねて、工場から逃亡するのを防ぐための施錠だということは、その後の調査でわかったという。
 次に問題の事件を記す“先年愛知県葉栗郡光明寺村某工場より失火し、女工三十余名焼死せしことあり(31人死亡、18人脱出)。新聞紙上において該地方における工場主は夜間寄宿舎の出入口に錠を卸すがため逃げ路なく、ついに焼死せしめたりと記載せり。その後愛知県令を以て工場の建築、寄宿舎の構造等につき、工場取締規則を発布したるを以て、以後寄宿舎の出入口に錠を卸すが如きことなしという。”
 愛知県としても国の調査が入り、今までのように工場主のやりくちを黙認することは出来なくなったのであろう。あわてて県条例を施行し、その旨国へ報告したものと見える。
 しかし、この報告は続ける“工女の寝具は各工場において貸与するも各個に一具ずつ与うるにあらず、おおむね二名につき一具(冬期は蒲団一枚夜具一枚)を貸すものにして、しかもその寝具は年二回位工場主においてこれを洗滌すといえども、おおむね不潔にして中には縞柄の判然せざる如く油浸みたるものあり”。
 愛知県は、寄宿舎の出入口の施錠は禁止したが、衛生面について対策をうったのだろうか。だが、この報告はいち愛知県だけの報告ではなく、何度でもいうように全国の調査報告である。
 報告書は結ぶ“その衛生上および危害予防上寄宿舎の構造に注意し、工女らをして寄宿舎に帰れば彼らが自己の住家に帰来したるが如き心持ちたらしめ、彼らをして静養その宜しきを得さしむるは、独り工女の幸福なるのみならず、工場主もまたこれがため益する所けだしすくなからざるべし”と、結んでいる。現在でも生きている見解である。
 農商務省ではこの年調査を終え、3年後の1903年(明治36年)にこの「職工事情」を出版、一方、報告書を基にわが国初の労働法規「工場法案」をとりまとめたが、工場経営者の猛反対を受け、施行されたのは全国調査の15年後の1916年(大正5年)9月のことである。
 (出典:農商務省商工局工務課編/犬丸義一校訂「職工事情 上>織物職工事情>第7章 職工の住居 405頁~410頁」、一宮地場産業ファッションデザインセンター編「尾州織物産地を中心とした繊維関連年表>昭和初期(昭和20年)までの歷史」。参照:2016年9月の周年災害〈上巻〉「わが国初の体系的な労働者保護法規、“工場法”骨抜きされようやく施行」)

○鎌倉七里ヶ浜沖ボート遭難事故-唄い継がれる「真白き富士の根」。

美しい唄の裏に隠された警告を無視した定員超過の船出(110年前)[改訂]
 1910年(明治43年)1月23日
 中高年の人が今でも口ずさむ歌の一つに“真白き富士の根 緑の江ノ島 ……”という歌がある。
 この原曲はインガルス作曲の賛美歌だが、ボート遭難事故の2週間後に行われた追悼法要会で、遭難した生徒たちが通学していた逗子開成中学校(現:逗子開成中学校・高等学校)の兄妹校である、鎌倉女学校(現:鎌倉女学院)の生徒たちが、同校の教師・三角錫子のつけたこの詞を、揃いの黒紋付き袴姿で追悼歌として唱った。それが世に広まり、後にこの事故を映画化したとき主題歌となり、一層広まったものである。
 事故当日は晴天で弱い北風が吹く程度だったようだ。当時ボートを艇庫から運び出すのには、担当教師の連署による許可が必要だったが、当日は日曜日で、青森県の中学校へ転任する教師の見送りのため、担当の教師もおらず、その隙に無断で運びだそうとしたものだった。
 この朝、逗子開成中学校の生徒たち12人は、ボートで相模湾に乗りだそうと、田越川河口の富士見橋に向かっていた。そこで、兄弟で遭難した家の持ち船(和船)に乗って南下し、葉山の鐙摺海岸にある艇庫に行き、ボートを持ち出し漕ぎだそうという計画であった。
 和船には3人のほかに海鴨撃ち用の猟銃2丁があったという。生徒たちはオールやクラッチをいつも預けている建設会社の小屋から取り出して和船に積み葉山を目指した。葉山では管理人不在の艇庫からボートを運び出し江ノ島方面へとこぎ出した。その途中、出初式のため海岸にいた消防夫たちから、突風が起きると危ないからと、ボートをこぐのは中止するよう言われたが、天候の良さと少年たちの衆を頼んだ冒険心がその警告を押し切ってしまった。
 またボートは7人乗りである、それに倍以上の15人が乗り込んだので、途中でボートが沈みすぎ、併走していた和船に3名が乗り移った。しかし残り12人はそのまま沖へとこぎ出した。併走していた和船は、ボートから遅れ出したので途中で引き返し、3人は命拾いをしている。
 事故は七里ヶ浜沖辺りでよく起こるという、冬の突然の突風にあおられボートが転覆したものと思われる。遭難した生徒の弟も同乗していたが、兄が弟を抱きかかえた姿で死亡していたので同情を誘い、稲村ヶ崎公園に記念像が建立されている。(出典:逗子開成学園編「真白き富士の根」)

○明治43年1月北海道天塩沖、猛吹雪で漁船集団遭難、200人が犠牲に(110年前)[再録]
 1910年(明治43年)1月30日
 1月28日満州(中国東北地方)に現れた低気圧は、南東に進み30日朝、日本海中部から北北東に転じ、31日朝宗谷海峡を通過しオホーツク海に入った。当時、中国大陸では高気圧が発達しており、典型的な西高東低の冬型の気圧配置となった。
 それにより全国的に激しい暴風が起きたが、特に北海道、本州北部及び日本海沿岸では風雪吹き荒れ、島根県浜田で40.7m/秒、新潟県加茂で48.1m/秒、北海道宗谷で38.8m/秒、同寿都で34.3m/秒を記録した。
 中でも北海道天塩、留萌地方では猛吹雪となり、鉄道線路が破損して列車が不通。海上では怒涛猛烈を極めて航海が途絶した。天塩付近の海上で漁船30隻、漁師150人。留萌御泊で漁船7隻、漁師30人が一時行方不明となったが、結局、漁船流失37隻、転覆3隻、漁師行方不明200人という大災害となっている。
 (出典:中央気象台編「気象要覧 明治43年・44年>明治43年1月>暴風 13頁~14頁:4 満州より来たりし大陸低気圧」、札幌管区気象台編「北海道における異常気象・災害年表 74頁:明治43年1月30日」)

○阿波(徳島県)漁業団発動漁船、五島列島沖で暴風に遭い集団遭難と報道される。

 遠く故郷を離れた東シナ海で漁業という職務に殉じた700の魂魄(100年前)[追補]

 1920年(大正9年)1月14日

 五島列島福江島の東海岸、玉之浦港(現・五島市)を出漁の根拠地としている阿波漁業団の発動漁船(ディ-ゼルエンジン付き漁船)40隻が、出漁中、折からの暴風雨に遭遇して遭難、乗組員300余人が行方不明となったという当時の新聞記事がある。

 その報道によると、そのうちの1隻白林丸の乗組員4人が同船から脱出に成功、福江島から南南西約70km、屋久島の南、東シナ海にやや南北に並ぶ男女群島内の孤島、中ノ島に伝馬船で漂着、鹿児島を経て玉之浦に帰着して遭難の状況を語り、行方不明者の捜査依頼をしたという。

 行方不明者が出たという当日、すでに同漁業団の基地に遭難したのではないかとする情報が入っており、同団では捜索願を無線で佐世保鎮守府(海軍の各方面根拠地)に依頼、同鎮守府では遭難の翌15日朝、水雷艇を現地に急航させようとしたが、佐世保港外一帯の波が高く、引き返したという。

 徳島県の漁師たちが、はるばる九州の東端、五島列島まで進出して出漁するようになったひとつの状況として、1910年(明治43年)における「漁業法」の全面改正がある。それは明らかに産業として漁業を育てるべく、従来の小型船による延縄及び曳き網漁業から、遠洋トロールおよび底引網漁業への転換を後押しするものであったので、沿岸漁村の小規模な沖合漁業は大打撃を受けたという。

 今ひとつは、1888年(明治21年)由岐町(現・美波町)の漁師が、福岡近海に出漁し成功したという話が近隣沿岸の村々に伝わり、代々伝えられていたという事がある。その後1903年(同35年)になり、同町の延縄船の漁師が、長崎県平戸大島沖へ出漁し、ふたたび成功をおさめた話が沿岸部に伝わり、由岐町を中心に日和佐町(現・美波町)など近隣の漁港から北九州方面に出漁する船が50隻を超える状況となった。従来の紀伊水道周辺沖合への出漁から対馬海峡-五島列島沖東シナ海方面遠洋漁業への転換であった。

 この動きに拍車をかけたのが漁船の動力化の進展で、手こぎ動力からディーゼルエンジン付き発動機船へと革命的に進歩し、東シナ海方面への出漁も問題なく可能になり、明治末期になると操業船に仕立てた伝馬船を数隻積載した母船方式も現れ、大正時代には五島列島を根拠地に出漁し、その後は長崎県や福岡県に家族ともども移住する漁師も現れていた。

 このようにして広い好漁場を得て、徳島県東南部沿岸の漁師たちは苦しい生活から抜け出すことができたが、漁業放送もない時代である。故郷を離れて身を危険にさらす時もあった。1931年(昭和6年)12月、徳島県九州出漁団玉之浦連合組合が、同町西方寺の傍らに建立した招魂碑には“其職務に殉する者今や七百を以て之を算す”とあり、碑文の犠牲者の数は談話を集めたもので根拠は定かではないというが、報道された大正9年の遭難犠牲者だけでなく、多くの人たちが故郷を離れて漁業という職務に殉じていた一つの裏付けであろう。

 (出典;朝日新聞縮刷版「朝日新聞・大正9年1月16日号:漁船四十隻、三百余名行方不明となり二艇捜索に出動(註:この遭難について徳島県関係資料には記載なし)」、徳島県史編さん委員会)編「徳島県史 第6巻>第2章 経済>第6節 水産業>1 漁業>(4)県外進出への発芽 318頁:九州への出漁」、徳島県漁業史編さん委員会編「徳島県漁業史>第2章 大正・昭和前期の漁業>第6節 県外基地漁業 479頁」、由岐町史編纂委員会編「由岐町史 下巻 504頁~521頁:第7章 漁業の開拓」) 

○警視庁大平警察署、管内に初めて横断歩道を設置“成績すこぶる良好”(100年前)[改訂]
 1920年(大正9年)1月
 わが国初の横断歩道が、本所江東橋から錦糸堀の終点にいたる東京市電の電車線路(現・京葉道路上)の3か所に設置され、はじめは電車の線路を横断することから、電車線路横断線と呼ばれた。
 この横断歩道の設置については、当時の大平警察署(後に本所警察署に統合)署長が発案し、関係町会と協議を行い設置したとされている。しかし当時、欧米を旅行し、横断歩道を目撃した市民の声があったことから、署長がこの声を率先してとりあげ、実施したものとも思われる。
 いずれにしても、同署長が警察の機関誌「自警」に“荷車、人力車、電車等の衝突事故防止の根本策として”企画し、電車横断線は“石灰水で路上にはっきりと区画を記し、この3か所以外は横断禁止とした”その結果“実施後未だ短時日なるも成績すこぶる良好にして未だ一回の事故も発生せず”と報告しているように効果を上げた。この実績と市民からも好評だったので、警視庁ではその後市内各所に逐次横断歩道を設けた。ちなみに横断歩道という言葉が定着したのは、6、7年ほど経った、1926年(大正15年)ごろという。
 (出典:警視庁編「警視庁史(2) 大正編>第5節 保安・衛生の指導と取締>第3 交通の指導と取締 695頁~697頁:横断歩道をはじめて設ける」。道路交通問題研究会編「道路交通政策史概観 論述編>第1編 前史>第3章 道路交通事故・公害とその対策>第2節 大正・昭和戦前期における交通事故と防止対策>第3 交通事故防止対策>(2) 交通規制 55頁:② 横断歩道」)

○静岡昭和15年、未曾有の大火、飛び火で被災範囲拡大-画期的な広域支援動く、

東京から名古屋まで東海道沿いの消防隊が駆けつけた(80年前)[改訂]
 1940年(昭和15年)1月15日
 正午を少し過ぎたころ、市の西部を流れる安倍川に近い、新富町一丁目の大工職海野孝蔵方で、昼食の支度のためカンナ屑などをかまどに入れ湯を沸かしていたところ、煙突から燃えくずが舞い上がり、隣家の馬小屋の屋根に落ちた。木工、家具工場が多く木造家屋が密集していた地域である、たちまち付近に火勢を拡げた。
 折からの9.2m/秒という強い西風と、約40日間も晴天が続き市内が乾燥していたので、炎はたちまち近くの三番町小学校方面へと燃え広がった。小学校は小使(用務員)室と工作室を焼いただけで済んだが、ここから無数の火の粉が南東の風下へと飛び、特に大工町の2か所に落ちた火の粉が大火になった原因とされている。その上、晴天続きにより地下水は減少し、用水路の水量も涸れがちで、市の上水道さえ十分な給水能力を備えていなかったので、炎の勢いを止めることができず被災地域を拡大した。
 午後1時ごろ、大工町からの炎は本通から梅屋町、人宿町、七間町へと広がり、この火勢は両替町三丁目裏通りを焼き、呉服町二丁目の田中屋百貨店を猛火に包んだ。一方、下魚町へ飛んだ炎は宝塚劇場を焼き、西門町から燃え上がった炎と合流して、古刹・宝台院、料亭・浮月楼など市の中心部をなめ尽くして静岡駅付近まで達した。午後5時ごろには駅前の松坂屋百貨店及び近隣を焦土と化し、伝馬町通りを境に静清国道と静岡鉄道との間を灰とし、横田町から日の出町一帯にかけて燃え尽くした。また無数の飛び火は駅と東海道線をこえて天坪町付近を焼き、泉町、南町一丁目へと延び、夕方6時ごろには森下小学校も灰となるなど東海道線南側一帯も焦土となった。鎮火したのは出火から約15時間後の翌日午前3時半ごろである。

応援に駆けつけた消防隊は、静岡県下から自動車ポンプ59台、手引きポンプ26台、人員5800人におよび、県外からは東京をはじめ横浜、小田原、豊橋、名古屋と東海道沿いの大都市からも支援があり、消防の広域支援として画期的なものがあった。
 被災状況は、焼失面積40万坪(約1300平方km:山内)とも35万坪(約1200平方km:市史)とも、住家全焼5229戸、棟数で6218棟、非住家全焼1255棟。1人死亡、788人負傷、被災人口2万7518人。火災が拡大した原因として、火元付近の雑然とした家屋の密集と道路幅の狭さも指摘されているが、地形的な特徴と当日の強風から、飛び火による炎の広がりが多く、午後1時から2時にかけての9か所からの無数の飛び火が被災地域を拡大し、火元から1635m先に飛んだものもあり、大半が500m以上の彼方へ飛んでいる。その時の瞬間風速は20m/秒を記録していたという。
 (出典:山内政三著「静岡市の百年>第1章 昭和新政より一五年戦争へ 35頁~37頁:18 静岡大火」、静岡市編「静岡市史 近代>第4編 戦時体制下の市勢>第1章 戦時体制下の静岡>第2節 静岡市の災害をめぐる地域展開 700頁~706頁」、菅原真一著「近代消防連載・都市大火始末記 18-静岡大火と耐火建築」)

○大阪西成線ガソリン動力列車脱線炎上、鉄道史上死亡者数最多の事故、
 戦時体制下における過密ダイヤが背景に、動力のディーゼル化進む(80年前)[改訂]

 1940年(昭和15年)1月29日
 静岡大火のわずか2週間後、鉄道市場未曾有の事故災害が起きた。

午前6時56分ごろ、大阪市内の鉄道省西成線(現・JR西日本桜島線)安治川口駅構内において、下りの1611ガソリン動力列車が脱線し横転、火災を起こして全焼、189人が死亡、67人が負傷するというわが国鉄道史上、死亡者数最多の事故が起きた。
 当時、中国との全面戦争に入った3年目、太平洋戦争開戦の前年という戦時体制のさなかで、列車による輸送力の増強は至上命令であった。特に西成線は沿線に多数の軍需工場(兵器など軍需用品の生産工場)が建設され通勤客が激増していた。しかし単線区間のため運転本数を増やすことが出来ず、朝夕のラッシュ時は、乗車率300%以上に達していたという。そこでとられた増強策が臨時列車の運行だった。
 当日、事故の起きた1611ガソリン動力列車は珍しい3両連結だった。これも増強策の一つである。同列車は西九条駅を出て時速45kmに加速、六軒家鉄橋を越えた時、運転士は規定に基づきエンジンを切り、アイドリング状態にして惰性で次の安治川口駅まで走らせた。当時、血の一滴と言われたガソリンを節約するためである。ところがこの日は大阪湾からの西風が強く、ふだんより減速率が高くなり、同駅に入って来たときには3分半の遅れとなっていた。
 悪いことに、この日は後続に臨時の旅客列車を走らせていた。単線である、1611列車と同じ下り1番線に到着することになっていた。駅の手前に1番本線と1番側線とを分岐する転轍器(てんてつき:分岐器)がある。1611列車はそこを渡りはじめ、3両目の前部が通過しようとしたとき、急に転轍器が動き3両目の後部台車の車輪だけ左側の1番側線に入ってしまった。
 3両目は、しばらくは二つの線路にまたがって走っていたが、だんだんに間隔は広がり、ついに後部の車輪はレールをねじ曲げて脱線した。車両は先にある島屋踏切の石畳の上に火花を飛び散らせて進み、踏切の敷石の切れたところで電柱をへし折り、本線とは45度の角度で横転した。ついでガソリンタンクからガソリンが漏れ、何かの火がそれに引火し、横転した車両は猛炎に包まれた。
 転轍器が急に動いた背景に、1611列車に後続している6両編成の臨時蒸気旅客列車の存在があった。この列車は途中駅に止まらず大阪駅から安治川口駅までノンストップでやってくる。1611列車は3分半遅れていた。このままだと臨時列車を一つ前の九条駅で臨時停車させなければならず、運行時刻を遅らせれば、それだけ石炭を浪費させることになる。その焦りから、安治川口駅信号所の信号掛が、1611列車の転轍器通過を十分確認することなく、1番側線に停車予定の後続列車のための切り替えを早めたことにあった。
 横転した3両目の定員は100人足らずだったが、通勤時間帯であり300人近い人が乗車していたようだ。

その上真冬である、窓は閉め切られ、逃げ道はふさがれていた。150人が即死、39人が病院に収容された後死亡した。ガソリンタンクが破れた直接の原因は、超満員の乗客を乗せていたので車体と同時にガソリンタンクの位置が下がり、踏切の石畳の個所を滑った時に破れたものと推測されている。
 沿線の軍需工場の増大、通勤客の激増、超満員の乗客、遅れた複線化と自動信号化、ガソリン節約のための惰性運転の規定、運行時刻遅れと石炭浪費回避の至上命令、冬の強い西風など悪い条件が重なった事故であった。そのためか事故後、安治川口駅の信号掛員2人は刑事起訴されたが、当時業務上過失致死傷罪は最高3年の禁錮刑だったが、比較的低い2年の刑の判決となっている。
 事故後、対策として転轍器途中切り替え防止の保安装置整備、西成線の電化が緊急に取り上げられ翌1941年(昭和16年)5月、電車運転に代わった。なお引火しやすいガソリンをエンジン動力とした鉄道車両の危険性が指摘され、現在のディーゼルカーへと開発が進められた。
 (出典:佐々木冨泰、網谷りょういち著「事故の鉄道史>第10話 炎上したガソリンカー」、久保田博著「鉄道重大事故の歷史>5 戦時期>5-2 戦時期の重大事故 65頁~66頁:(5)西成線でのガソリン動車脱線火災事故」)

○昭和15年北陸地方豪雪-被災状況を受け建物に対する積雪荷重の研究進む(80年前)[再録]
 1940年(昭和15年)1月~3月
 1月から3月にかけて北陸地方を中心とした日本海側が記録的な豪雪となり、富山県八尾で239センチを記録、金沢、福井の各県都でも180~190センチを記録した。
 この続く豪雪によって、1月9日には富山県黒部奥山の仙人ダム発電所(黒部市)工事現場では、吹雪により宿舎が飛ばされ25人が死亡。25日には滋賀県冷水峠で大規模雪崩が起こり住民9人死亡。28日、福井県大野郡上庄村(現・大野市)の志目木鉱山で、この地方特有の大規模な泡雪崩(爆風雪崩)が発生し、工場その他7棟を倒潰、28人死亡、2人行方不明。新潟県北魚沼郡薮神村(現・魚沼市)の北越水力発電所建設現場でも大規模雪崩が発生、作業員宿舎が倒潰し20人が死傷。青森県では漁業取締船・陸奥丸が猛吹雪のため同県武士泊沖合で沈没、船長以下5人が死亡している。なお29日には岐阜県大野郡庄川村(現・高山市)、白川村の両村で大規模雪崩があり住民19人が死亡するなど、同月中は鉄道省線(現JR)北陸本線、三国線をはじめ、市電、バスなど各地で交通が途絶した。
 3月に入っても、5日に山形県小国町の省線米坂線で、雪崩により崩壊した鉄橋に列車が衝突転落して19人が死亡するなど、このほかの被害も含め特に富山、石川、福井の3県だけで116人の死亡・行方不明者を出している。
 これら被害の中では積雪の重みによる家屋の倒潰が多く、建築に関する実態調査が詳細に行われ、建築物に対する積雪荷重についての研究や雪害防止対策についての具体的な検討がなされはじめた。
 (出典:小倉一徳編、力武常次+竹田厚監修「日本の自然災害>Ⅱ 記録に見る自然災害の歷史>4.昭和時代前期の災害 175頁:北陸地方豪雪」、気象庁編「気象百年史>6 昭和後期 515頁:5.5 雪害」、宮澤清治+日外アソシエーツ編集部編「台風・気象災害全史>第Ⅱ部 気象災害一覧 200頁:0557~0562」、気象庁編「気象要覧 昭和15年1月~5月>気象要覧 2月 115頁~118頁、気象要覧 3月 213頁」)

○昭和25年暴風害、九州で漁船集団遭難、関東で日光地方大荒れ(70年前)[再録]
 1950年(昭和25年)1月9日~16日
 発達した低気圧の通過にともない、九州地方から関東地方にかけて強風が吹き荒れ、各地で風害が発生した。
 最大風速は、鹿児島県薩摩半島枕崎で西北西の風21.9m/秒、八丈島では西の風31.9m/秒を記録、それにより9日夜、九州地方で漁船の遭難が相次ぎ3隻沈没、8隻流失、38隻行方不明、5隻が破損、1人死亡、91人が行方不明となる。
 翌10日午後から11日未明にかけては関東地方が大荒れとなり、栃木県日光、今市両町(現・日光市)で 最大風速35m/秒の強風により住家全壊41戸、同半壊54戸、同損壊711戸の被害となり、一時、東武鉄道鬼怒川線が不通となった。
 被災地全体の被害、11人死亡、109人行方不明。住家全壊43戸、同半壊56戸、同損壊711戸。船舶沈没5隻、同流失9隻、同行方不明41隻、同破損5隻。
 (出典:小倉一徳編、力武常次+竹田厚監修「日本の自然災害>Ⅱ 記録に見る自然災害の歷史>4.昭和時代中期の災害 196頁:九州~関東地方風害」、宮澤清治+日外アソシエーツ編集部編「台風・気象災害全史>第Ⅱ部 気象災害一覧 213頁:0632、0683」、気象庁編「日本気象災害年表 1948-59 19頁:昭和25年1 10-14」)

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・地震・津波・火山噴火編

・気象災害(中世・江戸時代編)

・気象災害(戦前・戦中編)

・気象災害(戦後編)

・広域汚染編

・火災・戦災・爆発事故(中世編)

・火災・戦災・爆発事故(江戸時代編)

・火災・戦災・爆発事故(戦前・戦中編)

・火災・戦災・爆発事故(戦後編)

・感染症流行・飲食中毒・防疫・災害時医療編

・人為事故・防犯・その他編

・災異改元編 

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(2020.7.5.更新)

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