○読者の皆様へ
「周年災害」は2005年1月から掲載を開始しましたので、2014年12月でちょうど10年となりました。しかし災害は終わってはいません。そこで次の10年をめざして2015年1月から連載を続けております。
また、大災害や防災施策などお伝えしなければならない事項が書き残されておりますので、現在“追補版”としてご提供しております。
その際、記事化される事項は、災害により季節ごとの特徴がありますので、従来通り掲載月と同じものを選び、基本的には発生の古い災害等の順に補足記事化しておりますのでご了承下さい。
16年4月以降の当追補版は毎年(2)(3)……となり、原則として災害等の発生の年が年々新しくなりますが、中には新しい情報に基づいて、時代をさかのぼり追補する記事があると思いますのでご了承下さい。また当追補版に掲載された記事は、16年4月以降の該当月の記事中に吸収されますのであわせご了承下さい。
【12月の周年災害・追補版(4)-1300年代、1700年代、明治時代-】
・正中2年近江北部地震、尚江(なおえ)千軒の大半が地すべりで水没、水没したのは“神立集落”か、
湖底から遺跡みつかる
・江戸元禄16年四谷伊賀町-麻布の大火、大名屋敷街をひとなめに
・後藤新平、わが国初の民間衛生団体“愛衆社”設立 、
民間の医療関係者による近代的医療・衛生の確立に根ざした健康な国民生活を目指す
・柴田承桂、わが国初の公衆衛生に関する著述「衛生概論」出版-伝染病予防規則に反映か [改訂]
○正中2年近江北部地震、尚江(なおえ)千軒の大半が地すべりで水没、水没したのは“神立集落”か、
湖底から遺跡みつかる
1325年12月5 日(正中2年10月21日)
亥の刻(午後10ごろ)、近江北部一帯をマグニチュード6.5と推定される地震が襲った。
すでに人々は睡眠中である。突然の揺れで人々は逃げ出す暇もなかった。
この時起きた地震の震源地は近江北部で、柳ヶ瀬断層/敦賀断層の活動によるという。これにより若狭敦賀と琵琶湖の中間にあった古代の愛発(あらち:荒地)関跡周辺が崩潰、竹生島の一部も崩れて湖中に没した。敦賀の若狭一の宮気比(けひ)神社も倒潰し延暦寺十二輪燈ことごとく消え、京都で強震と予測されている。
この地震で、栄華を誇った湖西・尚江千軒が中嶋神社と僅か30余軒を残し地すべりで崩潰、水没したという。
琵琶湖沿岸には尚江千軒以外にも、100か所以上の湖底遺跡や水没村(港町など)の伝承地がある。
琵琶湖はわが国大の湖であり、その広さ約700平方km、滋賀県(近江国)のほぼ中央部に位置し、そこから流れる水流は上流を瀬田川、中流を宇治川、下流を淀川と名を変えて大阪(坂)湾に注ぐ。
同湖はその位置的条件から、首都・京都、畿内及び東、西、北各国を結ぶ分岐点にあった。すなわち、
その水路は、宇治川に合流する西の桂川、東の鴨川から北へ進み京都とつながり、淀川下流の大阪(坂)を経て瀬戸内海を経由して西国各国とつながっていた。一方、瀬田川河口の大津から琵琶湖を経て、湖西高島に上陸し山陰道から山陰地方各国へ、湖北塩津(現・西浅井町)へ上陸し越前(福井県)敦賀津を経て日本海航路で北国各国へ、湖東長浜付近に上陸し北陸道から北陸各国へ、また米原(まいばら)付近に上陸して東山道から東国各国へとつながっていた。一方、水路大津に迎えた船便は逢坂山を越え京都に向かった。
琵琶湖沿岸に点在する○○千軒と呼ばれている港町遺跡(当時の物資集積地)が、これら沿岸上陸地点にあったことは容易にうなづけ、中でも高島市内の三ツ矢千軒遺跡、長浜市内の下坂浜千軒遺跡、米原市内の尚江千軒遺跡は名高く、それぞれ地震による地すべりで湖底に沈んでことが、最近の調査でわかって来ている。
本稿の尚江千軒遺跡は、滋賀県北東部のJR東海道本線米原駅からやや北西へ直線距離で2.2kmほど進んだ湖岸から117m~277m沖の水深3.6m~4.3mの湖底に、北は天野川河口の朝妻湊遺跡沖合から湖岸沿いにやや南西へ約2.5km進んだ磯川河口の磯漁港沖合に至るまでの広い範囲に遺跡が散在しているという。
滋賀県教育委員会が編集した「改訂・近江国坂田郡志」の中島(中嶋)神社の項に、同神社の社伝として“当社は朝妻村(朝妻湊:現・米原市)の南に接し、尚江と称し、千余戸を有する大村の産土神(うぶすながみ)なりしが、正中二年十月二十一日(1325年12月5日)の夜、地震のため陥落せり、其の時当社及三十余軒を残し、全部陥落し、湖中に没せり”とある。
その後1819年8月15日(文久2年6月12日)伊勢近江地震が発生した。この地震は推定マグニチュード7という大地震で、推定された震源地は朝妻湊から南東約13.8kmの多賀町付近とされ、近江国(滋賀県)内では、震源地に近い彦根周辺から南は近江八幡、瀬田川河口の膳所(ぜぜ:大津市)、内陸は甲賀の水口(現・甲賀市)、湖西北岸の大溝(現・高島市)が大きな被害を受け、震源地に近い残存した尚江千軒は大地震による地すべりによりふたたび湖底に沈み、復興することはなかったという。
この社伝が残る中島(中嶋)神社は、米原市内朝妻筑摩(ちくま)地区にあり、天野川河口から50mほど離れた朝妻城址内にある。その朝妻城は戦国時代末期に新庄直昌(1513~49年)が、領主の浅井(あざい)氏の命を受け、朝妻湊を守るために築いたとされるが、その朝妻湊は天野川河口に開かれ、古代から美濃・飛騨・信濃の東山道や北陸地方との往来および物資の運搬など湖上交通の要港として、朝妻千軒と呼ばれるほど栄えていたが、1603年(慶長8年)、現在は埋め立てられ米原駅西側に広がっていた入江内湖(筑摩江:つくまえ)の奥(現在の米原駅南側付近)に米原湊が開かれるにおよび、その繁栄は奪われていったという。
朝妻湊と尚江千軒との関係については、滋賀県立大学林研究室が編集した「尚江千軒遺跡」によると、同湊が古代からの湖東の要津(港)であったことを文献上確認している。また近年の調査によると、天野川河口の朝妻湊遺跡南方の湖中、朝妻筑摩地区の湖岸から沖合250m、水深4mの湖底で、元は護岸や水路などに使われていたと見られる石積みの遺構が見つかっており、その矢穴(石を割る方向に連続して掘る小さな穴)の形から18世紀以降のものと推定され、1819年8月(文政2年6月)の大地震で生じた地すべりによって発見地点に運ばれた集落(残存した尚江千軒)の遺構と判断された。
一方、朝妻湊遺跡から湖岸沿いに約1.5kmの所に筑摩神社があるが、その湖岸から北北西沖合約277m、水深4.3mの湖底に東西約4.8m、南北約10mに散在する自然石の割石(割った石)約80個を発見、その石と石の間に8~9世紀に使用されていた須恵器が砂に埋もれていることも発見され、それらの状態から、これらの遺構は、1325年12月(正中2年10月)の地震による地すべりによって発見地点に運ばれた集落(尚江千軒)の遺構と判断されている。
なお尚江千軒の位置と名称だが、同千軒の産土神と社伝で伝えている中嶋神社が鎮座する湖岸に接する一区域が、かつて小字“直居(なおい)”と呼ばれており、この“直居”は“尚江千軒”として伝承されていた“尚江(なおえ)”を明治の市区町村編成時に「なおえ」→「なおい」→「直居」と記帳したものと思われる。
また直居に接した北側が小字朝妻で、朝妻に接した南東側が小字中嶋であり、直居の北東部に中嶋が存在するという地理的関係から、この中嶋神社および中嶋の西方に尚江千軒が存在していたと推定され、上記遺構の位置、地域に残る伝承によってもその点が裏付けられている。
また創建が神代時代の孝安天皇とされるほど歴史を経ている筑摩神社(筑摩社)に、1291年9月(正応4年8月)に描かれ、近江北部地震後の1474年2月(文明2年正月)に模写されたと墨書きのある古絵図がある。その絵図によると、筑摩社は当然、絵図の中心に大きく描かれているが、当神社や筑摩江と書かれた入江内湖をはじめ、山や川、集落の位置関係は実際とほぼ同じで信憑性のある資料だとされている。
しかし、神社西の湖岸にあたる北側の天野川河口に“西邑(にしむら)”、南側の磯川河口に“神立”という集落が描かれており、神社拝殿正面に当たる大鳥居ともに現存しないので、湖岸のこの2集落と大鳥居が地震による地すべりでそぎ取られた個所と見られている。中でも“神立集落”は1325年12月(正中2年10月)の地震で湖底に沈んだ集落と目され、その名“神立”はいかにも象徴的で、古絵図が地震後に模写されている点から、“神が湖に降り立つ”という意味を、模写した時にはなかった尚江千軒につけたものであろうか。その推測が成り立つとしたら、朝妻湊跡とされるあたりから筑摩神社を越え、磯川あたりまでというかなり広範囲な大集落があったことになり、千軒の呼称も納得がいく。
以上の点から、これは筆者の推測だが、古来より港は舟溜りを設けやすい河口に多くつくられるので、天野川河口の朝妻に港が開かれ、そこから湖岸を南西へと展開する尚江千軒には、船舶の造船や修理に必要な造船所、鉄工所(鍛冶屋など)、船箪笥(ふなだんす)などの船具をつくる木工所などがあり、物資を集積する倉庫群や運搬用の馬小屋群があり、船大工、鍛冶屋、指物師の作業場やそれらの徒弟などの住居、船乗りや馬借と呼ばれた運搬業者などを泊める宿や産物を商う商家などがあり、人々に琵琶湖の魚を供する漁師の集落もありで、実際に千軒あったかどうかはわからないが、かなりの街並みが存在し繁栄していたのではないかと思われる。
天野川の下流沿岸部にそれらが展開していていないのは、たびたび同川が氾濫(はんらん)していること、天野川と入江内湖との間は古来より良田で、現在でも条里地割の姿をとどめているという。そこで、街を建設するのに、この荘園地を避け湖岸に街を展開したのだろうか。入江内湖との間の狭い陸地である。千軒もの家並みが街道沿いにやや南西に細長く延びていったものと思われる。ちなみに、筑摩神社付近に7世紀後半には、朝廷に琵琶湖名産の鮒や鱒、それらの加工品を納めていた筑摩御厨(つくまみくりや)が設けられ 1070年(延久2年)には廃止されている。
ついで、朝妻湊が朝妻千軒とも呼ばれるようになったのは、この日の近江北部地震によって没した尚江千軒の中で残存した三十余軒を吸収し拡張されたものとみて良いだろう。時はすでに鎌倉時代で、村落の領主は貴族、寺院から地頭に替わっていた。地すべりのあった湖岸よりは、川の堤防が整備され、荘園領主に遠慮がなくなった内陸部から湖岸にかけて街並みが展開したものと考えられる。絵図が模写された時、朝妻湊の南西側の湖岸に新しい街並みが展開し“西邑”と呼ばれていたのかもしれない。
戦国時代を経て、16世紀後半の安土・桃山時代になると、琵琶湖―淀川の水運は、事実上の首都である湖西の安土(織田信長)、宇治川沿岸の伏見(豊臣秀吉)を結び、朝妻は千軒と呼ばれるほど繁栄し、1603年に米原湊が開かれるまで繁栄を続けたものと思われる。その第二期尚江千軒も、1819年8月(文政2年6月)の伊勢・近江地震でほとんどが水没し、歴史の舞台から消える。当時、朝妻湊も米原湊に繁栄を奪われ衰退していた。尚江千軒を復興する力はもう無かったのであろう。
(出典:宇佐美龍夫著「日本被害地震総覧>4 被害地震各論 50頁:051近江北部、134頁:229伊勢・美濃・近江」、いさぼうネット編「琵琶湖の三つの湖底遺跡の原因はなんと地すべり」、滋賀県立大学人間文化学部林博通研究室編「尚江千軒遺跡>2.尚江千軒遺跡の位置と環境8頁~11頁、4.尚江千軒遺跡の伝承・口伝14頁~21頁、6.結語50頁~52頁」、林博通。釜井俊孝・原口強著「地震で沈んだ湖底の村 63 頁~102頁:第3章:尚江千軒遺跡の調査」、滋賀県教育委員会編「近江歴史探訪マップ 4・22頁:街道・宿場・湊 5 米原湊、朝妻湊」、長浜観光協会,米原観光協会編「長浜・米原を楽しむ>朝妻城跡(中島神社)」。参照:2016年6月の周年災害「正中から嘉暦へ改元、近江北部地震と疫病による」、1月の周年災害追補版)(4)「天正地震。(中略)琵琶湖湖畔北東部、長浜城下の西浜、下坂浜千軒も水没」)
○江戸元禄16年四谷伊賀町―麻布の大火、大名屋敷街をひとなめに
1703年12月26日(元禄16年11月18日)
午刻(午前12時ごろ)、四谷南伊賀町の町屋(町人の家)から出火した。
折から江戸特有の乾(北西)の強風(からっかぜ)にあおられて、炎は江戸城堀端ぞいに延焼、大名屋敷を次々と焼き払い、赤坂今井谷から麻布市兵衛町へと進み、建ち並ぶ大名屋敷を灰としたのち増上寺裏門前町を全焼。三田四国町から芝田町に至る大名屋敷街、麻布台の大部分、麻布一本杉の町人街まで全焼し、戌後刻(午後9時ごろ)鎮火するという9時間に及ぶ大火となった。
焼失範囲は長さ二里余(約8km余)、横56町(約6km)、つごう約50平方kmという広範囲に及んだ大火である。江戸近年の大火と評されている。
この大火災の5日後、江戸はマグニチュード7.9~8.2と推定される歴史的な大地震に遭遇した。元禄地震である。
(出典:東京都編「東京市史稿>No.2>変災編 第4・507頁~512頁:元禄十六年火災>1 十一月18日大火」、池田正一郎編著「日本災変通志>近世 江戸時代前期>元禄十六年408頁:十一月十八日。参照:2013年12月の周年災害「元禄地震」)
○後藤新平、わが国初の民間衛生団体“愛衆社”設立 、
民間の医療関係者による近代的医療・衛生の確立に根ざした健康な国民生活を目指す
1879年(明治12年)12月24日
後藤新平といえば、1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災の復興を内務大臣兼帝都復興院総裁として担当、その壮大な復興計画は当時の地主など既得権益者たちから猛反対されたが、曲がりなりにも達成された計画が、現在の東京の都市としての骨格をつくったことで知られている。しかし、名古屋は後藤が最初に就職した土地ではあるが、その功績についてはあまり知られていない。
後藤新平は福島県の須賀川医学校(公立岩瀬病院内学校)を卒業後、恩師の安場保和が1875年(明治8年)10月、愛知県令(県知事)に任命され赴任するのを機に、愛知仮病院・医学講習所(現・名古屋大学医学部)に医者として就職した。時に18歳である。その後才能を認められ、80年(同13年)5月、22歳で同校校長心得、翌81年(同14年)10月には愛知医学校・愛知病院と改称された同校の校長兼院長となった。
翌82年(同15年)4月、時の薩摩藩(鹿児島県)と長州藩(山口県)出身者による独裁的な薩長藩閥政府に対する反対運動を指導していた自由党総理板垣退助が、遊説先の岐阜で政府側の暴漢に襲撃された。後藤は政府を恐れて誰も治療に行かないことを知り、急きょ岐阜に駆け付け板垣を救ったエピソードはよく知られている。日本赤十字社創設者の佐野常民らが起こした大日本私立衛生会よりも3年半も早く、後藤がわが国で初めての民間衛生団体“愛衆社”を設立したのはこの間の事である。
5年前の1874年(明治7年)8月、明治政府は近代的な医事衛生制度について規定した「医制」を公布、
以来、愛衆社設立と同じ12月には、東京医学校(現・東京大学医学部)初代製薬学科教授の柴田承桂が、わが国初の公衆衛生に関する著述「衛生概論」を出版するなど、健康な国民生活を目指し、官民挙げて近代的医療・衛生の確立を求めて努力を重ねていた。愛衆社は、それら活動を医療に関係する仲間が集い、情報を交換し学び合うことによって果たして行こうとするものであった。
その同じ年1879年(明治12年)は、コレラが史上最大の流行となり、政府の出した「虎列刺(コレラ)病予防仮規則」を巡って国民の間で誤解による反対運動“コレラ一揆”が起こっていた。医療関係者には一日も早く、近代的な医療と衛生活動について自らが学び、患者を治療すると同時に国民を啓蒙する必要があった。
愛衆社は同社設立の趣旨とその後の変遷について、1889年(明治22年)4月発行の「名古屋医会第壱報告」に記録している。同社は79年(同12年)12月のこの日、後藤が提唱し同僚の石川、瀧浪両教官をさそい後藤が社長となった。また同社の目的は“衛生及医事ニ関スル諸件ヲ論断シ、各自ノ疑ヲ質シ、惑ヲ解キ、長短相裨補シテ其隆盛ヲ謀ル”にあり、ドイツ医学を中心とした当時の新しい衛生や医事に関する情報を相互に交換しながら“疑ヲ質シ、惑ヲ解キ”学ぶところにあったという。
同社はその後“大ニ世ニ唱道シテ衛生会ノ必要ヲ公衆ニ想起セシメタリ”とPR活動を行い“有志ノ士輩翕然トシテ之ニ応シ”と新会員も集まり、翌80年(同13年)2月から事業を始めている。その内容は年4回の総会と月2回の医事講究会(物事を深く調べ明らかにする会合)を行い、雑誌「四季医報」を発刊して研究成果や新しい医事情報などを掲載した。
初代社長となった後藤は、82年(同15年)2月、軍医の石黒忠悳に勧められて名古屋を去り、東京の内務省衛生局に勤務し、官僚への道を歩み数々の業績をあげることになるが、残された愛衆会では社長が交代し事業は進められた。
一方、88年(同21年)9月、愛知県衛生課長心得の山川省が主唱した名古屋私立衛生会の設立総会があり、会則を審議する際、出席した会員から愛衆社とその目的が同じであり、同地に並立してそれぞれの活動を行うよりは両社が合併した方が良いのではないかとの動議が出された。愛衆社もそれを受け、総会において名古屋私立衛生会との合併を可決、名称を「愛知私立衛生会」とし従来にもました活動を進めることになる。
(出典:国立国会図書館デジタルコレクション・鈴木鋲次郎 編「名古屋医会第壱報告>第9款 名古屋医事及衛生社会報告 225頁~233頁(126コマ~130コマ):愛知私立衛生会」、名古屋大学医学部史料室編>「6.愛知医学校長後藤新平」。参照:2013年5月の周年災害「佐野常民、長与專齋ら大日本私立衛生会設立」、2014年8月の周年災害「医制発布され近代的医事衛生制度発足」、下記「柴田承桂、わが国初の公衆衛生に関する著述・衛生概論出版」、2009年3月の周年災害「明治12年、コレラ史上最大級の流行始まる」、2009年6月の周年災害「内務省、急きょ初の感染症予防法規:虎列刺(コレラ)病予防仮規則を布告-コレラ一揆起こる」)
○柴田承桂、わが国初の公衆衛生に関する著述「衛生概論」出版-伝染病予防規則に反映か [改訂]
1879年(明治12年)12月
東京大学医学部の前身、東京医学校の初代製薬学科教授の柴田承桂が、ドイツ留学で磨いた語学力で、アイルランドで発行された「公衆衛生法」と「衛生学」を中心に、その他衛生学に関する著作を参照しながら翻訳し、東京医事新報に連載、この月「衛生概論」として出版した。これはわが国で初めての体系だった公衆衛生に関する著作である。
柴田は同書の例言で、アイルランドがイギリス連合王国の中でもっとも貧困層が多く、衛生上の状況もまた劣っているので、逆に衛生に関する研究が進み、その著作も実際上適切な内容であると評価し、そこでこの著作を翻訳したのだと説明している。
また同書は全部で上編、中編、下編の三巻からなり、上編では衛生略史、死生統計、伝染性流行病(感染症)をはじめとする予防が必要な各種の病患について紹介している。中編は伝染毒(感染症の原因菌など)及び消毒法について説明し、人々が摂取する食品、用水、その検査法、大気の性質から換気法まで、日常生活に欠くことのできないものについて詳細に分析し解説している。
最後の下編は、住屋及び汚水溝渠(下水溝)、病者摂護(看護)法から気候風土及び気候と疾病との関係を述べ、最後は当時の欧米各国の衛生事務組織を紹介するなど、衛生について必要な内容を網羅した著作となっており、この著作の内容を政府が取りいれ翌1880年(明治13年)7月公布の「伝染病(感染症)予防規則」に反映したと思われる。
(出典:国立国会図書館デジタルコレクション・柴田承桂訳述「衛生概論 上編」、同訳述「衛生概論 中編」、同訳述生「衛概概論 下編」。参照:2010年7月の周年災害「伝染病(感染症)予防規則公布」)
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(2020.7.5.更新)