○読者の皆様へ
「周年災害」は2005年1月から掲載を開始しましたので、2014年12月でちょうど10年となりました。しかし災害は終わってはいません。そこで次の10年をめざして2015年1月から連載を続けております。
また、大災害や防災施策などお伝えしなければならない事項が書き残されておりますので、現在“追補版”としてご提供しております。
その際、記事化される事項は、災害により季節ごとの特徴がありますので、従来通り掲載月と同じものを選び、基本的には発生の古い災害等の順に補足記事化しておりますのでご了承下さい。 16年4月以降の当追補版は毎年(2)(3)……となり、原則として災害等の発生の年が年々新しくなりますが、中には新しい情報に基づいて、時代をさかのぼり追補する記事があると思いますのでご了承下さい。また当追補版に掲載された記事は、16年4月以降の該当月の記事中に吸収されますのであわせご了承下さい。
【2月の周年災害・追補版(4)-江戸時代~明治時代[改訂] -】
・江戸町奉行所、正月の松飾りを焼く“左義長(さぎちょう)行事”を禁止、その取り外しも7日に、 防火のためとはいえ花火の禁止に次ぎ庶民の楽しみなくなる[改訂]
・幕府、堤防外河川敷への家屋建築を禁止、関東地方河川沿岸の村々に
・東京日本橋明治3年難波町の大火[改訂] ・日本結核予防協会設立、理事長に北里柴三郎就任、国民病予防の中心的存在に[改訂]
○江戸町奉行所、正月の松飾りを焼く“左義長(さぎちょう)行事”を禁止、その取り外しも7日に、防火のためとはいえ花火の禁止に次ぎ庶民の楽しみなくなる[改訂]
1662年2月24日(寛文2年1月6日)
江戸っ子の象徴の様な花火も、八代将軍吉宗の代に打ち上げを許可されるまで70年もの長い間、大川端(隅田川河畔)などの特定の場所以外は、製造・販売も含め禁止されていた。
これは明らかな防火対策であったが、江戸っ子の楽しみを奪ったもので大不評であった。その上これも楽しみの一つ“左義長(さぎちょう)”の禁止である。防火のためとわかっていても、納得できなかったと思われる。
左義長とは、どんど焼きとも呼ばれている正月の民間行事で、その起源は平安時代にあるという。当時、公家たちの遊びに、毬杖(ぎっちょう)と呼ばれたホッケーのような遊びがあり、例年、小正月(旧暦・1月15日)になると、宮中の清涼殿の東庭に青竹を束ねて立て、これに毬杖の杖3本を結び、その上に扇子や短冊などを結びつけ、暦や吉兆をつかさどる陰陽師(おんみょうじ)たちが面をかぶり謡い囃しながら焼いたという。
後にこの行事が民間にも広がり、1月15日になると、正月に使われた門松やしめ縄など松飾りを焼いて煙とともに年神様を“天”にお送りし、その火であぶった餅などを食べると風邪をひかないとか、煙や炎が空に高く上がれば上がるほど善いことがあるとされ全国に広まった。左義長の語源もぎっちょうの杖三本を使用するところから“さんぎっちょう→左義長”となったという。
確かに花火にくらべるとささやかではあるが、その年の吉兆を占う行事であり、禁止となると不満は大きかったであろう。だからこの左義長禁止のお触れも、同じ楽しみの花火禁止のお触れと同じように、その後何回も出ているが、この日のお触れは次の通りである。
“町中ニテ左義長前々ヨリ堅御法度ニ候間(堅く禁じているので)、一切仕間敷候(いっさいしないこと)。若相背(もし違反し)、左義長致候ハバ、共可之者共(一緒に行った者たちは)御穿鑿之上(取り調べて)急度可披仰付候間(必ず処罰する)”。
お触れのなかで“前々ヨリ”と書いてあるのは、以前も禁じた事があるともとれるが、資料的には確認できない。ただし、禁止ではなく方法を制限しているお触れがあり、その最初のものと確認出来るのは、1649年1月31日(慶安元年12月19日)のもので“正月ノ左毬杖(左義長)ニ薪沢山ニ積重ネ、タキ申間敷事(炊かないこと)”となっている。
これは明らかに、人々が煙や炎を高く空に上げようとして、薪を高く積んでいたことに対する制限で、左義長行事そのものの禁止ではない。燃えさしが空に舞い上がり飛び火となって延焼すると大事になるから、“薪沢山ニ積重ネタキ申間敷事”とのお触れになったもので、左義長行事が火災の原因にならないようにとの配慮であり、また実際にあったのだと思われる。
特にこの慶安元年は、防火に関するお触れが系統的に出されている。まず年号が正保であった4月10日(新暦・48年6月)、将軍の日光社参に際し町人に対する最初の防火・警備に関するお触れがあり、次いで慶安となった6月27日(新・8月15日)には、初めて花火禁止令が出され、暮れの12月21日(新・49年2月)には町方に対する最初のまとまった警火(防火・消火)のお触れが出ており、左義長制限のお触れはこれらのお触れ類の一環と思われる。
なお、時を寛文2年に進めると、それまでに数回出ている“左義長制限令”が、かならず12月に出ていたのに対し、寛文2年以降何回も出ている“左義長禁止令”が必ず1月になって出ているところに興味がある。これは江戸っ子たちがその年の吉兆を占う大事な行事を禁止する指示に対して反発し、なかなか行事を中止しないだろうと考え、行事当日の小正月の日、15日近くに出して、“忘れました”などと言わせないためだったのかも知れない。
また寛文2年のこの日のお触れまでは、門松や松飾りなどは15日まで出しておくようにと触れているが、この日のお触れから7日の朝に取り片付けるようにと急に変わっている。これは関東、東北地方つまり“東国”の伝統的な風習の一つ、正月の火祭行事“サイノカミマツリ”を、15日まで飾らせておくことで中止させる目的があったのではないか、との説がある。
サイノカミは多くは“歳の神”と書き、前述のように、正月になると地上に降下し松飾りを依代(よりしろ:宿る所)とした歳神(年神)様を、焚き木を燃やして煙とともに天にお送りする行事だが、その松飾りを大正月の終わる7日に取り外し、こども達がそれを集めて回り、15日の小正月の当日、それを燃やし祭った。また祭られる神は年神様ではなく、外敵から村落を守る神として“塞(防ぐ)の神”としている地方もあるが、同じようにサイノカミと呼ばれ、祭りの名はサイノカミ焼き、サイト焼き、村の守り神である道祖神祭りとも呼ばれている。その祭り方から宮廷行事の三毬杖(サギチョウ)と容易に結びつく。一方、京都が近い西国では、15日の小正月まで松飾りを続け、当日それを焼く。目的は東国と同じである。これまた共通語である“どんど焼き”は火を盛大に燃やしている様(状況)からという。
実は江戸町奉行が問題にしたのは、この7日の大正月の終日に取り外される多量の松飾りの保管と運搬である。寛文5年のお触に“町中にてサイノ神仕、往行之妨ニ罷成候間”とあるのは、火災シーズンの7日から15日の間に火災が起きた場合、“サイノ神仕”のために延焼しやすい江戸中の松飾りを満載した荷車や貯蔵した倉庫が燃えると、避難路をふさぎ邪魔になる上、火災の起点になることを恐れたのではないかと思われる。左義長の当日の15日まで門松を飾らせ7日の収集を止めさせる目的はそこにあったのであろう。
一方、この日のお触れで、7日の朝、松飾りを取り外すように指示したのは、左義長を禁止する代わりに旧来の風習である7日取り外しを認めたのか、“禁止たあ縁起がわりいや”と、気短な江戸っ子気質を見越して、禁止されたので左義長まで松飾りを保管しておかず処分するだろうと見たのか、それらの両方かもしれない。禁止令から19年後の1681年2月(延宝9年1月)のお触れになると、江戸っ子たちが昔のように外した松飾りを残しておかずに適当に処分するので、処分する場合、松飾りなどを屋敷のうちや道路端で焼かずにゴミとして収集船に積むか薪にするよう指示している。
(出典:宮田満著「年中行事消滅の契機について」、近世史研究会編「江戸町触集成 第1巻>寛文二壬寅年127頁:三三四・覚・寅正月六日(松飾り撤去、左義長禁止令)」、同編「同集成 同巻>正保五戊子年(二月十五日慶安と改元)9頁:一九・子極月十九日(初の左義長制限令)」、同編「同集成 同巻>正保五年戊子 6~7頁:一〇・子卯月・四月十日御触(初の防火・警備令)」、同編「同集成 同巻>慶安元年戊子年
8 頁:一五・覚・子六月二十七日(花火禁止令)。参照:2013年7月の周年災害「江戸大川(隅田川)で花火大会はじまる」、2018年6月の周年災害「将軍日光社参に際し、町人たちに町の防火・警備について初のお触れ」、2018年8月の周年災害「江戸町奉行、防火対策で華美禁止にかこつけ花火禁止」、2019年2月の周年災害「江戸町奉行、火災シーズンを前に、町方に一連の「警火の町触」出す」、11月の周年災害・追補版(3)「江戸町奉行、近世世界初ゴミ投棄場所指定」、2019年1月の周年災害「江戸町奉行、三毬杖(さぎちょう左義長)行事に“薪を沢山積み重ねるな”と制限令」)
○幕府、堤防外河川敷への家屋建築を禁止、関東地方河川沿岸の村々に
1832年2月7日(天保3年正月6日)
河川敷への家屋などの建築は、現在では許可がいるが、江戸時代当時、農民たちは収穫を上げるために肥沃な土地を求めて大河の河川敷に農地を広げ、住家も建てたのであろう。当然、河川が氾濫(はんらん)すればひとたまりもなく流される。
幕府が禁止する4年前の1828年(文政11年)には、6月(新暦8月)の晦日(みそか)台風が梅雨前線に刺激されて九州東部から東海道、信州、出羽諸国に至るまで荒らし回り、8月(新・9月)には江戸時代最大級のシーボルト台風が北九州から西中国を襲っている。2年前の30年(同13年)は宇治川が氾濫し京都では土砂災害がひん発した。
幕府は、年々続く大水害からの防災処置として、この日、今まで洪水災害を多く残している関八州(関東地方)の大河川沿岸部で、堤防の外の河川敷に家屋を建築することを禁止した。
特に今回禁止された河川は、関東の利根川、江戸川、小貝川、荒川など、代表的な大河川で次のように触れ出された。“堤外百姓家建候儀、御停止之処、段々屋敷を築立、百姓居住之所々有之、出水之障に成候間、取崩され候儀も可有之候、自今新屋敷拵候儀は勿論、小家に□も作り候儀、并(ならびに)破損修復等も堅く仕間敷候”、つまり、堤防の外に住家を建てることを禁じていたのにもかかわらず、だんだんに住家が増え住むようになっているので、河川が氾濫した際は崩壊されている。だから今後、新築はもちろん破損した際の修復も行わないように。とし、関八州(関東地方)の河川沿岸の村々へ、中でも幕府御料地の場合は代官から、大名、旗本領の場合は領主あるいは地頭より申しつけるとした。
付属書類によると、最初に禁じたのは、八代将軍吉宗が進めていた享保の改革の時代、1727年(享保12年)とされている。 (出典:東京都編「東京市史稿>産業編 第5>506頁~507頁:堤外家屋申禁」)
○東京日本橋明治3年難波町の大火[改訂]
1871年2月11日(明治3年12月22日)
夜の午後9時ごろ、日本橋難波町19番地(現・富沢町)の米商上州家こと豊吉方から出火した。
折からの強い北西の風にあおられて、火元の難波町はたちまち焼け野原となり、勢いづく炎は住吉町、新和泉町、高砂町、堺町から新材木町を経て新乗物町、甚左衛門町へと延焼した。
被害は18か町、1180戸全焼、57戸半焼。焼失面積6万291平方m。出火原因は豊吉方のわら灰の不始末からと認められている。 (出典:東京の消防百年記念行事推進委員会編「東京の消防百年の歩み>明治初期>日本橋の大火 30頁:明治三年の大火」、東京都編「東京市史稿>No.2>変災編 第5>明治三年火災 988頁:九.十二月廿二日」)
○日本結核予防協会設立、理事長に北里柴三郎就任、国民病予防の中心的存在に[改訂]
1913年(大正2年)2月11日
この日、日本結核予防協会が設立され、発会式が行われた。理事長には北里柴三郎が就任し、当時、国民病といわれた結核の予防運動の中心的存在になる。
協会設立当時、結核は死因の2位を占め、4年前の1909年(明治42年)には、死亡者が11万3622人と10万人を超え、前年の12年(明治45年:大正元年)も11万4197人の死亡者を出すなど医療機関の努力はいまだ効果を上げていなかった。その状況から同協会の目的が、結核の研究及び調査、書籍雑誌の刊行、講演などを通して結核予防運動の成長を促す、としており時宜を得たものだった。
結核が“国民病”または“亡国病”とも言われるほどわが国で、特に15歳から30歳未満の若い世代にまん延した背景には、明治以降の富国強兵策により、若者たちが、学校を始め急激に増設された衛生環境劣悪な工場や軍隊などに大勢集められ、過酷な生活を送る中で集団感染という状況があったと言われている。
理事長に北里柴三郎が就任したのは、1893年(明治26年)にわが国最初の結核専門病院・土筆ヶ岡(つくしがおか)養生園(現・北里研究所病院)を設立して結核撲滅の第一線に立ち、1902年(明治35年)秋田で開かれた大日本私立衛生会(現・日本公衆衛生協会)の第20年次総会では“慢性伝染病に就いて”と題する講演を行い、“慢性の伝染病(感染症)の中でも我々の最も苦心をして戦わなければならぬ所の伝染病は肺結核”と指摘し“最も意を注いで今後これが予防撲滅の方法を講じなければならぬ所のものであります”と訴えるなど、自らが結核との戦いの先頭に立っていた所にあった。
北里はその後、1923年(大正12年)1月には、結核研究の進展と同対策を目的とした日本結核病学会も設立している。 (出典:日本全史編集委員会編「日本全史>大正時代>1913(大正2)1008頁:日本結核予防協会が発足、北里柴三郎を理事長に、国民病の克服めざす」、福田眞人著「北里柴三郎・結核研究への貢献・248頁~249頁」、北里研究所編「北里研究所の歴史>北里研究所の系譜」。参照:2010年12月の周年災害「北里柴三郎、破傷風の血清療法発見」、2012年12月の周年災害「大日本私立衛生会、北里柴三郎を所長に迎え初の伝染病研究所を設立」、2015年12月の周年災害「結核死亡率、この年から人口10万人あたり200人を超え、以降19年間も続く」)
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