【目 次】
・浅野長治、明暦大火時革羽織で無事登城-火事羽織として定着、義兄の奉書火消長直伝授か
・明治12年コレラ史上最大級の流行始まる死亡者10万5786人。ヘスペリア号事件起きる[改訂]
【本 文】
○浅野長治、明暦大火時革羽織で無事登城-火事羽織として定着、義兄の奉書火消長直伝授か
1657年3月3日(明暦3年1月19日)
現代の消防隊員の皆さんが火災現場に出場(出動:消防で現場に赴く意味)する際に着用する消防活動服(防火服)のように、江戸時代、武士や町火消の頭が火災の際、着用したものに“革羽織”があった。
その流行を作ったのは、備後三次(岡山県三次市)5万石の初代藩主・浅野長治である。
長治はこの日、前日から翌日にかけて江戸中を炎に包んだ明暦の大火で、江戸城本丸が被災したとの知らせを受けて登城した際、茶色の革羽織を直用していた。
その途中、彦根15万石の藩主井伊直孝の一行と出合ったが、周りは火の海、火の粉が飛び交い着物に燃え移る危険があり、井伊藩の一行は火の粉を追い払うのに精いっぱいで行列も乱れがちであった。ところが、小藩の浅野長治の一行は乱れもせず登城していく。
これが大火後、城内をはじめ江戸中の評判になったが、火の粉に強かったのは長治の着用していた革羽織にあることがわかり、その後火事の時は、江戸中の各藩の屋敷で藩主をはじめ足軽、仲間に至るまで革羽織を着用するようになった。また後に身分差を表すため、士分のものは黒色の革羽織を用いるようになるが、次第に派手な輸入品の厚手ラシャ地に鮮やかな模様をデザインしたものが藩主や上級武士の間で流行した。一方町人の間では町火消の頭が革羽織を着用し、後にこれが“火事羽織”と呼ばれる火事装束の一つとなる。
射止めたクマやイノシシの革を毛がついたまま簡単な袖なし半てんにしたものを、防寒具として猟師など農山村で16世紀の室町‐戦国時代から着用されている。長治が着用していた革羽織は、同じころ武将たちの間でなめしたシカ革などが丈夫で火に強い所を珍重、袖なしの陣羽織に仕立て戦陣で着用したものを、平時用に袖付きの羽織仕立てにしたのだろう。
この日の登城時、長治の行列で同じ革羽織を着用していたのは重臣の3名で、多くはこれも耐火と防水性のある渋柿で染めた木綿羽織を着用していたという。
浅野長治の正妻は、4歳上のいとこで専任奉書火消に1639年(寛永16年)任命された赤穂5万石の藩主・浅野長直の妹である。長治は長直から火災の際の衣服について教えて貰っていたのであろう。
ちなみに長治の娘が阿久里(瑶泉院)で、吉良上野介を江戸城殿中で刃傷に及んだ赤穂事件の内匠頭長矩(長直の孫)の正妻となっている。
(出典:東京消防庁編「消防雑学事典>火事装束の今昔」、山本純美著「江戸の火事と火消>火消の道具 130頁~133頁:火事装束-皮羽織の流行」。参照:2017年3月の周年災害〈上巻〉「1657明暦江戸大火“振袖火事”世界三大大火の一つ起きる」、2019年11月の周年災害「幕府、奉書火消を専任化し初めて組織的な消火体制に」)
○明治12年コレラ史上最大級の流行始まる死亡者10万5786人。ヘスペリア号事件起きる[改訂]
1879年(明治12年)3月14日
幕末から明治にかけてのコレラとの長い戦いは、欧米列強との船舶検疫をめぐる戦いでもあったが、この年はひとつの事件を起こしつつ、感染史上最悪の年として記憶される年の一つとなった。10万人以上が死亡したのである。
コレラについての初めての情報は、1822年4月(文政5年2月)、長崎出島のオランダ商館長が幕府へ表敬訪問のため、同商館の専属医師を伴い江戸滞在中、わが国の蘭法医(西洋医学を学んだ医師)たちと面談、当時オランダ領東インド(現・インドネシア)ジャワ島で流行している情報を伝えたのが初めとされている。またその年は情報だけではなく、早くも半年後の10月上旬(旧・8月中旬)には、実際にコレラ菌が中国大陸から朝鮮半島を経由して対馬に侵入、対馬から長門国赤間関(現・下関)に侵入している。
その後1858年7月(安政5年5月)、4年前の1854年3月(同元年3月)に、幕府を武力で威嚇し日米和親条約を締結させたペリー艦隊中の1隻ミシシッピが、その後、上海に派遣され同港に寄港した後、コレラに発症した水兵を乗せたまま長崎に入港、そこからコレラが関西を経由して江戸へ侵入、全国へと広まり数十万人が死亡したと伝えられている。
この大流行から明治時代に入り、コレラによる死亡者が年間10万人を越えたのは、安政5年から20年余経ったこの年が初めてで、その後10万人を越える大流行は1886年(明治19年)しかない。
わが国では2年前の1877年(同10年)、明治維新後、初めて年間1万人を越える流行を体験したが、事前に清国厦門(アモイ)での流行状況をキャッチした内務省(現・厚生労働省)が、日本でも流行することを予測してその年の8月に「虎列刺(コレラ)病予防法心得」を公布、安政5年の大流行の苦い経験から、船舶検疫の方法や権限を条文に定め、安政5年の欧米5か国(イギリス、アメリカ、オランダ、ロシア、フランス)と締結した修好通商条約で開港した神奈川(横浜)、兵庫(神戸)、長崎及び東京に初の感染症専門病院として避病院を設置するなど対策をたてていた。
ところがこの処置に在日各国公使代表のイギリス公使パークスが、厦門での流行はすでに収束しているから避病院の必要はない、と暗に検疫に反対したので、5か国の船舶への実施は不可能となった。
ところがやはり案じたとおり、翌9月上旬、検疫を逃れた横浜のアメリカ製茶会社の商品と長崎に停泊中のイギリス軍艦からコレラが侵入、その年は1万4000人の患者と8000人の死亡者を出してしまった。しかしこれらのことに民衆が敏感に反応しないわけがなく、その後、官民挙げての条約改正の活動となっていく。
検疫問題で揺れた2年後のこの日、愛媛県魚町(現・松山市)で突然コレラ患者が数か所で発生、見えないコレラ菌に対する長い闘いが始まる。
コレラ菌がどうして松山で突然発生したのか?その原因はわかっていない。数か所で同時に発生し、その数日後には患者に接触したことのない人も発病している。典型的な複数回に及ぶ同時多発的流行である。その点から当時、外部から来た人によってコレラ菌が持ち込まれたと考えられることは不可能だった。
コレラは、主に河川や海など水中に生息する生きた菌により汚染された水や魚介類、農産物などを飲食することによって感染する。そこで愛媛県では、患者の家の便槽から漏れた汚水が、下水から地下水、池などを汚染する例が多いので、さっそく防臭剤を各家の便槽に投入し消毒を試みたが、便槽の中の色が変わり臭気も発しなくなったので、住民たちは防臭剤を毒薬と思い消毒を拒否したという。そのため感染を押さえることができなかったと言われている。初期対応がとんだ理由でうまくいかなかったため、4月上旬から爆発的に感染は拡大していった。
そして4月中旬になり、愛媛県の流行地の住民たちが、大分県の別府および浜脇(現・別府市)の温泉場に湯治に出かけ発病、そこを起点として4月下旬に鹿児島県、5月上旬には海を渡って沖縄県へとコレラが九州一円に急速に広まった。5月中旬から下旬にかけて主に西日本一帯に拡大、6月に入ってからは東日本に波及、7月には東北地方へと広がり、8月下旬には流行はピークに達し、ようやく12月になり減少した。
ところがこの間、外国船検疫に関わる事件が発生した。ヘスペリア号事件である。
ドイツ船ヘスペリアが神奈川県横須賀の長浦検疫所に一時停留させられたのは7月11日のことであった。この処置は、5月中旬ごろから西日本一帯がコレラに犯され、阪神地区にも広がる勢いを見せていたので、政府は1月に原案を作成していた総合的な「伝染病(感染症)予防規則」から急きょコレラに関する部分を抜粋、6月27日「虎列刺(コレラ)病予防仮規則」を布告した。それにより首都圏の防疫を管轄している東京警視本署(現・警視庁)では7月2日、流行地方を経て横浜港へ入港する艦船はすべて長浦に停留させ、乗組員の健康を確認し、積載している物品を消毒した上、入港を許可するよう神奈川県に通達した。
また4日には、乗客のない貨物船等の場合でも、乗組員は10日間一切上陸を禁止する、という隔離政策を通達。14日には政府は太政官(現・内閣)布告第28号で「海港コレラ病伝染予防規則」を公布、諸外国公使にもその旨を通知した。そして7日後の21日これを改正した「検疫停船規則」を公布、来日する船舶に対する検疫を強化したのであった。
これらの処置に対し、アメリカ、清国(現・中国)、イタリアなど各国代表は異議のないことを回答したが、例によってイギリス、ドイツ、フランス公使らは“外国船に適用するという明文がない”など規則に不備があると指摘して反対。
中でもイギリス公使パークスが、1851年締結の安政日英修好通商条約第5条“貌利太尼亜(ブリタニア:イギリス)の法度に随(したがい)て罪すべし”を根拠に、在日中でも“検疫規則が英国の規則でなければ、英国人に守らせることはできない”と反対したので、各国公使に検疫に協力を依頼するという形でしか行えず、清国や韓国との間の便船しか検疫できなかったという。
またドイツ公使もプロシア当時の万延元年(1861年)に締結した、日普修好通商条約第5条“孛漏生(プロシア)人に対し訴訟或は異論ある時は孛漏生コンシェル(管理人:公使)に於て此の事件を裁断すべし(領事裁判権)”を根拠に、停船しているヘスペリアに対して日本側の検疫とは別にドイツ人の軍医を派遣、独自に船内の検査をさせて異常のないことを確かめると、翌12日、寺島外務卿(大臣)に対し“この上長浦に逗留することは無用であり速やかに横浜へ入港させたい。もし、この上、同船を停留させておく場合は、責任は日本政府にある”と公文を送った。
寺島は即日これを拒否したが、ドイツ公使は“ドイツ汽船をことごとく停船させる権利は日本政府にはない、もしその権利を主張するなら本国政府へ訴える”と強硬な態度を示し、翌13日には同船船長の不服申立書とドイツ軍医による検査報告書の写しを添えて、同船の解放を要求、さらに14日には“ドイツ官僚の承諾なくして検疫のため停留させられた”と修好条約違反であることを主張、“直ちに横浜へ向け出港するよう訓令する”と回答し、当のヘスペリアを翌15日には横浜へ入港させた。
ヘスペリアがコレラ菌を横浜へ持ち込み、感染が拡大したという証拠はないが、当時東日本から東北地方へと感染が広がっており、この事件により国内で官民を挙げて不平等条約改正の世論が沸き立ったのは当然であろう。
ひるがえって新型コロナの感染が拡大していた2020年、治外法権的な「日米地位協定」でさえも、その第3条で“公共の安全又は環境に影響を及ぼす可能性がある事件・事故が発生した場合(中略)発生情報を得た後できる限り速やかに外務省(略)に通報する”とした、アメリカ軍の義務について協定を結んでいるにも関わらず、アメリカ軍基地での新型コロナ感染症の広がりに関する通報の不十分さについて、基地内の日本人労働者への感染防止を始め、基地外である日本国内への感染拡大防止についても、何一つ申し入れをしなかった安倍政権は、当時の明治政府が国民の安全と利益を守るために、民衆とともに不平等条約の改正を目指した、独立国としての毅然とした態度を学んだらどうだろうか。
ともあれ、この年の全国の患者数16万2637人、10万5786人が死亡。その死亡率は65%に達し、1886年(明治19年)の大流行に次ぐ大惨事となった。これに対し時の政府は、2年前の1877年(同10年)に設置した、前述のコレラ患者を専門に隔離する避病院(コレラ専門病院)を充実させ、後にはコレラだけでなく他の感染症にも対応した専門病院として防疫と専門的な治療体制を強化して行く。
(出典:山本俊一著「日本コレラ史>Ⅰ 発生および対策編>第3章 西南戦役後>第3節 明治12年 46頁~47頁:(a)概況」、同著「同>Ⅲ 検疫編>第2章 明治初期>第2節 経過 544頁~551頁:(a)明治10年、(b)明治12年」、同著「同編>第3章 検疫関係諸規則>第1節 海港コレラ病伝染予防規則 553頁~559頁:(b)条文、第2節 検疫停船規則 564 頁~565頁:(a)成立過程」、国立国会図書館デジタルコレクション「法令全書.明治10年>明治10年8月 内務省達 421頁~430頁(257コマ~):虎列刺病予防法心得(別冊及び付録消毒薬及其方法)」、同コレクション「法令全書.明治12年>明治12年6月太政官布告 49頁~52頁(54コマ~):第23号 虎列刺病予防仮規則」、同コレクション「法令全書.明治12年>明治12年7月太政官布告 58頁~63頁(59コマ~):第28号 海港虎列刺病伝染予防規則」、同コレクション「法令全書.明治12年>太政官布告 63頁~69頁(61コマ~):検疫停船規則」、同コレクション「締盟各国条約彙纂.第1編 418頁~430頁(225コマ):日本国大不列顛国(グレートブリテン)修好条約」、同コレクション「同書 367頁~379頁(199コマ):日本国普魯士国(プロシア)修好条約」、神奈川県立公文書館編「デジタル神奈川県史 通史編4>第2編 明治前期>第4章 明治前期の渉外と文化>第2節 県行政と渉外問題>2 入港外国船にかかわる著名事件 619 頁~620頁:ヘスペリア号事件」、厚生労働省横浜検疫所編「横浜検疫所検疫史アーカイブ>横浜検疫所の変遷>明治12年の虎列刺大流行と厳重な検疫の開始」、外務省編「日米地位協定 第3条合意事項>在日米軍に係る事件・事故発生時における通報手続き」。参照:2012年10月の周年災害「文政5年、コレラ初めて日本へ侵入、西日本に広まる」。2018年7月の周年災害「安政5年開国の年、コレラ長崎に上陸ついに江戸へと拡がり史上最大の流行へ」[改訂]、2017年8月の周年災害「内務省、虎列刺(コレラ)病予防法心得公布」、2017年9月の周年災害「明治期初めてのコレラ3系統で大流行、帰還軍隊の移動で各地方へ伝播」、2017年10月の周年災害「内務省警視本署、コレラ大流行に対応し、初の感染症専門病院“避病院”設置」[改訂]、019年6月の周年災害「内務省、急きょ初の感染症予防法規:虎列刺(コレラ)病予防仮規則を布告」[改訂]、2019年2月の周年災害「海港検疫法公布、感染症の侵入を水際で防ぐ。22年前、最初の検疫法規実施にイギリス公使反対しコレラの侵入許す」、2016年5月の周年災害「明治19年コレラ最大級の流行、死亡者10万人を越し死亡率70%」
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(2023年4月・更新)