【目 次】

・久安から仁平へ改元。前年京都を襲った暴風雨被害により年号変える(870年前)[改訂]

・長禄から寛正へ改元。天皇、大飢饉に対する幕府の無策を非難したが無視され改元策をとる(560年前)[改訂]

・伊勢山田(伊勢市)延徳の大火。福島邸へ避難の人々多数死亡(530年前)[再録]

・秀吉、京都に御土居を築き、都を長年の水害から防ぐ(430年前)[再録]

・江戸神田万治四年元鷹匠町(小川町)の大火。この日二度目の出火が大火を招く(360年前)[再録]

・京都寛文11年の大火。京都所司代、失火者の六条有綱を蟄居処分(350年前)[再録]

・名古屋元文6年の大火。一里二十八町の間を焼く(280年前)[再録]

・東京日本橋明治3年難波町の大火。対岸の本所でも火災が起き火消衆の疲労その極に達す(150年前)[改訂]

・東京神田柳町の大火。わずか40日余りの間に3度目の大火起こる(140年前)[再録]

・東京四谷箪笥町の大火。区役所も類焼(140年前)[再録]

・東京府が初の防火地域指定「防火線路及屋上制限令」公布-都市計画なき防火対策の失敗(140年前)[改訂]

・昭和26年伊豆諸島海域で漁船連続遭難、東京を始め太平洋沿岸部も猛吹雪に見舞われる(70年前)[改訂]

・日本ブラッドバンク営業開始。枕元輸血問題を解消したが売血制度による黄色い血問題起こす(70年前)[追補]

・積雪期の地震「昭和36年長岡地震」積雪が被害を増やした(60年前)[再録]

・東京消防庁が消防用ロボットの運用開始、170m先の危険地帯へ放水(泡)(50年前)[改訂]

・美浜原子力発電所2号機事故。単純ミスが引き起こした初の非常用炉心冷却装置作動(30年前)[追補]

・えひめ丸事件。突然浮上してきたアメリカ原子力潜水艦に衝突され沈没、
 原潜艦長、同乗の見学者に急激潜水・浮上の性能を誇示、衝突後も事故を隠蔽するが減給処分で幕引き
 (20年前)[改訂]

・ニュージーランド・カンタベリー地震。日本人留学生28人死亡、史上最大規模の液状化現象(10年前)[追補]

【本 文】

○久安から仁平へ改元。前年京都を襲った暴風雨被害により年号変える(870年前)
 1151年2月21日(久安7年1月26日)
 暴風や洪水により改元、とある。
 同時代の左大臣・藤原頼長の日記「台記」や藤原信西が編纂した歴史書「本朝世紀」に、この改元の背景となった災害の記述が見えるが、「台記」は当時の日記だけに記録に漏れがない。
 「台記」によると、改元前年の1150年9月2日(久安6年8月3日)の夜から降り始め、翌3日(旧暦・4日)は“人以て異と為す(異常だ)”というほどの“終日大風雨”だったという。また「本朝世紀」はこれだけでなく“大内裏中仁壽殿顚倒”と、皇居内の天皇の御座所・清涼殿の東隣の建物が転倒するという大事故を記録している。
 その後、20日(旧・19日)“終日甚雨”、翌21日(旧・20日)“終日大風雨”と日を追って激しくなり、ついに27日(旧・28日)には“一昨日(旧・26日)より降雨、今に晴れず”“洪水河を溢れ車馬通はず”と、連日の大雨が鴨川に押し寄せ氾らんして車馬の通行が出来なくなったという。
 (出典:京都歴史災害研究会編「京都歴史災害年表 25頁:1150年9月3日、27日」、国立国会図書館デジタルコレクション・国史大系 第8巻「本朝世紀>近衛天皇>久安六年 下791頁(401コマ):八月四日」[追加]、 原水民樹著「『台記』注釈 久安六年>八月乙酉>四日、十九日、廿日、廿八日」[追加])

○長禄から寛正へ改元。天皇、大飢饉に対する幕府の無策を非難したが無視され改元策をとる(560年前)[改訂]
 1461年2月10日(長禄4年12月21日)
 
改元の原因は“寛正の大飢饉”である。
 数年来の異常気象により前年から全国的な飢饉が発生、この頃には近畿諸国にも拡大して京都に多くの流民が流れ込み、改元直後の2か月には京都だけでも8万2000人の餓死者により鴨川は死体で埋め尽くされ、首都は地獄絵と化す。
 この事態に対し幕府は、将軍義政は自らの室町第(むろまちてい:花の御所)の造園に夢中で対策も指示せず、管領・細川勝元は対策を打ち出すどころか、前管領の畠山家の家督争いに介入するなど、大飢饉になっているのにもかかわらず無策だった。これに対し、時の後花園天皇は政治に励むよう詩に託して義政に送ったが無視され、改元することで厄払いを図る。
 (出典:日本全史編集員会編「日本全史>室町時代>1460-64(寛正1-5)352頁:寛正の大飢饉で餓死8万人、後花園天皇、幕府の無策を非難」、小倉一徳編、力武常次+武田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歴史>1.上代・中世の災害 64頁~65頁:京都ほか近畿諸国等(寛正の大飢饉)」[追加]。参照:2011年3月の周年災害「寛正の大飢饉、幕府無策」[追加])

○伊勢山田(伊勢市)延徳の大火。福島邸へ避難の人々多数死亡(530年前)[再録]
 1491年2月3日(延徳2年12月16日)
 子の刻(0時ごろ)八日市場町字為田世古(せこ:狭処→小路)より出火し、同町の表通りから一志久保、宮後に延焼、田中中世古(現・本町)まで1000余戸を焼失した。
 この火事で八日市場の福島邸で大勢の人が死亡したという。福島とは当時、山田奉行の下で山田の統治に当たっていた三方家の一つ御師(おんし)でもあった福島御塩焼(みさき)大夫のことで、その広大な屋敷に避難者が押し寄せたが類焼したものと思われる。
 (出典:宇治山田市役所編「宇治山田市史 下巻>第2章 変異>第1節 火災 1547頁」、荒木駿著「記録が語る 伊勢市の災害>伊勢市火災年表 113頁:1490(延徳2.12.16)」[追加])

○秀吉、京都に御土居を築き、都を長年の水害から防ぐ(430年前)[再録]
 1591年2月~(天正19年1月、閏1月頃~)
 豊臣秀吉の数ある土木・建築事業の中で、その目的が謎とされていたのがこの“御土居”である。
 御土居とは、当時の京都市街地全体を囲んだ土塁のことで、土塁の外側に堀をめぐらせた南北約8.5km、東西約3.5kmの縦長の形をしており、全長22.5kmという長大な建造物だ。
 御土居には10個所の出入り口がつけられ、現在でもその個所が鞍馬口、丹波口という地名で残っており、御土居の中を洛中、その外は洛外と呼ばれた。
 その御土居の目的だが、戦国時代の京都の上京と下京にあった防壁“惣構(そうがまえ)”を京都全体に拡張したのではないかと考えられていたが、その構造から、防壁としては不自然な点があることが指摘されていた。
 築造された位置を見ると、東側は鴨川に西側は天神川に沿っており、特に北部は市街地を遠く離れて支流の賀茂川に沿い西の鷹ヶ峰山麓と結んでいる。この配置は室町時代の水害状況に対応しており、東寺を南限とする南部は、鴨川と桂川の合流点からの氾らんに対する備えといえるという。
 つまり秀吉は京都を水害から護るための堤防として御土居を築造したという訳である。確かに出町以北の鴨川右岸が二重堤防になっており、築造以降、五条以北の洛中への浸水は食い止められ、京都繁栄の基礎になったという。
 (出典:門脇禎二・朝尾直弘共編「京の鴨川と橋>Ⅲ 近世>公儀橋から町衆の橋まで>お土居と並ぶ堤防工事、人間の力示す」、京都市情報館編「史跡 御土居」[追加])

○江戸神田万治四年元鷹匠町(小川町)の大火。この日二度目の出火が大火を招く(360年前)[再録]
 1661年2月19日(万治4年1月20日)
 寅の刻(午前4時ごろ)、小石川丸山下にある岩槻城主・阿部伊代守正春の下屋敷で火事があり、近隣の中間町と弓町を焼いてようやく炎が収まり一息ついた巳の刻(午前10時ごろ)、今度は神田の元鷹師町(元鷹匠町、のちに小川町:現・神田小川町、神田神保町、神田錦町、神田淡路町、神田猿楽町、神田三崎町、西神田、一ツ橋二丁目)の書院番・日下部権太夫定久宅より出火した。
 折から北西の風強く、二度目の出火は大火を招くことになる。
 この風の勢いで燃え上がった炎は城内曲輪内に入り、大手下馬、大腰掛、畳蔵、伝奏屋敷、評定所を灰とした。勢いに乗った炎は龍ノ口通りから大名小路(屋敷街)へと侵入、松平備前守隆綱、板倉内膳正重矩、蜂須賀飛騨守至照、安藤伊賀守重元など大、小名の屋敷110余家を廃虚とし、鍛冶橋門を灰とした後、町家へ延焼した。
 勢いに乗った炎は南は京橋四丁目まで、西は中橋を限り、鉄砲州へと焼き抜けた。焼けた町々は、上槙町をはじめ南槙町、材木町、南伝馬町、畳町、南鍛冶町、桶町、南、北、西紺屋町、銀座、木挽町など41町、家数にして787軒を焼失させ、申下刻(午後5時ごろ)ようやく鎮火した。
 (出典:東京大学史料編纂所・所蔵史料目録データベース「東京都編・東京市史稿>No.2>変災編 第4>寛文元年火災・258頁~266頁:一、正月廿日大火」、池田正一郎編著「日本災変通志>近世 江戸時代前期>寛文元年 370頁:(正月)二十日 江戸大火」、人文学オープンデータ共同利用センター編「駿河台小川町絵図>6-030雉子橋通小川町」[追加])

○京都寛文11年の大火。京都所司代、失火者の六条有綱を蟄居処分(350年前)[再録]
 1671年2月24日(寛文11年1月15日)
 京都で火元が公卿の屋敷で、それも正月の行事からという珍しい大火が起きた。
 大火の原因となったのは、三毬打(杖)とも左義長とも呼ばれる、正月15日に行われる行事。現在でも1年間の無病息災を祈り、正月の松飾りやしめ縄などを焼く“どんど焼き”として受け継がれている行事だ。
 当時の風習では、青竹を束ねて立てて、それに毬打(毬杖:ぎちょう)と呼ばれる、ゲートボールのスティックと同じような毬(まり)を打つ杖を3本結びつけ、これに扇子、短冊、おめでたい内容の書などを添えて、陰陽師などがうたいながら焼いた。
 火元となったのは右中将六条有綱の二階町の屋敷。この日は晴れていたが強い風が吹いていた。
 午の刻(午前12時ごろ)三毬打(さぎちょう)行事の炎は四方八方に飛び、近くの三条前左大臣実秀、宰相今城定淳など公卿屋敷から遣迎院、廬山寺、七観音院などの諸寺仏閣を焼き、寺町通から梨本町、京極通、河原町にかけての町家、商店などに延焼、数十町が灰になるという大火となった。申の上刻(午後4時ごろ)鎮火。
 この大火により、夜分に行われる予定の宮中での三毬打の行事は延期となり、来年から公卿など諸家の屋敷で行われる三毬打は禁止され、火元の六条有綱は蟄居処分(自宅謹慎)となっている。
 ちなみに江戸では三毬打(左毬杖、左義長)からの類焼を危険視し、22年前の1649年1月31日(慶安元年12月19日)に制限令を出している。
 (出典:国立国会図書館デジタルコレクション「続国史大系 第三巻>続史愚抄>巻第六十一 霊元院中之上巻>寛文十一年正月:144頁(95コマ)十五日戊辰」、参照:2019年1月の周年災害「江戸町奉行、左毬杖(さぎちょう:左義長)行事に“薪を沢山積み重ねるな”と制限令」[追加])

○名古屋元文6年の大火。一里二十八町の間を焼く(280年前)[再録]
 1741年2月17日(元文6年1月2日)
 江戸時代、名古屋の歷史をまとめた「金府紀較抄」に名古屋城下1里28町(64町)の間を灰とした大火の記録がある。
 短いから全文を紹介すると“正月二日、子の刻(夜中の0時ごろ)過、日置橋の東一町(約100m)計(ばかり)より出火し、東は橘町より飴屋町に至り、長栄寺の門を掠(かす)め、北は手代町、南は東懸所際、西は堀川筋、古渡橋際まで、凡(およそ)一里二十八町の間を焼失し、黎明に至りて鎮火す”とある。
 地名から察すると城下の南部一帯を灰とした大火のようだ。1里28町というと64町で約7kmの範囲となる。名古屋城から南の熱田神宮までの距離である。その間が夜中の0時過ぎから午前4時~5時位の明け方に焼けたわけだ。その間が全焼したわけではなく飛び火で焼けた個所が点在したのだろうが、かなりの範囲が火災現場となった大火である。
 (出典:名古屋市史 第3巻>第2期 名古屋開府より廃藩置県>第3章 藩治>第6節 救恤(災異年表) 208頁:寛保元年」、名古屋市消防局編「名古屋の火災記録集成>名古屋の火災概説>名古屋の火災-明治前の火災-19頁:寛保元年」[追加])

東京日本橋明治3年難波町の大火、対岸の本所でも火災が起き火消衆の疲労その極に達す(150年前)[改訂]
 1871年2月11日(明治3年12月22日)
 夜の午後9時ごろ、日本橋難波町19番地(現・日本橋人形町二丁目)の米商上州家こと豊吉方から出火した。
 折からの強い北西の風にあおられて、火元の難波町はたちまち焼け野原となり、勢いづく炎は住吉町、新和泉町、高砂町、堺町から新材木町を経て新乗物町、甚左衛門町へと延焼した。
 被害は18か町、1180戸全焼、57戸半焼。焼失面積6万291平方m。出火原因は豊吉方のわら灰の不始末からと認められている。
 実はこの火災がようやく収まりかけた翌12日(旧暦・23日)午前2時ごろ、日本橋と隅田川一つ隔てた本所区中之郷竹町ニ番地(現・墨田区吾妻橋一丁目)の汁粉屋の台所からも出火し、同町をはじめすぐ東の原庭町、表町、番場町などに延焼、町家51戸、寺院3か所が全焼するという火災が起きた。町火消が出動し奮闘したが装備が古いうえ、一夜に打ち続いた火災で指揮統制が混乱、火消衆の疲労はその極に達したと伝えられている。
 (出典:東京の消防百年記念行事推進委員会編「東京の消防百年の歩み>明治初期>日本橋の大火 30頁:明治三年の大火」、東京大学史料編纂所・所蔵史料目録データベース「東京都編・東京市史稿>No.2>変災編 第5>明治三年火災 988頁~989頁:九.十二月廿二日火災」[追加]、人文学オープンデータ共同利用センター編「3-243日本橋北神田浜町絵図>難波町」、同センター編「16-043本所絵図>中ノ郷竹町」[追加])

○東京神田柳町の大火。わずか40日余りの間に3度目の大火起こる(140年前)[再録]
 1881年(明治14年)2月11日~12日
 東京神田では前年12月30日、鍛冶町が火元の2188戸を焼失させた大火、年が明けた1月26日の松枝町(現・岩本町二丁目)が火元の1万637戸(東京市史稿より)を焼失させた大火と続き、2月に入り神田周辺の繁栄にとどめを刺す様な大火が柳町(現・神田須田町二丁目)で起きた。
 この日も早朝から北西の烈風が吹き荒れ、神田っ子は半月前の再現を注意しあっていたが、午後6時ごろ、柳町1番地の女髪結師(現在の美容師)の家から出火、たちまちの隣接する平永町の通りを越え、東松下町、東紺屋町から復旧しつつあった松枝町なども焼き、区境を超えて日本橋一帯を焼き払い鎮火したのは翌午前0時10分という。
 この大火で神田・日本橋一帯の48か町8万8328坪(29万1482平方m)7751戸が全焼、40日余りの内に起きた3件の大火で2万576戸が全焼し、24万1125坪(79万7100平方m)が焼損、神田・日本橋の繁栄は再び来ないだろうと思われていたが……。
 (出典:東京の消防百年記念行事推進員会編「東京の消防百年の歩み>明治中期>神田の大火46頁~47頁:明治十四年二月の大火」、東京都編「東京市史稿・変災篇 第5>明治十四年火災 1103~1108頁:五、二月十一日大火」[追加]。参照:2020年12月の周年災害「明治13年東京神田鍛冶町大火」、2021年1月の周年災害「明治14年東京神田松枝町の大火。地震、空襲を除く東京で最後の1万戸以上全焼の大火災」)

○東京四谷箪笥町の大火。区役所も類焼(140年前)
 1881年(明治14年)2月21日

 午後8時ごろ四谷箪笥町22番地(現・四谷三栄町)材木商の納屋から出火、四谷伝馬町一、ニ丁目へと延焼し、同新一丁目、南伊賀町、尾張町、塩町一丁目、七軒町、麹町一丁目、同十一丁目、十二丁目、十三丁目へと都合11か町2万370坪(6万7340平方m余)1499戸を焼失し午後11時40分鎮火、わずか4時間弱で四谷区役所を含む中心部が灰となった。
 (出典:東京市編「東京市史稿・変災編第5>明治十四年火災 1109頁~1112頁:八、二月廿一日大火」)

○東京府が初の防火地域指定「防火線路及屋上制限令」公布-都市計画なき防火対策の失敗(140年前)[改訂]
 1881年(明治14年)2月25日
 1872年4月(明治5年2月)に銀座から築地一帯を焦土と化した大火を体験した東京府は、直ちに不燃建築物による近代都市建設を計画し銀座街のレンガ化に着手したが、それ以外の地域は江戸時代とおなじ木造家屋の密集した市街で、それが近郊の農村地帯へ無秩序に拡大していた。
 その後、大火の直後に表通りは土蔵造り、塗家、レンガ造り及びかわら葺きにするよう東京府令を出したが、広い地域の計画的な防火対策は進められていなかった。
 1879年(明治12年)12月に発生した日本橋の大火で1万637戸、42万平方mが焼失したことから、広く防火地域を指定する防火線建設案が府議会に提案されたが、その時は否決された。
 しかし、翌1880年(明治13年)12月から1881年(同14年)2月にかけて都心の神田・日本橋地区が大火で壊滅したことで、この日、新しい不燃化都市計画が公布されることになる。
 初の防火地域指定となる東京府達「防火線路及屋上制限令」は、日本橋、京橋、神田3区内から22の路線(道路)と河岸地などを選んで“防火線路”とし、この防火線路に沿って建築する建物はすべてレンガ造り、土蔵造り、石造りのいずれかによるものとして路地幅も含め細かく不燃化を指示した。
 また、日本橋、京橋(石川島、佃島を除く)、神田(神田川以北を除く)及び麹町の4区に新築する建物の屋根は、かわら、石、金属などの不燃材で葺かなければならないとして強硬に防火対策を進めた。
 その結果、土蔵造りがレンガや石造りに比べて建築費も安くあがり、昔から作りなれた建築工法だったので、“防火線路”や大通りにそった建物の多くが土蔵造りになって行った。しかし1888年(明治21年)3月「東京市区改正条例」が公布され、市街地改造計画が実施されて道路の拡張が進むと、せっかく新しく建てられた防火建築も取り壊されることとなり、肝心な“防火線路”“屋上制限”などもやがて自然消滅の道をたどることになる。“都市計画”なき防火対策の失敗であった。
 (出典:東京の消防百年記念行事推進員会編「東京の消防百年の歩み>明治初期13頁~15頁:防火線路の設置と屋上制限」)

○昭和26年伊豆諸島海域で漁船連続遭難、東京を始め太平洋沿岸部も猛吹雪に見舞われる(70年前)[改訂]
 1951年(昭和26年)2月14日~15日
 発達しながら九州南部から東進してきた冬型低気圧の影響で、2月14日から15日にかけて、太平洋沿岸の大分県、徳島県、三重県、関東地方南部は大雪となり、特に東京では平均風速25mの猛吹雪で積雪33cmと観測史上第4位の記録を残した。それにより日本の動脈、東海道線をはじめ各交通機関は混乱途絶、40路線に被害を受けた。また関東地方だけでも7人死亡、4人行方不明、住宅全壊29棟、同半壊354棟の被害となり、静岡県では300坪(約1000平方m)の中学校校舎が倒潰している。
 一方、海上でも伊豆諸島海域から東京湾にかけて、14日夜から15日朝は雪まじりの北東の強風が吹き波浪も高く、124隻の漁船などが三宅島付近で相次ぎ遭難し43隻が沈没、9隻が行方不明、46隻が流失、9隻が座礁し15隻が損壊した。
 その主な遭難船は、14日夜に州崎沖で消息を絶ち沈没した栗林汽船の貨物船神坤丸31人死亡、15日に御蔵島付近で消息を絶った静岡県江ノ浦港漁船稲荷丸15人死亡など。18日になってようやく行方不明が明らかになった漁船で神奈川県三崎港海神丸18人、三重県安乗崎港東生丸16人、静岡県沼津港恵美寿丸14人などがある。
 中でも静岡県焼津港(当時・東益津村)の第五若佐丸は、三宅島の西南西にある無人島・大野原島に座礁し20人が死亡、5人が負傷したが、横浜地方海難審判庁において、死亡した船長の“風潮に対する不注意が遭難の原因”とされ業務上過失との裁決を受けている。
 (出典:中央気象台編「気象要覧 昭和26年2月>天気状態 4頁:1.概況、2.低気圧 10頁~13頁:顕著低気圧9」、朝日新聞「昭和26年2月15日付、2月17日付」、情報の宅急便編「東京都心の積雪ベスト10」)

〇日本ブラッドバンク営業開始。枕元輸血問題を解消したが売血制度による黄色い血問題起こす(70年前)[追補]
 1951年(昭和26年)2月26日

 わが国における近代的な輸血は、1919年(大正8年)後藤、塩田両医師によって始めて行われた。
 1930年(昭和5年)11月、時の浜口首相が東京駅で右翼の男に狙撃され重傷を負った際、塩田医師が駆け付けて緊急輸血を行い一命を救う。このことが新聞紙上で取り上げられ、一般に知られることになり輸血が普及したという。 しかし当時の輸血方法は、患者の枕元に血液供給者を並べて寝かせ注射器で血液を採取、感染症検査などを行わずそのまま輸血するという“まくらもと輸血(院内輸血)”で、1948年(昭和23年)ごろまでは一流病院でも何事もなく行われていた。
 ところがその1948年(昭和23年)2月、東京大学付属病院で診察を受けた女性が子宮筋腫と診断され入院、5日後の7日から27日まで都合4回にわたり輸血を受け、梅毒に感染するという事件が起きる。実は27日の血液供給者が売血で生活費を稼いでおり、14日ごろ上野駅付近で売春婦(いわゆる、夜の女)に接し、梅毒に感染したがそれを自覚していなかったのが原因であった。終戦(1945年:昭和20年8月15日)直後の庶民の苦しい生活を反映した犯意なき加害事件であった。
 一方、輸血された女性は輸血後の後遺症に悩み、離婚されるまでに至ったので、その後“輸血の際、感染確認をすべきである”として東大病院(国)を告訴する。供血者は12日付の梅毒陰性証明書を持参していたが、裁判では、病院側で血液採取の際、たとえ陰性証明を持参していても、梅毒感染の可能性について問診すべきとして、その内容の限界が争われ、最終審の最高裁に持ち込まれることになる。
 1961年(昭和36年)2月、最高裁は“医療訴訟の原点”と法曹界で呼ばれている次の判決を下す。
 “人の生命および健康を管理すべき業務(医業)に従事する者は(中略)最善の注意義務が要求される、それゆえ、梅毒感染の危険の有無についても問うべきだ”とし、上告を棄却、国(東大病院)が敗訴した。
 この裁判により“まくらもと輸血”の不安定性が明らかになり、当時日本を占領していた連合国総司令部(GHQ)は欧米のように、健康な人から血液を採取し保存管理して病院など医療機関に供給販売する“血液銀行”設立について政府に指示した。
 それにより1950年(昭和25年)11月、日本初の血液銀行として民間の日本ブラッドバンク(後にミドリ十字)が設立され、供給希望者から血液の購入を始める。そしてこの日1951年(同26年)2月より販売を開始。また翌1952年(昭和27年)4月には、日本赤十字社東京血液銀行業務所が設立され、献血者からの血液を保管供給する業務を開始する。これらにより血液の安定供給は確実に増したが、民間の買(売)血制度は、血液の供給体制上の問題点を一層浮かび上がらせることになった。
 戦後の医療体制の復興、整備や医学の進歩にともない、手術により病気からの回復を図る件数が増え、血液の需要も増していった。それに対応して厚生省(現・厚生労働省)の認可した血液銀行、つまり血液の売買業者は都内だけでも70団体に達していたという。この盛況ぶりは、1953年(昭和28年)当時の国民の貧しさと比例している。
 朝鮮戦争(1950年6月~1953年7月)当時、日本は占領アメリカ軍の軍需工場となり、いわゆる朝鮮特需(特別需要)で潤ったが、朝鮮半島での戦いが休戦を迎えると、特需景気によるインフレーションが続いているさなか、炭鉱(ヤマ)をはじめとして軍需産業やその周辺で、中途採用者などの未熟練者、高齢者を中心に労働者の大量解雇が始まり、再開された中国大陸からの引揚者の多くの人々とともに、収入の道を閉ざされた失業者が巷にあふれて行く。
 血液を売ればそれだけで収入が得られるという手軽さは、未熟練労働者や身寄りのない引揚者、貧しい学生たちにとって格好な生活費をかせぐ道となり売血者は激増し売買業者も増え、それらが医療機関における血液の需要増に奇妙に対応、売血時代となった。
 日本赤十字社の記録によると、1952年(昭和27年)949名(延べ数)だった献血協力者が、翌1953年(昭和28年)には1614名と増加したものの、5年後の1958年(昭和33年)になると254名と16%に減少している。また採血された血液は輸血用に保存血液として薬剤を投与し加工され冷蔵貯蔵となるが、1964年(昭和39年)当時になると、58万4869リットル加工保存された保存血液のうち、売血によるものが97.5%で献血によるものはわずか1.9%となっていた(佐久)。
 一方、1955年(昭和30年)前後から国内で最初の輸血用血液製剤の製造販売が始まり、医療機関で外科手術以外にも治療に使われるなど、血液の需要が高まる中で、特定の供血可能な人たちとして、いわゆるドヤ街で生活する労働者たちが狙われ、仕事に就けなかった時には、中古のバスで血液売買業者の採血所に連れていかれるというような実態も明らかになり、そこに反社会的な集団がかかわっていることも明らかになった。
 そのような人たちの中には、売血が習慣となり1か月に70回以上も売血した人がいたという。
 その血液は赤血球が回復しないうちに売血してしまうため黄色い血しょうばかり目立つものとなり“黄色い血液”と呼ばれ、それを輸血された患者は効果が少ないばかりではなく、輸血後血清肝炎などの副作用を招き大きな社会問題となった。
 1964年(昭和39年)3月、アメリカ駐日ライシャワー大使が暴漢に刺傷されるという事件が起き、その治療のための輸血から血清肝炎を併発するという事態となった。ここでようやく、同年6月の参議院社会労働委員会で輸血政策に関する政府の無策が追及され、自民党池田内閣は同盟国大使の輸血による血清肝炎感染という事件に対する国際的な批判と世論に押されて、同年8月「献血の推進について」とする閣議決定を行い、赤十字血液センターによる献血を輸血に使用する方針が固め、1968年(昭和43年)には民間血液銀行による血液の売買は姿を消すことになる。
 (出典:厚生労働省編「血液事業の歩み」、北口雅章法律事務所編「東大病院・梅毒輸血事件判決を読む」、雑学ネタ帳「血液銀行開業記念日」、日本赤十字社大阪府赤十字血液センター編「血液事業の歴史」、日本全史編集委員会編「日本全史>昭和時代>1953(昭和28)1105頁:ヤマに解雇の嵐、三井鉱山労働者が“英雄なき113日の闘い”」、同書「同1105頁:興安丸、舞鶴へ入港、中国からの引き揚げ再開される」、佐久友朗著「売血 若き12人の医学生たちはなぜ闘ったのか>第1章 ライシャワー事件は起こるべくして起こった>黄色い血の恐怖」、日本血液製剤協会編「血液製剤について・血漿分画製剤の歴史」、元木昌彦著「【昭和のキーパーソン】売血から献血へと時代を変えたノンフィクション作家、故・本田靖春」、昭和39年7月中日映画社ニュースNo.547「黄色い血の恐怖」、昭和39年6月2日参議院社会労働委員会「輸血問題に関する件」、昭和39年8月21日閣議決定「献血の推進について」。参照:2019年2月の周年災害「後藤七郎と塩田廣重、先人のさまざまな試みと失敗を糧に、日本で最初の近代的輸血に成功」、2014年8月の周年災害「政府、献血推進を閣議決定、アメリカ大使肝炎感染事件と無能な血液政策を批判する世論に押される」)

○積雪期の地震「昭和36年長岡地震」積雪が被害を増やした(60年前)
 1961年(昭和36年)2月2日
 2011年も北海道から九州にかけて日本海側は豪雪に悩まされていたが、積雪期に地震が起き、ほかの季節の時の地震災害とは異なった現象が現れた事例がある。
 新潟県長岡市ではその時約2mほどの雪の下に埋もれていたが、午前3時39分マグニチュード5.2の地震に見舞われた。しかし大きな被害が出た範囲は3平方km前後という狭い範囲の局地的な地震だった。
 当時の長岡市の震度は4程度だったが、5人死亡、30人負傷、住家全壊220戸(震央付近の全壊率50%)、同半壊465戸、一部損壊804戸の被害が出ている。
 震度が低いわりに被害が多かったのは、積雪が原因し初動体制の遅れがあったのではないかとの指摘がある。特に家屋の1階が厚い雪の壁に支えられて倒壊せず、2階だけが倒壊し死傷者を出している。
 長岡市では当時屋根の雪下ろしが行われていたので、雪の重さによる倒壊は作業所や物置など非住家だけで済んだとしているが、1666年2月(寛文5年12月)の越後西部の地震では、4.5mも積もっていた雪が被害を大きくしたと推測されている。
 しかし長岡地震の場合、倒壊しなかった住家も傾きが生じていたので雪が融けていくに従い倒壊が進んだという。
 (出典:新潟地方気象台+長岡気象通報所「長岡地震調査報告」、宇佐美龍夫著「日本被害地震総覧>4、被害地震総覧 380頁~381頁:547長岡付近」、伊藤和明著「防災コラム・雪国の地震対策」。参照:2016年2月の周年災害「寛文5年越後西部地震、高田城内・城下壊滅、積雪で被害が拡大」[追加])

○東京消防庁が消防用ロボットの運用開始、170m先の危険地帯へ放水(泡)(50年前)[改訂]
 1971年(昭和46年)2月10日
 消防用ロボットの1号機“無人走行放水車”は1970年12月に東京消防庁蒲田消防署に初めて配備され、翌年2月には操作等の指導が実施され運用が始まった。
 他の産業用ロボットが1960年代に大学や民間企業で研究や試作が始まり、70年代に入り実用機が開発され、同年代後半に完成したのと比較して、消防用ロボット実用機の完成と運用はかなり早い。
 同ロボットの開発の契機となったのは、1964年(昭和39年)7月に起きた東京品川区の(株)宝組勝島倉庫の爆発火災で、東京消防庁の消防職員18人、消防団員1人が殉職、同職員80人、同団員9人を含む114人が負傷したのが無人ロボット機の必要性を実感させた。
 つまり爆発の危険や放射能、化学薬品等により汚染された場所など、人が近寄ることは危険だが消火や汚染除去等の任務を行わなければならない現場では、ロボットの活躍が必要との発想からだ。
 消防用ロボット・無人走行放水車は、走行用エンジンを備えた台車にリモコン式の放水砲を装備したもので、有線の遠隔操作によって100m離れた位置まで走行し放水(泡)操作が自由に行え、最大射程70m、最大放水量毎分5000リットル、化学消火能力としての最大放泡量は3000リットルあった。現在では後継機として無線操縦で放泡量を5000リットルに能力アップさせた“ドラゴン”が活躍している。
 同ロボット配備の年1970年は、2月に初の人工衛星“おおすみ”が打ち上げられ、3月には大阪で日本万国博覧会が始まるなど、高度成長に支えられ進歩する日本の技術が同ロボットを生み出したと言える。
 (出典:消防防災科学センター刊「季刊 消防科学と情報 No.083(2006冬号)>田中英夫著「消防用ロボットの実用事例について」、東京消防庁編「組織・施設>2.車両・装備の紹介>消防装備>消防ロボット」。参照:2014年7月の周年災害「宝組勝島倉庫爆発火災」[追加])

〇美浜原子力発電所2号機事故。単純ミスが引き起こした初の非常用炉心冷却装置作動(30年前)[追補]
 1991年(平成3年)2月9日
 
関西電力美浜発電所2号機で、運転中だった加圧水型原子炉蒸気発生器の伝熱細管1本が破断、一次冷却水約55トンが二次側に漏れ、非常用炉心冷却装置が作動して原子炉が自動緊急停止した。
 関西電力の発表では、放射性物質の放出はごくわずかで済み、周辺環境への影響は認められなかったとされているが、我が国で初の事故による冷却装置作動であり、国際原子力事象評価尺度(INES)レベル3(重大な異常事象)にランクされた。これは事業所内への影響としては、重大な放射性物質による汚染及び急性の放射線障害を生じる従業員被曝が疑われる事態になるレベルである。
 事故の直接の原因は、原子炉内の熱交換器伝熱細管の振動を抑制する振れ止め金具2本が、設計で指示された位置まで挿入されておらず、そのため、伝熱細管に異常な振動が発生して隣接する第6支持板と摩擦し、疲労破壊を起こし破断したためと分かった。単純ミスが従業員を被爆の危険にさらすという事故の事例となった。
 (出典:失敗学会編「失敗知識データーベース>原子力>原子力発電所蒸気発生器の伝熱細管破断」、電気事業連合会編「原子力発電について>原子力発電所の安全確保>過去の事故・トラブル>国内外で発生した主なトラブル>美浜発電所2号機事故(1991年)」、日本原子力研究開発機構編「表1 国際原子力事象評価尺度(INES)」)

○えひめ丸事件。突然浮上してきたアメリカ原子力潜水艦に衝突され沈没、
 原潜艦長、同乗の見学者に急激潜水・浮上の性能を誇示、衝突後も事故を隠蔽するが減給処分で幕引き
 (20年前)[改訂]

 2001年(平成13年)2月10日(20年前)
 アメリカ・ハワイ州オアフ島南約19km海上を航行していた、愛媛県立宇和島水産高等学校の漁業練習船“えひめ丸”が、突然浮上してきたアメリカ海軍原子力潜水艦“グリーンヴィル”に衝突された。
 えひめ丸は機関室を損傷して浸水、5分足らずで沈没した。同乗していた同校海洋工学科生徒4人と教師5人が死亡、救出された12人が負傷しそのうち9人が心的外傷後ストレス障害(PTSD)と診断されている。
 グリーンヴィルは浮上する以前からソナー(探知機)で、えひめ丸の存在に気づいていたが、当時、ワドル艦長の上司から依頼された見学の民間人を同乗させており、原子力潜水艦の性能を誇示するため急旋回や急浮上を繰り返していたという。その操艦運動の際ソナーは海上の船影をとらえることができないので、えひめ丸の存在はないがしろにされていた。最後に海面へ急浮上する際も、同船の乗組員たちは艦長の無謀な指示の対応に専念し海上のえひめ丸の存在は忘れていた証言している。
 また、浮上したグリーンヴィルが現場海域にとどまっていたのにもかかわらず、急浮上が原因で衝突し沈没させたと、同乗していた民間人に悟られたくなく、積極的に救難活動を行わなかったのではないかと非難された。
 事故後、当時のアメリカ大統領は事故の責任がグリーンヴィル側にあることを認め謝罪したが、事故責任者であるグリーンヴィルの艦長は査問委員会の勧告を踏まえた太平洋艦隊司令官決裁により有罪とされたが、過失致死行為であるのにも関わらず、減給処分を受けただけで済んだという。
 (出典:外務省編「えひめ丸衝突事故の概要」、西沢優報告「えひめ丸、米原潜衝突事件でわかったこと」、日本高等学校教職員組合技術・職業教育検討委員会まとめ「愛媛県立宇和島水産高等学校実習船「えひめ丸」沈没事件に関する見解」

〇ニュージーランド・カンタベリー地震。日本人留学生28人死亡、史上最大規模の液状化現象(10年前)[追補]
 2011年(平成23年)2月22日
 ニュージーランド南島カンタベリー地方で、前年2010年9月4日のマグニチュード7.1の地震につづき、この日も同6.2の大地震が起きた。
 この日の12時51分、大きな揺れがニュージランド第2の都市、人口約40万人のクライストチャーチ市を襲った。まだ職場や学校は休憩時間だった。遅くなった昼食をとっていた人、仕事に戻ろうとしていた人など185人が死亡、その中には日本からの留学生28人がいた。負傷者も5800人と多くの人が犠牲となった。
 カンタベリー地方では2010年に続く2度目の大地震だったが、約4か月後の6月13日にもマグニチュード6.0の地震がこの地方を襲っているので、これらは2010年9月の地震の余震ではないかと言われている。それにしてもクライストチャーチ市から40kmの範囲内で、わずか9か月の間にマグニチュード6以上の地震が3回も発生するというのは、2回はあっても日本も含め世界でも実例は少ない。
 2010年9月の地震では、震源地がクライストチャーチ市南西40kmの地点だったが、市中心部の多くの歴史的建造物が倒潰し、市東側の住宅地では1~1.5mの地盤沈下と液状化が見られたが、犠牲者は出なかった。
 ところが、この日の地震では震源地が市中心部から南東10kmという近さであったこともあり、観測史上最大規模の液状化現象が発生、建造物の被害は約10万棟にのぼり、その内約4200棟が倒壊か全壊に近い大きな被害をうけたとされている。なかでも日本人など留学生が学んでいた語学学校があるCTVビルなど、市内の中層ビルが倒壊したことで留学生を含む多数の死傷者を発生させた。またクライストチャーチ国際空港も管制塔が崩壊し、一次閉鎖されている。
 ちなみに地震名は前年9月と同年6月の3回の地震を一連の地震とし“カンタベリー地震”と呼ばれているが、この日の地震を切り離し最も被害の多かった市名をつけて“クライストチャーチ地震”ともとも呼ばれている。
 (出典:山地久美子+北後明彦+山崎栄一著「ニュージーランド・クライストチャーチの2011年カンタベリー地震からの復興調査報告>2.ニュージーランド・クライストチャーチ、カンタベリー地震の概要」、荏本孝久著「ニュージーランド・クライストチャーチ地震の被災地を訪ねて>2.クライストチャーチ地震と被災状況」)

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(2023年2月・更新)

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