【目 次】

・文亀元年越後南西部地震「宗祇終焉記」にしか詳細に記録されていない直下型地震(520年前)[改訂]

・江戸町奉行、家持町人に自身番所設置を命じる。後の町火消制度の原動力に
 4年半ほど前に家持町人に最初の自身番役すでに指示か(370年前)[再録]

・京都寛保の大火、芝居小屋、茶店残らず焼失(280年前)[再録]

・東京府、西洋のポリス制度を参考に邏卒(らそつ:警察官)制度採用、取締所(警察署)設置(150年前)[再録]

・政府、窮民一時救助規則制定、拡充される被災者救助制度(150年前)[再録]

・八甲田山雪中行軍遭難事件。厳寒地でのロシアとの戦いを想定した雪中行軍研究による事故(120年前)[改訂]

・大阪明治45年「南の大火」随一の繁華街千日前の中心部灰となる(110年前)[改訂]

・気象研究所の前身、中央気象台研究課発足、戦争遂行のための気象研究を進める(80年前)[追補]

・産業安全研究所を厚生省が設立、戦時体制下労働災害等による生産性低下を防ぐ研究(80年前)[追補]

・A2型インフルエンザ大流行-同感染症誘因死亡者2万3000人に(60年前)[再録]

・ガンプラブーム、エスカレーター将棋倒し事故起こす。生産調整が原因か(40年前)[改訂]

【本 文】

○文亀元年越後南西部地震「宗祇終焉記」にしか詳細に記録されていない直下型地震(520年前)[改訂]
 1502年1月28日(文亀元年12月10日)

 巳の刻(午前10時頃)、越後国(新潟県)南西部にマグニチュード6.5~7の強い揺れが襲った。
 「宗祇終焉記」の著者・宗長は、連歌(れんが:複数の人が集い和歌を詠み継ぐ)の第一人者とうたわれた師匠の宗祇に従い、宗祇と親交の深かった上杉房能を訪ね国府(現・上越市)に滞在していたが、この地震に遭い“地震おほき(多き)にして、まことに地をふりかへす(ひっくり返す)にやとおぼゆる(覚ゆる)事、日にいくたび(幾たび)といふ(いう)かず(数)をしらず、五日六日うちつゞきぬ。人民おほくうせ(多く失せ)、家家ころびたふれ(倒れ)にしかば、旅宿だにさだか(定か)ならぬに、またおもはぬ(思わぬ)宿りをもとめ(求め)つゝ年も暮れぬ。”と、「宗祇終焉記」に記録した。
 しかしこれほどの地震であったにもかかわらず局部的な直下型地震で、京都ではその揺れがなく、地震を感じれば必ず記しているという公卿たちの日記にも登場していないという。“越後国府で潰家および死者多数、余震5,6日続く”とした宇佐美の記述も「宗祇終焉記」によるものであるが、同時代の史料としては「(会津)塔寺八幡宮長帳」に“十二月十日、大地震あり”と、同地震についての記録があり、信頼できるという(石橋)。
 (出典:宇佐美龍夫著「日本被害地震総覧>4.被害地震各論53頁:069 越後南西部」、池田正一郎著「日本災変通志>中世 戦国時代300頁:文亀元年>十二月十日」、金子金治郎著「宗祇旅の記私注>宗祇終焉記103頁~107頁:一 越後に宗祗を問ふ」、石橋克彦著「文亀元年十二月十日(1502.1.18)の越後南西部地震で姫川流域・真那板山の大崩壊が起きたか?」[追加]、鈴呂屋書庫編「宗長『宗祇終焉記』を読む>2,越後の大雪と地震(「周年災害」の旧当記事が引用されています)」[追加])

○江戸町奉行、家持町人に自身番所設置を命じる、後の町火消制度の原動力に。
 4年半ほど前に家持町人に最初の自身番役すでに指示
(370年前)[再録]
 1652年1月11日(慶安4年12月1日)
 江戸の町で防災や治安を担い現在の交番につながる施設に、武家屋敷地での“辻番所”町人居住地での“自身番所”があり、それぞれ番人が詰めていた。
 辻番所は、1629年4月(寛永6年3月)“府内街巷路人ヲ刃傷スル者多シ。乃チ命シテ辻番所を設ケテ之ヲ取締ラシメ”と、戦国時代が終わり盗賊化した浪人や、暇を持て余し無頼化した御家人たちによる、江戸市中特に大名屋敷街などに横行した辻斬りを防ぐため、幕府が命じて、武家屋敷街小路の辻(四つ角)に番所(辻番所)を設けさせ、辻に沿った屋敷の家来たちに警備(辻番)させたもの。
 一方、自身番所は町人自身に防火活動と治安維持を担わせようと、町奉行がこの日出した消防活動に関する五か条のお触れの第一条で“町中家持自身番可仕事”として各町内に設置させたもので、土地家屋を持ち住んでおり幕府が本来認めた町人(家持)たちに、自身ですべき仕事(自身番)として番所に勤務させようとしたもの。ところが後になると、番人を家持町人の持ち家を借家している者が勤めたり、さらに月1両ほどの安い賃金で他人を雇い維持するようになった。
 実は自身番所が設置される以前、4年半ほど前の1648年6月(慶安元年4月)、時の三代将軍家光の日光東照宮参詣に際し、町奉行が町人たちに町の防火・警備について出したお触れの中に“御城近辺ニ火事候ハヽ”と江戸城周辺で火事が起きた時、“其町之者火消人足支度仕置”と火元周辺の町々に消火にあたる者たちを用意させ、“月行事自身罷出”“町々番所ニ附置可申事”と、月行事(がちぎょうじ)こと、その月の町行政の事務当番にあたっている家持町人を町の番所に詰めさせ、防火の指揮に当たらせようとした事例がある。
 これはあくまでも江戸城周辺で火事が起きた時という、変事の際の臨時の処置で常時の対応を求めたものではなく、ここでいう“町々番所”とは、辻番所が設置されたほぼ同時期に設置され各町内にあった木戸番所(小屋)を使用させたものであろう。その点で、専用の番所はないが町奉行が町人たちに命じた自身番(当番)の最初と言える。
 この日、常置が命じられた自身番の主な仕事は防火だが、このお触れでは続けて、水を入れた手桶やはしごを家ごとに設置すること。名主や月行事は、町の者たちへ油断なく火の用心を申しわたすこと。大風が吹いているときは、自身番当番の者と月行事がともに昼夜とも番所に詰めていること。火事が起きたときは火元を確かめ、町内の五人組(地主・家持町人で組織された互助組織)はもとより、町中の者たちが欠けることなく集まり、気持ちを入れて消火にあたること。などを命じている。
 自身番屋はよく町の木戸ぎわに木戸番小屋と対に建てられていたが、町奉行所の町方見廻役人や目明かしなどが番屋に立ち寄った際、町の様子を報告したり、捕まえた不審な者を引き渡していたという。また月行事が詰めたことなどから、町の行政事務の処理や寄合いにも使われ、屋根に梯子を立て半鐘を吊しただけの簡潔な“枠火の見”と呼ばれた火の見梯子が設けられ、屋内には火消道具を揃え、半鐘の合図とともに消火にあたる者たちや後になると町火消が駆け付け勢揃いして火災現場に出動した。
 この自身番屋の維持費や番人を雇った場合の給金は、すべて町内の地主が間口の広さに応じて負担した“町入用”の経費で支払われていた。番屋内に用意している火消道具などもこの町入用で購入されていたので、自身番制度は町奉行の命によりつくられたとはいえ、その内容は町人による町人のための自衛の防火・治安制度であり、この積み重ねが後の“町火消”を生んだ原動力となったと言っても差し支えないだろう。
 ちなみに、この日の2日前の1月9日(旧・11月28日)、町奉行から家持町人に対する防火に関する指示があった。それは“棚(店)借、借家之者、手あやまちにて火事出かし候ハヽ、家持は一倍可為曲事”というもので、家持町人から店や家を借りている者が誤って失火した場合、人一倍の責任が家持にあるとし充分に注意するよう命じている。
 (出典:東京都編「東京市史稿>NO.4>市街篇 第4・680~687頁:辻番設置」、近世史料研究会編「江戸町触集成>慶安四辛卯年 22~23頁:66 定、67 定」、東京都編「東京市史稿>NO.4>市街篇 第6>留守警備及市人心得 453~454頁」、白井和雄著「江戸時代の消防事情⑨>辻番・木戸番・自身番>3 自身番」[追加]、黒木喬著「江戸の火事>第4 章 江戸の防火対策 123~131頁:1 自身番と木戸番」。参照:2019年5月の周年災害「幕府、江戸武家屋敷街に辻番所設置」[改訂]、2018年6月の周年災害「将軍日光社参に際し、町人たちに町の防火・警備について初のお触れ」、2019年5月の周年災害「幕府、町木戸設置させ辻番と後の自身番と共に治安強化はかる」[改訂])

○京都寛保の大火、芝居小屋、茶店残らず焼失(280年前)[再録]
 1742年1月1日(寛保元年11月25日)

 未の刻(午後2時頃)、四条大橋の南側、四条石垣町(現・宮川筋一丁目あたり)から出火、四条河原の伝統を継ぐ芝居小屋や芝居茶屋、水茶屋(現材の喫茶店)などを残らず焼失した。
 炎は大和橋を落とし、祇園新地、知恩院門前から三条通に焼け抜け、壇王法林寺の東、頂妙寺新地から西は清光寺、東光院など皆な類焼させ、亥の刻(午後10時頃)ようやく鎮火した。町家2800戸、寺院14か所が焼失。
 (出典:京都市消防局編「京都消防と災害>第2編 災害記録>第2章 自治体消防発足以前>六 寛保の大火」、国立国会図書館デジタルコレクション・小鹿島果著「日本災異志>第3巻 火災之部 95頁(145コマ):寛保元年十一月廿五日・京都大火」[追加]、池田正一郎著「日本災変通志>近世 江戸時代前期>寛保元年490頁~491頁:十一月二十五日」)

○東京府、西洋のポリス制度を参考に邏卒(らそつ:警察官)制度採用、取締所(警察署)設置(150年前)[再録]
 1872年1月3日(明治4年11月23日)

 1868年5月3日(慶応4年4月11日)江戸城が新政府軍に接収され、完全に徳川幕府の治安機関が解体されたあと、明治新政府の東征大総督府は同月13日(旧歴・4月21日)、旧町奉行に江戸市中取締に当たらせたが、同月23日(旧・閏4月2日)にはこれを改め、新たに大久保忠定(一翁)、勝安芳(海舟)に命じて市中鎮撫役とし治安に当たらせた。ところがあまり効果を上げることができなかったので、同年6月6日(旧・閏4月16日)薩摩、長州、佐賀、備前、紀伊藩など12の藩に命じ、“藩兵”による市中取締に改めた。
 同年9月3日(旧・7月17日)江戸が東京と改称され、併せて民政の行政機関として“東京府”が置かれ、藩兵も解散し新たに1869年1月17日(明治元年12月5日)から30藩の兵隊による“府兵”が新首府の治安維持に当たることになる。
 しかし翌1870年(同3年)頃になると、東京も新首府としての機能を発揮し始め、治安維持もそれまでの軍隊によるものでなく、欧米のように治安維持を専門職務とする“ポリス(警察官)”制度にすべきであるとの意見が出始め、フランス公使・栗本鋤雲による報告や福沢諭吉の欧米各国の警察制度紹介など、新制度移行への機運が高まった。
 警察制度への改革をもっとも強く主張したのは、参議・西郷隆盛であるという。
 この政府内の有力者の主張もあり、翌1871年1月(同3年12月)東京府は政府に対し西洋ポリス制度採用を上申。同年12月5日(同4年10月23日)政府は東京府中取締のため邏卒(警察官)3000名を置くことを決め、この日の東京府達「取締組大体規則」によってその組織、編成、職務が定められた。
 取締組は東京府下を6つの大区にわけ、1大区ごとに取締所(警察署)1か所を設けて総長(署長)1名、差添役4名。大区は16小区に分け、1小区ごとに屯所1か所を設けて組頭1名、組子30名(内3名が小頭)を置いた。つまり全体で第一線の屯所96か所に組頭の下、組子の邏卒2880名が配置されたのである。
 その勤務は隔日で、各小区ごとに当番の15名が5名づつ3交代で昼夜の別なく屯所において立ち番、見張りを行うほか、犯罪捜査のための密行や検索、警邏(ら)取締を行った。
 (出典:警視庁史編さん委員会編「警視庁史・明治編>第1節 明治維新と警察>第3 東京警視庁設置以前の治安維持 16頁~30頁:1 市中取締と藩兵時代、2 府兵時代、3 邏卒時代」)

○政府、窮民一時救助規則制定、拡充される被災者救助制度(150年前)[再録]
 1872年1月7日(明治4年11月27日)
 新首府東京に新しい警察制度が発足した4日後、新政府は全国一律の新しい“被災者救済制度”の一つをスタートさせている。
 1868年1月3日(慶応3年12月9日)、王政復古のクーデターにより明治新政府が樹立し、同年5月3日(同4年4月11日)の江戸城開城により江戸幕府は滅亡、新政府は中央政府として全国的な制度を作り上げる必要に迫られた。
 なかでも災害被災者の救済制度については、さしあたり各藩の制度を藩内で継続させたが、翌1869年7月25日(明治2年6月17日)の諸藩の版籍奉還許可により、藩主は知藩事となって中央集権化が進み、次第に各藩の独自性を失いさせて行く中で、全国一律の制度作りが急がれたのである。
 翌1870年1月9日(同年12月8日)、新政府で国内行政を管轄する民部省が「水火災の節、窮民救助の措置」を定めたが、あくまでも臨時の措置だったので、1871年8月29日(同4年7月14日)の廃藩置県により、この日新たに制定された地方行政法「県治条例(太政官第623号達)」の中の一規則として、被災者に食料15日分と家屋の再建費を貸与するとした「窮民一時救助規則」が組み込まれ、1875年(同8年)7月同規則として県治条例から独立した。また租税の減免および徴収の猶予を定めた「凶歳租税延納規則」も1877年(同10年)9月制定され、後の1880年(同13年)6月、この両規則は「備荒儲畜(びこうちょちく)法」として統一され、被災者救助制度は拡充されていく。
 (出典:国立国会図書館デジタルコレクション「法令全集・明治2年 503頁(288コマ):水火災の節、窮民救助の措置を定む(民部省)」、同コレクション「法令全集・明治8年>太政官達 659頁(391コマ):第122号 窮民一時救助規則」、同コレクション「法令全書・明治10年>太政官布告61頁~63頁(71コマ):第62号凶歳租税延納規則」、井上洋編著「明治前期の災害対策法令」[追加]。参照:2018年8月の周年災害「明治新政府、戦禍や水害被災地救済について最初の布告出す」[追加]、2020年6月の周年災害「備荒儲儲畜(びこうちょちく)法制定」)

○八甲田山雪中行軍遭難事件。厳寒地でのロシアとの戦いを想定した雪中行軍研究による事故(120年前)[改訂]
 1902年(明治35年)1月23日~28日
 1902年(明治35年)1月下旬、青森を常時駐屯地とする日本陸軍弘前第8師団青森歩兵第5連隊の雪中行軍隊が遭難し、参加隊員210人中199人が死亡した、小説や映画にもなった事件である。
 日本陸軍は1894~5年(明治27~8年)の清国(現・中国)との戦い(日清戦争)、特に遼東半島における冬期の戦いで、装備と訓練が貧弱なため苦戦を強いられた。その後20世紀に入ると、凍結しない港湾を求めてシベリアから中国東北地方(満州)、朝鮮半島へと南下政策を進めるロシア帝国と、物的資源(石炭など)と人的資源(労働力)を求めて朝鮮半島から同じく中国東北地方へと進出する大日本帝国が権益を争って激突した。
 ロシアとの戦いで考えられる戦場は、厳寒地の朝鮮半島北部および遼東半島から満州各地になること。また国内でもロシア艦隊による海峡封鎖が考えられ、日清戦争の教訓から、陸軍にとって特に冬期に封鎖された場合の兵団の移動問題は緊急課題だったのである。
 この時期、弘前の第8師団に課せられた課題は、津軽海峡がロシア海軍に封鎖され艦砲射撃によって、弘前~青森および青森~八戸間の列車が動かなくなった際に、日本海側と太平洋側からそれぞれ兵団を移動させる対策と訓練だった。
 考えられたルートは青森→田代→三本木→八戸の八戸ルートと、弘前→十和田湖→三本木→田代→青森の弘前ルートだったが、八戸ルートを青森歩兵第5連隊が弘前ルートを弘前歩兵第31連隊が受け持ち、第5連隊雪中行軍隊は1月23日、第31連隊雪中行軍隊はそれより早い1月20日に訓練の途についた。
 第5連隊雪中行軍隊は青森の営舎を出発し田代で露営(野外の陣営:キャンプ)し、翌日三本木を経て古間木駅(現・三沢駅)から列車で青森へと帰営する計画だった。
 この年の1月は当時の「気象要覧」によれば、“本月ハ気流最モ峻速ニシテ北西ノ寒風連吹シ気温大ニ低下シテ”という厳しい寒さが続き、第5連隊雪中行軍隊が出発した23日の二日後の25日には、北海道の旭川で国内観測史上最低の零下41度を記録したほどであった。
 その日23日は東北地方北部も例年より寒気厳しく降雪も異常に多かったが、進路途中の田茂木野集落(青森市)では、雪中行軍研究であり地図とコンパスがあるからとして案内人の提供を断り行軍を続けた。その後天候はいっそう悪化、大休止の際携帯した食料が凍りつき食事が取れない兵士が大多数だったという。そこで軍医が行軍中止を勧告したが、下士官たちはすでに行程の半ばすぎているのでむしろ進むべしとし行軍は続けられることになる。
 11時59分行軍再開、近来まれな猛吹雪のため食料と燃料を積んだ行李隊は本隊より1時間以上遅れ積雪は腰部を超える。16時13分馬立場到着、田代方面に斥候を兼ねた設営隊と行李隊への応援隊を派遣、積雪は肩近くまで達す。18時鳴沢付近で行李隊はソリを放棄。隊員は荷を背負って行軍。設営隊は進路を発見できず帰隊。すでにコンパスは凍りつき使用不能となっていた。
 20時05分止むを得ず田代まで1.5kmの地点で雪壕を掘り露営とするが、兵士たちは強行軍による疲労と寒さのため一睡もできない状態となる。
 隊長らはこのままだとこの場で凍死する恐れがあると判断「行軍の目的は概ね達成した」とし、田茂木野集落へと部隊の帰営を決定。24日2時30分、馬立場を目指して出発したが進路を誤り鳴沢渓谷に迷い込む。崖をよじ登ろうとするが空腹と手の凍えで失敗、最初の犠牲者が出る。ちなみにこの日、青森地方ではこの月最低の零下12度を記録したほどだった。
 雪中行軍隊は、8時半頃田代方面へ戻ろうとしたが逆に駒込川の渓谷に入り込みふたたび崖登りで死亡者を出す。17時20分ついに鳴沢付近の窪地で二日目の露営をすることになるが、極度の疲労のため凍死者が続出した。
 翌25日、隊長たちは部隊全体で行動するのは逆に危険と判断、各自独自の判断で行動しても良しとしたが、部隊の主力は田茂木野方面へと出発、途中で行李隊が打ち捨てたソリを発見、帰途間違いなしと喜んだのも束の間、日没後またも道に迷い三日目の露営をする。
 しかし26日1時の人員点呼では210名の隊員がついに30名となっていたという。その後行軍を再開するが部隊は分散し脱落する者が続出、救出後死亡している。また25日の決定で部隊本部から別れ、田代元湯方面に向かった一部の下士官たちは炭焼き小屋や元湯を見つけて宿泊、生存救出されている。
 一方、弘前第31連隊雪中行軍隊は28日、すでに猛吹雪は小康状態になっており、案内人に先導されながら行軍を続け、田代元湯近くで小屋を発見し休憩、7時ごろ出発、八甲田に入り鳴沢付近で遭難した2人の遺体を発見、翌29日田茂木野の遺体安置所で第5連隊の全員遭難を知り、同隊は31日1人の負傷者を出しただけで全員無事に弘前へ帰営している。
 (出典:日本全史編集委員会編「日本全史>明治時代>1902(明治5)982頁:八甲田山死の彷徨、青森歩兵第5連隊雪中行軍で遭難」、教育設計研究室編「八甲田山雪中行軍」[追加]、気象庁編「気象要覧・明治35年>気象要覧明治35年1月>明治35年1月気象概況、別表・全国気温・降水量」。参照:2012年7月の周年災害「明治35年北日本大冷害、明治凶作群始まる」[追加])

○大阪明治45年「南の大火」随一の繁華街千日前の中心部灰となる(110年前)[改訂]
 1912年(明治45年)1月16日

 未明午前1時ごろ、大阪市南区(現・中央区)難波新地4番町の銭湯・百草湯の煙突から出た火の粉が、東向かいの貸座敷遊楽館の木造杮葺き(こけらぶき)屋根に燃え移り、折からの激しい西風にあおられて一挙に燃え上がり東の方へと広がった。
 消火には南消防署を始め北・東・西各消防署、第4師団各連隊も出動し、千日前を第1防火線としたが突破された。その後、炎の勢いはすさまじく日本橋筋の第2、中寺町筋の第3の防火線も難なく突破される。
 午前11時ようやく第4防火線の谷町九丁目で炎の勢いを止めることができたが、千日前の中心部、難波新地三、四、五番町、河原町一、二丁目,、南坂町、坂町、日本橋筋一、二丁目、高津一番町から十番町全域、下寺町一丁目、生玉町が焼き尽くされた。
 4人死亡、家屋全焼4750戸、半焼29戸。高津尋常小学校、明治病院のほか劇場・映画館5、寄席15、貸座敷155、神社2か所が被害を受け、罹(り)災面積10万946坪(33万3700平方m)、罹災者1万7900余人。9か所の臨時救護所に31日までに延べ6889人が収容された。
 (出典:玉置豊次郎著「大阪建設史夜話>第20話 明治大阪の大火記録166頁~167頁:明治四十五年一月十六日 南の大火」[追加]、新修大阪市史編集委員会編「新修大阪市史・第6巻>第4章 社会生活と文化の諸相>第3節 市民生活の諸相>2 大災害の発生 822頁~824頁:南の大火」、古絵葉書風景館編「大阪南の大火」[追加])

気象研究所の前身、中央気象台研究課発足、戦争遂行のための気象研究を進める(80年前)[追補]
 1942年(昭和17年)1月6日
 
現在の気象庁気象研究所は、太平洋戦争(1946年12月~1945年8月)開戦の翌1月6日、当時の中央気象台研究課として発足している。
 中央気象台は、1875年(明治8年)6月、内務省東京気象台として気象観測を開始して以来、特に研究を専門とする部局は設けていなかったが、それぞれの部門で研究活動を進めていた。
 1926年昭和に入り、1931年(昭和6年)9月、日本陸軍は柳条湖事件を起こし、中国大陸へ侵略の矛先を向け、1937年(同12年)7月には盧溝橋事件を起こし、中国と日中戦争を交えるに至る。
 このころから欧米諸国、特にアジアにおいて植民地を経営するアメリカ(フィリッピン)、イギリス(香港、マレー、ビルマ、インドなど)、フランス(インドシナ)、オランダ(インドネシア)各国は、日本が各国の植民地がある南方へ進出することを警戒していた。しかし1939年9月、時のナチス・ドイツがポーランドに侵攻、イギリス、フランスはドイツと開戦。翌1940年(昭和15年)9月、日本がドイツ、イタリアと三国同盟を結ぶに至るや第二次世界大戦の危険がいやがうえにも増していった。
 日中戦争のころから、航空機による戦闘は軍事作戦の死命を決していた。航空機を飛ばし制空権を奪う上で最も必要であり、艦隊を太平洋上に航行させ制海権を奪う上でも最も必要な情報は天気の良し悪し、つまり“気象情報”であった。
 時の中央気象台では、日本軍中枢のこれら思惑により、思わぬ形で気象業務が急激に増え、戦争遂行のための気象研究への機運が高まった。特に長期予報の重要性から1941年(昭和16年)8月、まず長期予報研究室が発足、主に半旬(5日間)平均天気図(平均的な気象状況に基づく天気図)の作成を中心に研究が進められた。
 一方日本軍は同年9月、中国に対する軍事支援ルートを断つとして北部インドシナを占領(仏印進駐)、12月3日、アメリカ・ハワイ島真珠湾攻撃およびマレー半島に上陸し、太平洋戦争(第二次世界大戦の1局面)が始まる。
 中央気象台では、翌1942年(昭和17年)1月6日、長期予報研究室を東京気象台研究課に昇格させ、主に長期予報に携わるとともに、気象学界全体の研究振興と広く国内外の気象研究を促進させる使命を帯びた。開戦後わずか1か月後のことである。そして4月1日には中央気象台の部制化により研究課は研究部になる。
 1945年(昭和20年)8月15日、終戦により1931年(昭和6年)以降の戦いの歴史に終止符が打たれた。同年12月、中央気象台研究部は、旧陸軍気象部の施設及び人員を引き継ぎ、ここに初めて国民のため産業を振興させ、災害を防ぎ、快適な生活が送れるようにするための気象研究機関として再出発することになった。同研究部が中央気象台の気象庁昇格に伴い気象庁気象研究所と改称したのは、2年後の1947年(昭和22年)4月のことである。
 (出典:気象庁編「気象百年史>Ⅲ 官署来歴>第2章 気象研究所>1 創立前史559頁:1.1 中央気象台研究課の発足」。参照:2015年6月の周年災害「東京気象台観測開始」)

〇産業安全研究所を厚生省が設立、戦時体制下労働災害等による生産性低下を防ぐ研究(80年前)[追補]
 1942年(昭和17年)1月30日
 
2006年(平成18年)4月、産業医学総合研究所と統合し労働安全衛生総合研究所となった旧産業安全研究所はがこの日誕生しているが、その詳細な設立の事情については資料がなくわからない。ただ当時は太平洋戦争が開始された翌月のことで、1931年(昭和6年)以降のいわゆる戦時下にあり、上記中央気象台気象研究課のように軍部の思惑と当時の労働者の状況が設立させたのであろうか。
 戦時下の当時、全国民を挙げて“非常時体制”下にあるとされ、“産業安全運動”にとって受難時代だったという。
 産業安全運動の先駆者・小田川全之が古河財閥の本店理事であったとき1903年(明治36年)、のちの古河家当主となる虎之介のアメリカ留学に随行し同地に滞在していた際、アメリカ鉄鋼業界の盟主USスチールが“安全第一、品質第二、生産第三”をスローガンにし、労働災害を激減させるとともに生産効率を大幅に改善した実績に感銘を受け、古河家が経営する事業所において“安全専一”活動を展開したのが、我が国の作業安全運動の先駆けといわれている。
 その後1917年(大正6年)4月、当時の産業安全運動活動家が結集して“安全第一協会(現・中央労働災害防止協会が事業を継続)”を設立、2年後の1919年(大正9年)5月、東京教育博物館(現・国立科学博物館)で初の労働災害防止展覧会開催が企画されるやそれを全面的に協力支援、現在につながる“産業安全週間、全国産業安全大会”を開催した。
 ところが1931年(昭和6年)以降、戦時非常時体制下に入ると、その大会における主催者側の挨拶が“災害防止は聖戦(天皇陛下の下、聖なる戦い)の目的を達成するための人的資源の確保に必要なもの(昭和14年)”と変化し、大会での報告も「国民精神総動員(全国民を国家のために自己を犠牲にして尽くす運動)と人事管理」「燈火管制下(空襲に備えて燈火を暗くする)の安全作業」といった非常時時局を前提にした研究に関心が向けられ、戦争への協力体制が醸成され、産業安全運動の本質である“人命尊重”の主旨が薄れ、もっぱら産業戦士の技術や体力の向上にエネルギーが注がれていったという。
 しかしこの産業戦士の技術、体力の向上も1937年(昭和12年)以降、日中戦争が泥沼状態に陥り、青壮年男子が徴兵され戦場に駆り出されるようになると、もはや単なるスローガンと化し、1941年(昭和16年)になり労働力不足が激化してくると“1億戦闘配置につけ”の掛け声とともに、中学生以上の学生、生徒が“学徒総動員”として軍需工場に駆り出され、のちには女生徒もそれに続く。学徒を受け入れた軍需工場では、なれない作業による生産力低下を防ぐため、労働時間を10時間から12時間に増やし、その上12時間定時労働に3時間程度の居残り作業を常習化する工場が大勢を占めていく。
 労働強化で疲労しきった未熟練の女性を含む10代を中心とした労働者たちが、精密で大量生産が必要な兵器などを製造したのである。労働災害が急激に増えたという。当然の結果であろう。
 この時期1942年(昭和17年)1月、厚生省は産業安全研究所を設立した。
 もともと厚生省自体が1938年(昭和13年)1月、当時、結核で若者を中心に毎年13万人以上が死亡している状況では戦争を遂行できないと強く主張した軍部の強い提唱で内務省から分離独立している。
 産業安全研究所の設立は太平洋戦争開戦の翌月である。労働災害の激増は、兵器生産力を大きく低下させ、戦争が遂行できないととらえ、少なくとも現状の中で、若い産業戦士の体力を守り“聖戦完遂”のため、労働生産性を低下させない方法などを研究する必要性があったのだろう。
 しかし、その国の思惑をよそに、所員たちは産業安全運動本来の目的“安全・人命尊重”に従い、各地の工場へ出向いて防火を中心とする安全対策を指導したり、戦時下でも継続して開催した安全週間の企画や災害原因の分類、研究を続け、産業心理や職業病対策に取り組んでいた労働科学研究所の研究員とともに、わずかに残る“安全の灯”として、労働者たちから信頼されていたという。
 産業安全研究所が、その真の目的を果たしていけるようになったのは、やはり上記気象研究所と同じ終戦後からで、1947年(昭和22年)9月、労働省の発足とともに労働省産業安全研究所となり、2001年(平成13年)1月厚生省と労働省が統合され厚生労働省が発足すると同省産業安全研究所と改称。同年4月、独立行政通則法の施行に伴い、独立行政法人産業安全研究所となったが、研究所の法的根拠である「独立行政法人産業安全研究所法」は「独立行政通則法」と同じく1999年(平成11年)に成立している。これによると、産業安全研究所の目的は“事業場における災害の予防に関する調査及び研究を行うことにより、職場における労働者の安全の確保に資すること(第3条)”と明記されている。
 (出典:中央労働災害防止協会編「安全衛生運動史193頁~201頁>戦争と停滞」、労働安全衛生総合研究所編「沿革」、衆議院制定法律「産業安全研究所法」。参照:2013年5月の周年災害「小田川全之、足尾鉱業所でわが国最初の産業安全運動展開」、2017年4月の周年災害〈上巻〉「安全第一協会設立総会開く」、2019年5月の周年災害「初の労働災害防止展覧会開催、安全週間もはじめて挙行」、2018年1月の周年災害「厚生省、軍部の強い提唱で内務省から分離独立」)

○A2型インフルエンザ大流行-同感染症誘因死亡者2万3000人に(60年前)[再録]
 1962年(昭和37年)1月~5月

 1月中旬東京および関東一円にA2型インフルエンザが広まった。
 1月420人だった届け出患者数が、翌2月には全国に広まり一気に283倍の11万9002人に増え、3月末までには全国くまなくまん延し、この月は約2.5倍の29万2708人とピークを迎えた。しかし暖かくなるにつれ新しい患者は激減、4月5万6094人、5月4910人となり、5年前の1957年(昭和32年)に大流行の波が3回もあったのに比べ1回で済んだのは不幸中の幸いだったが、第二次世界大戦(1936~40年)後の1957年に次ぐ二番目の大流行となった。
 この年の人口10万人に対する罹患(りかん:罹(かか)った患者)率は、最高が宮崎県の1852.1人で、次いで埼玉県の1065.6人、次が佐賀県の1033.9人、滋賀県1014人と4県が1000人の大台を超えた。ちなみに大都会で一番の罹患率は横浜市の1059人。また年齢別で見ると、5歳~9歳の年齢層が718.7人ともっとも高く、中でも6歳から10歳までの層が軒並み700人台と高いのは、幼稚園・保育園や小学校などで罹る子どもたちが多いことを示し、インフルエンザが流行すると、学級、学校閉鎖の処置をとるのは当然の処置といえる。
 この年の届け出患者数47万4723人、直接の死亡者は1957年に次ぐ7014人。実際に罹った患者数約1800万人余、肺炎、心臓病などインフルエンザが誘因となった死亡者は約2万3000人余と推定された(1962年5月末推定)。
 (出典:厚生白書昭和37年度版付属資料「主な厚生行政の動き・4公衆衛生と環境衛生・インフルエンザの対策」、厚生省統計調査部編「昭和37年伝染病および食中毒統計」、衛生統計協会編「国民衛生の動向・昭和38年>第3章 公衆衛生>2 伝染病及食中毒>インフルエンザ」)

○ガンプラブーム、エスカレーター将棋倒し事故起こす。生産調整が原因か(40年前)[改訂]
 1982年(昭和57年)1月24日

 千葉県のダイエー新松戸店で、機動戦士ガンダムのプラモデル通称“ガンプラ”の販売日に、どの店舗でもいつも開店と同時に売り切れるとして、この日並んでいた小・中学生250人が、開店するやいなやエスカレーターに殺到し将棋倒しとなり4人が頭などに重傷を負い、15人が軽傷という事故が起きた。
 機動戦士ガンダムは、事故の3年ほど前の1979年(昭和54年)4月、当初名古屋テレビから放映されたアニメーションで、その後、関東地区でも放映されたが、視聴率が上がらず一時は放映中止も考えられたという。ところが中止が決まった同年の秋頃から人気は急上昇し、事故前年の1981年(昭和56年)3月には映画版も上映され、翌1982年の再放送では名古屋地区で最高視聴率29.1%を記録する。
 この人気を背景に最初のモデルを改造し、(株)バンダイから発表されたプラモデルは、小中学生を中心に社会現象ともいわれるブームを起こし、子供たちの間で“いろいろな種類の中からどれだけたくさん集めるか”が競争となるのに反して、開店と同時に売り切れるという“手に入れにくさ”が一層“ガンダム過熱”を呼び起こしていた。そのさなか事故が起きたのである。
 この事故を聞いてどの販売店からも“商品の人気を維持するために、メーカーが生産調整をしているのでは?”という声がもっぱらだったという。
 (出典:朝日新聞社編「朝日新聞・昭和57年1月25日>「ガンダム」買い将棋倒し」)

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(2023年1月・更新)

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