近現代の「広域大規模都市・複合災害」としての関東大震災
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●いまの、そして近未来の災害要因、災害対策のヒントが通底
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わが国で発生した大災害のうち、とくに現代の大災害では、これらを契機に今日の防災対策を方向づける数々の法整備がなされてきた。
例えば、伊勢湾台風を機に災害対策基本法が制定され、阪神・淡路大震災では耐震改修促進法、被災者生活再建支援法などが制定された。また被災地支援に多くのボランティアが参集したことから「ボランティア元年」とも言われ、後に発災日の1月17日を「ボランティアの日」、17日を含む前後3日間は「ボランティア週間」となる。
東日本大震災では、東日本大震災復興基本法の公布や復興庁の発足、また福島原発事故の教訓から原子力規制庁(原子力規制委員会)が発足している。
1923年関東大震災では市街地建築物法施行令の改正で、初めて耐震基準が規定され、また地震研究に向けて東京帝国大学地震研究所(現東京大学地震研究所)が設置された。後の1960年に、9月1日を「防災の日」とすることが閣議了解され、9月1日「防災の日」を中心とする防災週間(〜9月5日)が設けられた。
関東大震災――その本質は、近現代に通じる「広域大規模 都市・複合災害」として位置づけられるものだった。だからこそ、あれから100年の周年のゆえに、わが国の災害対策を考えるうえで、その通底にあらゆる要素・要因をはらんでいる。
●大揺れ、大火災、大津波、山崩れ、液状化、土石流、鉄道事故……
関東大震災は、1923(大正12)年9月1日午前11時58分に発生した。地震概要は、マグニチュード(M)7.9の巨大地震、震源域は神奈川県から房総沖に及ぶ長さ130km、幅70kmの範囲とされる。昼食時の火の使用と重なり、建物の倒壊とともに多くの火災が発生した。火災は3日間続き、約10万5千人の犠牲者のうち、約9割が火災による犠牲者とされ、東京では中心部の約40%が焼失した。
火災被害が大きくなった原因としては、昼食時と重なったこと、当日関東地方で強風が吹いていたこと、当時の東京市、横浜市などでは街並みが乱雑で今日以上に人口密度が高かったにも関わらず、消防設備が不十分であったことなどがあげられている。一箇所で約3万8千人もの犠牲者を出した陸軍被服廠跡(現東京都立横網町公園)では旋風を伴う火災が発生したとみられている。
関東大震災はまた、揺れと火災に加えて、大津波、山崩れ、地盤の液状化による被害も大きい広域複合災害であったことも忘れてはならない。津波は太平洋沿岸の相模湾沿岸部と房総半島沿岸部で発生、高さ10m以上の津波が記録された。
山崩れや崖崩れ、それに伴う土石流による家屋の流失・埋没の被害は神奈川県の山間部から西部下流域にかけて発生。とくに神奈川県足柄下郡片浦村では鉄道事故で100人以上の死者、また土石流で数百名の犠牲者を出した。
このように関東大震災はまさに、都市災害と複合災害の合体した大災害であり、これらの被害対策は現代に通底している。
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〈2023. 01. 04. by Bosai Plus〉