【目 次】

・永祚から正暦へ改元、「永祚の風」による(1030年前)[再録]

・神田山開削工事完成。日比谷入江を埋立て土地を造成、東へ進む外堀・神田川を生み

 江戸城南東側の日本橋低地を水害から守る(400年前)[改訂]

・馬車取締規則制定で安全条項充実(140年前)[改訂]

・明治13年大阪南の大火「島の内焼」随一の繁華街焼く(140年前)[改訂]

・明治13年東京神田鍛冶町大火。正月準備のすす払い後のゴミ焼が原因、新設の消防本部消防隊奮闘するも
 翌年1月、2月の連続大火で神田・日本橋一帯2万戸以上が焼失(140年前)[改訂]

・北里柴三郎破傷風の血清療法発見-しかしノーベル賞は共同研究者のみ受賞(130年前)[改訂]

・道路取締令制定、左側通行全国的に制度化される。首都東京より20年遅れて(100年前)[追補]

・国産の側柱式自動交通整理信号機第1号機、京都駅前に設置され標準仕様となり各都市に普及(90年前)[追補]

・交通戦争始まる-新・道路交通法施行。事故件数最高時の32%、死亡者も最高時の16%に激減(60年前)[改訂]

昭和36年「三六豪雪(北陸豪雪)」。国鉄始まって以来の大雪害(60年前)[再録]

・自治省(現・総務省)消防庁、火災・爆発事故対応の石油コンビナート地帯防災対策要綱制定
 -5年後海洋汚染も含めた災害防止法制定へ(50年前)[追補]

・公害国会で論議、公害関係14法案成立(50年前)[再録]

貨物船尾道丸遭難沈没事件。横浜地方海難審判庁、造船、海運業界へ改革の道筋をつける(50年前)[追補]

・昭和55年「五六豪雪」3か月半にわたる豪雪が突入した車社会をマヒ(40年前)[改訂]

・平成2年、外房地方戦後最大の竜巻被害、トラック、バス竜巻で吹き飛ぶ(30年前)[再録]

・平成23年「山陰豪雪死亡者の多くが除雪作業中の高齢者、元日に交通災害発生(10年前)[追補]


【本 文】

永祚から正暦へ改元、「永祚の風」による(1030年前)[再録]
 990年12月1日(永祚2年11月7日)
 暴風雨により改元とある。永祚の風である。
 永祚の風は、改元の前年989年9月20日(永祚元年8月13日)、平安京(京都)をはじめ、畿内一円を吹きまくった。奈良、東大寺の南大門が倒壊したのをはじめ薬師寺金堂など著名な社寺の建物の倒壊が相次ぎ、比叡山東塔の大鐘が南側の谷に吹き飛ばされた。都でも、内裏、大内裏の官舎や大門の多くが倒壊、加茂(賀茂)上下二社をはじめ石清水、祇園天神堂などの大建築物が倒壊し、同時代の歷史書「日本記略」には“左右京人家。転倒破壊。不可勝計(数え切れない)”とある。また大風だけでなく、“洪水高潮。畿内海浜河辺民烟(民家)。人畜田畝。為之皆没。死亡損害。天下大災、古今無比”という大災害となったと記録されている。
 この永祚の風は、近年の研究によると、945年後の1934年(昭和8年)9月20日という月日も同じく襲来した、古今を通じての超大型台風“室戸台風”と同じように、瞬間最大風速60m/秒を超え、コースも同じ瀬戸内海から紀州灘などの沿岸部を荒らして淀川を北上、難波(大阪)、京を直撃したのではないかという。
 (出典:池田正一郎著「日本災変通志>平安朝時代後期 128頁~129頁:永祚元年、正暦二年」。国立国会図書館デジタルコレクション・国史大系 第5巻「日本紀略 後編 巻九 一条天皇 1004頁(512コマ):永祚元年八月十三日」。参照:2019年9月の周年災害「永祚元年畿内暴風雨“永祚の風”」、2014年9月の周年災害「昭和9年室戸台風」)

神田山開削工事完成。日比谷入江を埋立て土地を造成、東へ進む外堀・神田川を生み
 江戸城南東側の日本橋低地を水害から守る
(400年前)[改訂]
 1620年12月18日(元和6年11月25日)
 
東京中央線御茶ノ水駅のプラットホームに立つと、堀を隔てて緑に覆われたかなりの高さの断崖が目の前にそびえている。その造りから一見して人工的に開削したあとの断崖とわかる。神田山開削である。
 徳川家康が江戸城に入城した16世紀末、同城の北西に広がる牛込・麹町台地と対岸の本郷台地・神田山との間の低地を、平川(江戸川)と呼ばれた川が南東に流れ、一橋河岸あたりから南下して日比谷入江に注いでいたという。日比谷入江は、江戸城の南東を、南は新橋あたりから北は大手町あたりまで伸びていた江戸湾の入江で、現在の日比谷の地がそれにあたる。
 江戸の市街地造成は、江戸城の東を弓形に囲むように設計されたが、それには神田山を開削して、平川の流れを水道橋あたりで付け替えて東へと隅田川に流し、開削した土砂で日比谷入江を埋め立てて土地を広げ、その地も含めた江戸城南東側に広がる低地を水害から守る所に主眼がおかれていた。
 工事は日比谷入江の埋め立てから始まり、まず平川下流の流れを江戸入城早々から掘り始めていた道三堀につなげて隅田川下流に流すことで流れを替えた。この川は後に日本橋川と呼ばれた。
 一方、神田山(台)開削工事は、第1次が1616年7月4日(元和2年5月21日)、諸大名を動員した“天下普請”として始まり、同年11月(旧10月)工事完了、南岸に宅地を開発して、1607年(慶長12年)に大御所となり駿府城に移った家康の供をして駿河国(静岡県)詰めとなっていた侍の中で帰還するものたちに与え“駿河台”なる市街地が形成された。
 神田山開削工事全体が完了したのはその4年後である。1620年12月18日(元和6年11月25日)2代将軍秀忠が親しく工事を巡視、ほどなく完成の運びとなったという。この神田山を開削し、水道橋あたりで付け替えられ隅田川へと流れる川が新たな外堀となり、後に神田川と呼ばれている。
 (出典:日本全史編集委員会編「日本全史>江戸時代>1620(元和6)492頁:進む江戸の大改造計画、神田川の開削なる、住民を洪水から解放」、東京大学史料編纂所・東京都編「東京市史稿>No.3・市街編第3・792頁~800頁:江戸川堀替」、同編纂所・東京都編「東京市史稿:(同上)>東京市史稿>No.3・市街編第4・64頁~65頁:神田川疏濬(そしゅん:浚渫・しゅんせつ)」)

○馬車取締規則制定で安全条項充実(140年前)[改訂]
 1880年(明治13年)12月15日
 
明治時代になると江戸時代にはなかった速度の速い乗り物が登場したが、中でも速度的にも早く安全が重視されたのは“馬車”であり、「馬車取締規則」が制定されたこの年には、全国で現代のバスにあたる乗用馬車1455台、トラックの荷積用馬車337台が道路を行きかっていた。
 馬車に対する交通規則で最も初期のものは、1872年5月(明治4年4月)の「人力馬車規則」だが、安全上の規定は“1.馬遣方巧なる者相選(馬を操る馭者には巧みな者を選ぶ)”、“1.馬車行違候節ハ互ニ左ニ寄り(馬車どうしが行き逢った場合は左に寄る)”、“1.萬一往来人え怪我等為候節ハ、吟味之上其節之始末ニ寄急度曲事申付候間(通行人にケガを負わせた場合は、取り調べの上、事の次第により処罰する)”という程度で、内容はむしろ通行上のマナーを多く規定している。
 翌73年5月(明治5年4月)に出された「馬車規則」では新しく“1.馬車前ニ別當ヲ走ラセ可申事(馬車の走る前に馬の世話頭を走らせること)”としたが、これは江戸時代、牛車等を走らせる時、前触れの人(宰領)を走らせるとした規定と同じである。しかし“1.市中狭隘之道筋ハ自然怪我人之憂モ有之候間(市中の狭隘な道では自然と怪我人が出る危険もある)とし、“通行致間敷候”と走行を禁止しているのは新しい安全規定であろう。
 本題の「馬車取締規則(警視庁布達甲第49号)」になると、第1条:車体検査、第2条:馭者の経験年数、第3条:馭者・馬丁(馬の世話係:厩務員)の鑑札(免許証)、第6条3項:街角、橋の上、市場など人の多い場所での徐行及び乗合馬車の警笛、第6条4項:夜中での灯火掲揚、第9条.乗車定員、第11条.警視官による臨時車体検査、第12条.危険と見られる馬車の運転停止等を新たに規定し、安全条項が増え現在の交通規則類に近くなっている。
 (出典:東大史料編纂所・東京都編「東京市史稿>No.3>市街編第51・913頁~915頁:付記、1人力馬車規則」、同編纂所・同編「同史稿>No.3>市街編第52・961頁~962頁:付記 馬車規則」、同編「同史稿・市街篇第64・291頁~295頁:警視庁布達・甲第49号・馬車取締規則」、山本弘文著「交通・運輸の発達と技術革新:歴史的考察>第2章 移行期の交通・運輸事情」[追加]、同著「同書>第2章>第1表 1875-1890(明治8-23)の諸車台数」[追加]、道路交通問題研究会編「道路交通政策史概観・論述編>第1編 前史>第2章 道路交通法令の制定とその実施の状況>第2 草創期の交通法規」[追加] )

明治13年大阪南の大火「島の内焼」随一の繁華街焼く(140年前)[改訂]
 1880年(明治13年)12月24日
 明治13年の暮れは、大阪と東京で相次いで大火が起きた。
 まず12月24日の午前2時過ぎ、大阪市南区(現・中央区)笠屋町の造花師宅から出火。強い西風に乗って炎は南北にも燃え広がり、北は大宝寺町から南は道頓堀の範囲を東へと延び(建設史夜話)、玉屋町、千年町、東清水町、長堀橋筋(通)      、南綿屋町、鍛冶屋町、竹屋町、問屋町、大和町など各町に延焼(東京日日)、午後1時頃ようやく東横堀で食い止めたが、大阪の中心街の1825戸が類焼したという(建設史夜話)、しかし当時の東京日日新聞(現・毎日新聞)の報道によると合計3384戸類焼とあり、大阪市消防局発行「消防年報・大阪の火災記録」によると約3000戸焼失とあるから、当時の報道の方が正しいと思われる。
 そのほか破壊消防による引き崩し5戸、寺院5か所、学校3か所、警察署などが焼失、消防方の殉職8人、負傷者350~60人の大火となった(東京日日)。
 (出典:玉置豊次郎著「大阪建設史夜話>第20話 明治大阪の大火記録>明治前期の大火の記録 161頁~162頁:明治十三年十二月二十四日 島の内焼」、新聞集成明治編年史編纂会編「新聞集成明治編年史>明治14年1 月 320頁:大阪大火­=三千四百戸焼失(東京日日新聞・1月4日号)」、大阪市消防局編「消防年報・令和3年刊行>付録編>大阪の火災記録(昭和22年以前)214頁:明治13.12.24」[追加])

明治13年東京神田鍛冶町大火。正月準備のすす払い後のゴミ焼が原因、新設の消防本部消防隊奮闘するも
 翌年1月、2月の連続大火で神田・日本橋一帯2万戸以上が焼失
(140年前)[改訂]
 1880年(明治13年)12月30日

 東京の大火は神田区鍛冶町でそれも正月を2日後に控えた30日である。
 火元の民家、鍛冶町35番地岡村長治郎方では、正月を迎える準備で早朝からすす払いをしていたが、5時半頃、すす払いの後のゴミを集めて焼き捨てていたところ、火の粉が折からの強い北風にあおられ舞い上がり屋根に着火、火元の家と周囲数軒を焼き払った後、炎は北から南へ南から東へと風に乗って変転、瞬く間に全町に延焼した。
 炎は鍛冶町一帯から四方へと拡大、一つは西福田町から中の橋を越えて日本橋本銀町へと広がり、今一つはいったん西南に転じて塗師町から新石町へと延焼、そこから横へと延びて白壁町を焼き、更に斜めに延びて千代田町、西今川町、本銀町を過ぎて本石町、本革屋町、金吹町、本町へと次から次へと延焼、その隣の本両替町からさらに延びて駿河町より日本橋川沿岸の北鞘町、品川町など神田、日本橋一帯の町家2188戸を焼失した。焼失面積2万5100坪(8万2830平方m)。また白壁橋、中の橋、土橋も焼け落ち13時半ようやく鎮火した。
 実はこの大火が起こる半年前の6月1日、当時の内務省警視局(現・東京警視庁)に、現在の自治体消防の前身の公設消防組織として消防本部(現・東京消防庁)が創設され、軍隊式に小隊編成の消防隊が誕生したばかりで、これが初の大火に対する出場(動)となった。
 ところが神田では年が明けた1月26日夜半、今度は松枝町から出火し東神田一帯から日本橋、本所、深川まで延焼し1万673戸を全焼させた。翌2月には11日夕刻、柳町から出火して東神田一帯から日本橋の7751戸と、前月焼け残った家々を焼失してしまった。これら3件の連続大火で、神田、日本橋一帯は合計2万612戸全焼、79万5712平方mの広大な範囲が焼損となり、さすがの繁華の地も壊滅した。
 (出典:東京の消防百年記念行事推進委員会編「東京消防百年の歩み>明治中期>神田の大火 42頁~43頁:明治十三年の大火」、国立国会図書館デジタルコレクション「東京市史稿 変災篇第5>明治十三年火災・1080頁~1085頁(577コマ):>12、十二月丗日大火」[追加]。参照:2020年6月の周年災害「内務省警視局に消防本部創設され公設消防組織誕生」))

北里柴三郎、破傷風の抗血清療法発見し論文に発表-しかしノーベル賞は共同研究者のみ受賞(130年前)[改訂]
 1890年(明治23年)12月4日
 
破傷風は人も動物も感染する病気で、土壌中に生息する破傷風菌が傷口から体内に侵入することにより発症し、死亡率は約80%と非常に高い。
 1952年以降、対破傷風のワクチンが導入され、1968年以降、ジフテリア、百日咳、破傷風混合ワクチンの定期予防接種により感染者数は激減、先進諸国では発症報告例は少ないという。
 この破傷風に対し、世界で初めて有効な治療法を発見したのが北里柴三郎である。
 1885年(明治18年)ドイツ・ベルリン大学に留学し、ロベルト・コッホ博士に師事していた北里は、1889年(明治22年)世界で初めて破傷風菌だけを取り出す純培養に成功。翌年、破傷風菌の持つ毒素により同病が発症すること、破傷風の免疫(発症しないようにする)は破傷風免疫血清による同毒素の無毒化によって可能であることを発見した。
 また、この事実を同僚のエミール・ベーリングに提供、ベーリングとともに当時猛威をふるっていた感染症・ジフテリアに応用、これの抗血清療法も発見し論文に発表した。ここから現代の抗体、抗原検査など感染症医学などに通じる“血清学”が始まり、それを最初に証明されたのが“破傷風”についてだと評価されている。
 この日、北里はベーリングとの共著で「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」と題する歴史的論文をドイツ医学週報第49号に発表、そこでは破傷風は北里、ジフテリアはベーリングと分担を明らかにし、49号で破傷風については連名で、次号の50号ではジフテリアについて、なぜかベーリングが単独で論文を発表している。ベーリングがなぜ単独発表を行ったのか、その意図はわからないが、発見の成果を同僚にも提供した近代医学興隆期の明治の人・北里と、当時、科学者たちの間で発見、発明競争の激しかった欧米人・ベーリングの違いだったのかもしれない。
 さらに、この抗血清療法の患者への応用は、病気の発生頻度が高ったジフテリアに応用された。
 論文が発表された1年後の1891年終末には早くも最初の治療が始まったが、抗毒素の防御力が一定しなっかったこともあり成果が得られなかったが、1894年パストゥール研究所のルーが優れた治療効果をもたらす抗毒素の作成に成功、以降、ジフテリア抗血清療法は確固たるものになったという。ここで初めて人間の病気を人間が考え出した方法で制圧でき、科学者たちは歓喜の声を上げ自信をもって病気の制圧へと乗り出していったという。
 翌1901年、第1回ノーベル生理学・医学賞の選考があり、北里はベーリングとともに候補に挙がっていたが、受賞したのはジフテリアの抗血清療法の研究者としてのベーリングだった。
 理由はいろいろ取りざたされているが、まず当時はノーベル賞選考委員会に共同受賞という考えがなかったこと。ジフテリアでの成功が抗血清療法の端緒となり、ベーリングの論文が注目されたこと。また東洋には西洋風の論理的な思考は育っていないとする偏見も介在し、この療法のアイディアはベーリングの創案で、北里は実験結果を提供しただけと評価されたのだとする説もある。
 (出典:日本全史編集委員会編「日本全史>明治時代>1890(明治23)957頁:留学中の北里柴三郎、破傷風の血清療法を発見」、明治・大正・昭和の細菌学者達2>竹田美文著「北里柴三郎-その1>Ⅲ.破傷風菌の純培養、Ⅳ.破傷風の抗血療法」、日本内科学会雑誌第91巻第10号掲載・中瀬安清著「北里柴三郎の破傷風血清療法-血清療法の確立-」)

道路取締令制定左側通行全国的に制度化される。首都東京より20年遅れて(100年前)[追補]
 1920年(大正9年)12月16日
 
始めて歩行者の左側通行が法的に決まったのは、20世紀を迎え交通が激しくなった首都東京である。
 左側通行が全国的に制度化されたこの日より20年ほど前の1900年(明治33年)6月、警視庁は同令第20号として「道路取締規則」を制定し車馬の通行区分を決めたが、歩行者についてはあいまいな部分があり混乱したので、翌1901年(明治34年)警視庁告諭第3号で“将来通行上益々頻繁に赴き(おもむき)交通機関益々複雑と爲り、随って(したがって)之より生ずる危険も亦(また)自ら増加すべく”と、将来予測される交通事情を説明“自今(以降)更に左の件々を遵守し、常に自他の危害予防を怠らず様一層注意ヲ行うべし”と呼びかけた上で、“一 人道車道の区別ある場所に在りては各人道の左側を通行すること”“一 区別なき場所に在りては其左側を通行すること”と歩行者の左側通行を明示した。
 今回制定された「道路取締令」は、前年1919年(大正8年)4月11日に制定された「道路法」第49条で規定された“道路使用と交通の保全”に基づいて内務省令第45号として制定されたもので、その第1条で“道路ヲ通行スル者ハ左側ニ依ルヘシ” 第4条で“牛、馬、諸車等行逢フトキハ互ニ左方ニ避譲スヘシ”と規定され、人も車も左側通行とすることが明文化されて、全国的に実施されることになった。
 実はこの左側通行は、日本以外はイギリスとインドなどかつてのイギリス植民地のほかはあまり実施国がないという世界的に見て少数派だが、日本がなぜそれを取り入れたのかは諸説があって定まっていない。しかし法的な規定をみると、1872年4月(明治5年3月)に出された東京府の「馬車規則」のなかに“馬車行逢候節ハ(馬車が互いにすれちがう時は)互ニ左ニ寄(せ)過失無之機様可致(過失が無いように)(後略)”とあり、すれちがう時は左側に寄せるようにと規定しているのが左側通行を最初に定めたものという。
 (出典:道路交通問題研究会編「道路交通政策史概観 論述編>第1編 前史>第2章 道路交通法令の制定とその実施の状況>第1節 明治期~人力・畜力による交通手段の時代~>第4 道路取締規則と左側通行」、国立国会図書館デジタルコレクション「官報.大正8年4月11日257頁~261頁:法律第58号・道路法」、同コレクション「官報・大正9年12月16日450頁~451頁:内務省令第45号・道路取締令」。参照:2020年6月の周年災害「道路取締規則制定、左側通行決まる」)

国産の側柱式自動交通整理信号機第1号機、京都駅前に設置され標準仕様となり各都市に普及(90年前)[追補]
 1930年(昭和5年)12月

 交差点における交通整理は、1919年(大正8年)9月から警視庁が始めた交通巡査が様々な挙手をして合図をする動きが最初だが、自動交通整理信号機によるものは、2013年(大正12年)9月の関東大震災からの復興を祝う“帝都復興祭”が、1930年(昭和5年)5月に政府主催で開かれるのに際し、昭和天皇、皇后両陛下が東京市内を巡行されるので、巡行路に当たる日比谷交差点に最新式の自動信号機を設置してお見せし、復興のシンボルとしたことによる。
 その後、東京での成功に導かれて国産の自動信号機も開発され、各地方都市、特に大都市では施設費の予算化が図られれば設置を進めようとする動きが高まっていった。
 中でも京都市ではこの1930年(昭和5年)12月、京都市電気局が京都駅前に国産第1号となる側柱式信号機を東京電気(現・東芝)に発注し設置した。
 これは現在のように、信号灯を交差点の四隅に進行方向に対面して設置した最初の信号機で、交通上の支障にならないうえ、広告塔、看板、街路樹などにより見れなくなることもなく、それまでの輸入機より明るさ、光の広がりなど各段に優れていたので、警視庁の交通整理委員会において信号灯器の標準的な設置方法として採択された。そして東京駅前をはじめ翌1931年(昭和6年)6月には東京日本橋と呉服橋、大阪千日前、名古屋など各都市に普及することになる。
(出典:交通信号50年史編集委員会編「交通信号50年史>第1章 概説>1.3 交通信号の発祥期>1.3.3 各都市電気局の動き 26頁~36頁」、同編「同50年史>年表 3頁:昭和5.12 自動式交通整理機国産機設置」、同編「同50年史>図表 15頁:15 自動交通整理信号機の灯器」。参照:2019年9月の周年災害「警視庁、交差点で挙手の合図による交通整理はじめる」、2013年9月の周年災害「大正12年関東地震:関東大震災」、2020年3月の周年災害「自動交通整理信号機、帝都復興祭を機に東京日比谷交差点に初めて設置」)

交通戦争始まる-新・道路交通法施行。事故件数最高時の32%、死亡者も最高時の16%に激減(60年前)[改訂]
 1960年(昭和35年)12月20日
 
前年の1959年(昭和34年)、交通事故による年間死亡者数が初めて1万人を超えた。これは日清戦争(1894年~95年)における日本軍の年間戦死者の数より多く、この状況は交通戦争と呼ばれた。この年1960年、電通広告年鑑ではその年の流行語の一つとしてこの言葉をあげている。
 太平洋戦争(1941年~45年)の戦後復興のため、産業用資機材などを運搬するトラックが年々普及した。交通戦争が叫ばれたこの年もトラック167万台に対して乗用車は49万台しかなく、オートバイが110万台も増えていた。
 交通戦争の主役はトラックとオートバイであった。終戦後15年経っても歩道や信号機の整備、交通規制も十分ではなく、資機材などを運ぶドライバーは仕事に追われ、トラックもオートバイも制限速度を無視した走行がまん延していたという。
 この年の交通事故の死亡者1万2055人、そのうち15歳以下の死亡者が2335人で19.4%。特に交通量の多い東京では15歳以下の死亡者の内、小学生が31.5%、幼児59.5%と多くの幼い生命が失われていた。
 一方、自動車に対する子どもの教育や監視も十分とはいえず、この年の子ども(0歳~19歳)の死亡事故原因は、1位:車の直前直後の横断、2位:飛び出し、3位:幼児の一人歩き、4位:路上遊技となっているが、自動車が交通量の少ない道路を選び、住宅地の中まで進入し事故を起こしたと見られる原因もあった。
 前年の1959年(昭和34年)5月に東京オリンピック1964年(昭和39年)開催が決まり、建設ラッシュによる交通事故の増加を懸念した東京都では、同年11月子どもたちを交通事故から守る「学童擁護員制度(緑のおばさん)」を発足させた。一方、国は歩行者保護に重点をおいた新しい「道路交通法」をこの年の6月25日に公布、施行されたのがこの日12月20日である。
 ちなみにその後の変遷は、交通事故件数は2004年(平成16年)に最高の95万2720件を数えたが、その後は減少に転じ、2021年(令和3年)には30万5196件(2004年の32%)となっている。また交通事故死亡者数は1970年(昭和45年)1万6765人を最高にその後は減少に転じ、2021年(令和3年)には2636人(1970年の15.7%)となり、ドライバー本人の注意も含めて関係者の努力が実っている。
 (出典:警察庁編「平成17年警察白書>第1章 世界一安全な道路交通を目指して>第1節 交通事故との闘いの軌跡」、昭和史研究会編「昭和史事典>1966(昭和41年)616頁:交通戦争」、警察庁編「令和4年警察白書>統計資料>第5章関連>5-1 交通事故発生状況の推移」[追加]、日本法令索引・衆議院制定法律「昭和35年法律第105号・道路交通法」[追加])

昭和36年「三六豪雪(北陸豪雪)」国鉄始まって以来の大雪害(60年前)[再録]
 1960年(昭和35年)12月25日~1961年(昭和36年)1月2日
 12月下旬に入り、シベリア・バイカル湖南方に優勢な高気圧が現れ日本付近に張り出してきた。このため12月25日から翌年1月2日まで日本海側の新潟県、富山県を中心に福井、石川、長野、群馬、福島、山形、秋田各県で1945年(昭和20年)1月以来の豪雪となった。
 特に新潟県では記録的な豪雪となり、長岡市の信越本線塚山駅では1月2日に最深積雪3.9mを記録したのを始め、長岡市、小千谷市、高田市(現・上越市)で2m以上の積雪を観測した。
 この豪雪のため国鉄の上越、信越、北陸各線を始め、羽越、東北、奥羽各線で12月29日から1月1日にかけて旅客列車80本以上、貨物列車50本以上が立ち往生し、500kmに及ぶ区間の交通がほとんど全面マヒ状態になるという国鉄始まって以来の大雪害となった。 この豪雪による被害、39人死亡、40人負傷、旅客列車の乗客約15万人が車中で越年、旅客・貨物列車の12月29日から1月4日までの運休1463本。
 (出典:宮澤清治著「近代消防連載 106頁~109頁:災害史シリーズ110、気象災害史98:正月帰省客の足を奪った年末年始の大雪」、同著「同誌連載 90頁~93頁:災害史シリーズ182、気象災害史170:1960年の年末から正月にかけての北陸・山陰地方大雪」、小倉一徳編、力武常次+竹田厚監修「日本の自然災害>Ⅱ 記録に見る自然災害の歴史>5 昭和時代中期の災害>昭和時代中期の主要災害一覧215頁:昭和35.12.26~新潟県・北陸地方豪雪」)

自治省(現・総務省)消防庁、火災・爆発事故対応の石油コンビナート地帯防災対策要綱制定
 -5年後海洋汚染も含めた災害防止法制定へ(50年前)[追補]
 1970年(昭和45年)12月7日
 
石油コンビナートとは、石油関連企業相互の生産性を向上させるために、原料、燃料および工場施設を計画的、有機的に結び付けた工場施設をいうが、取り扱う原料、製品等の発火、爆発の危険度が高いので、この日制定された「防災対策要綱」において、その工場施設のある区域一体に対する防災対策を立てた。
 日本の石油コンビナートは、太平洋戦争(1941年~1945年)後の復興期を抜けたいわゆる高度経済成長期の軽工業から重化学工業への転換期に設立され、1958年(昭和33年)に総合石油化学工場として稼働した三井化学岩国大竹工場(2012年:平成24年4月、爆発事故を起こす)が最初であり、ついで住友化学が石油化学工業へ進出を図り、新居浜市の愛媛工場にコンビナートを建設している。
 しかし、石油コンビナート地域の陸上施設や石油タンカーなどに火災が起きた場合、大規模で特殊な様相を呈した大災害になる可能性があることは1956年(昭和31年)に建設が決定された当時から予測されていたが、具体的に「防災対策要綱」が制定されたのは14年後のことである。大資本の事業所に対して規制を要する対策は、防災上といえども慎重を期せざるを得なっかたのであろうか。
 消防庁長官は1966年(昭和41年)11月、消防審議会会長へ“社会経済の進展に伴い多発化するおそれのある特殊災害、特に石油コンビナート地帯(中略)における火災に対処すべき方策について”諮問、同審議会は翌1967年(昭和42年)5月“石油コンビナート地帯に起こる災害は、国民経済上に甚大な被害を及ぼすばかりではなく、地域住民の社会生活上にも広はんかつ、深刻な影響を与えるものである”とし、災害対策としてあるべき措置について答申した。
 消防庁ではこれを受け、① 化学消防ポンプ車、消防艇の整備のための国庫補助、② 海面火災に対する特殊な研究の実施、③ 海上保安官署と市町村消防との業務協定の改訂、④ 地域防災計画のなかにおける石油コンビナート地帯防災対策の確立、⑤ 地域協議会等の組織の整備、⑥ 企業間および市町村消防の相互応援体制の推進、⑦ 泡消火剤の協働備蓄の推進、⑧ 防火訓練実施の推進。などの対策を推し進めた。
 さらにこの日「石油コンビナート地帯防災対策要綱」を制定、そこでは都道府県及び市町村に対してそれぞれ具体的に、責務として防災計画の作成、組織体制として防災会議の結成や相互応援体制の確立、災害防止として必要な設備資材の整備、防災訓練の実施及び関係企業に対する指導内容などについて規定し、その実施時期と消防庁への報告要領を定め、各都道府県知事あてに通達した。
 ところが4年後の1974年(昭和49年)12月、岡山県倉敷市にある三菱石油水島製油所の5万キロリットル屋外タンクが損傷して重油が噴出、工場構内から流出し水島湾を汚染しただけでなく、岡山県沿岸一帯からさらに対岸の香川、徳島両県域の水面までに拡大、瀬戸内海東部一帯で深刻な海洋汚染を引き起こした。海上への重油流出量は500から9500キロリットルと推定され、内海への原油流出量としては世界一級規模で、水産業に対すの被害は当時の金額でも約168億円(現在の価格で約310億円)と推定された。
 それまでの消防庁を中心とした国の対応は火災や爆発事故に対応したものであったが、この重油流出事故により、海洋汚染対策を含む対応に迫られ、この事故1年後の1975年(昭和50年)12月「石油コンビナート等災害防止法」成立となる。
 (出典:消防庁編「過去の答申>石油コンビナート地帯における総合的な災害対策に関する答申」[追加]、国立国会図書館デジタルコレクション・消防庁編「昭和46年版消防白書>第2 各論>災害防止対策の推進 135頁~137頁(77コマ):(4)石油コンビナート地帯防災対策の推進」、同編「同白書>付属資料 268頁~277頁(144コマ):16 石油コンビナート地帯防災対策要綱」、 衆議院制定法律「昭和50年法律第84号・石油コンビナート等災害防止法」、石油コンビナート等災害防止3省連絡会議資料「石油コンビナート等における事故情報(令和2年)」[追加]、消防庁編「令和2年中の石油コンビナート等特別防災区域の特定事業所における事故概要」[追加]。参照:2014年12月の周年災害「三菱石油水島精油所、タンク破損重油流出事故」)

○公害国会で論議、公害関係14法案成立(50年前)[再録]
 1970年(昭和45年)12月18日
 日本経済は1955年(昭和30年)ごろ太平洋戦争(1941年~45年)前の水準に復興し、その後、約20年間に及ぶさらなる高度経済成長期を迎えた。
 しかし一方、環境対策もない鉱工業なかでも化学産業の発展は、新たな問題“公害問題”を引き起こした。1956年5月の水俣病患者公式発見を皮切りとする工場廃水や排煙による汚染問題、自動車排気ガス汚染問題などが多発した。
 これら公害が全国化することを受け国では、1958年12月「公共水域の水質の保全、工場廃水等の規制に関する法律」を公布、1960年10月には厚生省が公害防止調査会を設置、1962年6月には「ばい煙の排出規制等に関する法律」を公布、1964年4月には厚生省環境衛生局に公害課を新設、1967年8月には「公害対策基本法」を施行、1968年6月には「大気汚染防止法」を公布、1969年5月には初の公害白書発表するなど一連の対策をとって来た。
 しかし公害問題が進む中で、この年の11月に開会された第64回臨時国会では、同問題に関するこれら法令の抜本的な見直しと整備を行ったことから“公害国会”と呼ばれたが、公害防止に対する国の基本的姿勢の明確化、公害の範囲の明文化、規制の強化、自然環境保護の強化、事業者責任の明確化、地方公共団体(自治体)権限の強化についてなど、画期的な国会論議を行い「公害対策基本法」「大気汚染防止法」「農薬取締法」などを改正、新たに「公害犯罪処罰法」「海洋汚染防止法」「水質汚濁防止法」「農用地土壌汚染防止法」「廃棄物処理法」など14法案を成立させた。また翌1971年7月には、これら環境政策の進展のため環境庁(現・環境省)を発足させたのである。
 (出典:環境省編「EICネット>環境用語>公害国会」、総理府編「昭和46年版 公害白書>総説>第4節 公害対策の進展と今後の課題>1 公害委対策の進展」。参照:2018年9月の周年災害〈下巻〉「政府統一見解で水俣病を公害病に認定」[改訂]、2020年8月の周年災害「田子の浦ヘドロ公害事件-水質汚濁防止法成立」[改訂])

貨物船尾道丸遭難沈没事件。横浜地方海難審判庁、造船、海運業界へ改革の道筋をつける(40年前)[追補]
 1980年(昭和55年)12月30日
 船歴15年余の貨物船尾道丸(3万3833トン、全長226.4m、乗員29名)は、27日アメリカ・アラバマ州モービル港で製鉄用粉炭5万300トンを積載、坂出、尼崎両港へ向け太平洋を西に向かい航海中、29日になり中心気圧980ミリバールの低気圧の影響により本州東方1000海里(1852km)ほどの地点で西寄りの風が強まったので、機関の回転数を減らし速力を落とした。
 その後風が強まり、波頭がそびえ飛沫がその波頭から吹き千切れる状況となり風力も8を観測したので、念のため針路を反転し船体の点検を行ったところ特に異常が見られなかった。そこで針路をもとに戻し激しい風や波に抗して縦揺れを繰り返しながらも進行中、多量の海水が甲板上に打ち上げる状況になり、午後2時30分、野島埼南方海上約800海里(約1500km)の海上で、船首が前方からの大きな波に突っ込んだ際、船体が一番貨物倉の後端部で折れ、船首が上方に曲がり、波の動きで上下動を繰り返したのち船首部は切断され、午後4時49分海に沈む。
 乗組員は残った船体に集まり、翌30日午後2時37分、遭難信号を発し救援を持っていたところ、付近を航行中の“だんびあ丸”により全員救助される。残った船体はサルベージ船で曳航中、2月11日沈没。
 遭難沈没の原因として、横浜地方海難裁判庁は“(嵐による)荒天水域が存在することを知った際の荒天避航(荒天を避ける航行)及び荒天中の操船並びに一番貨物倉中央付近の建造時における剛性(強度)の確保及びその後の腐食衰耗に対する点検整備について、それぞれ十分な方策が講じられていなかったことに因る”と結論付け裁決した。
 また裁決の結びとして出された遭難防止上の要望事項、① 外界条件及び操船条件が波浪荷重(波浪により船体に加えられる力)及び船体応答(船体の動揺や振動、船体各部分対応力)に及ぼす影響の解明、② 運航マニュアルの整備と活用、③ 気象情報の充実と活用、④ 船体の腐食衰耗(おとろえ)の点検整備などは、造船、海運業界に一石を投じその後の造船、船体整備を革新させ、科学的な航海へと改革の道筋をつけた。
 (出典:海難審判庁編「日本の重大海難>昭和50年代>2.貨物船尾道丸遭難事件、横浜地方海難審判庁裁決「昭和56年横審第75号 貨物船尾道丸遭難事件」)

昭和55年「五六豪雪」3か月半にわたる豪雪が突入した車社会をマヒ(40年前)[改訂]
 1980年(昭和55年)12月~1981年(昭和56年)3月
 12月中旬、日本海北部からオホ-ツク海に進んだ低気圧が発達したのち停滞、強い冬型の気圧配置が続いた。このため、日本海側の各地が大雪となり、全国的に低温の日々が続いた。24日には本州の東海上で低気圧が発達し東北地方や北海道の太平洋側でも大雪となり、山沿いの地方では降雪量が100cmを超え、着雪や強風による送電線切断や鉄塔の倒壊が相次ぎ、東北地方で約60万戸が停電、国鉄(現・JR東日本)東北本線の長距離列車がストップした。また福島、宮城県沖で漁船の遭難被害が多発(クリスマス寒波)。
 その後、年末29日から30日にかけて、再び強い冬型の低気圧配置が続き今度は北陸地方を中心に大雪となり、30日には国鉄北陸本線が36時間運休し正月の帰省客の足を止めた。岐阜県高山市では観測開始以来の、福井市では63年ぶりに積雪が100cmを超え、山間部では300cmを超えた。
 1月に入って、再び低気圧が北陸地方を中心に大雪を降らせ、全国的にも気温が低く、特に1月上旬半ばから中旬に日本海側では大雪となり、15日には最深積雪は福井県敦賀市で196cm、山形で113cmなど観測開始以来の記録を更新した。また鉄道の運休などで孤立する集落が多く出た。
 2月上旬前半は引き続い日本海側が大雪となり、福島県会津若松市で115cmと最深積雪を観測、2月中旬、いったん移動性高気圧に日本列島が覆われる日もあるなど寒さは緩んだが、月末には再び非常に強い寒気が入り、日本海側では1日の降雪量が30~40cm記録するなどみたび大雪に見舞われた。
 この期間内の各地都市部の最深積雪量は、北海道倶知安町197cm、同小樽市157cm、山形県新庄市188cm、新潟県高田(上越市)251cm、富山県富山市160cm、同伏木(高岡市)154cm、福井県福井市、同敦賀市196cm。山間部では新潟県奥只見で525cm、長野県森宮野原430cm。
 全国の被害、133人死亡、19人行方不明、2158人負傷。住家全壊165棟、同半壊301棟、同床上浸水732棟、同床下浸水7365棟。中でも高度経済成長期で車社会へ突入した当時、積雪により車両が路上で立ち往生し、それが除雪作業の邪魔物となり交通マヒを引きおこす原因となるという状況となった。
 (出典:気象庁編「災害をもたらした気象事例>昭和20年~63年>昭和56年豪雪」、宮澤清治+日外アソシエーツ編集部編「台風・気象災害全史>第Ⅰ部 大災害の系譜>CASE36 56豪雪」)

平成2年、外房地方戦後最大の竜巻被害、トラック、バス竜巻で吹き飛ぶ(30年前)[再録]
 1990年(平成2年)12月11日
 
11日18時ごろから19時45分にかけて千葉県内数か所で竜巻が発生し、当時戦後最大と言われた被害となった。 まず11日18時ごろ、千葉県房総半島南部の丸山町(現・南房総市)と鴨川市付近で発生、外房海岸沿いの内陸部約100kmを約1時間45分かけて北上、進路にあたった各地では、民家を持ち上げたり屋根瓦を飛ばしたが銚子市に入り突風となって消滅した。
 また18時50分ごろ今度は富津市付近で発生、19時13分に茂原市付近で発生したときは最大の力を発揮、10トン大形ダンプカーを吹き飛ばし、マイクロバスを持ち上げ回転させた。また大網白里町でも発生。
 竜巻による被害は茂原市で一番多く、1人死亡、6人重傷、67人軽傷。住家全壊82棟、同半壊161棟、同一部損壊1504棟。停電1万4600戸、電話不通1515回線。
 (出典:気象庁編「竜巻等の突風データーベース>年代別の事例一覧>1981年~1990年>千葉県鴨川市で発生した竜巻」、宮澤清治著「日本気象災害史>第Ⅰ章 春 16頁~18頁:トラック・乗用車、竜巻で吹き飛ぶ」、宮澤清治著「近代消防連載>災害史シリーズ60、気象災害史48:師走の竜巻 房総半島を縦断」)

平成23年「山陰豪雪)死亡者の多くが除雪作業中の高齢者、元日に交通災害発生(10年前)[追補]
 2010年(平成22年)12月~2011年(平成23年)2月
 この期間、冬型の気圧配置が長続きし、気温の低い時期と寒気の影響が弱く気温の高い時期との対照が全国的に際立っていた。
 特に12月の終わりから1月末にかけて、日本付近に強い寒気が断続的に流れ込み、ほぼ全国的に気温の低い日々が続いた。なかでも寒気の影響で西日本と沖縄、奄美諸島では1月の気温が15年ぶりに低くなった。
 特に西日本山間部と山陰地方を中心に大雪が降り、山沿いでは積雪が300cmを超え、北陸の一部も含めて22地点で1日の最深積雪量が観測史上1位を更新した。例えばその地点は、滋賀県柳ヶ瀬(長浜市)249cm、福井県今庄(南越前町)244cm、山形県向町(最上町)212cm、広島県八幡(広島市佐伯区)207cm、秋田県矢島(由利本荘市)177cm、同県湯沢市175cm、島根県赤名(飯南町)152cm、岡山県上長田(真庭市)137cm、島根県横田(奥出雲町)119cm、福井県武生市116cmなどで、広島県八幡の2月13日、岡山県上長田の1月17日以外はすべて1月31日ないし2月1日に記録している。
 またこの期間中の被害は、全国で住家全壊9棟、同半壊14棟、一部破損623棟、同床上浸水6棟。死亡者131人、負傷者1537人だが、中でも除雪作業中の死亡者が76%、65歳以上の高齢者の死亡者が66%を占めている。近年、雪崩などによる犠牲者が少なくなった半面、豪雪地帯や特別豪雪地帯で建設業者が14%減少した影響で、除雪作業を依頼する先が少なくなり、高齢者が直接自宅の除雪作業を行い、犠牲になる事例が多くなっていることで社会問題化し、国は具体的に対策を呼びかけているが、根本的な地方の高齢化、過疎化に対する政策がなされていない。
 また交通災害も多く発生、鳥取県では12月31日、大山に雪崩を起こさせた大雪の影響で、国道9号線ではタンクローリー車がスリップし道路をふさぎ、翌1月1日未明、約23kmにわたり約1000台の車両がストップ。また同日JR山陰本線と伯備線では列車264本が運休及び部分運休し約1万2000人に影響が出た。米子空港、鳥取空港も閉鎖され計15便が欠航。
 (出典:気象庁編「冬(12月~2月)の天候・平成23年3月1日報道発表」、国土交通省編「平成22年度、平成23年度の大雪の被害概況と課題>1,被害概況、2.除雪作業中の事故等」、中井専人+山口悟著「平成 23 年豪雪時の降雪特性と雪氷災害の発生-全国概況と鳥取の集中豪雪-」、消防庁編「令和2年版消防白書>2.雪害対策の現状」、内閣府+国土交通省編「よくある除雪作業中の事故とその対策」)

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気象災害(中世・江戸時代編)

気象災害(戦前・戦中編)

気象災害(戦後編)

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火災・戦災・爆発事故(中世編)

火災・戦災・爆発事故(江戸時代編)

火災・戦災・爆発事故(戦前・戦中編)

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