【目 次】

・本牧沖に初の近代的灯台船、夜間入港の道しるべに浮かべる。不平等条約の思わぬ成果(150年前)[改訂]

・函館明治12年「堀江町大火」主要官公庁、銀行、企業など市街地の4割を焼失(140年前)[再録]

・後藤新平、わが国初の民間衛生団体“愛衆社”設立 、
 民間の医療関係者による近代的医療・衛生の確立に根ざした健康な国民生活を目指す(140年前)[再録]

・東京日本橋明治12年の大火-翌年東京に公設常備消防誕生(140年前)[再録]

・柴田承桂、わが国初の公衆衛生に関する著述「衛生概論」出版。
 近代的医療・衛生の確立を目指す活動の一翼をになう(140年前)[改訂]

・警視庁消防部、携帯用消防電話を開発設置し、現場の消防隊から直接に応援出場要請可能に
 -消防無線に受け継がれた発想(100年前)[改訂]

・大阪アルカリ株式会社事件。大審院による初の公害事件判例、企業側に有利な判断その後踏襲される。
 ただし差戻裁判で差戻理由を逆手に取り原告側勝利(100年前)[再録]

・火薬積載トラック衝突・爆発事故、走る火薬庫に居眠り砂利トラが追突、罰せられたのは被害者、
 ずさんな法改正で危険は今も去らず(60年前)[改訂]

・残留BHC牛乳汚染問題で生産中止、国、府県の調査で残留汚染明確に(50年前)[再録]

・公害病救済特別措置法を制定、緊急に救済を必要する被害に対し行政上の救済措置行う(50年前)[再録]

・海上保安庁四日市海上保安部、工場排水垂れ流し容疑で石原産業四日市工場立ち入り検査し刑事告発。
 数々の大企業の違法行為を捜索、同保安部田尻課長、退職後公害Gメンとして一生捧ぐ(50年前)[追補]

・原子力災害対策特別措置法施行される、JCO臨界事故を受け原子力事業者の防災責務盛る。
 -防災基本計画も全面修正へ(20年前) [改訂]

【本 文】

○本牧沖に初の近代的灯台船、夜間入港の道しるべに浮かべる。不平等条約の思わぬ成果(150年前)[改訂]
 1869年12月21日(明治2年11月19日)

 横浜の東京湾本牧沖に、近代的灯台船の始まり、本牧灯台船戒礁丸(略称・本牧灯船)が現れこの日はじめて点灯した。これにより、同じ年の1869年2月10日(明治2年1月1日)に、いち早く初点灯した日本初の西洋式近代的灯台・観音埼灯台とともに、東京湾を通行し横浜港に入港する船舶を守ることになった。
 実は、観音埼灯台と灯台船が東京湾に現れたのにはわけがある。
 この日より6年半ほど前の1863年6月25日から7月16日(文久3年5月10日から6月1日)にかけて、当時、勤王攘夷(天皇を戴き、夷人:西洋人を排撃する)活動の中心であった長州藩の若侍たちが、関門海峡を通過するアメリカ、フランス、オランダ各国の商船や軍艦などを砲撃、これに対しイギリスを加えた4か国の連合艦隊が、翌1864年9月5日(同4年8月5日)、長州藩の下関砲台を攻撃これを占領するという事件を起こした。
 同年10月22日(元治元年9月22日)「下の關取極書」とする、4か国と長州藩との講和取り決めが取り交わされ、賠償金交渉は長州藩の主張により幕府と行うことになったが、イギリスが4か国をリードして、賠償金300万ドルの3分の2を放棄する代わりに、兵庫(現・神戸市)の早期開港と日本側の輸入関税の税率軽減などを要求した。
 根拠としたのは、安政5年6月(1858年7月)に江戸幕府が調印した「日米修好通商条約」の付属文書「貿易章程」第7則第4類の“神奈川開港後五年に至り(1864年7月以降)”“入港出港の税則を再議すべし”とした条文である。
 これは“日本役人より談判次第”と前文にある通り日本側の要求により発効するものだが、それを逆手に取り、1866年6月(慶応2年5月)、4か国は兵庫沖に連合艦隊を集結、幕府側はその威力に押されて、同要求を組み込んだ条約(改税約書)に調印をしたと伝えられ、幕末締結の一連の不平等条約の事例として、明治時代の民衆運動“不平等条約改正”の大きな目標の一つとなった。
 しかし、この条約の中に欧米諸国が日本との貿易において船舶の入、出港が盛んに行えるようにと、次の条文が加えられていた。“第11条 日本政府は外國交易の為め開きたる各港最寄船々の出入安全のため灯明臺(灯台)浮木(浮標:ブイ)瀬印木(浅瀬や岩礁等のあることを標示する障害標識)等を備ふへし”と。そして条約締結後、灯台や灯台船、浮標などの航路標識が整備されるようになり、欧米の船舶だけでなく、わが国の船舶の航行の安全も保障されるようになったのである。
 中でも灯台船は神奈川港のほかに函館港にも設置されたが、本牧沖に現れた灯台船戒礁丸は、1868年9月(慶応4年8月)現在の横浜市中区北仲通の位置に造船所が建てられ、同年11月(明治元年10月)に、日本灯台の父と呼ばれているイギリスの建築家ブラントンの指導監督の下、日本人船大工の手で建造に着手、翌1869年12月(明治2年11月)竣工、同月21日(11月19日)本牧沖に姿を現し点灯している。
 その船体は木造で長さ約21m、積載量130トン、外板は厚さ約5cmのケヤキ板で、甲板にはヒノキ及び杉を使用した。紅色灯が高さ約12mのメインマストの上に取り付けられ、約1.5トンの鎖2個で碇置された。紅色灯の光力は10海里(18.5km)の先にまで達したと「横浜名所図会」に紹介され、濃霧の時は5分ごとに5点(回)づつ警鐘を鳴らし航行の安全に貢献した。ちなみに本牧沖には荒州と呼ばれた難所があり、漁師たちにとっても灯台船の明かりは夜の操業の助けとなり、本牧灯船・戒礁丸は地元では親しく“アカフネ”と呼ばれたという。
 なお、ブラントンが今ひとつ指導監督して建造され、1871年(明治4年)に函館港に碇置された灯台(灯明)船も、暗礁に注意を与える船“戒礁丸”と呼ばれた。
 (出典:本牧のあゆみ研究会編「本牧のあゆみ>Ⅱ 歷史あれこれ>14 本牧ことはじめ 59頁~60頁:(2) 本牧の燈台船」、日本全史編集員会編「日本全史>江戸時代>1863(文久3)891頁:下関で長州藩が外国船を砲撃、列国、報復攻撃へ」[追加]、同編「同書>1864(文久4・元治1)895頁:4国連合艦隊が下関を攻撃、わずか1時間で砲台破壊」[追加]、同編「同書>1866(慶応2)902頁:欧米4か国と輸入税軽減の協約、貿易の不平等強まる」[追加]、国立国会図書館デジタルコレクション外務省編「締盟各国条約彙纂.第1編 760頁~769頁(396コマ~):日本開きたる港々に於て亜米利加商民貿易の章程(貿易章程)」[追加]、同コレクション・同編「同書>同編>318頁~320頁(175コマ~):下の関取極書」[追加]。同コレクション・同編「同書>同編 321頁~331頁(176コマ~):改税約書」[追加]、外務省編「特別展示・日米関係のあけぼの:1852-1866展示史料一覧>17.改税約書」[追加]、道南ブロック博物館施設等連絡協議会編・コラムリレー(第9回)「函館港のパノラマ写真-明治25年11月6日写>○灯明船」。参照:2018年11月の周年災害「日本初の近代的灯台、観音埼灯台着工」[改訂]、2019年3月の周年災害「浮標(プイ)が初めて富津州西端に配置される」[追加])

函館明治12年「堀江町大火」主要官公庁、銀行、企業など市街地の4割を焼失(140年前)[再録]
 1879年(明治12年)12月6日~7日

 午後8時半頃、堀江町(現・末広町)より出火、炎は折からの東南東の烈風にあおられて各地に飛び火した。
 地蔵町へ飛び火した炎は上大工町から下大工町をひとなめにし、内澗町へ飛んだ炎はそこからまた4、5か所へ飛び火、八幡坂から会所町まで広がり、下通りにある旧官舎数戸を焼き払った後、警察署からイギリス領事館及び同領事の私宅まで燃え移りそのあたり一円を焦土と化した。
 上通りに飛んだ炎は第一公立女学校から隣接する伝習所へと燃え広がり、元町の片側をすべて焼き尽くした。この時、北海道庁函館支庁の際まで炎が進んでおり、建築中だった文庫(図書、史資料収蔵庫)の上屋や門長屋、貸付係詰め所と租税係詰め所の屋根、区務所の床下など数か所に飛び火して燃え上がったが、駆けつけた官員たちの奮闘もあり支庁舎は何とか無事だったという。
 一方、元町片側をなめた炎は、愛宕町の官立仮病院に燃え移り天神町まで延焼した。また大通り大町の2,3か所にも飛び火して松陰学校と当時建築中だったクラブ(上流市民の社交場)や旧官舎など7棟を焼いた。また富岡町の東本願寺本堂に飛び火し延焼してきた炎は火勢がもっとも烈しく、花谷町、茶屋町周辺の2,3か所に飛び火し、すぐさま上通り天神町から上新町、下新町、台町まで炎の勢いを伸ばし山背町の大半を焼失して翌7日午前4時すぎようやく鎮火した。
 この火災は放火によるものと推定されているが、焦土と化したのは函館山のふもと一帯の街の主要部分で、特にイギリス領事館をはじめ官立病院、警察署など官庁、学校、郵便局、銀行や企業の建物などが全焼した。被害は住家が33町の2326戸、土蔵66棟、板蔵431棟、レンガ造家屋1棟、石造家屋1棟。なかでも火災に強いと思われた石造家屋は、戸や扉に充分に目塗りをしたが、扉の鉄板が強烈な熱によってことごとく反り返り、屋内に炎を呼び込んでしまっている。
 この大火で、主要官公庁、銀行、企業をはじめ、当時の市街地の4割を焼失、市民の3割1万人以上が被災したので、函館は一時期ほとんど消滅したようになったという。
(出典:函館市消防本部編「函館の大火史>明治に入って>8 明治12年12月6日」、冨原章著「函館の火災誌>開拓使時代の火災>明治12年 68頁~74頁:12月の火事(堀江町大火)」)

後藤新平、わが国初の民間衛生団体“愛衆社”設立
 民間の医療関係者による近代的医療・衛生の確立に根ざした健康な国民生活を目指す(140年前)[再録]
 1879年(明治12年)12月24日
 
後藤新平といえば、1923年(大正12年)9月に起きた関東大震災の復興を内務大臣兼帝都復興院総裁として担当、その壮大な復興計画は当時の地主など既得権益者たちから猛反対されたが、曲がりなりにも達成された計画が、現在の東京の都市としての骨格をつくったことで知られている。しかし、名古屋は後藤が最初に就職した土地ではあるが、その功績についてはあまり知られていない。
 後藤新平は福島県の須賀川医学校(公立岩瀬病院内学校)を卒業後、恩師の安場保和が1875年(明治8年)10月、愛知県令(県知事)に任命され赴任するのを機に、愛知仮病院・医学講習所(現・名古屋大学医学部)に医者として就職した。時に18歳である。その後才能を認められ、1880年(同13年)5月、22歳で同校校長心得、翌1881年(同14年)10月には愛知医学校・愛知病院と改称された同校の校長兼院長となった。
 翌1882年(同15年)4月、時の薩摩藩(鹿児島県)と長州藩(山口県)出身者による独裁的な薩長藩閥政府に対する反対運動を指導していた自由党総理・板垣退助が、遊説先の岐阜で政府側の暴漢に襲撃された。後藤は政府を恐れて誰も治療に行かないことを知り、急きょ岐阜に駆け付け板垣を救ったエピソードはよく知られている。
 日本赤十字社創設者の佐野常民らが起こした大日本私立衛生会よりも3年半も早く、後藤がわが国で初めての民間衛生団体“愛衆社”を設立したのはこの間の事である。
 5年前の1874年(明治7年)8月、明治政府は近代的な医事衛生制度について規定した「医制」を公布、以来愛衆社設立と同じ12月には、東京医学校(現・東京大学医学部)初代製薬学科教授の柴田承桂が、わが国初の公衆衛生に関する著述「衛生概論」を出版するなど、健康な国民生活を目指し、官民挙げて近代的医療・衛生の確立を求めて努力を重ねていた。愛衆社は、それら活動を医療に関係する仲間が集い、情報を交換し学び合うことによって果たして行こうとするものであった。
 その同じ年1879年(明治12年)は、コレラが史上最大の流行となり、政府の出した「虎列刺(コレラ)病予防仮規則」を巡って国民の間で誤解による反対運動“コレラ一揆”が起こっていた。医療関係者は一日も早く、近代的な医療と衛生活動について自らが学び、患者を治療すると同時に国民を啓蒙する必要があった。
 1879年12月のこの日設立された愛衆社については、同社設立の趣旨とその後の変遷について、1889年(明治22年)4月発行の「名古屋医会第壱報告」に記録されている。
 同社は、後藤が提唱し同僚の石川、瀧浪両教官が参加、後藤が社長となった。また同社の目的は“衛生及医事ニ関スル諸件ヲ論断シ、各自ノ疑ヲ質シ、惑ヲ解キ、長短相裨補シテ其隆盛ヲ謀ル”にあり、ドイツ医学を中心とした当時の新しい衛生や医事に関する情報を相互に交換しながら“疑ヲ質シ、惑ヲ解キ”学ぶところにあった。
 同社はその後“大ニ世ニ唱道シテ衛生会ノ必要ヲ公衆ニ想起セシメタリ”とPR活動を行い“有志ノ士輩翕然トシテ之ニ応シ”と新会員も集まり、翌1880年(同13年)2月から独自の事業を始めている。その内容は年4回の総会と月2回の医事講究会(物事を深く調べ明らかにする会合)を行い、雑誌「四季医報」を発刊して研究成果や新しい医事情報などを掲載した。
 初代社長となった後藤は、1882年(同15年)2月、軍医の石黒忠悳に勧められて名古屋を去り、東京の内務省衛生局に勤務、官僚への道を歩み数々の業績をあげることとなるが、残された愛衆社では社長が交代し事業は進められた。
 一方、1888年(同21年)9月、愛知県衛生課長心得の山川省が主唱した名古屋私立衛生会の設立総会があり、会則を審議する際、出席した会員から愛衆社とその目的が同じであり、同地に並立してそれぞれの活動を行うよりは両社が合併した方が良いのではないかとの動議が出された。愛衆社もそれを受け、総会において名古屋私立衛生会との合併を可決、名称を「愛知私立衛生会」とし従来にもました活動を進めることになる。
 (出典:国立国会図書館デジタルコレクション・鈴木鋲次郎編「名古屋医会第壱報告>第九款 名古屋医事及衛生社会報告 225頁~233頁(126コマ~130コマ):愛知私立衛生会」、名古屋大学医学部史料室編>「6. 愛知医学校長後藤新平」。参照:2013年5月の周年災害「佐野常民、長与專齋ら大日本私立衛生会設立」、2014年8月の周年災害「医制発布され近代的医事衛生制度発足」、下記「柴田承桂、わが国初の公衆衛生に関する著述・衛生概論出版」、2019年3月の周年災害「明治12年、コレラ史上最大級の流行始まる」[改訂]、2019年6月の周年災害「内務省、急きょ初の感染症予防法規:虎列刺(コレラ)病予防仮規則を布告-コレラ一揆起こる」[改訂])

東京日本橋明治12年箔屋町の大火-翌年東京に公設常備消防誕生(140年前)[改訂]
 1879年(明治12年)12月26日
 この年、東京の中心、日本橋区(現・中央区日本橋)では、3月17日の蛎殻町での493戸を皮切りに、100戸以上が焼失する火災が6回も起き、区民は不安におびえていたという。
 その上、12月下旬から東京市内では北西の強風が吹き荒れていた。その最中の26日も前夜から烈しい風が吹き、屋根瓦は飛び交い、至る所で樹木がなぎ倒され、通行人も吹き飛ばされるほどだった。
 そうした状況の中で正午頃、箔屋町(現・日本橋三丁目)の左官職福地岩次郎宅から、主人と髪結い(現・美容職)の女房もともに仕事で出かけていた留守、消し壺(炭の残り火をしまう壺)の不始末により出火した。
 火元は、問屋や商家の立ち並ぶ日本橋の中心街で、たちまち炎は屋根瓦も飛ぶほどの強風にあおられて火勢を強くし、箔屋町から榑正町、下槙町へと延び、そこから東南へと飛び火し四方へ拡大した。
 京橋に入った炎は、中橋和泉町から南伝馬町一、二丁目の街裏伝いに松川町へと延焼、そこから東の方向に転じ、弾正橋から斜めに築地一帯を灰としたうえ、海を隔てた佃島まで飛び火した。また、もう一方の炎の流れは北に進み、新右衛門町をひとなめにした後、東に折れて材木町二丁目河岸から八丁堀へと足を伸ばし、三代町二丁目へと延焼、そこから斜めに北へ越前堀まで一気に焦土として、これも佃島へ飛び火し、午後7時15分ごろ鎮火した。
 被害は日本橋の中心街から京橋一帯に及ぶ65町、6552棟、1万613戸が焼失、焼損面積24万4972平方mに及んだ。主な建物では、日本橋名物になっていた豪商たちの黒塗りの土蔵60余棟が、扉の目塗りをする間もなく全焼。坂元町の警視第一方面第四分署、築地河岸の水上警察署の建物が全焼するなど、学校2校、神社2か所、橋梁2か所、築地河岸に繋留してあった公用船6隻が焼失。消防組まとい持ち1名を含む24人死亡、84人負傷、3万6000人ほどが焼け出されている。
 当時、東京の消防部隊は、江戸時代の町火消の後身であるボランティアの消防組(現・消防団)しかなく、東京の経済の中心である日本橋が度重なる火災に見舞われても、手の施しようがなかった。そこで政府もやっと重い腰を上げ、翌1880年(明治13年)6月、内務省警視局(現・警視庁)の下に消防本部(現・東京消防庁)を創設、消防職員に当たる掛官員(担当役人)を採用、職制も決め、隊員342名、ポンプ12両の装備による公設の常備消防組織を発足させた。
 (出典:東京の消防百年記念行事推進委員会編「東京の消防百年の歩み>明治初期>日本橋の大火 30頁~31頁:明治十二年の大火」、東京都編「東京市史稿>変災編 第5>明治十二年火災 1061頁~1067頁:十四、十二月廿六日大火」、消防防災博物館「2 明治期の消防>(1)主な大火>日本橋の大火」、畑市次郎著「東京災害史>第一章 火災 60頁~61頁:明治十二年の大火」、明治ニュ-ス事典編纂委員会+毎日コミュニケ-ションズ出版部編「明治ニュース事典 第2巻>火災 132頁:日本橋より失火して大火、七千戸焼失(明治12年12月27日 東京曙)」。参照:2020年6月の周年災害「内務省警視局に消防本部創設され公設(常備)消防組織誕生」[改訂]、2017年12月の周年災害「警視庁、消防力強化の一環で消防署間電話を初めて設置」)

柴田承桂、わが国初の公衆衛生に関する著述「衛生概論」出版。
 
近代的医療・衛生の確立を目指す活動の一翼をになう(140年前)[改訂]
 1879年(明治12年)12月
 
東京大学医学部の前身、東京医学校の初代製薬学科教授の柴田承桂が、ドイツ留学で磨いた語学力で、アイルランドで発行された「公衆衛生法」と「衛生学」を中心に、その他衛生学に関する著作を参照しながら翻訳し、東京医事新報に連載、この月「衛生概論」として出版した。これはわが国で初めての体系だった公衆衛生に関する著作である。
  柴田は同書の例言で、アイルランドがイギリス連合王国の中でもっとも貧困層が多く、衛生上の状況もまた劣っているので、逆に衛生に関する研究が進み、その著作も実際上適切な内容にあると評価し、そこでこの著作を翻訳したのだと説明している。
 また同書は全部で上編、中編、下編の三巻からなり、上編では衛生略史、死生統計について紹介、予防が必要な病患として、第1に“醗酵病(伝染性流行病:感染症)”について説明したのをはじめ、第2として“食餌不給若クハ食品不良ヨリ發スル病患”を上げ、第3として“不健康ナル民間ノ景況ヨリ發起シ若クハ増進する病患”、第4“不健康ナル工業ニ因テ發スル病患”など、産業革命後、近代的工業国家として動き始めたイギリス、中でもアイルランドの事例から、遅れた工業国家である、当時の日本の貧困層の食生活をはじめ、民間の不景気、工場労働者の職場環境などをかえりみて、それら生活環境などが病気の原因となっていることを指摘、最後に“不攝生及ヒ不品行ヨリ生スル病患”をあげ、生活改善を促している。
 中編は伝染毒(感染症の原因菌など)及び消毒法について説明し、人々が摂取する食品、用水、その検査法、大気の性質から換気法まで、日常生活に欠くことのできないものについて詳細に分析し解説している。
 最後の下編は、住屋及び汚水溝渠(下水溝)、病者摂護(看護)法から気候風土及び気候と疾病との関係を述べ、最後は当時の欧米各国の衛生事務組織を紹介するなど、社会生活の改善から衛生について必要な内容を網羅した著作となっており、政府はこの著作の内容の一部を取りいれ、翌1880年(明治13年)7月公布の「伝染病(感染症)予防規則」に反映したと思われるが、国民の社会生活をはじめ職場環境の改善については、背をむけたままであった。しかし、同月に後藤新平がわが国初の民間衛生団体“愛衆社”設立するなど、当時の先駆的な医療関係者による近代的医療・衛生の確立を求める活動に柴田は自らも参加し、その成果を著作に反映したものと思われる。
 (出典:国立国会図書館デジタルコレクション・柴田承桂訳述「衛生概論 上編」、同訳述「衛生概論 中編」、同訳述「衛概論下編」。参照:2020年7月の周年災害「伝染病(感染症)予防規則公布」[改訂]。上記「後藤新平、わが国初の民間衛生団体“愛衆社”設立」[追加])

警視庁消防部、携帯用消防電話を開発設置し、現場の消防隊から直接に応援出場要請可能に
 -消防無線に受け継がれた発想
(100年前)[改訂]]
 1919年(大正8年)12月4日

 消防活動でもっとも重要で緊急性を帯び迅速な対応が必要なのは、火災現場からの通報であり、関係各部門への指令である。
 そこで警視庁消防部(現・東京消防庁)は明治の初めからさまざま通報、連絡機器を採用してきた。まず1887年(明治20年)12月、消防本署と消防分署(現・消防署)及び消防派出所間に電話を架設した。但しこの時すでに警察関係では、グラハム・ベルが電話の実験に成功した1876年(同9年)9月の僅か1年8か月後の1878年(同11年)5月に、内務省と東京警視本署間に架設しており、当時、消防のことは忘れられていた。それは組織体制の整備が遅れ、1880年(同13年)6月ようやく内務省警視局の下に消防本部(警視庁消防部の前身)が創設されたからのかも知れない。
 しかし警視庁消防部では、ついで1891年(同24年)12月、電話とは別に電信方式の非常報知機を設置、これは符号解読の手間が必要だったが、文字や記号なので電話による口頭連絡や指示よりも誤解が少なかったという。
 その次が1917年(大正6年)4月の火災報知用専用電話の開始である。これは火事を発見した人が、手近な公衆電話の受話機を取り上げ、応対した電話局の交換手に“火事だ!”と叫べば、交換手が最寄りの消防署へ通報するという仕組みであった。しかしこの場合、相も変わらぬいたづら電話や火事の問い合わせで、電話局の交換台が混乱したという。
 次がこの日の携帯用消防電話の開発、設置となる。これは火災現場の消防隊と消防署間で直接連絡、指示する電話装置で“携帯用消防電話”と呼ばれているが、現在の携帯電話と異なり、それ自身には受、発信機能はなく、いうなれば携帯する電話機本体といったところか。
 当時、消防部内の火災現場からの応援出場(動)要請などは、現場付近の公衆電話や巡査派出所(交番)の電話を使うか、自動車や自転車などで最寄りの消防署へ駆け込むかしていたが、その間の時間の空費が問題となっていた。
 そこで消防部では、一般に架設された電話線に電話機を接続して、火災現場から消防本部や最寄りの消防署などへ直接応援出場要請ができる、携帯用消防電話の研究開発にこの年のはじめ頃から着手した。
 同年7月、試作器が完成し逓信省(現・総務省)通信局に申請、この日、使用許可がおり、携帯用消防電話制度が発足したもの。
 その後、同制度は翌年2月から実用化され、大都市の消防署に普及していった。しかし、火災現場近くに加入電話があり電話線が架設されていなければならず、電話の架設個所がまだ少なかった当時では利用事例が少なかったこと。またこの加入者の引き込み線に電話技術教育を受けていない消防職員がつなぐのだが、うまくつなげても、電話局と同時に、いったん加入者が出るので、それに消防電話であることを断り、電話局には最寄りの消防署へつなぐよう要請しなければならず、それよりも、直接その加入電話を借りて通報すれば事が済むので、取り扱いが煩雑なうえ電話線の保守管理上の問題などから、1937年(昭和12年)廃止された。しかし、この“火災現場から直接の通報・連絡”という発想は、現在の消防無線に受け継がれている。
 (出典:東京の消防百年記念行事推進委員会編「東京の消防百年の歩み>大正期 136頁~138頁:携帯用消防電話の採用」。参照:2017年12月の周年災害「警視庁、消防体制強化の一環で消防署間電話を初めて設置」[改訂]、2020年6月の周年災害「内務省警視局に消防本部創設され公設消防組織誕生」[改訂]、2011年12月の周年災害「警視庁が警察署、消防署へ非常報知機を設置で通信機能整備」、2017年4月の周年災害「電話での火災報知“119番”のはじめ、火災報知用専用電話始まる」[改訂])

大阪アルカリ株式会社事件。大審院による最初の公害事件判例、企業側に有利な判断その後踏襲される。
 
ただし差戻裁判で差戻理由を逆手に取り原告側勝利(100年前)[再録]
 1919年(大正8年)12月27日

 この日大審院(現・最高裁判所)は、大阪アルカリ株式会社の硫酸製造工場が排出する亜硫酸ガスによって、付近の農作物が被害を受けたとする提訴に対し判断を示した。これが同院による公害事件判例の最初とされている。
 事件の被告とされた大阪アルカリ株式会社は、1879年(明治12年)大阪市の支援を受けて、最初の株式組織の工業会社、硫酸製造所として設立された。
 その背景には、明治政府が当初、大阪を首都にする考えを持ち、国家紙幣を印刷する造幣局を1871年(明治4年)4月設立したことから始まる。実は造幣局では、地金の分析のため硫酸を必要とし、当初は輸入していたが、設立の翌1872年(同5年)からは、みずから硫酸の製造を始め、清国(現・中国)への輸出で高利益をあげるようになった。これに目をつけた大阪市が硫酸製造所の設立を考えたわけである。
 硫酸製造所は、大阪市の西南、西区の安治川河口近くに工場を設置、1893年(同26年)2月には社名を大阪アルカリ株式会社と改称、1896年(同29年)からは化学肥料の過リン酸石灰の生産も始めた。
 このころから工場の煙突から亜硫酸ガスの排出が増え、近隣の住民はひどい悪臭になやまされたという。さらに1906年、7年(同39、40年)にかけて、工場から二丁(約200m)ほど離れた石田町の田畑の稲や麦などの農作物に被害を与えるようになった。そこで農民たちは原告代理人をたて、大阪地方裁判所に告訴したのである。
 1914年(大正3年)6月30日の大阪地裁判決では原告が勝訴し、被告の大阪アルカリ(株)に対し、原告側に賠償金を支払うよう命じた。しかし内容が公にされていないので、判決理由などは不明である。被告の大阪アルカリ(株)は判決を不服とし大阪控訴院(現・大阪高等裁判所)に上告。翌1915年(同4年)7月29日、第二審の大阪控訴院は判決で被告の告訴を棄却した。判決理由の要点は、硫酸を製造する会社の取締役が、工場から亜硫酸ガスが排出し農作物や人、家畜などに害を与えることを知らないはずがなく、知らないとなればこれは調査研究を不当に怠った結果で、故意・過失あるものと認める。という内容で完全な原告側、農民たちの勝利だった。被告の大阪アルカリ(株)は遂に大審院に最後の上告を行うことになる。
 そしてこの日の大審院は、“工場側が相当な防止設備さえすれば責任なし”とする判断を示し、故意・過失ありとした第二審の大阪控訴院の原判決を破棄し差し戻したのである。
 この企業側に有利な判断には、当時の政府の政策と時代風潮が影響していたという。つまり、明治政府の富国強兵政策の成果としての日清戦争(1894年:明治27年7月~95年:同28年11月)における清国(現・中国)に対する勝利、次の日露戦争(1904年:明治37年2月~05年:同38年9月)におけるロシア帝国に対する勝利、この判決直前の第一次世界大戦(1914年:大正3年7月~18年:同8年11月)における連合国の一員としての日本の勝利があった。被告の大阪アルカリ(株)が、世界大戦中に軍の砲兵工廠(生産工場)の請負工事をしていたので、これはまさに国のための生産活動を行っていたのであり、これを停止させるわけにはいかなかったという事情であった。
 また、国の政策としての産業優先は、これを基盤としてその先に中国大陸での市場獲得のための侵略政策があった。この年の8月のシベリア出兵は、表向きの理由として、革命ロシアに対するシベリアでのチェッコ軍の反乱に対する救援だったが、当時の陸軍参謀本部には、出兵先を拠点とする満州(中国東北地方)侵略計画があり、それはこの年から13年後の1932年(昭和7年)3月の日本の傀儡(かいらい)国家・満州国建国でそれは結実する。
 このような国策を背景にした大審院の公害問題についての判例は、その後の公害裁判において踏襲され、常に企業側に有利な判決となったという。
 ところで肝心な、大阪控訴院での差し戻し裁判はどうなったのか。同院は、大審院の判断の中の“工場側が相当な防止設備さえすれば”という点を逆に活用、この年の12月27日の判決で再び原告側の勝利とし、初審のときより遙かに重い賠償を指示、被告の敗訴が確定した。その理由は、被告大阪アルカリ(株)が、大審院の判断にあるとおり、相当な公害防止設備をしたかどうかを問題とし、ドイツの製錬工場、アメリカの鉱山及び日本の日立鉱山における高い煙突の設置による煙害防止効果を具体的に引用、この事例を被告側が告訴されたころ調査せず、実施しなかった事は過失に当たると認定したのである。
 (出典:川井健著「大阪アルカリ株式会社事件」。参照:2017年3月の周年災害「日立鉱山煙害問題発生-巨大煙突、高層気象観測で被害を減少」[改訂])

火薬積載トラック衝突・爆発事故、走る火薬庫に居眠り砂利トラが追突、罰せられたのは被害者、
 ずさんな法改正で危険は今も去らず
(60年前)[改訂]
 1959年(昭和34年)12月11日

 当時の朝日新聞は、この事故を次のように報じた。“砂利トラックと衝突し、火薬トラック大爆発”“民家二百余に被害”“砂利運転手の居眠りか”
 “午前4時53分横浜市神奈川区の第二京浜国道で、箱詰めのTNT火薬四トンを積んだ上総通運興津営業所のトラックと阿部建材店の砂利トラックが衝突して大爆発を起こし、両トラックともコッパミジンに吹き飛び、火薬を積んだトラックの運転手と助手、砂利を積んだ運転手と助手の四人はバラバラに現場付近に飛び散り、即死、ほか十人が重傷、八十九人が軽傷を負った(住所、氏名略)。またこのため、半径五百メートルにわたる地域の民家が破壊、全壊三十一戸、半壊および一部破損二百五戸の被害を出した。(中略)現場はさながら爆撃の跡のようで、道路には直径五メートルの大穴があき、第二京浜国道は一時交通不能となったが、午前十時十五分復旧した“
 事故原因として、見出しにあるように砂利トラック運転手の居眠り運転ではないかと推測された。というのは、前日の10日朝5時ごろから相模原と川崎間をぶっ続けに4往復し、この日の朝4時過ぎ、5度目の砂利を積んで川崎に帰る途中だったからである。24時間以上、食事など若干の休憩は取っただろうが、一睡もしていない。衝突地点とみられる爆発点が、横浜に向かう下り車道に片寄っている状況から、過労で居眠り運転をしていたか、早く仕事をこなそうとスピードの出し過ぎで国道の真ん中を走っていたと考えられたからだ。
 また町を走る火薬庫と言われる火薬トラックについて、警視庁保安課では「火薬類取締法」では、火薬を運搬する際の届出や注意事項はあるが、積極的な禁止規定はないから、火薬を積んだトラックはいくらでも町中を走っている。今後もこのような事故が起きる可能性は十分ある。と証言している。
 事実、事故の翌1960年(同35年)12月にこの事故を受け制定された「火薬類の運搬に関する内閣府令」では、運搬の届出のほか積載方法(第12条)、混載の禁止(第13、14条)、運搬方法(第15条)、標識(第16条:火薬類積載について注意を促す標識)などについてはかなり詳細に規定したが、肝心な使用道路については、第17条1項で“車両で運搬する場合には、その車両の幅に三・五メートルを加えた幅以下の幅の道路は通らないこと”としたが、同条本文で“著しく回り道となり、その他その規準(第17条各項の基準)に従う通路によることができず、または困難である場合には、この限りではない”と逃げ道を設けている。またこれは当たり前だろうと思われるのが、同条3項の“繁華街又は人ごみを避けること”という規定で、2項の“常時火気を取り扱う場所又は発火性もしくは引火性の物を蓄積する場所に近接しないこと”というのは、工事場所以外にそのような道路が果たして一般にあるのかと疑問がわき、ほかの道が著しく回り道であれば、以上3項で禁じている道路を通過してよいということであり、これでは危険回避になっていない。またほかの道が著しく回り道であると立証する場合の根拠も示されていない。
 また、事故当時、通商産業省(現・経済産業省)の担当官が、火薬類取締法の改正を準備すると明言していたが、翌1960年8月公布の改正法第19条2項で“都道府県公安員会は(中略)災害の発生の防止又は公共の安全の維持のため必要があると認めるときは、運搬の日時、道路若しくは方法又は運搬される火薬類の性状若しくは積載方法について、必要な指示をすることができる”と改正されただけで、警視庁が希望していた、具体的に海上運送や自衛隊の様に先導車をつけるとか、緊急車両並みにサイレンを鳴らすといった改正はされなかった。
 事故当時は、高度経済成長期である。忙しさを良いことに、運転手に過重労働を課し利益を上げた経営者が多かった。ところがこの事故で運輸省(現・国土交通省)から営業禁止処分を受けたのは、加害者の砂利トラック会社ではなく、被害者である火薬運搬を請け負った運送会社だった。
 (出典:朝日新聞社刊「朝日新聞昭和34年12月縮刷版>12月11日夕刊、12日朝刊」、日本法令索引・衆議院制定法律・昭和35年法律第140号「火薬類取締法の一部を改正する法律」[改訂・追加]、同索引・e-GOV法令検索・昭和35年総理府令第65号「火薬類の運搬に関する内閣府令」[改訂])

残留BHC牛乳汚染問題で生産中止、国、府県の調査で残留汚染明確に(50年前)[再録]
 1969年(昭和44年)12月10日

 三菱化成(現・三菱化学)など有機塩酸系農薬BHC(ベンゼンヘキサクロイド)と、DDTの原体(農薬の有効成分)メーカー6社で組織する日本BHC工業会は、この日、同2種原体の国内向け製品の製造を12月中に中止することを決めた。
 実は、厚生省(現・厚生労働省)が、この年の7月から動物性食品中の残留農薬を調査してきたところ、特に高知県をはじめ西日本産の牛乳の中から多量のBHCが検出された。さらに11月に国立衛生試験所(現・国立医薬品食品衛生研究所)と主な府県衛生研究所で、牛乳のBHCを調査したところ、一部地域ではWHO(世界保健機関)の定めた許容量の百倍ものBHCの残留があることがわかった。しかも、BHCの中でも極めて慢性毒性の強いベーターBHCが多かった。また大阪では母乳からBHCが検出されるなど大きな問題となった。
 また同省では農林省(現・農林水産省)に協力を求め、牛乳汚染の原因について、この年の末から翌1970年(昭和45年)初めにかけて乳牛の飼養実態調査と飼料の分析など、汚染経路の緊急調査を行ったところ、稲の害虫防除に使用したBHCが稲ワラに残留し、これを飼料としたため牛乳が汚染されたと判った。なおBHCによる汚染牛乳の事実があるのは日本だけということもわかり、これはいかに日本におけるBHCの使用が、乱脈であったかということを示した。
 一方DDTについては、かねてから危険視されていたので、この際、合わせて原体の製造を中止することを決めたが、事実、厚生省が残留農薬による食品等の汚染について徹底調査を指示したところ、翌1970年(昭和45年)5月、静岡県産の日本茶から、許容量の10倍を超えるDDTが検出され、全国各地で野菜などからも、DDT汚染が報告された。
 (出典:昭和史研究会編「昭和史事典>昭和44年 659頁:牛乳に残留農薬」、総理府編「昭和46年版公害白書>第7章 その他の環境汚染>第1節 農薬による汚染の概況>1.牛乳のBHCによる汚染」[改訂]、朝日新聞社編「朝日新聞縮刷版・昭和44年12月号>12月10日夕刊、16日朝刊、同日夕刊、18日朝刊、19日朝刊」、(株)アース・ソリューション編「BHC・一番消費された有機塩素系殺虫剤の毒性と使用禁止に至るまで」[追加])

公害病救済特別措置法を制定、緊急に救済を必要する被害に対し行政上の救済措置行う(50年前)[再録]
 1969年(昭和44年)12月15日

 前年の1968年(昭和43年)9月、政府が初めて水俣病の原因についての統一見解を発表して以来、公害による健康被害者を救済する法案の整備が急がれていたが、1年半後のこの日「公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法(救済法)」として実った。
 公害被害は人為災害なので、一般の民事紛争と同じ様に、被害者がその公害発生原因者(主に企業)を原告として損害賠償を求める方法がある。しかし公害被害の場合、加害者を特定し、因果関係や故意過失の有無を立証することなどの点で極めて困難な場合が多い。しかも、その結論を得るまでには長期間を要するので、日々治療を必要とする被害者の救済には間に合わない場合が多い。そこで、緊急に救済を必要とする被害に対し、民事責任とは切り離した行政上の救済措置を講ずるため、同措置法が制定された。
 同措置法では総則で、事業活動などによって“相当範囲にわたる著しい大気の汚染又は水質の汚濁が生じたため、その影響による疾病が多発している地域”を公害病指定地域として定め、その地域の健康被害者を救済の対象とした。
 ちなみに同措置法制定当時、指定地域と関係する疾病とされたのは、大気汚染関係は川崎市、四日市市、大阪市で、疾病は慢性気管支炎、気管支ぜんそくなどが対象となり、水質汚濁関係では、新潟県阿賀野川下流地域、熊本県水俣湾沿岸地域の水俣病と富山県神通川下流地域のイタイイタイ病が対象とされた。
 なお同措置法は、1973年(昭和48年)10月、救済対象が追加拡大され法的にも改正されて「公害健康被害補償法(公健法)」となった。
 (出典:日本法令索引>衆議院制定法律>「昭和44年法律第90号・公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法」[改訂]、同索引>同制定法律>「昭和48年法律第11号・公害健康被害補償法」[改訂]、環境庁編「昭和49年版環境白書>第5章 健康被害の現況と対策>第1節 公害健康被害者の救済>1 公害健康被害者救済制度」[改訂]。参照:2018年9月の周年災害〈下巻〉「政府統一見解で水俣病を公害病に認定」[改訂])

海上保安庁四日市海上保安部、工場排水垂れ流し容疑で石原産業四日市工場立ち入り捜査し刑事告発。
 同保安部田尻課長、数々の大企業の違法行為を捜索、退職後公害Gメンとして一生捧ぐ
(50年前)[追補]
 1969年(昭和44年
)12月17日
 この日、海上保安庁四日市海上保安部警備救難課は、伊勢湾に大量の廃硫酸水を工場排水として垂れ流している石原産業(株)四日市工場を、水路保全を規定した「港則法第24条(現・第23条)廃棄物投棄禁止」違反容疑で立ち入り捜査を行った。
 法的に権限があるのにも関わらず、わが国では異例とも思われる海上保安庁によるこの日の立ち入り捜査の根拠は、当時、船舶のエンジンは海水で直接に冷却する構造になっており、海水中の硫酸により冷却系統の部品が腐食して故障を起こし航行不能に陥る危険があること。特に伊勢湾沿岸には石油貯蔵施設や火力発電所が立ち並び、当時でも年間7万隻に及ぶ原油タンカーが往来し、常時、海水をくみ上げエンジンを冷却しており、いったん巨大タンカーが事故を起こした場合、1965年(昭和40年)5月のヘイムバード室蘭港桟橋衝突事件以上の大惨事が起きる可能性が予測されたからという。まさに警備救難課の出番であった。
 一方、工場排水を垂れ流していた石原産業(株)四日市工場は、化学製品を生産する同社の主力工場で、1941年(昭和16年)操業、敷地面積20万坪(0.6平方km)、従業員3000人を擁する四日市はおろか日本を代表する巨大化学工場である。
 実は、四日市海上保安部では、前年の1968年(昭和43年)田尻氏が警備救難課長として赴任した当時は、別の漁区で操業する密漁船の取締に当たっていたが、その時、ある老漁師の“海が汚れ魚が取れないから、やむを得ずほかの漁区へ出向いているんだ、海を汚している工場をなぜ取り締まらない”の一言で目覚めたという。
 その年の11月、伊勢湾に工場排水や有害な化学物質を不法投棄しているタンカーを検挙、ついで四日市市内の化学工場から廃棄物を隣県・愛知県のタンクローリー車に積載し、同県西端の日光川下流の舟積場でし尿船に積み替えている現場を取り押さえたが、排水口から直接海に有害物を放水している化学工場があるとの証言を得て、立ち入りの年になる翌年8月、強烈な塩酸を垂れ流している日本アエロジル(株)四日市工場にたどり着き、わが国で初めて、公害企業を刑事事件として摘発した。
 ところが、この工場の1日500トンよりけた違いな20万トンの垂れ流しをしている石原産業の情報を得て、摘発するべく津地方検察庁四日市支部と打ち合わせたところ、日本アエロジルの摘発によって、石原産業が垂れ流しの証拠文書を残していないだろうと指摘され、政界とつながりがある巨大企業を立ち入り捜査し証拠を揃える難しさから田尻課長はいったん中止も考えたという。
 しかし同じ“海の仲間”であり、汚濁された伊勢湾の被害者である漁師をかつて検挙してきたことを思い。伊勢湾を汚した真の加害者である化学工場などの不法行為を摘発することについて、遭難した巡視船船長としての体験から“海を守る”担当課長として、ぶれることなく責任を果たそうと決心し、部下からも進言されたという。
 石原産業四日市工場への立ち入りは、津地方裁判所から押収捜索令状を得て、17日朝、正門から工場長の車の後ろをつけて立ち入り、まず守衛所を抑え事務所に連絡しないようにして、工場排水の発生源などを明らかにすべく行動を開始、化学用語に満ちた生産システムと書類に戸惑いながらも、工場と大阪本社及び東京支社から1000点に上る文書を押収、廃硫酸汚染水の発生とその不法投棄の証拠となる、生産工程と硫酸排出量などの織り出しに取り掛かったが、苦闘の末、報告書が完成したのは1年後だった。
 海上保安庁四日市保安部は、摘発した日本アエロジルと石原産業を、押収した証拠から起訴するよう津地方検査庁四日市支部に書類送検したが、一向に取り調べる気配がなく、日本アエロジルについて津地方検察庁では、摘発を全国に報道されたことによって“改善のあとがみられる”とし不起訴処分としたので、石原産業についても不起訴処分にするのではないかとする危惧が四日市市民の間で漂った。
 しかし、石原産業がこの廃硫酸を排出した主な原因であるチタン第二工場を、1968年(昭和43年)6月に建設するに際し「工場排水規制法」に違反して新工場建設に関わる届出を通商産業大臣(現・経済産業大臣)に提出する(第4条)ことをを怠り着工したうえ、竣工後、通商産業省名古屋通産局と談合し、工場増設届け出の日付を改悪するため着工及び竣工、操業開始等の日付をずらすという違法行為も行っており、その件について津地方検察庁が裁判所に起訴する(立件)時期の時効が迫っていたので、田尻課長は公務員法違反による処分を覚悟し旧知の社会党(現・社民党)石橋書記長に石原産業の“廃硫酸汚染水不法投棄問題”と“工場排水規制法違反もみ消し通産局談合問題”について資料に基づいてレクチャーしたという。
 1971年(昭和46年)1月29日、石橋書記長は、衆議院予算委員会において、石原産業のこの二つの違法行為について政府に質問、追い詰めてゆく。この結果、ついに津地方検察庁では石原産業を起訴することを決め、同年2月19日「港則法」違反「水産資源保護法第4条4項(現・1項)水質汚濁禁止」違反「工場排水規制法」無届操業で、ようやく起訴手続きがなされたのである。
 石原産業硫酸廃液事件として進められた裁判は、起訴から9年後の1980年(昭和55年)3月、津地方裁判所で有罪判決となったが、関係する工場長2名が執行猶予付きの懲役刑、石原産業自体には罰金8万円の判決であった。
 この伊勢湾を航行する船舶や四日市市民、漁民の被害に比べれば、はるかに軽すぎる判決に味を占めてか、その後も石原産業は不法投棄、無届操業を犯し続けた。
 その一つが“有害フェロシルト販売事件”である。石原産業では2001年(平成13年)から、伊勢湾への不法投棄ができなくなった廃硫酸を中和処理して土壌補強材、土壌埋め戻し材として生産、フェロシルトと名付け、翌2002年(平成14年)三重県がリサイクル製品として認定したので、同県をはじめ近県の愛知、岐阜両県や京都府内に販売した。ところが、これを市民団体が不審に思い分析調査を委託したところ、環境基準を超える有害な六価クロム、フッ素及び放射性物質が含まれていることがわかり、有害産業廃棄物と判断された。
 その後も同社は2007年(平成19年)に有機物残渣投棄容疑で三重県警察の強制捜査を受け、翌2008年(同20年)にも、有毒ガス・ホスゲンを無届製造したとして「化学兵器禁止法」違反で経済産業省により告発され県警の強制捜査を受けている。まさに違法のかたまりの公害生産会社そのものである。
 一方、四日市海上保安部はその後も公害摘発を続け、石原産業起訴後の翌1971年(昭和46年)3月、三菱モンサント化成(現・三菱ケミカルアグリドリーム)四日市工場を水銀不法投棄容疑で捜査したが、その直後の7月、田尻課長は和歌山県田辺海上保安部へ転任を命じられた。しかし、1973年(昭和48年)当時の美濃部都知事に要請され東京都公害局規制部長に就任、東京都をはじめ全国各地の公害や大規模開発反対運動と交流、支援を続けるなど“公害問題”に携わり、各大学の教授も歴任し、住民のための“公害Gメン(特別捜査官)”として一生をささげた。
 (出典:澤井余志郎著「四日市 死の海と闘った 四日市海上保安部警備救難課長 田尻宗昭さんの四日市」、日本ペンクラブ電子文藝館・田尻宗昭著「公害企業摘発の決意-羅針盤のない歩みから(抄)-」、国会議事録検索システム「昭和46年1月29日・第65回衆議院予算委員会・石橋政嗣議員質問(008~061)」。法令索引・衆議院制定法律「昭和24年法律第98号・港則法の一部を改正する法律(第24条改正→現行第23条)」、同索引・衆議院制定法律「昭和33年法律第182号・工場排水等の規制に関する法律(工場排水規制法)」、同索引・衆議院制定法律「昭和26年法律第313号・水産資源保護法」、四日市再生公害市民塾編「始まった石原産業フェロシルト不法投棄事件」、。参照:2015年4月の周年災害「ヘイムバード室蘭港桟橋衝突事件」、2020年4月の周年災害ぱと、

原子力災害対策特別措置法施行される、JCO臨界事故を受け原子力事業者の防災責務盛る
 -防災基本計画も全面修正へ
(20年前)[改訂]
 1999年(平成11年)12月17日

 1999年9月30日、茨城県東海村にある(株)JCO東海事業所で、核燃料物質が制御不能となり、核分裂の連鎖反能を起こし、大量の放射線が発生し周辺が汚染された。このいわゆる臨界事故によって、原子力産業において初めて近隣住民への避難要請や屋内退避要請が行われるなど、わが国で初めての原子力災害対策が講じられた。
 この事故の教訓をふまえて、現場での復旧活動や原因究明活動などと平行して、国として、原子力の安全規制と原子力災害対策の強化のための法的整備を早急に図る必要があり、この日、原子力災害対策特別措置法施行の運びとなったもの。
 この法律の要点は、第3条の“原子力事業者(企業)の責務”にある。国のそれまでの原子力防災対策は、あくまでも原子力発電所や再処理施設を対象施設としたもので、JCOのような中小の加工施設などは対象にしていなかった。そこでの作業によって、臨界事故が起きる可能性があるのにも係わらずである。そのため初期対応において、事故情報の迅速で正確な把握がなく混乱を招いた原因があり、この条項にはその反省がこめられている。
 第2章の“原子力災害の予防に関する原子力事業者の義務等”は、大企業、中小企業を問わず原子力事業者の防災義務を規定したもので、第7条で防災業務計画を作成すること、第8条で防災組織を設置すること、第9条で防災管理者を任命することを規定した。
 次いで、防災管理者及び事業者のなすべきこととして、第10条で作業の過程で一定の基準以上の放射線量が検出された時の通報義務を規定し、第11条で防災上必要な資機材の整備を規定、第12条で緊急事態が発生した場合、応急対策を講じる拠点施設の指定を規定、第13条では防災訓練の実施結果を報告することまで細かく規定した。その外、第4章として、緊急事態が発生した時の応急対策まで規定するなど、きめ細かく規定されているが、要は若干の罰則規定があるとしても、各原子力事業者が法を守り、実施するかどうかに原子力防災の生命がかかっている。
 この原子力災害対策特別措置法の施行を受け、翌2000年(平成12年)5月、国の防災基本計画の第10編・原子力災害対策編が全面修正された。
 この「原子力対策編」で特に大きく修正されたのは、平成9年版において“原子力発電所等における事故”に限定していた対象が、平成12年版では、広く“原子力事業者の原子炉の運転等”を対象にしたこと。JCO臨界事故のような事故を想定した“事業所外運搬による放射性物質又は放射線が異常な水準で事業所外へ放出されることによる原子力被害の発生及び拡大の防止”及び“原子力災害の復旧を図るための必要な対策”について記述している点である。
 中でも第1章の災害予防で、原子力事業者の施設等の安全性の確保が第1節として追加されるなど、ここでも同事業者の防災上の責務についての内容が強化された。以下新しく増えた節や追加された内容をあげると、第1章ではそのほか第6節として核燃料物質等の事業所外運搬中の事故に対する迅速かつ円滑な応急対策への備えが増えている。
 第2章の災害応急対策では、第1節で緊急連絡体制が追加され、第4節として犯罪の予防等社会秩序の維持が増えている。これは警察や海上保安庁関係機関などの緊急事態区域での治安維持について規定した部分で、テロや破壊活動を想定している。また第8節として、第1章で第6節として増えた核燃料物質等の事業所外運搬中の事故に対して、ここでは迅速かつ円滑な応急対策そのものについて言及している。
 (出典:日本法令索引>衆議院制定法律>「平成11年法律第156号・原子力災害対策特別措置法」、原子力防災法令研究会編著「原子力災害対策特別措置法解説 3頁~15頁:第1編 総論>第1章 原子力災害特別措置法の制定経緯」、中央防災会議+国土庁防災局編「防災基本計画・平成9年6月」、同編「防災基本計画・平成12年5月」。参照:2019年9月の周年災害「東海村JCO臨界事故」[改訂])

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(2022.12.5.更新)

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