【目 次】
・貞観2年京師・近畿の地、台風の襲来で高潮と洪水の災い(1160年前)[改訂]
・天徳4年平安京内裏初めて全焼、被災の全貌を村上天皇詳細に記録。3種の神器の変遷(1060年前)[改訂]
・万治3年四国から関東にかけて暴風雨、京都で落橋・洪水、東海道沿岸で船舶の遭難相次ぐ(360年前)[改訂]
・寛文10年近畿地方大風雨・高潮災害。明石、大坂、枚方に被害集中(350年前)[改訂]
・宝永7年伯耆・美作地震。民家倒潰1000余(310年前)[再録]
・寛政2年天竜川氾濫。藩領内に多大な被害、浜松城をはじめ城下も(230年前)[追補]0
・嘉永3年9月台風、西国から東海地方へ本邦主要部を襲う(170年前)[追補]
・明治3年9月台風、近畿、東海地方に被害(150年前)[改訂]
・明治13年10月台風、東京湾沿岸部を荒らしまわる-海軍観象台より海上暴風警報発信へ(140年前)[改訂]
・「教育勅語」発布。時の支配層により拡大解釈され神格化された戦前日本の教育の最高規範書。
男性中心家父長制を法的に整備させ、国民を戦争に駆り立て国を滅ぼした思想的基盤となる(130年前)[追補]
・初の臨時治水調査会設置し、現在につながる第一次治水長期計画策定(110年前)[再録]
・初の全国労働衛生週間開催、働く人の生活全体の環境改善、健康増進などを課題に(70年前)[改訂]
・シラス食中毒事件-腸炎ビブリオ菌発見、海水中に棲息し水温15度C以上の夏季に増殖(70年前)[改訂]
・丸全昭和運輸東海倉庫火災-劇毒物の所在把握で事前の火災予防・消火対策が可能に(40年前)[改訂]
・初の地球温暖化防止行動計画を策定-2014年以降、民間の努力でようやく温室効果ガス排出量減少へ(30年前)[改訂]
【本 文】
○貞観2年京師・近畿の地、台風の襲来で高潮と洪水の災い(1160年前)[改訂]
860年10月6日~7日(貞観2年9月14日~15日)
平安時代901年に完成した正史「日本三代実録」の貞観二年九月戊申に“〇十四日辛酉。大風。折樹発屋。京師百姓盧舎破損者甚多。○十五日壬戌。風雨未止。都城東西両河洪水。人馬不通。諸国浜海之地。潮水漲溢。人畜被害”とある。
すなわち、9月14日(新暦10月6日)近畿地方に台風が襲来、暴風によって大樹は折れ、家屋は破れ、京都では人々の住家が非常に多く破損した。翌15日(新・6日)になっても風雨は止むことなく、平安京を流れる東西の桂川と鴨川(賀茂川)が洪水となり、人も馬も通れなくなった。畿内諸国の沿岸部(特に大阪湾)に高潮が発生し、広い地域で人々や家畜に被害をもたらした。と記録されている。
中でも当時、鴨川には「防鴨河使」が置かれ洪水対策を進めていたが、この時も氾濫してしまった。朝廷で絶対的な権力を振るい平清盛と覇を競った後白河法皇(1127年-92年)でさえも、“天下三不如意(意のままにならないもの)”の一つ“賀茂川の水”である。その後も桂川とともに大洪水を起こし京洛の地に大災害をもたらしている。
(出典:池田正一郎編著「日本災変通志>平安朝時代前期 85頁:貞観二年〇(八月)十四日、〇十五日」[追加]、国立国会図書館デジタルコレクション「国史大系.第4巻 日本三代実録>巻4・63頁(38コマ):◎九月戊申〇十四日辛酉、十五日壬戌」[追加]、小倉一徳編、力武常次、竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歴史>1.上代・中世の災害>平安時代の主要災害一覧 53頁:貞観2.9.14 近畿諸国大風雨」)
○天徳4年9月、平安京内裏初めて全焼、被災の全貌を村上天皇詳細に記録。3種の神器の変遷(1060年前)[改訂]
960年10月21日(天徳4年9月23日)
平安時代に編纂された歴史書「日本紀略」村上天皇の治世、天徳四年九月廿三日に“今夜亥三剋(刻)。内裏焼亡。火出自宣陽門内方北掖陣。不出中隔外”とある。
記述から、出火したのは午後11時ごろ、出火場所は内裏(皇居)東門の宣陽門内側の左兵衞陣門で、幸い内裏の郭外へ炎は延びなかったが郭内は全焼した。876年5月11日(貞観18年4月10日)に内裏のすぐ南西にある大極殿が火災にあっているが、内裏が全焼したのは794年の平安建都以来初めてであった。
しかしこの火災で「日本記略」の記す“累代珍宝多以焼失”という重大事故が起きた。以下、当時在位されていた村上天皇御自身の日記が「扶桑略記」に引用されているので、そこからその推移を振り返ろう。
出火した時 “此夜。寝殿後聞侍臣等走呌(叫)之声。驚起問其由緒。少納言兼家奏云” この夜、すでに就寝中であったが、侍臣たちが走り叫ぶ声に驚いて起き、右京大夫(市政長官)の少納言兼家に事態を報告させた。“火焼佐兵衛陣門。非可消救”すると、佐兵衛陣門から出火し、消火できませんでしたという。“走出見之。火㷔(焔)已盛。即着衣冠。出南殿庭”走り出て見ると、火炎が天を染め盛んに燃え上がっている。すぐに衣服を整え紫宸殿の南庭に避難した。
そして“左近中将重光朝臣持御劔(剣)璽筥相従(中略)又令侍臣取内侍所所納太刀契等”左近衛中将(警備隊長)の源重光に神器である御剣(草薙の剣)と御璽(八尺瓊勾玉)を収めた箱を持たせ、また侍臣に命じて温明殿の内侍所に納めてある大刀契(だいとけい:皇位継承の際、相伝された太刀と割符)などを取りに行かせ、“令権右中将国光朝臣行撥殿廊救火事。而雑人甚少。無力救之”親衛隊次官の藤原国光に命令して消火を命じたが、それに当たる雑人が非常に少なく消火能力がないこと“侍臣等言。火已着温明殿。不能出内侍所所納大刀契等”侍臣たちの報告では、炎はすでに火元に近い温明殿を包み、太刀・契などは取り出すことは不可能であるとのことであった。
また読経僧に命じて、鎮火の修法を行わせたが、炎の勢いはますます盛んになり、内裏内郭東南にある延政門南側の渡廊も燃え、南門の承明門の東側あたりまで煙が充満し、炎の勢いを止めることはできないとわかったので、清涼殿に引き返し、後涼殿を経て西門の陰明門から郭外へ出て、直ぐ隣の中院(中和院:収穫を祝う新嘗祭神事舎)内の神嘉殿(正殿)へ避難した。
しばらくして“左衛門督藤原朝臣参入。仰向内裡。令行救火事。次右大将藤原朝臣参入。仰行取出鈴印鎰櫃事”内裏、大内裏諸門の警備長官藤原師氏が参入してきたので消火活動を命令、次いで参入した警備隊長の藤原師尹に鈴印鎰櫃(駅鈴と公印及び官用蔵の鍵が入った箱。いずれも国政に必要な重要品、天皇家相伝)を取り出すように命じた。次いで参入した右大臣をはじめとする公卿たちと議して内裏の南にある太政官庁内の朝所(あいたんどころ:政務庁舎)に移り、最後は風上で延焼の危険性が少ない内裏東北隣の職曹司(しきのぞうし:皇后、皇太后の事務庁舎)に避難した。
“火起自亥四点(刻)。迄于丑四点(刻)”出火したのが午後11時頃、鎮火したのは午前3時過ぎ、である。4時間も燃え続け内裏は全焼した。
日記ではこの大火災で失った数々の“累代の珍宝”を記録している。“宣陽殿累代宝物。温明殿神霊鏡・太刀・節刀・契・印。春興安福両殿戎具(兵器)。内記所文書。又仁寿殿太一式盤(陰陽道の用具)。皆成灰燼”。
ところが「日本記略」によると、翌24日(新暦・22日)勅(天皇の命令)により宝物の捜索が行われ、温明殿の焼け跡から鏡3枚と太刀・契が形や質が変わることなく発見されたと報告された。その後10月3日(新・10月3日)、それらを預かっていた縫殿の大允藤原文紀の報告によると“件鏡雖在猛火上而不涌損。(中略)一所真形。無破損。長六寸許。一所鏡已涌乱破損”お預かりした鏡は、猛火の中にあったとはいえ全く溶けて破損することはなく、次の一枚も破損なく長さ18cmほどでありましたが、もう1枚の鏡は溶けて破損していました。という。
以上、内裏全焼に関わるこれらの記述によれば、3種の神器の一つ神鏡(八咫鏡)は3面が内侍所に安置され、御剣(草薙の剣)は天皇の護身刀として、御璽の八尺瓊勾玉と一緒に、清涼殿内の寝殿の間の隣に“剣壐の間”が設けられそこに安置されていた。という。
その後、1005年12月(寛弘2年11月)の大内裏の火災で再び内侍所が焼け、鏡がついに破損してしまったので、関白藤原道長は公卿会議を開き改鋳について検討したが、反対意見が多くそのままになった。またその後、1040年9月(長暦4年9月)内裏焼亡の知らせを受けた藤原資房が駆けつけると、内侍所の焼け跡に5.6寸(15~18cm)と2.3寸(6cm~9cm)また玉のようになったものを掘り出したので、古老の女官に見せると“鏡である”と証言したので、それ以降それらが伝承された。
その後幾多の変遷を経て、焼けた神鏡をはじめ3種の神器は、源氏に敗れた平家が都落ちの際に持ち出されるが、1185年5月(元暦2年3月)の壇ノ浦の合戦で安徳天皇とともに沈み、合戦後、御壐と神鏡の残存物は源氏によって回収され、新たに作成された御剣とともに皇室で相伝され、現在は皇居賢所に安置されているという。
いずれにしても、3種の神器の本体といわれているものは、神話の世界の話であるが、古代日本各地の豪族の遺跡から鏡、剣、勾玉の3点が組み合わされて出土することが知られており、皇室では「日本書紀」によれば、690年2月17日(持統4年1月1日)、持統天皇が臣下となった豪族たちを代表した忌部宿禰色夫知から、神壐(勾玉)、剣、鏡を奉上され、即位式で皇后から天皇へ即位した証(あかし)として使用されたのが始まりとされている。“奉上神璽劒鏡於皇后。皇后、卽天皇位”。
その名称はともあれ、天皇の証である3種の神器は、神話の天照大神や素戔嗚尊ー日本武尊から伝承されたものではないことは確かで、夫の天武天皇を補佐して「大宝律令」を完成させ、天皇が崩御された後は自ら即位し法制度に基づく中央集権国家を確立した女帝・持統天皇より相伝されていることは間違いない。
(出典:国立国会図書館デジタルコレクション・国史大系 第5巻「日本紀略>後篇4・村上天皇 882頁~883頁(451コマ):(九月)〇廿三日庚申、〇廿四日辛酉」[追加]、同コレクション・国史大系 第6巻「扶桑略記 第26 村上天皇下726頁~727頁(371コマ):(天皇)御日記(九月)廿三日庚申。〇廿四日辛酉」[追加]、 日本全史編集員会編「日本全史>平安時代>960-969(天徳4-安和2)172頁:170年の平安破り内裏全焼、歴代の宝物を焼失」、池田正一郎編著「日本災変通志>平安朝時代後期121頁:天徳四年>〇九月廿三日」[追加]、京都市埋蔵文化財研究所ほか著「天徳四年・内裏炎上」[追加]、日本史研究会編・日本史研究 412号 3頁~30頁:大村拓生著「一〇~一三世紀における火災と公家社会>二 内裏焼亡」、国立国会図書館デジタルコレクション・国史大系 第1巻「日本書紀>巻第30 持統天皇 554頁:四年春正月戊寅朔」[追加]。参照:2020年4月の周年災害「大宝令完成し公布、天皇中心の中央集権国家体制が法的に整備される」[追加])
○万治3年四国から関東にかけて暴風雨、京都で落橋・洪水、東海道沿岸で船舶の遭難相次ぐ(360年前)[改訂]
1660年10月24日(万治3年9月20日)
江戸幕府第4代将軍・家綱の事績をまとめた「厳有院殿御実紀」に、台風であろうこの暴風雨の被災記録がある。
“大風雨により、諸国に大洪水、勢州(伊勢国:三重県)尤も甚だし。豆州(伊豆国:静岡県)下田浦にて、舟百五十艘くつがえり、江戸辺りまでの浦々(港)にて百五六十艘、その他を合わせて七百艘やぶれる(破れる:損壊)といえり”。
また、実紀で“尤も甚だし”とされた勢州では“大風あり、内宮の松樹倒れ、民屋の被害多し(宇治山田史)”とあり、京都でも“卯刻(午前6時ごろ)より京都大風甚雨(皇年代略記)”“この廿日大風雨出水し、木津川大橋70間余(130m)落て、同所ならびに淀宇治の堤破壊せし”と被害が重なっている。
一方、江戸では“雨、巳下刻(11時頃)より甚だ雨風、未上刻(14時ごろ)より雨止晴、酉刻(18時ごろ)風止(殿中日記)”と風雨の記録があるから、早朝、四国から紀伊半島に上陸した台風が、昼ごろには東海道沿岸部から房総半島に抜けたようだ。
昼間の台風なので、多数の船舶が沿岸部といえども航海中だったのだろうか。予報も何もない時代である。船頭さんの体験だけでは、早足の台風に追いつかれてしまい、被害を大きくしたのであろう。
(出典:小倉一徳編、力武常次、竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歴史>2.近世の災害>江戸時代の主要災害一覧 84頁:万治3.9.20 四国・近畿・東海道・関東諸国大風雨」[追加]、中央気象台+海洋気象台編「日本の気象史料 1>第1編 暴風雨 万治三年九月二十日 四国、近畿、関東諸国 大風雨」、荒川秀俊ほか編「日本旱魃霖雨史料>霖雨の部 261頁:万治三年 諸国 霖雨、洪水>徳川実紀」[追加]、「東京都編「東京市史稿>No.2>変災編 第2>83頁:万治三年九月風災」」
、
○寛文10年近畿地方大風雨・高潮災害。明石、大坂、枚方に被害集中(350年前)[改訂]
1670年10月5日~6日(寛文10年8月22日~23日)
近畿地方に大風雨が襲い、瀬戸内海東部から大坂湾にかけての沿岸に西南からの暴風雨と高潮による大災害をもたらし、その余波は淀川沿岸の枚方にまで及んだ。
なかでも播磨国(兵庫県南西部)明石では11人が死亡、武家屋敷500軒、町家78軒、漁民の家など371軒が倒潰、城の本丸、二の丸、三の丸の矢倉4か所、門7か所が大破、塀90間余(160m余)倒潰、漁船192艘が破損。
大坂では木津川河口にここ数十年なかった高潮が押し寄せ、大坂難波の堀あふれ、淀川をさかのぼり枚方あたりまで氾濫。船奉行、与力をはじめ水主など約200人死亡、城の魚虎(しゃちほこ)の多くが崩落、櫓倒潰、幕府用船の船庫8軒倒潰、城下の家屋流失・破損460軒余及び堤防、橋などが破損し、大阪湾内停泊の幕府官船をはじめ諸大名の船数千艘破損、また淀川下りの旅泊の舟転覆し死者多数。
当時の軍学者山鹿素行は、この大災害をまとめてその日記に、播磨、摂津(兵庫県南東部、大阪府西部)両国で2143人死亡、家屋流失949戸、船舶の損壊7323艘と記録した。
(出典:小倉一徳編、力武常次、竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歴史>2.近世の災害>江戸時代の主要災害一覧 86頁:寛文10.8.23 近畿地方大風雨」、池田正一郎著「日本災変通志>近世 江戸時代前期 381頁:〇二十二、三日」、荒川秀俊ほか編「日本高潮史料 29頁~30頁:寛文十年八月二十三日」[追加]、黒田義隆著「明石市史 上巻>年表 39頁:1670寛文10.8.3」[追加]、国立国会図書館デジタルコレクション「国史叢書・玉露叢2 巻第廿一 13頁(15コマ):一、去る廿三日に……」[追加])
○宝永7年伯耆・美作地震。民家倒潰1000余(310年前)[再録]
1710年10月3日(宝永7年閏8月11日)
未の刻(14時ごろ)、伯耆国(鳥取県西部)と美作国(岡山県北部)にマグニチュード6.5クラスの地震が起きた。
特に伯耆国の河村、久米両郡(現・東伯郡)で被害が大きく、山が崩れ人家を押しつぶした。倉吉では土蔵が損壊し30cmほどの地割れが生じたという。八橋(やばせ:琴浦町)で60余戸倒壊したのを始め、伯耆国での被害は75人死亡、人家倒壊1092軒、土蔵損壊9ヵ所、山崩れ492ヵ所、田畑荒廃461町(4.6平方km)。
美作国では2人死亡、民家倒壊及び損傷200軒余、山崩れ90ヵ所。
(出典:宇佐美龍夫著「日本被害地震総覧>4.被害地震各論 97頁:156 1710Ⅹ3 伯耆・美作」)
〇寛政2年天竜川氾濫。藩領内に多大な被害、浜松城をはじめ城下も(230年前)[追補]
1790年10月26日(寛政2年9月19日)
当夜半から翌27日(旧暦・20日)朝にかけて猛烈な風雨となり、浜松城内では各所が破損し城下侍屋敷、足軽家屋及び町家などが倒潰、大破。天竜川は氾濫し藩領内の田畑、家屋に多大な被害を与えた。
浜松城内各所の塀倒潰333.5間(606m)、城下は家中侍屋敷半潰大破64軒、同破損20軒、足軽の家倒潰47軒、同半潰大破47軒、浜松宿町家倒潰24軒、同半潰大破18軒、領内百姓家倒潰963軒、同流失12軒、同半潰235軒、寺院倒潰2か所、修験者居宅など。堤防決壊(文書虫食いで不明)、同一部決壊5846間(10.6km)、板橋流失81か所、土橋流失23か所、同破損11か所、田畑の損害3万8527石余(表高の64%)と、天竜川の氾濫による堤防の決壊で洪水が広がり、百姓家家屋をはじめ田畑に多大な被害を与えている。 (出典:静岡県編「静岡県史 資料編9 近世1>第1編 大名>遠江>第10章 浜松藩533頁~534頁:〇寛政二年九月十九日」 )
○嘉永3年9月台風、西国から東海地方へ本邦主要部を襲う(170年前)[追補]
1850年10月7日~8日(嘉永3年9月2日~3日
この年、北九州から東海地方にかけて4回も暴風や洪水、高潮に襲われたが、4回目のこの日はあたかも総括するように、主に四国、中国地方から東海地方が台風に襲われ、各地の河川が氾濫、洪水に見舞われた。歴史上、このように気象災害が頻発し、それも日本の主要部分が集中的に襲われた年はない。しかしこの状況は、4年後の伊賀上野地震、安政東海地震、南海地震、6年後の江戸時代最大の“安政3年大風災”を経て、18年後の明治維新までの激動の幕末をいろどるスタートの年となった。
九州の被災記録がなく四国に上陸したのだろうか、同地ではほぼ全土が大風により家々が破損、伊予(愛媛県)の瀬戸内海に注ぐ加茂川、国領川が氾濫、今治藩は夏以来うち続く水害で1万6000石(表高の46%)損耗。四国一の大河・吉野川も氾濫した。中国地方岡山藩では、領内の旭川をはじめ諸河川が8日(旧暦3日)夜半から増水、1丈4尺余(約4m)も水面が上昇。鳥取藩領内では、7日(旧・2日)から風強く、8日(旧・3日)朝になると袋川が増水、午後2時ごろ(八つ時)には土手を超え城下に浸入、城の中の御門内迄浸水。領有する因幡、伯耆両国(鳥取県)では堤防の破壊、田畑山林の損耗、人家の流失など損害甚だしく、損害額20万石(表高の約6割強)に及んだ。
摂津(兵庫県)武庫川氾濫、洪水を起こす。丹後(京都府)宮津藩では、古来稀な大風と洪水で名勝・天の橋立の2か所が切所、領内の村々では荒れ地が続出した。京都も大雨と風で鴨川があふれ五条大橋が20間(36m)ばかり崩壊。近江高島郡(滋賀県)安曇川の大洪水で堤防決壊し、霜降村(現・高島市)の民家、床上浸水5、6尺(1.5m~1.8m)。紀伊熊野(和歌山県では)7日午前0時ごろ(旧・2日九つ時)より大風雨となり、翌8日(旧・3日)の朝まで風強く、浦々の漁船など多く破損、木材の流失はおびただしい数になった。
8日(旧・3日)、尾張藩領内(愛知県)では暴風雨により高潮、洪水起こる。なかでも伊勢湾の高潮で、木曽川沿岸の海西郡八穂新田(現・弥富市)の堤防決壊し一帯に浸水。この年、50日の間に風雨の難3度に及び、そのため民家の流失、倒潰4970軒、猿尾及び井桁(現・愛西市)、定井(現・稲沢市)の堤防の破損及び流失延べ9万5835間(174km)に及び、田畑の損耗はおよそ59万9721石(表高の97%)という壊滅的な打撃を負った。
岡崎藩領内(愛知県)では、10月7日より8日(旧・9月2日より3日)にかけて大風雨となり、城下矢作川の橋西方が30間(55M)ほど川の流れが強く岸辺を掘り下げた。金沢藩領では江沼郡動橋村(現・加賀市)では8日(旧・3日)大洪水に見舞われる。その後被災地は飛んで、陸中(岩手県)で8日(旧・3日)の大風雨により北上川であろうか、舟橋が流れ、いつもより1丈2尺(3.6m)ほどの高さになった水が押し寄せた。台風が北陸から日本海を通過し、東北を横断したのか。
(出典:小倉一徳編、力武常次、竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歴史>2.近世の災害>江戸時代の主要災害一覧 108頁:嘉永3.9.2 諸国大風雨」、「日本高潮史料 227頁~228頁:嘉永三年九月二日」、荒川秀俊ほか編「日本旱魃霖雨史料>霖雨の部> 393 頁~394頁:嘉永三年 諸国 洪水>名古屋市史」、愛知県編「愛知県災害誌>第2編 気象災害 106頁:嘉永3年」。参照:7月の周年災害・追補版(5)「嘉永3年5月末、中国地方瀬戸内海沿岸部大洪水、高潮災害」(次回、8月の災害を抜いて改定します)、2020年8月の周年災害「嘉永3年7月、東海豪雨、矢作川、豊川、天竜川の堤防決壊で穀倉地帯壊滅」、9月の周年災害・追補版(5)「嘉永3年8月台風、北九州、中国地方瀬戸内海沿岸部が洪水・高潮災害に」、7月の周年災害・追補版(5)「嘉永7年伊賀上野地震」、2014年12月の周年災害「安政東海地震」、「安政南海地震」、2016年9月の周年災害〈上巻〉「安政3年秋関東暴風雨・高潮災害“安政3年の大風災”江戸時代最大の大型台風襲来」)
○明治3年9月台風、近畿、東海地方に被害(140年前)[改訂]
1870年10月12日~13日(明治3年9月18日~19日)
四国以東から東北地方南部にかけて台風が通り過ぎ近畿、東海を中心に各地で風水害が発生した。
2年前に築港されたばかりの神戸では、午後5時ごろ、猛烈な暴風に加え激しい雨が降り注ぎ、夜半、前年7月(旧暦・5月)に開庁したばかりの県庁舎、囚獄、徒刑場(ともに刑務所)、官宅(官舎)、東西運上所(貿易管理、税関)、病院、電信局など県政に必要な建物に被害が続出した。
大阪では烈風の中、豪雨が降り注ぎ13日(旧暦・19日)淀川氾濫。1丈4尺(約4m)増水、沿岸の島本村(現在・町)広瀬の堤防を50間(約90m)決壊して12部落を呑み込む。勢いを得た濁流は五領村前島の堤防を本流と挟撃して破壊し合流する。支流芥川は如是村芝生の堤防を80間(145m)決壊して大冠村(以上・高槻市)ほか14か村を濁流に沈め、沿岸の牧野村(現・枚方市)渚の堤防、鳥飼村(摂津市)の堤防も決壊。木津川は淀川分岐点から氾濫して人家を流し、大和川も氾濫して墨江村(現・大阪市)遠里小野の堤防130間(236m)決壊させ、淀川上流から大阪湾にいたる大阪平野一帯は洋々とした海原と化した。
紀伊国(和歌山県)では、紀の川が氾濫して大洪水を起こし、住家流失1000軒、同倒潰8000軒、死傷者200人という。串本浦(現・串本町)では、12日から13日午前0時(旧・18日~19日夜九つ時)にかけての大暴風雨、高潮により住家9軒全潰、31軒半潰、1軒流失、橋梁破損3か所、入港船2艘、漁船など15艘破損、その外田畑の被害多く、新宮藩領内(新宮市)では住家倒潰630軒、同半潰800軒の被害となった。
隣国伊勢、志摩では、伊勢湾の高潮により、安濃津(現・津市)の住家潰滅して数百人が死亡、特に一身田(現・津市)では倒潰した住家が人とともに海に漂い、四日市でも死亡者多く、全体で532人が死亡している。名古屋では“夜、暴風雨起り家屋を覆し、樹木を倒すこと、算なし(数えきれない)、為に死傷者を出す”と。
(出典:小倉一徳編、力武常次、竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歴史>3.明治・大正時代の災害>明治時代の主要災害一覧 121頁:明治3.9.18 近畿・関東地方など風水害」、中央気象台+海洋気象台編「日本の気象史料 1>第1編 暴風雨 253頁~254頁」及び「同史料 3>第1編 暴風雨 45頁~46頁:明治三年九月十八日 四国、近畿、東海道(中部)、関東、奥羽地方 大風雨」[追加]、池田正一郎編著「日本災変通志>近世・江戸時代後期 725頁:明治3年 〇九月十八日の夜」[追加])
○明治13年10月台風、東京湾沿岸部を荒らしまわる-海軍観象台より海上暴風警報発信へ(140年前)[改訂]
1880年(明治13年)10月3日~4日
沖縄南方洋上に現れた台風が、3日土佐沖から4日には東京湾を通過、鹿島灘から太平洋に去った。
それにより、近畿地方から関東地方にかけて暴風雨に見舞われた。特に関東地方南部は3日夜10時過ぎから北西の風雨が強まり、翌4日午前2時からは北西の暴風に代わり未明には最高潮に達した。
相模湾沿岸では神奈川県小田原で酒匂川が氾濫、家屋の流失、橋梁の崩落あり、20余名死亡。東京湾沿岸では横浜と東京の被害が大きく、横浜では堤防決壊2か所、がけ崩れ6か所。市街の中心を流れる大岡川が氾濫、本町、弁天町では家屋の床上浸水が4日朝まで続く。万代町、扇町、松陰町を中心に倒壊家屋多く130戸倒壊、大破、2人死亡。東京では暴風により、沿岸部の芝(港区)、京橋(中央区)、本所(江東区)を中心に家屋の被害が多く、旧郡部を含め住家全壊686戸、同半壊86戸。30人死亡、37人重傷。
この災害において陸上での被害だけでなく、海上での難破船が多数に上ったので、海上気象について1974年(明治7年)7月から気象観測を行っていた海軍水路局海軍観象台(現・海上保安庁海洋情報部、気象庁)が、各海軍鎮守府(現・海上自衛隊地方隊)、主要造船所及び各艦船へ暴風警報を電報で発信するようになった。
(出典:小倉一徳編、力武常次、竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歴史>3.明治・大正時代の災害>明治時代の主要災害一覧 124頁:明治13.10.4 関東・近畿地方暴風雨」、神奈川県編「神奈川県災害誌>年表2部 21頁:明治13年10月3日~4日」、畑市次郎著「東京災害史>第5章 風水害>第3節 明治以降の風水災 142:明治十三年の大風水災」[追加]、東京都編「東京市史稿>変災編第3・89頁~104頁:明治十三年大風災」[追加]、内閣府編・中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会報告書「1890エルトゥールル号事件>第1章「エルトゥールル号事件」に至る歴史的背景>第2節 明治時代の気象予報体制15頁:海上気象」)
〇「教育勅語」発布。時の支配層により拡大解釈され神格化された戦前日本の教育の最高規範書。
男性中心家父長制を法的に整備させ、国民を戦争に駆り立て国を滅ぼした思想的基盤となる(130年前)[追補]
1890年(明治23年)10月30日
1945年(昭和20年)8月、第二次世界大戦における敗戦の日を迎えるまで(戦中、戦前)、我が国を支配する思想的な基盤を成した文書があった。「教育勅語」である。それはこの日、明治天皇の名のもとに発布された。
「勅語」とは、天皇が直接国民にご自分の意志を示されるお言葉であるが、現在のように、天皇個人の意志によるお言葉ではなく、そこには、天皇を通しての支配層の意志や政治的な目論見が込められていた。いうなれば天皇の“お言葉”が政治的に利用されていたことにほかならない。
明治維新を成功させた倒幕派の人々は、戦中まで“勤皇の志士”と称されていたが、実際は“勤皇(天皇に忠義を尽くす)”どころか、当時の天皇を“玉(ぎょく)”と呼び、その玉を手に入れて、政治的権威のシンボルとした方が勝利するとし奔走したので、政治的な利用について特におかしいとは思わなかったのであろう。
明治維新は形の上では“王政復古”とされ、その人たちが明治政府の重鎮として制定した「明治憲法(大日本帝国憲法)」では“天皇之ヲ統治ス(第1条)”とし、自分たちは“天皇ヲ輔弼(補佐)シ(第55条)”としたが、実際は天皇のご意志を都合よく拡大解釈しながら“政治的利用”した歴史だと言ってよい。
本題の「教育勅語」だが、その始まりは、明治天皇が1878年(明治11年)の夏から秋にかけて地方巡幸された際、各地の小・中学校及び師範学校(教師養成学校:現・教育大学及び教育学部)を視察され、近代化を目指すための欧米流の教育の仕組みなどの導入が、当時の民衆の実態とかけ離れ混乱していると感じられたことにあるという。
そこで天皇は、政府の国民教育に関する根本精神を明らかにし、教育の本義がどこにあるのかについての意見(聖旨)を政府に示そうと、22歳の時から侍講(学問を講義する師、教育掛)として近侍している儒学者・元田永孚(ながざね)に起草(原案作成)を指示した。
元田は、江戸幕藩体制の思想的柱であった儒教道徳と、討幕の思想的根拠となった皇国思想を信奉する国粋主義者で、当時、近代国家を目指した明治政府の中枢である、伊藤博文や森有礼の掲げた政策やその思想とはまったく相容れず、随所で批判しており、いうなれば“真逆”の存在であった。しかし“侍講”として儒教的な忠義と孝行を人の徳の中心として教え、明治天皇を国民の模範として育てることに専念していたので、元田を師として敬っていた天皇にとって相談しやすかったのであろう。なかでも、11歳の少年時代、禁門の変(蛤御門の変)など身近で戦(いくさ)を体験された上、臣下である島津、毛利氏などにそむかれ敗れた将軍徳川氏の悲劇を直接ご存じだけに、元田の忠義ぶりは信任するに値いすると、お考えになったと思われる。
元田が起草した天皇のお考えは、翌1879年(明治12年)「教学聖旨」として政府に示され、伊藤と元田の間で論争があったが、結局、政府の教育政策はこの「聖旨」を基本理念としたものに転換され「修身教育(道徳教育)」が教科の冒頭に置かれ、自由民権思想の色の濃い教科書は“不適当”としその使用を禁じられた。
ところが1880年代に入り、1858年(安政5年)欧米諸国と締結した不平等条約改正の外交交渉を控えて、教育面での近代化が叫ばれ、それまでの儒教的「徳育」教育を否定する動きが顕著となり、国粋主義者たちとの論争が始まる。
この状況に対し、1890年(明治23年)2月末の地方長官会議(全国知事会議)では、“徳育の根本方針”を中央政府名において全国に示すようにとの要望が出され、天皇の聞き及ぶところとなった。
天皇は、前年1889年(明治22年)2月公布の憲法にのっとり、文部大臣に対し徳育の基礎となる“箴言(しんげん:人生への教訓集)”の編集を命じた。政府では箴言集を1879年(明治12年)の「教学の聖旨」よりも天皇の意志が強く出せる「勅語」の形に整えることとし、総理大臣の山形有朋より指示された法制局長官井上毅は「聖旨」の起草者であり天皇の信任が厚い元田の協力を得て原案を起草した。内容は当然、先の「教学の聖旨」に基づいていた。
この日発布された「勅語」には本来、名称がない。その目的・内容から通常「教育勅語」または「教育に関する勅語」と呼ばれており、その内容は大きく三段に分けられている。
その第一段は、建国した遥か昔から皇室の祖先は“徳を樹(たつ)ルコト深厚ナリ(立派で素晴らしい徳の持ち主だった)”と紹介し、“我カ(が)臣民克(よ)ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一(いつ)ニシテ世世(よよ)厥(そ)の美ヲ濟(な)セルハ此レ我ガ國體(国体)ノ精華ナリ”と、天皇の臣下である民たちが天皇に忠義を親に孝行をつくし、万民が心をひとつにして代々その美風を作り上げてきたのは、我が国体(国の基本的な体制)の精華(本質)である。と、忠義と孝行をつくすことが、美しき大日本帝国国民を育てる教育の基本であるとした。
実はこの部分が、天皇制下男性中心の家父長制を整備した近代日本の思想的基盤となっていく。
本来「勅語」では忠義は、国の代々の統治者である天皇に対するものとして述べられている。また戦国時代、契約的であった主君と家臣との関係を、江戸幕府は将軍中心の君臣体制に強化するべく、武士階級において発達した独特な倫理感を、儒教の倫理で裏付けした“武士道”へと次元を高め忠義をうたったが、それでも主君と家臣との間の関係であった。ところがこの“忠義”すなわち“主君に対し私欲なく真心を込めて仕える”という考えが、組織統率上、必要な思想だとして浸透し拡大解釈されていく。
「教育勅語」発布後これを思想的基盤とし、6年後の1896年(明治29年)に公布され1898年(明治31年)に第一次改正された「民法」においては、戸主が“家の主人”として“其家族ニ對(対)シテ扶養ノ義務ヲ負フ(第747条)”とする代わりに、家の存続のため絶対的権限を持たせ、その主人となる“家督相続”は“男ヲ先ニス(第970条二項)”と明記された。その上、先の“孝行”と儒教の教える「五倫」にいう“長幼の序(年長による序列)”があわさり、中世の“惣領制”に起源を発し、江戸時代、儒教道徳を取り入れ成立したという“男系家父長的家族制”が法的にも理論的にも整備される。
以降、我が国の家族は、戸主(主人)による統制的な組織へと形成されていくが、このあり方は組織内の“長”たるものによって都合よく拡大解釈され、父親や夫のみならず、一般の組織内では雇い主、上司や先輩、上級生に対しても強要され、天皇を中心にピラミッド型に伸びていった。
第二段は「五倫」に基づく考えで、臣民として必要な徳目を並べている。いわく、父母に孝行、兄弟姉妹仲良くし、夫婦互いに分別を守って仲睦まじく、親友には信義を持って交友する。常に自分を引き締めて気ままにせず、広く世の人々に博愛を及ぼし、学問を修め、業務を習い、もって知識と才能を開花させ、徳のある必要な人物となり、進んでこの徳と知能により公共の利益を増進して有用な働きを行うことが大切である。とした。
そして近年、この部分は人として基本的に必要なあり方ではないかと評価し、全体から切り離して再びよみがえらそうとする動きが活発となっている。一方、いくら良くても国が国民に押し付けるものではないとする意見がある。
ところが実はこの第二段で最も拡大解釈され重要視され主張された点は次にあった。
“常ニ國(国)憲を重し(重んじ)國法ニ遵ヒ(従い)一旦緩急アレハ(ば)義勇公ニ奉シ(じ)以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ(すべし)”つまり、常に帝国憲法を重んじ、法令を守り、戦争が起きたならば、忠義の心あつく勇気を奮って君国(天皇統治の国)の為に身命を捧げ、永遠に続く皇位が栄えるようお助けするのが我ら臣民の務めである。とした点であった。
実はこの部分をかえり見ると、皇位が栄えるようお助けすると称してこの「勅語」を利用し、天皇の名のもとに無謀な戦争に国民を駆り立て“死”に追いやり国を滅ぼした、思想的、政治的、軍事的な基盤と化していた。
中でも“忠義の心あつく勇気を奮って君国の為に身命を捧げ”とされた部分は、中国との全面戦争が始まった1937年(昭和12年)以降、準国歌として歌われた「海ゆかば」の“大君の邊(辺:へ)にこそ死なめかへ(え)りみは(わ)せじ(天皇陛下のために死にます。反省するようなことはありません)”と併称され、軍人だけでなく国民の間に徹底された。
この“死生観”は、もともとは主君に絶対的な服従を求める江戸期の「武士道」の思想にあるものだが、先の「教学の聖旨」が政府に示された3年後の1882年(明治15年)、陸海軍軍人に下賜された「軍人勅諭」の“軍人ハ忠節ヲ盡(尽)スヲ本分トスヘシ”から始まる一節に“己カ(おのれが:自分の)本分ノ忠節ヲ守リ(中略)死ハ鴻(羽)毛ヨリモ軽シト覺(覚)悟セヨ其(の)操ヲ破リテ不覺ヲ取リ汚名ヲ受クルナカレ”と明記された部分は、職業軍人だけでなく、戦時に民間から「赤紙」で徴収された兵隊たちにも徹底された。
なかでも“不覺ヲ取リ汚名ヲ受クルナカレ”の部分は、太平洋戦争開戦の年の1941年(昭和16年)1月、陸軍大臣が全軍に示達した「戦陣訓」の中で“生きて虜囚(捕虜)の辱(はずかしめ)を受けず”とうたわれ、日本軍では戦局が不利になっても撤退をさせず、全員戦死を覚悟した“バンザイ突撃”や一軍全滅の“玉砕”、果ては“死”を前提にした“特別攻撃隊(特攻隊)”による襲撃に体現され、戦力を低下させた。結局、軍上層部は根拠のない“神風(かみかぜ)”頼りのたたかいを続けさせ、日本軍は敗れた。
なお1945年(昭和20年)4月~5月の沖縄戦では、戦局が不利になると、兵隊はおろか民間人にも“自決”が強要され、本来は守ってくれる筈の日本軍の手によって、避難した多くのお年寄り、女性、子供たちが死に追いやられた。
実は、江戸時代の武士道の書「葉隠」に“武士道といふは、死ぬことと見付けたり”という一節があり、これこそが武士道の神髄とされ“玉砕、自決”の裏付けとされたが、これも続く文意から単純に“死ぬこと”ではなく、実は“命をかけて死ぬ覚悟で行え”ということであり、曲解されている。
このように、「教育勅語」と一連の「勅諭」などは、明治天皇の当初のご意志から離れて、時代とともに時の支配層の手によって拡大解釈が進められ、日本国民を戦争に駆り立てた。その結果、太平洋戦争では約6割が補給もなく、敵と戦うこともなく餓死したという約230万人余の将兵と、原子爆弾をはじめとする空襲などにより約80万人余の民間人を死に追いやり、結局国を滅ぼした。
さらに最後の第三段は、この「勅語」の成立と目的を説明したもので、明治天皇が新たに決めたものではなく、御先祖から受けついだ遺訓であること“子孫臣民ノ倶(とも)ニ遵守スヘキ(すべき)所”のものであること、昔も今も変わりがないものとしたが、アジア侵略の道具とされたのは“之を中外二施シテ悖(もと)ラス(国内外に広めても道理に反しない)”の部分であった。
明治以降、日本の植民地となった朝鮮、台湾、中国の一部、東南アジアの諸国を、太平洋戦争(日本では大東亜戦争と称した)開戦の前年1940年(昭和15年)以降“大東亜共栄圏”とする経済圏域としたが、“八紘一宇(世界を一つの家とする)”の方針の下“長幼の序”にもとづき、日本民族(大和民族)を“兄”盟主とし、他の植民地化した国の民族を“弟”とした上、ともに日本の天皇の“臣下”としてとらえ、そこでの“皇民化教育”の教材としてこの「勅語」が使われている。
特に1931年勃発の満州事変から1945年終戦の太平洋戦争に至る“15年戦争時代”になると、「教育勅語」は神格化され、ともに神格化され現御神(あきつみかみ)とする昭和天皇、皇后の写真(御真影)とともに“神国日本”のシンボルとされた「勅語」の謄本(印刷した写し)を納める“奉安殿”が全国の各小・中学校に設けられ、毎朝先生と児童・生徒はその前で一礼させられた。また災害や戦争中の空襲下、奉安殿から両者を守ろうとして避難せず、幾多の先生が殉職し美談として報じられた。
ただ、子供たちは違った。知らぬが仏だ。ある田舎の国民学校(小学校)4年生のクラスでの実話。
終戦まぢかの1945年(昭和20年)4月、1学期最初の“修身”の時間に初めて校長先生が礼装して教室に来られた。不審に思った児童たちは直立したまま迎える。するとやおら巻物を取り出し、児童たちに一礼させると、丁重に説明した後、それを読みだした。“朕惟フニ我カ皇祖皇宗……”。
するとなんと聞き間違えたのか、悪童どもが馬鹿でかい声で“エー”と一言、女の子たちは下を向いてクスクス笑い出す始末(共学だった)。まじめな子たち(筆者)は“エッ”となって、思わず下をのぞき込んで“なんでコソコソしなければならないんだろう”と。せっかくの「勅語」朗読を混乱させたが、校長先生ニコリともせず朗読が終わると、授業時間が終わらないのに教室を出て行かれた。次の授業時間、担任の先生ニヤニヤ笑いながらいわく“お前ら、校長の話くらいは静かに聞けよ”児童一同“ハーイ”。
下ネタに興味を持ち始めた4年生には“ちん思うにコソコソ”と聞こえたのである。“朕”が天皇の自称とは知らず、彼らの知っている“ちん”は一つしかなかった。先の厳粛な鎮魂歌「海行かば」も“オオキミノ、ヘニコソシナメ、ブーブブ、カエリミワセジ、ブーブブ、チャカチャン”田舎の悪童ども学校の行き帰りに大声で歌う。
そこへグラマン(アメリカ空軍戦闘機)来襲!容赦ない機銃照射、3月10日、東京の下町を焼き尽くし10万人以上を殺した連中だ!ウクライナでのロシア軍のように無差別攻撃だ!悪童どもさっと物陰に隠れて、機銃弾のから薬きょうを探して拾う。クラスでその本数の多い奴が英雄だった。
話を戻そう。その「教育勅語」は、敗戦後の1948年(昭和23年)6月、主権在民を主軸にした新「憲法」や前年公布された「教育基本法」に反するとして、衆議院において「教育勅語等の排除に関する決議」、参議院において「教育勅語等の失効確認に関する決議」が採択され排除・失効した。
しかし現在、これを信奉する日本会議や安倍元首相を中心とする自由民主党内最大派閥の安倍派があり、安倍内閣時代の2017年(平成29年)3月“教育勅語が憲法や教育基本法に反しない限り教材として認める”とした閣議決定がなされている。これは両法に“反する”として排除されたはずの「勅語」を“反しない限り”という矛盾した理由で復活を企図したもので、その基準となった両法を改訂し矛盾をなくそうとする動きが、日本会議、安倍派両者の基本的活動となっている。
2006年(平成18年)12月、安倍内閣によって「教育基本法」はすでに全面改定された。「憲法」も問題点を検討するとして2000年(平成12年)1月、衆参両院に憲法調査会が設置され、2007年(平成19年)5月、「日本国憲法の改正手続に関する法律」が公布され、同年8月、調査会はあからさまに“憲法審査会”と改称。現在、国民民主党など一部野党議員も含み“改正”への動きは急である。
最後に、これらの動きに反対の意思表示を行動でさりげなくされておられるのが、終戦の翌1946年(昭和21年)元日の「詔書」で、天皇が現御神(あきつみかみ)とは“架空ナル観念”とご自分で宣言され、新「憲法」に基づき“日本国民統合の象徴(第1条)”として努力しておられる天皇及びそのご一家ではなかろうか。中でも2013年(平成25年)10月、民間から初めて皇室へ嫁がれた当時の美智子皇后(現・上皇后)が、お誕生日に際して文書で回答された「感想」の中で、「明治憲法」制定をめぐり東京多摩の五日市(現・あきる野市)の民権活動家たちが起草した「五日市憲法草案」が、現憲法の定める“基本的人権”や“言論の自由”についてすでに記載しており“深い感銘を覚えた”と感想を記されている。
(出典:国立国会図書館デジタルコレクション「九大詔勅謹解:神器訓御製御歌抄 23頁~29頁(17~19コマ):第6 教育に関する勅語(本文、読解)」、文部科学省編「学制百年史>第1編 近代教育制度の創始と拡充>第1章 近代教育制度の創始>第1節 概説>6 教学聖旨と文教政策の変化」、同編「同史>同編>第2章 近代教育制度の確立と整備>第1節 概説>2 明治憲法と教育勅語」、同編「同史>第2編 戦後の教育改革と新教育制度の発展>第1章 戦後の教育改革>第1節 概説>2 新教育の基本方針>日本国憲法、教育基本法の制定と教育勅語の取り扱い」、国立国会図書館デジタルコレクション・法令全書.明治22年「大日本帝国憲法 2頁~5頁(2~4コマ):第1章、第2章」、同コレクション・法令全書.明治31年「法律第9号・民法>第4編 親族>第2章 戸主及ヒ家族・116頁~117頁(20コマ):第2節 戸主及ヒ家族ノ権利義務」、同コレクション・同書.同年「法律9号 民法>第5編 相続>第1章 家督相続・148頁~152頁(36~38コマ):第2節 家督相続人」、加賀山茂著「日本の家族と民法」、信時 潔作曲、大伴家持元詞、伊藤久雄歌「海行かば」、国立国会図書館デジタルコレクション・友田冝剛著「軍人勅諭謹解 3頁~4頁(15~16コマ)」、同コレクション・岡田稔 頭註「国民聖典>後篇三 戦陣訓>本訓 其の二・386頁(203コマ):第八 名を惜しむ」、同コレクション・修養大講座.第8巻・加藤咄堂講述「葉隠 327頁(169コマ):六「武士道と死」、同コレクション・文部省編「國體の本義>大日本國體>二.聖徳 23 頁(17コマ):かくて天皇は……現御神或いは現人神」、Y-History 教材工房編「世界史の窓>儒学・儒教」、同編「世界史の窓>大東亜共栄圏」、同編「世界史の窓>皇民化教育」、青森県浪岡町(現・青森市)編「広報なみおか平成15年1月号・なみおか町史コラム(21)明治中期以降の学校教育より 教育勅語と御真影」、水島朝穂著「防空法制下の庶民生活>命よりまず“御真影”が気にかかり」、広田純著「太平洋戦争におけるわが国の戦争被害」、藤原彰著「餓死した英霊たち」、国立国会図書館デジタルコレクション「官報号外・日本国憲法」、同コレクション「官報.1947年3月31日・2頁~3頁:昭和22年法律第25号・教育基本法」、衆議院制定法律「平成18年法律第120号・教育基本法(改定版)」、日本会議編「日本会議とは」、衆議院憲法調査会編「設置の経緯」、衆議院制定法律「平成19年法律第51号・日本国憲法の改正手続に関する法律(国民投票法)」、官報号外「昭和21年1月1日 詔書“天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ(天皇人間宣言)”」、宮内庁編「皇后陛下お誕生日に際し(平成25年)」。参照:2014年8月の周年災害「京都禁門の変、兵火民家を襲う」、2011年12月の周年災害「太平洋戦争開戦、第二次世界大戦へ」、2015年4月の周年災害「アメリカ軍、無抵抗に乗じ沖縄本島にやすやすと上陸、住民戦闘に巻き込まれる」、2015年3月の周年災害「東京大空襲、民間人に対する無差別戦略爆撃始まる」」
○初の臨時治水調査会設置し、現在につながる第一次治水長期計画策定(110年前)[再録]
1910年(明治43年)10月15日
同年8月6日ごろから15日にかけて明治時代最大といわれる庚戌(かのえいぬ)の水害が起きた。
この大水害により米価や日用品価格が高騰するなど経済状況に深刻な影響が現れ、明治政府にとって水害対策と治水事業は重要な課題と位置づけられたという。
この状況を受けこの日、勅令(天皇の命令)に基づき臨時治水調査会が内閣に設置された。同調査会は内務大臣(現・国土交通相)が監督し、臨時治水に関する重要事項の調査審議、治水に関する事項につき関係各大臣に建議することとされた。
10月25日、同調査会は初会合を開き、政府から提出された議案、1.河川改修に関する件、2.砂防計画に関する件、3.森林行政上治水に関係ある施設に関する件についてそれぞれ特別委員会を設置して審議に入り、日本の近代治水事業の出発点となった「第一次治水長期計画」としてまとめ上げた。
同計画は、翌年1月~2月の第27回帝国議会の審議を経て決定され、全国的な国直轄の河川改修事業など、現在につながる国の社会基盤を築く治水事業が展開されていく。
(出典:松浦茂樹著「明治43年水害と第一次治水長期計画の策定」、参照:2020年8月の周年災害「明治43年関東大水害「庚戌(かのえいぬ)の大洪水」)
○初の全国労働衛生週間開催、働く人の生活全体の環境改善、健康増進などを課題に(70年前)[改訂]
1950年(昭和25年)10月1日~7日
日本は太平洋戦争(1941年~45年)を敗戦という形で終えた。
戦時中、国民は生命や財産などを国に捧げた耐乏生活の中で過ごした上、アメリカ空軍による徹底的な空襲でいわゆる戦災(戦争災害)に遭い、戦後、多くの国民の生活環境は劣悪な状況になっていた。
そのため労働衛生分野の課題においても感染症や職業病の予防問題だけはなく、働く人の生活全体の環境改善や健康増進などが新しい課題となっていた。
そこで国として1947年4月制定の「労働基準法」及び「労働安全衛生規則」において、衛生管理者について規定し1949年から同制度を実施、職場における衛生面の指導を行うことになった。
このように制度的に整備されていく中で、産業安全運動としても労働衛生問題を見直し、独自の取り組みを進める必要があるとしてこの日から1週間、労働省主唱のもと、全国安全週間から切り離した新しい独自な内容による全国的な労働衛生週間を開催することになった。
その後72回目を迎えた令和3年度(2021年度)の同週間では、その実施要綱で過労死問題、新型コロナウイルス感染症対策、高年齢労働者が安心して安全に働けるは職場環境づくりなどの課題をあげ、全体スローガンとして“向き合おう! こころとからだの 健康管理”副スローガンに“うつらぬうつさぬルールとともに みんなで守る健康職場”を掲げ実施されている。
(出典:中央労働災害防止協会・産業安全運動100年記念事業推進室編「写真と年表で辿る産業安全運動100年の軌跡>復興の時代(昭和20年代)>年表(昭和20年代)>昭和25年>解説・全国労働衛生週間が全国安全週間から独立して実施」、国立国会図書館デジタルコレクション・官報.1947年4月7日「昭和22年法律第49号・労働基準法」[追加]、同コレクション・官報1947年10月31日「昭和22年労働省令第9号・労働安全規則」[追加]、中央労働災害防止協会編「令和3年度全国労働衛生週間>全国労働衛生週間実施要項」[追加]、)
○シラス食中毒事件-腸炎ビブリオ菌発見、海水中に棲息し水温15度C以上の夏季に増殖(70年前)[改訂]
1950年(昭和25年)10月21日
大阪市南部、堺市、岸和田市、泉佐野市を中心とした泉南地方で、272人が中毒となりそのうち20人が死亡するという大規模な中毒事件が発生した。
患者は激しい腹痛に悩まされた上、下痢を繰り返していた。原因を調べようと患者から聞き取り調査を行うと、いずれも同じ行商人から買ったシラスを食べていたことがわかり、このシラスが原因であることがすぐわかった。
ところが原因解明の過程で、患者があまりにも多いことや前年の三鷹事件(1949年:昭和24年7月)、松川事件(同年8月)など社会的な不安をあおる事件が続いていたため、当初警察は毒物混入事件ではないかとシラス製造工場を調べたが、その根拠はまったくなかった。
そこでこれは集団食中毒事件ではないかと捜査方針を変更、大阪大学微生物病研究所に細菌検査を委託した。また患者の家を調べたところ、幸いにも台所に原因となったシラスが残っていたので同研究所でこのシラスを調べると、患者の遺体にあったのと同じ細菌が発見され、この細菌による食中毒であることが解明された。
ところが、この検出された細菌はどの文献にも載っていない見たこともない細菌だった。それは丸い棒のような形をした桿菌で長い鞭毛を持っており、海水中に棲息し塩分によって増殖をする。また日本近海では海水温度が15度C以上に上昇する5月~10月にかけて同菌が常時検出されており、食中毒の危険性も高くなることもわかった。
この新種の細菌は後に“腸炎ビブリオ菌”と名付けられ、1980年代前半(昭和55年~60年)までは細菌性食中毒のおよそ半数を占め、発生数、患者数とも常に第1位を占めていた。その後減少に転じたが、1992、3年(平成4,5年)ごろを下限に再び上昇に転じ、1998年(平成10年)には839件と件数、患者数ともピークに達し、その後急激に減少2010年(平成22年)以降は10件に満たない。
同菌による食中毒のほとんどが魚介類及びその加工品である点から、減少に転じた理由の一つとして、2001年(平成13年)に「食品、添加物等の規格基準」が改正され、食中毒の原因となりやすい生食用の鮮魚介類、ゆでダコ、カニなどの食品に対して、新たに「規格基準」が設けられ、加工の際には菌が増殖している可能性のある生の海水を使用せず、殺菌した海水または飲用に適した水による人工海水を使用すること。流通、販売する際10度C以下で保存すること、などが定められたことが挙げられている。
(出典:鈴木厚著「戦後医療事件史>昭和20年代>シラス食中毒事件」、国立感染症研究所編「腸炎ビブリオ感染症とは」[追加]、大坂健康安全基盤研究所編「腸炎ビブリオ食中毒はなぜ減少したのか?」[追加]、「食品衛生法施行規則及び食品、添加物等の規格基準の一部改正について」[追加])
○丸全昭和運輸東海倉庫火災-劇毒物の所在把握で事前の火災予防・消火対策が可能に(40年前)[改訂]
1980年(昭和55年)10月1日
愛知県大府市の丸全昭和運輸東海倉庫で溶接中の火花が可燃物に着火して燃え広がり、建物とともに保管中の多量の化学薬品が焼損した。
その際、有毒ガスの発生が危惧されたので付近の住民8000人に避難命令が出され、消火活動にも支障があった。
この火災の直後、火災の際に有毒ガスを発生する劇毒物の危険性が大きな問題となり、翌1981年(昭和56年)1月「消防法施行令」が改正され、「毒物及び毒物取締法」に規定する毒物、劇物のうち、保管倉庫がある所轄の消防長や消防署長に届出を必要とする物質として“シアン化水素”“アンモニア”などが指定され、同年5月の「自治省令」では、保管届出が必要な水または熱を加えること等により、人体に重大な障害をもたらすガスが発生するなど、火災予防や消火活動に重大な支障を生む恐れのある物質が新たに指定された。これらにより消防機関が事前に、火災時に重大な支障を起こす劇毒物の所在を的確に把握し対策を立てられるようになった。
(出典:近代消防別冊「日本の消防1948-2003・昭和55年・丸全昭和運輸東海倉庫火災」、東京消防庁編「消火活動に重大な支障を生ずるおそれのある物質の届出について」[追加]
○初の地球温暖化防止行動計画を策定-2014年以降、民間の努力でようやく温室効果ガス排出量減少へ(30年前)[改訂]
1990年(平成2年)10月23日
1988年11月、気候変動に関する政府間パネル(IPPC)の第1回会議が開かれ、国連環境計画と世界気象機関で温暖化の研究、評価、対策の検討が開始された。
翌1989年9月、日本で政府主催の「地球環境保全に関する東京会議」、市民による「地球環境国際市民会議」が相次いで開かれた。またオランダ・ハーグで「大気汚染と気候変動に関する世界環境大臣会議」が開かれ、初めて温室効果ガス排出の安定化についての宣言が発表されるなど、国際的に地球温暖化防止への動きが強まっていた。それらの動きを背景にこの日、日本での地球温暖化対策を計画的、総合的に推進する初の「地球温暖化防止行動計画」が関係閣僚会議で決定された。
その後、1997年12月、日本が議長国となった第3回気候変動枠組条約締約国会議(COP3)では、初めて温室効果ガス排出削減目標を、先進国を中心に課すと決めた歴史的な「京都議定書」を採択。2009年(平成21年)9月には民主党鳩山首相がニューヨークの国連気候変動サミットで、温室効果ガス排出量の2020年まで90年比25%削減を打ち出すなど、地球温暖化防止を目指すわが国の動きは一時世界的に注目を浴びた。
しかし、2012年(平成24年)12月の民主党政権瓦解で鳩山構想はとん挫、逆に自由民主党政権下の2013年(平成25年)には、もっとも多い14億800万トンと1990年の12億7500万トンに対して10.4%増となった。しかし鳩山元首相が約束した2020年(令和2年)には、それでも11億4900万トン(速報値)と1990年比9.9%減となっている。
温室ガス排出量の減少に貢献した主な物質は、排出量全体の約90%を占める二酸化炭素(CO2:炭酸ガス)で、1990年の11億6400万トンに対し2020年は10億440万トンと13.8減となっている。
また減少した主な部門は発電所・製油所部門(エネルギー転換部門)が2013年の5億2600万トンに対して2020年は4億2200万トンと19.8%減、産業部門(工場)が3億3000万トンに対して2億5200万トンの23.7%減と総排出量の約65%を占める両部門の減少が大きい。
その主な原因は、近年の太陽光、風力、地熱など再生可能エネルギー発電による電力の低炭素化の拡大、及び産業界における省エネルギー化による消費量の減少によるという。すべて民間による努力のたまものである。
(出典:三省堂刊「地球環境の事典>249頁~250頁:地球温暖化防止行動計画」、環境省編「地球温暖化対策推進法と地球温暖化対策計画」[追加]、国立環境研究所編「2020年度(令和2年度)の温室効果ガス排出量(速報値)」[追加]、同編「2019年度(令和元年度)温室効果ガス排出量(確報値)について。前文」[追加]。参照:2017年12月の周年災害「京都でCOP3開催、京都議定書採択」[追加])
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(2022.4.5.更新)