【目 次】

・延暦9年裳瘡(天然痘)流行、この年、都から地方へ広まる(1230年前)[再録]

・長保2年鴨川堤防決壊し京市中大洪水、左大臣藤原道長邸の庭、庭やら池やら(1020年前)[改訂]

・明徳の飢饉、南北朝時代終わる。大飢饉、天下大いに飢え、時代の変革を明らかに(830年前)[再録]

・京都明応の大火。洛中2万3000余家消失、前代未聞の大火事也(520年前)[改訂]

・慶安3年九州大水害長崎、柳河藩領に被害(370年前)[追補]

・慶安3年東海大水害、六十年来未曾有之洪水「寅年の洪水」(370年前)[改訂]

・万治3年京都、伊勢、関東水害、伊勢神宮、日光東照宮門前町などに被害(360年前)[改訂]

・延宝8年閏8月台風、東海道筋、江戸、強風と高潮に襲われる(340年前)[改訂]

・江戸町奉行、町火消を“いろは48組”に再編成、奉行所に町火消人足改役設置、鳶人足が主役に(300年前)[改訂]

・元文5年、京都・畿内集中豪雨で大洪水「御所流れ」(280年前)[改訂]

・文化7年羽後地震(男鹿大地震)、男鹿半島鳴動し寒風山崩れる(210年前)[改訂]

・文政13年京都洛中、洛外、余震のさなか土砂災害と洪水に見舞われる(190年前)[改訂]

・アヘン戦争を契機としたアヘン禁止政策、明治新政府はアヘン販売首謀者斬首の刑を布告(150年前)[改訂]

・明治23年大阪大火「新町焼け」新町遊郭を始め20か町の73%が焼失(130年前)[改訂]

・トルコ軍艦エルトゥールル遭難、地元住民の献身的救助活動が日本・トルコ親善の契機に(130年前)[改訂]

・先駆的な労働者保護規定「鉱業条例」公布、新聞による鉱夫虐待事例報道が社会問題化し(130年前)[追補]

大正9年9月末台風、神奈川県、茨城県に集中的被害(100年前)[改訂]

・初の総合防災訓練「非常時火災警防演習」実施、市民による初期消火組織の充実が緊急課題に(90年前)[再録]

・昭和25年台風28号「ジェーン台風」強風が長時間続き高潮発生、大阪市内に大被害を与える(70年前)[改訂]

・昭和25年台風29号「キジア台風」九州、中国、四国地方西部に被害(70年前)[改訂]

・スモン病の原因報告を受けキノホルム販売中止。一時感染症説横行し患者疎外される(50年前)[改訂]

・六都県市合同防災訓練始まる。以降、順次拡大し2010年から九都県市に(40年前)[改訂]

・平成2年台風19号、日本列島を秋雨前線と挟み撃ち(30年前)[改訂]

・平成12年東海豪雨。停滞前線と台風14号による記録的な東海地方大雨が都市防災上の課題残す(20年前)[再録]

・多剤耐性菌帝京大学病院で集団感染、国への報告も遅れる。抗生剤乱用の結果危険な細菌が横行(10年前)[追補]

【本 文】

延暦9年裳瘡(天然痘)流行、この年、都から地方へ広まる(1230年前)[再録]
 790年9月~12月(延暦9年秋~冬)
 わが国の正史「続日本紀・巻第四十」延暦九年の末文に“是年秋冬。京畿男女年卅已下者。悉発豌豆瘡(俗云裳瘡)。臥疾者多。其甚者死。天下諸国往往而在”とある。
 つまり、この年の秋から冬にかけて、都と畿内に住む三十歳以下の男女のことごとくが、俗に裳瘡と呼ばれている豌豆瘡(天然痘)にかかり、病気となって多くの者が寝てしまい、その重い症状の者は死亡した。諸国の多くがそのような状況に陥っている、と、大流行の事実を記録している。
 ここで注目すべきは“天下諸国往往而在”の記述である。
 裳瘡こと天然痘が初めてわが国で大流行したのは、735年(天平7年)の初夏で、この時は九州の太宰府を中心に北九州で猛威を振るった。次いで2年後の737年5月、遣新羅使(朝鮮半島南東部の新羅国への使節)が帰国報告に朝廷に参内した直後、天然痘が平城京中に広まり、時の最高権力者である藤原房前が死亡したのをはじめ、朝廷の役人の多くが発病、時の太政官(内閣閣僚)8人の内5人が死亡、ついに強固を誇った藤原政権が倒れるという事件となっている。 
 そして今回の大流行は正史に現れた3回目の大流行だが、特徴は、流行が都の内に止まらず、周辺である畿内から天下諸国へと広まっていることで、広めたのは地方へ赴任する役人か、都と地方を往来する商人なのか。感染症に無防備な時代だけに侵入を阻止することは難しく、その後、外来の感染症ながら一種の国民病化していく。
 (出典:国立国会図書館デジタルコレクション・国史大系.第2巻「続日本紀>巻40・768頁(390コマ):是年秋冬……」[変更]。参照:2015年6月の周年災害〈上巻〉「天然痘、国内初、大陸から北九州に侵入」[改訂]、2017年5月の周年災害「天然痘、平城京のみならず全国的に大流行」[改訂])

長保2年鴨川堤防決壊し京市中大洪水、左大臣藤原道長邸の庭、庭やら池やら(1020年前)[改訂]
 1000年9月22日(長保2年8月16日)
 
同時代の記録、藤原行成の日記「権記」によれば、大雨の前日の21日(旧歴15日)から雨が降り止まず、そして“夜来大雨、鴨河堤絶、河水入洛、京極以西人宇(家屋)多以流損、就中左相府不別庭池、汎溢如海”とある。 
 鴨川が氾濫し堤防を越えあふれた河水が京の市中に浸水、特に鴨川沿いの京極より西の地域では多くの人や家が流れたという。当時、京極より西の低地には数多くの民家と小商人の家々が建ち並び生活をしていた。そこは人家の密集地だったので、洪水にはひとたまりもなかったであろう。
 そして行成はわざわざ、就中(なかでも)と筆を滑らせる。佐相府、つまり左大臣藤原道長邸、この年、娘の彰子を天皇の中宮(妃:きさき)に据えてしまうほどの、権勢第一の人物の屋敷である。その屋敷の広大な数寄を凝らした庭園が、鴨川の水で海のようになり、どこが庭やら池やら判らなくなってしまった。と、時の権力者も災害には勝てないと、行成の皮肉がさえている。
 (出典:荒川秀俊ほか編「日本旱魃霖雨史料>霖雨の部 192頁:長保二年 京都 霖雨、洪水>権記」、中央気象台+海洋気象台編「日本の気象史料 1>第2編 洪水 292頁:長保二年八月十六日 京都、大雨、洪水」[追加])

明徳の飢饉、南北朝時代終わる。大飢饉、天下大いに飢え、時代の変革を明らかに(830年前)[再録]
 1390年9月~93年(明徳元年秋~4年)
 1391年から1393年(明徳2年から同4年)にかけて、国内は飢饉と疫病に悩まされていた。
 そのさなかの1392年11月27日(旧暦・明徳2年閏10月5日)、南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇へ皇位継承の証(あかし)である三種の神器が渡され、56年間に渡る不毛な内乱は終結することになった。
 南北朝時代というのは、北の京都に持明院統の子孫の天皇が在位し、南の吉野(奈良県吉野町)には大覚寺統の子孫の天皇が在位しているという、いわゆる両統迭立(ていりつ)の状況の時代を指す。
 もともと両統が迭立した原因は、1272年3月(旧・文永9年2月)に後嵯峨法皇が崩御した際、荘園領地の継承などについて明確な遺勅(遺言)がなかったので、兄宮の後深草上皇(持明院統)と弟宮の亀山天皇(大覚寺統)が遺産相続で争ったことから始まる。この騒動は中立的な立場の鎌倉幕府の仲介で、両統が交互に皇位につき所領を引き継ぐことで決着した。
 ところが1318年4月(旧・文保2年3月)大覚寺統の後醍醐天皇が即位、往時の天皇親政復活の夢を描き、反鎌倉幕府の豪族たちの協力を得て、1333年7月(旧・正慶2年5月)同幕府を滅亡させる。しかし、その後の後醍醐天皇の政治(建武中興)は、すでに時代が政治的にも経済的にも武士の時代となっていることを理解しない復古的なものだったので、すぐさま破綻した。そして当時、武士の統領として権力を掌握しつつあった足利尊氏と対立、1336年9月(旧・建武2年8月)には天皇を退位し、光明天皇(持明院統)にいったん譲位したが、同年12月(旧・同年11月)尊氏が新たに室町幕府を開くのをみて、京都での政治権力奪還をあきらめ、密かに吉野へ潜幸して復位、吉野朝廷を建てたことから南北朝時代が始まる。
 その波乱の時代がここに終わり、平和が訪れたが、半世紀以上にわたる不毛な内乱に、農民は戦闘員として駆り出されて耕地は放棄され荒廃し、集落は疲弊していた。
 史書は語る。1390~91年(旧・明徳元年~2年)は“自元年至二年、天下大飢(如是院年代記)”“明徳二年・今年、飢饉餓死、疫癘(疫病:感染症)流布(常楽記)”。1392年(旧・同3年)は“四月より十一月に至る陸奥(東方地方東部)大旱(東北地方近古饉史)”。1393年(旧・同4年)は“日照りにて自四月同十一月まで雨不降候(会津塔寺村:現・会津坂下町、八幡宮長帳)”、そして“天下大飢(武家年代記)”となった。
 不毛な内乱は終結せざるを得なかった。古今、大飢饉は時代の変革を誰の目にも明らかにしてきた。
 1180年(旧・治承6年)養和の大飢饉が起こり平家は滅亡する。1517年(旧・永正14年)永正の飢饉起こり、室町幕府の統治能力のなさが明確になり戦国時代最盛期に。1866年(旧・慶応2年)慶応大凶作、民衆が一斉に蜂起し幕府ついに崩壊、明治維新なる。
 (出典:小倉一德編、力武常次+竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歴史>1 上代・中世の災害>南北朝・室町時代の主要災害一覧 62頁:元中8~9諸国飢饉」、池田正一郎編著「日本災変通志>中世 南北朝時代 263頁、266頁:明徳元年、二年、三年、四年」、西村真琴+吉川一郎編「日本凶荒史考>243頁:元中八年(南朝の年号)、去今年諸国飢饉す。明徳四年、この歳旱、諸国飢う」、荒川秀俊ほか編「日本旱魃霖雨史料>旱魃の部 80頁:元中九年/明徳三年 陸奥 大旱、明徳四年 近畿並奥羽諸国 旱魃」。参照:2020年7月の周年災害「養和の大飢饉、鴨長明が記録した惨状-平家遂に滅亡」[改訂]、2017年8月の周年災害「永正の飢饉、洪水、早霜、幕府は統治能力なく無策」[改訂]、2016年12月の周年災害「物価騰貴と慶応大凶作-全国で民衆が一斉蜂起、幕府ついに崩壊」[改訂])

○京都明応の大火。洛中2万3000余家消失、前代未聞の大火事也(520年前)[改訂]
 1500年9月1日(明応9年7月28日)
 洛中柳原(上京区役所北方辺り)から出火し2100余町に延焼。50日ほど前、応仁の乱(1467年~1474年)によって一時途絶えていた祇園会(祇園祭)を復興させた京都の街だが大火となった。
 同時代の公卿・九条尚経の日記「後慈眼院殿御記」によれば、時の関白・一条冬良邸をはじめ、近衛、鷹司、日野、冷泉邸など公家屋敷28ヵ所、武家、執権屋敷など数十か所をはじめ諸司(官僚)屋敷、寺院、神社、武士や庶民の住家など2万3000余家を焼き尽くし、ほぼ一条通の南北がことごとく荒野になり、焼死者は数え切れない”先代(前代)未聞之大火事”だったという。
 (出典:京都歴史災害研究会編「京都歴史災害年表>1401-1500年・179頁:1500年9月2日・火災」)

○慶安3年九州大水害、長崎、柳河藩領に被害(370年前)[追補]
 1650年9月11日(慶安3年8月16日)
 北九州に大風雨が襲い、長崎湾及び有明海沿岸部の家屋と田畑に大損害を与えた。
 肥前国(長崎県)長崎では、高潮により沿岸部の家屋は床上3尺(約1m)の浸水被害。有明海奥の筑後国(福岡県)柳河(柳川)藩領では、暴風が吹き荒れ、筑後川河口に押し寄せた強い波により、流れが逆流する海瀟(潮津波)が起きて氾濫、筑紫平野は大洪水となった。170余人死亡、浸水家屋3300軒、領内の田地は表高の約5割、5万石の損害を負った。また、筑後川河口部にある三角州の島は、北部を大野島と呼び筑後・柳河藩領だが、そこの民家はことごとく押し寄せた波によって対岸の肥前(佐賀県)佐賀藩領の寺井及び早津江にうち流されている。
 ちなみにこの三角州の島の南部は大詫間と呼ばれ肥前国に属し佐賀藩領だが、もともとは北が雄島、南が雌島と呼ばれた二つの島であったものが、土砂の堆積が進み一つの島となったもので、江戸時代初期その領有をめぐって柳川藩と佐賀藩の間で争いが絶えず、正保元年(新暦・1644年)に幕府の調停により、筑後の農民が干拓した北部大野島(旧雄島)を柳河藩、白山(現・佐賀市)の武富氏が開拓した南部大詫間(旧雌島)を佐賀藩領とし、同時に国境も決めることで決着がついている。
 (出典:荒川秀俊ほか編「日本高潮史料 20頁:慶安三年八月十六日>福岡県災異誌、長崎年表」[追加]、中央気象台+海洋気象台編「日本の気象史料 3>第Ⅰ編 暴風雨 91頁:慶安三年八月十六日 九州、中国諸国、大風雨、高潮>福岡県災異誌、長崎年表(註:日本高潮史料も採用している徳川実紀について、この災害を12日付としている点“不審多し”と評価している)」[追加]、ウィキペディア「大野島」[追加])

○慶安3年東海大水害、六十年来未曾有之洪水「寅年の洪水」(370年前)[改訂]
 1650年9月26日~28日(慶安3年9月1日~9月3日)
 北九州が大風雨におそわれた半月ほど後、今度は近畿、東海地方が記録的豪雨に襲われ大水害となった。
 9月24日(旧暦8月29日)から降り出した雨が、26、27日(旧歴・9月1日、2日)と豪雨になり、摂津国(兵庫県南部)から山城国(京都府南部)、近江国(滋賀県)、伊勢国(三重県)、美濃国(岐阜県南部)にかけて、淀川及び木曽川各水系を中心に、各地で河川が氾濫、洪水を引き起こした。 
 「徳川実紀(大猷院殿御実紀)」は記す“(淀川流域の)摂州南北中島堤くづれ、山城淀、河内堤みな破れ、江州(近江:滋賀県)も田園多く損じ。勢州(伊勢:三重県)四日市、神戸(かんべ)、庄野、三重、鈴鹿、川林の郡提(四日市から鈴鹿にかけて諸郡の堤防)崩れ、民家人畜損害少なからず、駅々(各宿場)の橋梁をし(押し)流し、三日より旅人往来を得ず(交通途絶)。美濃(岐阜県)は(木曽・長良・揖斐三川流域の)多芸(たぎ郡)、不破(郡)を始め、十一郡この害を蒙り、人馬多く傷損し。亀山(亀山市)の城中は銭庫(御金蔵)一、其(の)外城門、塀櫓等、人馬共にをし流す、勢州の人家四百五十戸、男女十八人、牛馬廿三匹”。
 また軍学山鹿流の祖で災害時の大垣藩主の師であった山鹿素行の日記には“大垣水不退(水退かず)三日、流死一千七百人、桑名(藩領内)五万石余(の田地が)流失、死人二百三人、内(?)四十人余助命、尾州(尾張:愛知県)損毛(耗)二十万石(の田地)、凡(およそ)六十年来未曽有之洪水也”と、「徳川実紀」には記載のない被災状況を記している。
 なお「大垣市史・中巻(以下市史)」は、その災害史、第2節で“朔日(1日)二日両日の豪雨にて木曽、揖斐、長良三川大出水、二日辰之刻(朝8時頃)、揖斐川通(沿岸)呂久(現・瑞穂市)及び佐渡(さわたり:現・大垣市)の大堤二ヶ所切入り(決壊)、大垣へ俄に水押込みたり(中略)四日に減水せりと、世俗に之を“寅年の洪水”と称し、大垣輪中(市街を囲む堤防)のみならず、濃州(美濃国:岐阜県)各低地は悉く洪水に埋没し、岐阜より養老(郡)まで乾地無く直接船にて往返(復)するを得たりと云う”と、その惨状を記している。
 更に岐阜県郷土資料研究協議会が創立20周年記念で1993年に発行した「岐阜県水害要録」は“一.木曽川、大雨出水あり羽栗郡江川村(現・笠松町)、中島郡東加賀野井(現・一宮市)其他にて堤塘(堤防)の破壊あり。一.長良川、堤塘平越(越水)となり安八郡にて破堤す。一.揖斐川、大野郡房島(現・揖斐川町)、安八郡大島、津村、開発、沢渡(以上現・大垣市)にて堤防破壊(下略)。一(揖斐川支流の根尾川の)薮川、大野郡稲富、上秋(かんだけ:共に現・大野町)にて堤防破れ稲富にて高五百ニ十石の地押流さる。一.(揖斐川支流の)牧田川、上石津郡牧田(現・大垣市)堤塘数か所破壊耕地を害す(下略)。と「市史」より詳細に各河川の堤防決壊の状況を記し、揖斐川沿岸の大垣城下の被害については“大垣輪中堤防四十七、八里(185~190km)の過半決壊し大垣城内に入水し市街は悉く入水町家の庭にて水深八尺(2.4m)余死者千五百五十三人、馬七百頭死し流家、潰家三千五百ニあり”と記録している。
 今一つ「岐阜県災異誌・西暦1500~1699のデータ」の該当記事では、この県内での大水害を集約し、その他の被害とし“大垣領内外の橋悉く流失、材木45,000本、竹材30,000束、舟数10艘流失など被害甚だし(下略)”と記録している。
 (出典:小倉一徳編、力武常次、竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歴史>2 近世の災害>江戸時代の主要災害一覧 84頁:慶安3.9.1~3 九州・近畿・東海等各地洪水」[追加]、荒川秀俊ほか編「日本旱魃霖雨史料>霖雨之部 254頁~258頁:慶安三年 九州、近畿、東海道諸国 大雨、洪水>山鹿素行先生日記、大垣市史、岐阜県水害要録、徳川実紀」[追加]、国立国会図書館デジタルコレクション・国史大系.第10巻「大猷院殿御実紀巻78>慶安三年九月 1042頁(528コマ):(八月)二十九日より」[追加]、同コレクション・大垣市編「大垣市史・上巻>第5章 第三代氏西公の治世>第1節 戸田氏西公略伝>氏西公と山鹿素行」[追加]、同編「同市史・中巻>第8編 災害史 732頁~738頁(419コマ):第2節 慶安三寅年大洪水」[追加]、気象庁岐阜地方気象台編「岐阜県災異誌・西暦1500~1699年のデータ>1650」[追加]、高木勇夫編「明治以前日本水害史年表8頁:1650(慶安3)年」)

○万治3年京都、伊勢、関東水害、伊勢神宮、日光東照宮門前町などに被害(360年前)[改訂]
 1660年9月2日~3日(万治3年7月28日~29日)
 3日(旧暦・7月29日)京都が洪水に襲われ、東海道は伊勢国(三重県)から関東までの地域が暴風雨に襲われた。台風であろう。
 伊勢では、前日2日(旧・28日)から翌3日にかけて暴風雨となり、五十鈴川が氾濫、川辺の小社2,3社、祢宜(神職)の館、別宮の風日祈宮の橋から宇治橋など残らず落橋し流失、上下の町中250余、宇治6郷の大小の家が悉く破損、150余人が死亡した。また下野国(栃木県)日光では、2日(旧暦7月28日)夜、土砂崩れで各所の石垣が崩れる。
 (出典:池田正一郎編著「日本災変通志>近世 江戸時代前期 368頁~369頁:万治三年(七月)二十八日夜、二十九日」[改訂]、中央気象台+海洋気象台編「日本の気象史料 3>第Ⅰ編 暴風雨 95頁:万治三年七月二十九日 近畿、関東諸国 大風雨、洪水>続史愚抄、徳川實紀、宇治山田市史」[追加]、国立国会図書館デジタルコレクション・国史大系.第3巻「続史愚抄 巻59 後西院>萬治三年 104頁(75コマ):(七月)廿九日壬子」[追加]、同コレクション・国史大系.第11巻「徳川実紀 第三編・厳有院殿御実紀>巻廿 358頁(187コマ):(八月)二日 日光山より、先月廿八日夜」[追加]、同コレクション・宇治山田市編「宇治山田市史・下巻>第2章 変異>第3節 洪水 1572頁(445コマ):萬治三年」[追加]、「高木勇夫編「明治以前日本水害史年表9頁:1660(万治3)年」)

延宝8年閏8月台風、東海道筋、江戸、強風と高潮に襲われる(340年前)[改訂]
 1680年9月27日~28日(延宝8年閏8月5日~6日)
 強烈な台風が襲来、27日(旧暦5日)夜半から28日(旧・6日)にかけて吹き荒れた暴風雨により、東海道筋と江戸など太平洋沿岸一帯が強風と高潮に襲われた。
 東海地方三河(愛知県)では、三河湾沿岸の西尾、吉田(現・豊橋市)、田原に高潮が押し寄せ(山鹿素行先生日記)、特に吉田藩では39人死亡、家屋倒潰1699軒の被害となった(玉露叢)。
 遠江(静岡県)では、浜松、横須賀(現・掛川市)、掛川の被害が大きく、浜松藩では大風により、浜松城の本丸から天守、二の丸、三の丸の櫓や塀が破損、城下では358軒の侍屋敷や町家が倒潰、領内各地で家屋が倒潰し、高潮による死者は数知れない(玉露叢)。横須賀藩では28日(旧暦・6日)の暴風雨のため、300人余死亡、城の櫓(やぐら)1棟、武士・町人の家6000余軒が流失したとの知らせが入っている(徳川実紀)。掛川藩は水損した田畑5700石余(表高の16%)、民家の倒潰2794軒と記録されている(玉露叢)。
 駿河(静岡県)では、駿河湾沿いの吉原(現・富士市)、原(現・沼津市)が高潮に襲われ、およそ10余日は船にて往来を余儀なくされた。また被害が甚だしく、吉原の300人をはじめ死亡した人は数え切れない程で、無数の崩れた家々が富士山の麓に漂っていたという(山鹿素行、玉露叢、浅間文書纂)。
 一方江戸では、28日(旧・6日)巳の刻(午前10時ごろ)より風雨が吹き始め、午の刻(12時ごろ)より未の刻(午後2時ごろ)まで、強風吹き荒れ雨も甚だしかった。それによる被害が大きく、江戸城緒門の瓦や壁が落ち、城下の家屋が倒潰し両国橋も損壊した。特に本所から深川、木挽町、築地、芝に至る沿岸部が高潮に襲われ、所により床上4、5尺(1.2~1.5m)あるいは7、8尺(2.1~2.4m)も浸水、本所、深川あたりで700人余、郊外の代官支配地含め江戸全体で3000人余が死亡、強風による損壊家屋3420軒余、貯蔵米20万石余がぬれた(徳川実紀、山鹿素行、玉露叢)。
 (出典:小倉一徳編、力武常次、竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歴史>2 近世の災害>江戸時代の主要災害一覧 87頁:延宝8.7~閏8 諸国大雨・洪水」[追加]、池田正一郎著「日本災変通志>近世 江戸時代前期392頁:延宝八年〇八月五日夜」、荒川秀俊ほか編「日本高潮史料 37頁~39頁:延宝八年閏八月六日>徳川実紀、山鹿素行先生日記、玉露叢、浅間文書纂」、東京都編「東京市史稿>No.2>変災編2・107頁~111頁:延宝八年大風水災」[追加]、国立国会図書館デジタルコレクション・国史叢書「玉露叢 巻第33・239頁~240頁:(延寳八年閏八月)六日巳の刻より」[追加])

江戸町奉行、町火消を“いろは48組”に再編成、奉行所に町火消人足改役設置、鳶人足が主役(300年前)[改訂]
 1720年9月9日(享保5年8月7日)
 町火消(店火消)誕生から60年余、有名な“江戸いろは48組町火消”が再編成された。
 1657年3月(旧暦・明暦3年1月)、史上最大の火災“明暦の大火(振袖火事)”が発生、幕府は江戸の町の消防体制を見直し、翌1658年10月(旧・万治元年9月)、武士が指揮し町人の専任火消人足(がえん)による常設消防組織“常火消”を設立したが、翌11月には、各町単位の組織的な防火体制を指示、① 町々に“(火消)組”を設置する、② 各町の“組”は、火災状況に応じて決まった場所に集まる、とした二つの御触れを出した。
 この町ごとの“組”に動員された者たちは、町人のほとんどを占める“店借人”または“店子”と呼ばれた借家(店)住まいの者たちか“お店者”と呼ばれた商店などに住込の奉公人たちで、当然消火活動には素人である。この御触れでも“火之子(火の粉)消可申候”と、初期消火を期待されていた。またこの町人火消組は、他の火消組と区別する意味で組員にちなみ“店火消”と呼ばれたが、この官製の店火消組には、組員がなかなか集まらずやむを得ず当番制にしたがろくに訓練も受けていなかったので、火災が広まると逃げ出す始末でさほど戦力にはならなかったという。
 しかし南町奉行に就任した大岡忠相は、大店(豪商)が揃う日本橋地区などの自衛“店火消”の実績を確認したうえで、江戸市内の防火体制の充実はやはり町人火消を強化することにあるとし、各町の惣名主(名主の代表者)から意見を聴取したのち、1718年11月(旧・享保3年10月)町火消設置の命を伝え、2か月後には“町火消組合”の編成とその担当地域を命じている。
 それから1年8ヵ月後のこの日、活動効率を上げるため、隅田川から西の地域の町火消組合を“いろは47組”に、江戸市街地となっていた東側の下総国本所・深川地区では1組から16組に再編成し、“いろは”の内、へ、ひ、ら、の音はそれぞれ抜かれて百、千、万の文字に置き換え、火事場の混乱を避けるため各組に目印になる纏(まとい)や幟(のぼり)などの標識を作らせた。
 町火消組合は江戸町奉行の指揮下に置かれたが、奉行所内に“町火消人足改”なる役職が同時に設けられた。当初はもっぱら火災現場へ出動してくる火消人足が規程通りの人数であるかどうかを点検していたが、のちには防火体制や消火活動の指揮、町火消間の消し口(消火場所)争いの調停などを行うようになる。また当初、与力7騎(人:騎馬出動の故)が任じられたが、のちにその定員は4月~10月が与力2騎、同心4名、11月~3月の火災シーズンには与力3騎、同心6名になった。
 町火消組合は、その後1730年2月(旧・享保15年1月)になると、大火の場合を考慮して、隅田川以西の47組を一番組から十番組までの10の“大組”に、本所・深川地区の16組を南・中・北の3つの大組にまとめられた。また、組のシンボルである標識も馬連をつけた大纏(まとい)に統一され、より多くの火消人足を火事の現場に集められるようにした。一方、火消人足の定員は1町あたり30人から15人に半減し、人足の出動手当から消火設備までまかなう各町の負担を軽減した。
 その後、いろは最後の“ん”が“本組”と名乗り三番組に追加、また組名称が悪いとして四番組が五番組に、七番組が六番組に吸収され、ここに隅田川以西の町火消組合は最終的に8つの大組、いろは48小組に編成され、本所・深川地区と含めて各町内単位の64の小組が11の大組にまとめられた。なおその組織構成だが、大組を統率する頭取、頭取を補佐して小組を束ねる頭(組頭)、その下に各担当として道具持の纏持と梯子持、消火に当たる平人(ひらびと)、火事場の整理などを受け持つ人足の土手人(どてびと)に分かれていた。
 中でも消火に当たる纏持、梯子持や平人は、町火消の中心的な存在であるが、各町で伝統的な“店火消”の店借人(借家住まい)や商店などのお店者の面々(店人足)では、当時の本格的な破壊消防は手に負えず、本来は建築労働者である建物の構造を知り尽くした“鳶職”の面々が、火災事には延焼を防ぐため建物を壊して防火をするという、皮肉な役割を担うことになっていく。いわゆる“鳶人足(本鳶)”の誕生で、地元の町人である店人足のほかに、地域の大店などに出入りしていた鳶職などを、火消組合や町内で足留料という賃金を支払い火消人足(抱え鳶)とし、初期消火と土手人は店人足が破壊消防と関連の道具持は鳶人足が担う体制になり、中には他の町の火災の時に、出火した町からの応援要請に応じて駆け付ける“駆付鳶”もいるなど、必要性に応じて鳶人足の人数は徐々に増えていく。一方問題は、町内に居住する店人足にとって火災時の出動は一種の夫役(ぶやく:労役)で無給であったが、抱え鳶人足には固定給のほか出動手当も支払われ、その費用は町費を圧迫していった。
 ちなみに、この鳶人足の給金から出動手当、組のシンボルの纏やユニフォームの半纏、消火道具の竜吐水、鳶口、刺股(さすまた)、梯子などの購入、管理費など、すべてが各町の家持町人から徴収した町費で賄われたので、火災が発生すればするほどその費用は多額なものだったという。
 ついに1787年3月(天明7年1月)、時の町奉行馬淵甲斐守は町火消組合の各頭領と各町名主月行事(月当番)を奉行所に呼び出し、消防活動は主に本鳶人足にまかせ、店人足は大火の時にのみ出動させるよう指示、火消人足は鳶職の世界となった。この町火消組合は明治時代“消防組”に再編成され、今日の“消防団”へと続いている。
 (出典:日本全史編集委員会編「日本全史>江戸時代>1720(享保5)651頁:町火消いろは47組誕生、粋な纏を先頭にさっそうと登場」、近世史料研究会編「江戸町触集成 第1巻>明暦四戊戌年>二ニ四、二ニ五」[追加]、東京都編「東京市史稿>No.4>市街編第19・263頁~278頁:町火消」[追加]、同編「同書>No.4>市街編第19・955頁~972頁:町火消いろは組設定」、同編「同書>No.4>市街編第22・404頁~453頁:町火消組合更定」、同編「同書>No.4>市街篇 第30・192頁~200頁:本鳶人足防火」[追加]、東京消防庁編「消防雑学辞典>へらひん組がなかった“いろは四十八組”」[追加]、狭山市消防本部編「狭山市消防団50年のあゆみ>第1章江戸時代の火消部隊>町火消の誕生」、南和男著「江戸の社会構造>第1章 幕政改革と町奉行所の機構>1 享保改革と町奉行所の機構 17頁:町火消人足改」[追加]、国立国会図書館デジタルコレクション「官報1947年5月1日・8頁~9頁:勅令第185号 消防団令」[追加]。参照:2018年11月の周年災害「町内に町奉行与力指揮下の官製・町火消(店火消)“火消組”編成へ」[追加]、11月の周年災害・追補版(4)「江戸町奉行、町方の防火体制強化指示、官製・店火消姿なく町人自身の自衛消火(駆付火消)指示」[追加]、2018年11月周年災害「江戸町奉行、町火消組合編成を命じる」[改訂]、2014年1月の周年災害「内務省、東京警視庁創設次いで消防章程を制定、かって町火消だった消防組員ようやく落ち着いて活動へ」[追加])

○元文5年、京都・畿内集中豪雨で大洪水「御所流れ」(280年前)[改訂]
 1740年9月6日~7日(元文5年閏7月16日~17日)
 京洛内外や畿内が集中豪雨に襲われた。
 大風雨で鴨川があふれて三条大橋が破損、四条下宮町、石垣町など東西の民家は2階まで浸水、二条河原東新地も水深6尺余(約2m)となる。
 和泉国(大阪府)では翌7日、未の刻(午後2時頃)から申の刻(午後4時頃)にかけて集中豪雨に襲われ、葛城川が一挙に増水、本堤防だけでなく請堤(集落を取り囲む堤防)まで2か所が決壊、洪水となり、現在御所市に属する村々は川のようになったという。約300人死亡、家屋流失601戸、同倒潰58戸、蔵の流失300棟、残った家屋41戸、蔵18棟と伝えられている。
 (出典:中央気象台+海洋気象台編「日本の気象史料 1>第Ⅰ編 暴風雨 150 頁:元文五年閏七月十六日 京都近国 大風雨、洪水」[追加]、京都歴史災害研究会編「京都歴史災害年表>1701年~1800年・211頁:1740年9月6日・洪水:風害」、奈良市防災統括室編「歴史から学ぶ 奈良の災害史>奈良の災害史2:第1章 江戸時代の奈良の災害>1-1 江戸時代の水害 6頁~7頁:御所流れ」[追加])

○文化7年羽後地震(男鹿大地震)、男鹿半島鳴動し寒風山崩れる(210年前)[改訂]
 1810年9月25日(文化7年8月27日)
 羽後国(秋田県)男鹿半島東半分が6月頃(旧暦5月頃)より鳴動、八郎潟では9月はじめ頃(旧・8月はじめ頃)から湖水の色が変わっていた。 
 地震は8月中旬(旧・7月中旬)から頻発し9月23日、24日頃(旧・8月25、26日頃)には1日に70回くらい揺れた。翌25日15時頃(旧・27日八つ半)、マグニチュード6.5クラスの大地震が襲う。寒風山山ろくと海岸部で山崩れが頻発、男鹿半島の東半分と八郎潟との間の平野部では液状化現象が起こり被害を拡大した。死亡者57人とも163人とも、116人負傷。家屋及び寺全潰1003戸、同焼失5戸、同半潰400戸、同大破387戸。
 (出典:宇佐美龍夫著「日本地震被害総覧>4 被害地震各論 130頁~131頁:224 羽後」、小倉一徳編、力武常次、竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歴史>2 近世の災害>江戸時代の主要災害一覧 103頁:文化7.8.27 羽後地方地震」[追加])

○文政13年京都洛中、洛外、余震のさなか土砂災害と洪水に見舞われる(190年前)[改訂]
 1830年9月3日~4日(文政13年7月17日~18日)
 洛中及び洛外の宇治、伏見が大風雨による土砂災害と洪水に見舞われ大災害となった。
 半月ほど前の8月19日(旧暦7月2日)大地震に襲われ、その余震が続く中である。被災した家屋が復興ままならないまま、淀川水系の氾濫による洪水に襲われ、また大地震と続く余震で緩んだ山体が大雨により崩壊、引き起こされた土石流の襲来は予期しないことで、避難が遅れ被害は拡大した。
 この被害の状況について、同時期の平戸藩藩主・松浦静山が著した随筆「甲子夜話」では、伏見に屋敷を持つ人の屋敷守からの書状の写しを次のように紹介している。
 “先月十七、八日(新暦9月3日、4日)、大風雨之節、京都清水寺音羽山(山号)より大水吹出し、本堂舞台脇之廻廊十間余(約18m)山下へ崩落ち、大水にて右廻廊町内へ押流、人家夥敷(おびただしく)潰(し)候由。(中略)町内洪水に相成、人家之床の上三尺余(約1m)も水上がり、尤(ことに)実の大(きく)急(な)出水に候得ば、家破損、諸道具流失は勿論之義、病者・小供溺死夥敷由。大風雨、大雷鳴、急(な)大洪水、其(の)中に大地震ゆり(揺れ)、上京にて倒家より火起(き)、火事(と)相成、早鐘を突(き)候由。右に付、諸人泣(き)叫(ぶ)声誠に地獄之よし。上京にても山抜(け)、地割(れ)、大水押出(し)、堀川、小川之橋々皆々流落(ち)、死人有之。二日(新暦19日)之地震、十七日(新・3日)洪水、地震に付、死人之分表向(き)公辺へ届(け)に相成候分、八百余人と申(す)儀、其(の)外に怪我人、死人莫大有之趣(莫大にあるようだ)。”
 京都所司代に届け出た犠牲者が800余人という数のほか、多くの犠牲者がいるのではないかと、筆者が推測したほど、390人が死亡したという15日前の文政京都地震とこの大風雨による土石流などで、京都洛中が史上まれな大惨事となった。
 また、洛外宇治では宇治川が氾濫し大洪水に見舞われ、洛外伏見では土石流が発生している。“宇治表大水にて橋台之上(に)一尺、二尺(30~60cm)水乗り、尤(ことに)宇治橋は橋なり(のまま)にて流れ、当所、豊後橋にて止り。(中略)京都同様、(伏見)御香宮(の)後(ろの)山抜け、大水出(て)、山手之町々、無存掛(思いもかけない)事故(のため)、町家所々畳(の)上(まで)も水越(し)申候。下地(が)地震にて家半潰之所へ、箇様(かよう)之急(な)洪水、其(の)中には地震ゆり(揺れ)候儀、誠に恐(ろ)敷(い)事は言語難尽(言葉では言い難く)、実に古今稀な凶変。”であった。
  (出典:池田正一郎編「日本災変通史>近世 江戸時代後期613頁:天保元年〇七月二日、京都大地震。615頁~619頁:〇七月十六、七、八日、大風雨」[改訂]、中央気象台+海洋気象台編「日本の気象史料 1>第Ⅰ編 暴風雨 220 頁:天保元年七月十七日 京都並尾張諸国 風雨、洪水」[追加]。参照:2020年8月の周年災害「文政京都地震」[追加])

○アヘン戦争を契機としたアヘン禁止政策、明治新政府はアヘン販売首謀者斬首の刑を布告(150年前)[改訂]
 1870年9月4日(明治3年8月9日)
 18世紀末、アヘン吸引の害を問題視していた清国(現・中国)政府のアヘン輸入禁止政策に対し、イギリスは自国経済の発展を促す資本蓄積とアメリカ独立戦争(1775年~1783年)の戦費調達をもくろみ、植民地インドで栽培させたアヘンを清国に密輸入し巨額な利益を得ていく。
 一方、清国ではアヘン輸入量の増加に伴い、決済に使用された“銀”が流出、極度の物価騰貴とアヘン吸引の習慣がまん延した結果、中毒患者が増加し治安が悪化、政府はアヘン密輸禁止政策を強化するが、密輸を続けたいイギリスは1839年11月一方的に開戦、火力に劣る清国は敗退を続け、1842年8月屈辱的な講和を結ぶというアヘン戦争が起きた。
 この情報をオランダ船から得た幕府は、1857年(旧暦・安政4年)8月オランダとの間で調印された「日蘭追加条約」において、アヘンの日本国内への持ち込みを禁じる条項を締結、翌1858年7月(旧・安政5年6月)から欧米5カ国と締結した「修好通商条約(安政五か国条約)」下の「貿易章程」にアヘン輸入禁止の条項を設けた。
 同年8月(旧・同年7月)戦争を起こしたイギリスと締結した「日本開きたる港々に於て貌利太尼亜(ブリタニア)商民貿易の章程」によると、第3則において“阿片(あへん)の輸入は禁制なる故若(し)日本に商売に来る貌利太尼亜船阿片の量目三斤(1.8kg)以上船中に所持する時、其(の)余量は日本司人(担当官)取上(げ)へし(べし)、且(つ)阿片を密商し或(い)は其(の)事を謀る輩(やから)は阿片一斤(600g)毎(ごと)に十五ドルラルの過料(罰金)を日本役所へ取立へし”と決めている。なぜ3斤までの積載を許可したのか良くわからないが、欧米の東アジア航路に多く雇用された清国船員などの個人的な吸引用として、それを販売しない限り見逃したのかもしれない。
 1865年10月(旧・慶応元年8月)「安政五か国条約」が勅許(天皇の許可)を得ると、全国の開港地に、欧米から貿易商人が清国人をコックや下級使用人として連れて来日し商館を開いた。その清国人が個人的な吸引用として持ち込んだアヘン(例の見逃した三斤の一部か?)が上陸後ひそかに販売され、長崎では遊里で働く娼妓たちの間で流行し死亡者も出たという(1868年創刊・崎陽雑報)。また江戸(東京)に近い横浜では、明治新政府が「太政官布告」を出すより17日早い1868年5月23日(旧・慶応4年閏4月2日)、神奈川県が横浜の繁華街の本町通の一角(現・日本大通9番地)の高札場に「神奈川裁判所管下ニ令シテ阿片烟(煙)草販売ヲ申禁ス」とするアヘン御禁制の高札を掲げた。ついで同年10月(旧・9月)遊女死亡事件の起きた長崎では、長崎府外国管事役所が「長崎府清商(清国の商人)ニ申令シテ阿片煙販売を厳禁シ犯ス者ハ官没(役所で没収)シテ罰金ヲ追科ス」という措置をとり、密売を禁じている。
 一方明治新政府は幕府崩壊後、長崎など開港地の貿易商館からアヘンが密売され、被害を与えていることを把握し、幕府のアヘン禁輸政策を引き継ぎ、1868年6月9日(旧・慶応4年閏4月19日)、次のような「太政官布告第319」で当時の各府藩県に命じ、とりあえずアヘンの害と販売禁止について全国民に周知することになった。
 まず“阿片煙草ハ人之精気を(消)耗し命数を縮メ候品”と、人体に害を及ぼすものであることを説明、それゆえ外国との条約で、外国人が持ち込むことを厳禁していたが、近ごろ、外国船がひそかにアヘンを積載していると聞こえているので、万が一これが世上に流布すれば、民生にとって大害である。と理由を述べ“売買之儀ハ勿論(もちろん)一己ニ呑用候儀(自己の吸飲用でも)決(し)テ不相成候(してはならない)、若(もし)御制禁相反シ(御禁制を犯したこと)他ヨリ顕ルヽニ於テハ(明らかになった場合は)可被処罰科候間(厳罰に処されるので)心得違無之様(心得違いなきよう)末々ニ至ル迄堅ク可相守者也(末端に至るまで堅く守らねばならない)”と、アヘンの吸飲、売買した者は厳罰に処されるので、心得違いをしないよう末端まで徹底すべく高札にして掲示するよう指示した。
 その2年後のこの日、それまでの布告を初めて法律として「販売鴉片烟(生成アヘン)律」にまとめ「太政官布告第521」とし、処罰の方向性を明確にした。
 この「販売鴉片烟律」の目的は、生成アヘンの売買を厳罰を持って禁じることにあり、その内容は生成アヘンを販売すること及びそれにかかわる一連の行為自体が“犯罪”であることを明示し、それぞれの行為に対する処罰を明確にし“刑事法”としての体裁を整えている。その内容は-、
 “一、鴉片烟(煙)ヲ販売シテ利ヲ謀ル者首ハ斬”営利目的で生成アヘンの販売を行う主犯者は斬首である。それに基づき“従ハ三等流、自首スル者ハ一等ヲ減ス”販売にかかわった者はその度合いにより近流、中流、遠流のいづれかの流刑、自首したものはその状況等により一段階低い罪にした。
 “一、人ヲ引誘シ吸食セシムル者ハ絞”人を誘いアヘンを吸飲させた主犯者は絞首刑である。“従及ヒ情ヲ知リ房屋ヲ給スル者ハ三等流”客引きなどで主犯者に従った者、事情を知り吸飲の場所を提供した者などは三種の流刑が科せられ、誘われて客となりアヘンを吸飲した者も“引誘セラレテ吸食スル者ハ徒一年”と、1年の徒刑(懲役刑)が科せられるという厳しい罰則内容である。
 “一、収買シテ未タ售賈(販売)セサル者首ハ三等流”購入した生成アヘンを販売せず所持をしている主犯者は三種の流刑。“従は徒三年”それに従っている者は3年の懲役刑。“買食スル者徒二年半”生成アヘンを購入して吸飲するもの2年半の懲役刑。“自首スル者は並ニ罪ヲ免シ”自首する者は無罪。そして所持している生成アヘンは“鴉片烟ハ官ニ没収ス”と、すべて没収された。
 一方、取締担当官に対しては“一、官吏知テ擧(検挙)セサル者ハ並ニ與(当該犯罪者)同罪”担当官が生成アヘンの販売や所持を知っていながら検挙しないのは、当の犯罪者と同罪である、と断定。“財ヲ受ル者ハ枉法(法を曲げて解釈)”また彼らから金品を受け取った担当官はこの法を曲げている。とし“ヲ以テ重キニ従テ諭ス”以上の犯罪に対する罰則と同罪か、あるいは検挙を怠った担当官は三等流刑以下、金品を受け取った担当官は収賄罪かどちらか重い罰則で処罰する。と、厳しい姿勢を明らかにし、取締りが強化されるようにした。
 ちなみに現在アヘンに関する取締りは「あへん法」で、医療及び学術研究用生アヘンと原料となるけしの栽培に関して規定し、刑法第14章「あへん煙に関する罪」で、アヘン煙(生成アヘン煙膏)に関して規定し、輸出入、製造、販売及び販売を目的とした所持、さらに吸食(吸飲)、吸食場所の提供について罰則が規定され運用されいるが、明治期のように斬首刑、絞首刑及び流刑など厳しいものではなく、懲役10年以下が一番重い処罰となっている。
 (出典:弁護士小林榮の薬物問題ノート「薬物乱用の歴史>黒船とあへん禁令・2」[追加]、同ノート「同史>黒船とあへん禁令・4」[追加]、同ノート「同史>黒船とあへん禁令・5」[追加]、同ノート「同史>黒船とあへん禁令・6」[追加]、同ノート「同史>黒船とあへん禁令・7」[追加]、日本全史編集委員会編「日本全史>江戸時代>1840(天保11年)848頁:清で阿片戦争勃発!オランダ船が情報伝える、幕府は対応に苦慮」[追加]、国立国会図書館デジタルコレクション・締盟各国条約彙纂.第1編「各国の部>大不列顚(大ブリテン)国>日本開きたる港々に於て貌利太尼亜(ブリタニア)商民貿易の章程433 頁~434頁(233コマ):第三則」[追加]、同コレクション・法令全書 慶応3年「太政官布告・明治元戊辰年閏4月・133頁(117コマ):第319(閏4月19日)」[追加]、同コレクション・法令全書 明治3年「太政官布告・明治3庚丙午年8月・301頁(183コマ):第521(8月9日)太政官」[変更]、昭和29年法律第71条「あへん法(特に9条、51条、52条」[追加]、刑法第14章「あへん煙に関する罪」[追加])

○明治23年大阪大火「新町焼け」新町遊郭を始め20か町の73%が焼失(130年前)[改訂]
  1890年(明治23年)9月5日
 午前3時45分、西区新町通一丁目のせんべい商(一説には荒物屋)堀口治平方の失火から端を発し、炎はこの時期の大阪では珍しく、内陸からの東の強風に乗って扇状形に西へ燃え広がった。
 ここには江戸の吉原、京都の島原と並び評された新町遊郭街があったが、焼失した立売堀、新町北通、新町通、新町南通、裏新町及び西長堀北通の内、新町通二丁目、三丁目、四丁目と新町南通二丁目、三丁目、四丁目及び西長堀北通四丁目が全焼するなど、被害は20か町の民家2773戸のうち2023戸と73%が全焼、同半焼60戸、延焼防止の引き崩し10戸のほか学校2、製造所3、劇場1、寄席3,教会2,倉庫14、巡査派出所、病院、橋梁各1を焼失、1人死亡、206人軽傷。
 (出典:玉置豊次郎著「大阪建設史夜話>20 明治大阪の大火記録 162 頁~163頁:明治二十三年九月五日 新町の廓焼」[追加]、大阪市消防局編「大阪市消防の歴史>年表75頁:明治23 新町焼け(9・5)」)

トルコ軍艦エルトゥールル遭難、地元住民の献身的救助活動が日本・トルコ親善の契機に(130年前)[改訂]
 1890年(明治23年)9月16日
 1887年(明治20年)、オスマン・トルコ帝国時代のトルコに小松宮彰仁親王ご夫妻が訪問、その答礼のため1890年(明治23年)6月、オスマン提督率いる総勢580名余の使節団が軍艦エルトゥールルに乗船して横浜港に到着。任務を終えた同使節団は帰国を急いだものの、その予定日前後が6月下旬に長崎市へ侵入したコレラ菌が全国へと拡大している時期で、特に次の寄港地とした神戸を含む阪神地区が最も感染にさらされていた。そのため流行が収まるのを待って帰国予定を立てざるを得なくなり、9月15日横浜港を出港、次の寄港地神戸を目指すことになる。
 しかしエルトゥールルが帰国を決めた9月中旬は、東アジアにおける台風シーズンであり、その危険性についてオスマン提督も十分認識していて、台風の時期を避けての帰国を願う上申書を本国海軍省に送ったが、同号が老朽艦だったため訪日の途次、寄港地で幾度となく修理のための長期停泊を余儀なくされ、日程の大幅な遅れともに遠征費用もかさんでしまったという。そのため本国からの返答命令には、帰還日程や費用について厳しい条件が付けられており、船舶にとって最も危険なこの時期を帰国の日に選ばざるを得なかったという。これがエルトゥールル遭難の悲劇の原因となる。
 横浜出港の翌16日の午前中は快晴の航海日和だったが、正午ごろから風が変わり、夕方になるとその風は猛烈になったという。提督が危惧した通り航海の難所、熊野灘の大島樫野崎(串本町)沖で折からの台風に遭遇する。当時、すでに遭難地近くの和歌山測候所(現・同地方気象台)を始め全国各地で気象観測が行われ、遭難の7年前の1883年(明治16年)3月からは中央気象台で暴風警報が配布されていたが印刷物であり、オスマン提督もそれを手にしただろうが当時の観測体制では、台風の進路や強さを早めにはっきりと予測できず、台風の接近による急激な気象変化を近海航行中の船舶に迅速に伝える手段は、28年後のラジオ放送による気象情報の実施まで待つしかなかった。
 不幸にも帆の力も借りるエルトゥールルは、猛烈な波浪と強風にもまれてメインマストを折られ、機関部にも浸水してエンジンも停止し、神戸港へ急ぐもままならず漂流するうち、21時半頃、一層激しくなった激浪に押され、樫野埼灯台に連なる沖合約40mの船甲羅岩礁に激突、破損部から流入した海水により爆発を引き起こし沈没、提督以下約500名が殉職した。
 樫野埼灯台下に流れ着いた69名の生存者のうち何人かが自力で断崖をよじ登って灯台に知らせ介護を受ける。灯台から急を聞いて駆けつけた大島樫野崎地区の島民たちは、区長のもとへ事態を急報するとともに手分けして遭難乗組員の探索に当たり、救助した乗組員には自分たちの非常用芋や飼っていた鶏までも提供するなど、献身的に救護に当たったという。
 一方、知らせを受けた区長は大島村(現・串本町)の沖村長に使いを出す。遭難の翌17日朝、状況を把握した沖村長は郡役所と和歌山県庁に使いを出すと同時に村在住の3名の医師を樫野地区に派遣、また村内各区に遭難者の探索と救護動員を要請、村長自身も11時半、事故現場に到着すると直ちに大動員した村民を陣頭指揮して大々的な生存者の探索と負傷者の救済に当たったという。さらに生存者士官から遭難した船がオスマン・トルコの軍艦であると確認すると、夕刻には海軍省と遭難海域を管区内とする呉鎮守府に電報を打ち、翌18日早朝には生存した2名の士官に村役場職員と警察官を同行させて、トルコ領事館はないが各国領事館の立ち並ぶ神戸へ送り出し兵庫県庁に報告させている。
 19日未明、報告を受けた和歌山県庁と兵庫県庁は、ともに上位機関の内務省(現・総務省)に電報を打ち、和歌山県庁は海軍省へ、兵庫県庁は答礼を受けた宮内省に電報を打つなど、関係中央官庁へ事態を報告する。
 神戸で事態を把握したドイツ領事館では、折よく神戸港に停泊中の同国軍艦を19日夕刻大島に派遣させ、同艦は翌20日早朝、大島に到着すると、生存乗組員の大半を収容して同日昼頃大島を出発、21日早朝には神戸へ帰還している。
 ドイツ領事館から知らせを受けた兵庫県庁では、急きょ和田岬消毒所(検疫所)を介護所に改装して生存乗組員を収容する一方、東京から急派されてきた外務省、宮内省、日本赤十字社の関係要員を受け入れ対応策を協議した。
 遭難後三日目の19日、「神戸又新(ゆうしん)日報」が兵庫県庁を取材し、同日、早くも遭難の号外を出すと、翌20日から東京の「東京日日新聞(毎日新聞東京版)」や「時事新報(毎日新聞に合併)」とが、遭難乗組員支援の義援金募集活動を開始し、遅れて大阪の「毎日新聞」や「大阪朝日新聞」等がそれに加わるなど、有力新聞社数社による支援義援金募集活動が展開された。中でも「時事新報」では自社記者をオスマン・トルコに出張させ、直接同政府に義援金を届けることで、日本の善意を確実に伝えている。
 このメディアを中心とした世論の力に押され、財政難のさなかの政府(海軍省)が動き、多額の費用のかかる生存乗組員の送還を遭難翌月の10月5日実施、翌1891年(明治21年)1月、無事イスタンブールに入港、トルコ将兵は帰還した。送還に当たった比叡と金剛の両艦乗組員は、40日間滞在して政府を始めトルコ国民の感謝の念を持った大歓迎を受け、それまで見知らぬ国同士だった両国の親密さを高め、130年後の現在まで続いている。
 今一つ両国の親善を高めた事業に、遭難事件の翌1891年(明治24年)2月、遭難地樫野崎の崖の上に義援金による「墓標」と「土国(トルコ国)軍艦遭難之碑」が建てられたことがある。1937年(昭和12年)墓域は改修されて墓碑は「殉難将士慰霊碑」となった。
 第二次世界大戦(1940年~45年)後、墓域は地元の小学校児童の手によって清掃され、1961年(昭和36年)の70周年追悼祭からは5年おきに串本町とトルコ大使館による追悼式典が行われ、毎年の命日には地元有志による慰霊祭が行われている。1974年(昭和49年)6月の85周年追悼祭の日には、遭難地点を見下ろす崖の上に「トルコ記念館」が竣工し、事件の真相を伝え国際親善の拠点となっている。2021年(令和3年)は遭難131周年の慰霊祭が開かれたが、コロナ禍のため、130年周年を迎え大規模に行う計画だった昨年と同様に規模を縮小して静かに行われた。
 (出典:内閣府中央防災会議>災害教訓の継承に関する専門調査会>第一期報告書「1890エルトゥールル号事件」、内閣府編「広報ぼうさい>過去の災害に学ぶ(第8回) 明治23年(1890)エルトゥールル号事件」[追加]、和歌山県立串本高校歴史部編「トルコ軍艦エルトゥールル号の遭難」。参照:2013年3月の周年災害「東京気象台、天気図の印刷配布開始-念願の暴風警報も発表へ」[追加]、2018年11月の周年災害「日本放送協会、漁業気象放送開始」[追加])

先駆的な労働者保護規定「鉱業条例」公布、新聞による鉱夫虐待事例報道が社会問題化し(130年前)[追補]
 1890年(明治23年)9月26日
 これは鉱業に限ったことではないが、事業を発展させるためにはその基盤となる労働力の生産性を高めることにあるが、少なくとも労働者を事故や災害から守り、その労働力を低下させることは絶対避けなければならない。
 “富国強兵”“殖産興業”を国の政策の基本としていた明治政府は、基幹産業を支える資源である石炭、鉄、鉛などを採掘する“鉱業”を重視していた。ところが、鉱業は古来より最も事故の多い状況下にあり、そこで国の監督のもと該当法を通して防災と労働者の安全・衛生を図ることになる。
 その最初の段階は、警察取締事案として1873年(明治6年)7月布告の「日本坑法第33条」において次のように規定された“凡(およそ)坑法の意趣(法の意向)ニ戻ル過失有ル者ハ軽重二従ツテ罰金ヲ命スヘシ若シ事業疎略ニシテ人命ヲ失うフハ国法を以テ論拠スヘシ”とし、過失による事故や災害に対して、取り締まるとしたが、この段階では“労働者保護”の視点はまだなかった。
 しかしその17年後のこの日「礦業条例」が公布され、鉱業に関する警察事案については「日本坑法第33条」の規定を具体化して「第5章 鑛業警察」とする章立てを行った。また労働者の生命及び労働衛生上の保護を目的とした規定については「第6章 鑛夫」とする章立てを行い第72条に初めて登場させた。
 まず“第5章 鑛業警察”では、国の監督のもと、鉱山労働者の安全・衛生のための鉱業警察の確立を目指した。すなわち第58条本文において“鑛業ニ関スル警察事務ニシテ左ニ掲クルモノハ農商務大臣之を監督シ鑛山監督署長之ヲ行フ”とし、その対象として次の3項目規定している。① 坑内及び鉱業ニ関する建築物の保安。② 鉱夫の生命及び衛生上の保護。③ 地表の安全及び交易の保護。
 次いで“第6章 鑛夫”では、第72条の本文において“鑛業人(経営者)ハ左ノ場合ニ於テ其ノ雇入(雇用)鑛夫ヲ救恤(きゅうじゅつ:救済)スヘシ其ノ救恤規則ハ所轄鑛山監督署ノ認可ヲ受クヘシ”とし、次項で救恤が必要な場合として“鑛夫自己ノ過失ニ非スシテ就業中負傷シタル場合”をあげ、救恤方法として具体的に次の4項目規定している。① 診療費、療養費の補給。② 療養休業日数に相当する日当。③ 死亡した場合の埋葬料の補給と遺族に対する手当金の支給。④ 負傷により廃疾(身体障害)となった鉱夫には期限を決めて補助金を支給する。
 この「鑛業条例 第72條」の規定は、我が国最初の労働者保護規定だが、実はその成立には3年前の1887年(明治20年)11月及び翌1988年(同21年)6月に当時の新聞が掲載した、三菱高島炭鉱における労働者の惨状を告発した記事があり、鉱夫待遇の劣悪さへの批判が政府に集中し社会問題化したので、当時のプロシア(現・ドイツ)鉱山法の鉱夫保護規定部分を直輸入したものであったという。しかしほかの産業に労働者保護規定が成立していなかった当時としては、先駆的な意義があったと評価でき、1905年(明治38年)3月公布の「鑛業法」、1911年(明治44年)3月公布の「工場法」、太平洋戦争後1947年(昭和22年)公布の「労働基準法」及び「労働者災害補償保険法(労災法)」などへの道を切り開く規定であったが、次のような不十分な点があった。
 それはまず、鉱夫が救恤を受けられる場合が“就業中”と限られていたので、採鉱及びその準備作業中と狭く解釈されがちであり、救恤費用によるコストアップを恐れる事業主から認定を受けるのが容易ではなく救恤をなかなか受けられなかった点と救恤の対象に“疾病”が含まれていなかった点にあった。
 これらの点は次の「礦業法第80条」において“業務上負傷シ疾病二罹リ”と改正されたことで、その範囲は幅広く解釈されることになり、救恤はより容易に受けられるようになると同時に“疾病”が救恤(鉱業法では扶助)の対象になることで、鉱山労働者は安心して採掘に励むことになった。
 (出典:高橋保+尾崎毅共著「日本社会保障法の形成過程(3)>第2章 社会保障法の形成>4 労働災害扶助制度 88頁~91頁:(1)日本坑法・鉱業条例」、大原クロニカ「社会・労働運動大年表解説編>鉱業条例」、国立国会図書館デジタルコレクション・法令全書.明治6年「太政官布告第259号 日本坑法・390頁(270コマ):第33条」、同コレクション・法令全書.明治23年「法律第87号 鑛業條令・277頁~280頁(458コマ):第5章 鑛業警察、第6章 鑛夫」、同コレクション・法令全書.明治38年「法律第45号 礦業法・123頁(68コマ):第80条」。参照:2917年4月の周年災害〈上巻〉「長崎県三菱高島炭坑瑞島坑で坑夫が坑内の漏水防止を要求しわが国初のストライキ-納屋頭請負制度廃止へ、廃止の背景に高島炭鉱問題」)

大正9年9月末台風、神奈川県、茨城県に集中的被害(100年前)[改訂]
 1920年(大正9年)9月30日~10月1日
 9月20日グアム島南東洋上に発生した台風は、最初北西に進行し26日大東島の南方はるか洋上で徐々に北上、28日沖縄島東方洋上で北東に転向、30日朝土佐沖合から紀州沖、遠州灘沖と通過し、同夜半には房総半島をかすめて北東に進み、10月1日朝には三陸沖から正午ごろ根室沖を過ぎ、同夕刻千島列島南部に去った。
 この影響で関東地方の大部分と福島県、宮城県が暴風雨に見舞われ各地で水害が発生した。
 特に神奈川県では29日から30日にかけて、県の西部海岸で300mmを越し戸塚付近では500mmを超す記録的な雨量となった。中でも30日18時から22時の間に横浜で141.5mm、特に20時から22時の2時間の瞬間雨量87.7mmという強雨は横浜測候所創立以来の記録となった。この結果各地で豪雨による被害が続出、横浜市内のがけ崩れで44人が死亡したのを始め、県下全体で65人が死亡・行方不明となり、住家全壊・流失200戸、同半壊150戸、同床上浸水3544戸、同床下浸水1万2147戸、堤防決壊・埋没105か所、道路流失・埋没及び破損397か所、橋梁の流失・破損151か所。茨城県下では30日の雨量が178.5mmに達するという水戸測候所創立以来の雨量を記録した。この結果被害が続出し、91人死亡・行方不明、住家の全壊・流出254戸、同半壊141戸、同床上浸水5297戸、床下浸水3668戸、非住家の被害7731戸の大災害となっている。
 (出典:小倉一徳編、力武常次、竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歴史>明治・大正時代の災害>大正時代の主要災害一覧 149 頁~150頁:大正9.9.29 関東地方・東北地方南部風水害」、気象庁編「気象要覧大正9年・10年>大正9年9月全国気象概況>暴風雨>2.9月21日ヨリ10月1日二至ル颱風」、神奈川県防災消防課編「神奈川県災害誌 自然災害>1.台風の部116頁~117頁:29.台風 大正9年9月29-30日」)

○初の総合防災訓練「非常時火災警防演習」実施、市民による初期消火組織の充実が緊急課題に(90年前)[再録]
 1930年(昭和5年)9月1日
 1923年(大正12年)9月の関東大震災の教訓と1927年(昭和2年)3月の北丹後地震及び第一次世界大戦(1914年~18年)の欧州戦線での空襲被害などから、東京市(現・都内23区内)では1930年(昭和5年)7月、大震災や防空対策を背景にした「非常時火災警防規定」を制定した。
 この規定に基づいて実施された初めての総合的な防災訓練がこの日の非常時火災警防演習で、警視庁消防部(現・東京消防庁)の職員と消防組員(現・消防団員)が参加して行われている。
 演習は、関東大震災発生と同じ日時に当時と同じ状況を想定して行われたが、火災情報伝達の遅さや不備及び人員不足が明らかになり、市民の手を借りた早急な初期消火組織の充実が緊急の課題となったという。
 この教訓から、市民の自衛防火組織として2年後の1932年(昭和7年)4月から「防護団」の設立が始まった。また火災警防演習は、演習が行われた翌1931年(昭和6年)8月の中国との開戦(満州事変)を背景にした防空問題を主要な課題として、その2年後の1933年(昭和8年)8月、関東地方防空大演習として実施され、消防部職員、消防組員のほか防護団員、青年団員など一般市民も参加した総合的な各市合同の防災訓練へと変化する。
 (出典:東京の消防百年記念行事推進委員会編「東京の消防百年の歩み>昭和初期>非常時火災警防規程の制定 206頁~209頁:第1回非常時火災警防演習」)

昭和25年台風28号「ジェーン台風」強風が長時間続き高潮発生、大阪市内に大被害を与える(70年前)[改訂]
 1950年(昭和25年)9月3日~4日
 8月30日硫黄島南西海上で発生した台風は9月3日、阪神地区に大被害を与えた1934年(昭和9年)室戸台風と近似したコースをとり、高知県室戸岬のすぐ東を通過、10時ごろ徳島県日和佐町(現・美波町)付近に上陸、淡路島から神戸市垂水区付近に再上陸したのち速度を上げて北上、13時半頃京都府舞鶴市付近から日本海に進んだ。その後北東に進んで、4日4時頃北海道渡島半島南端に上陸、北海道を縦断してオホーツク海へ抜けた。
 台風による降水量は全般的に少なかったが、台風の中心付近での風が非常に強く、和歌山で最大瞬間風速46m/秒となったほか、四国東部、紀伊半島沿岸で35m/秒、近畿、北陸地方で30m/秒を超える強風が吹き荒れた。そのうえ平均風速25m/秒の暴風が続いた時間も長く、和歌山県白浜町では3日9時から15時まで6時間も続いたという。大阪湾では最大瞬間風速44m/秒の強風により波が吹きよせられ、海面が満潮時より2.1m以上も高くなるなど、同湾から瀬戸内海東部にかけて高潮が発生、北陸沿岸部でも高潮が発生するなど被害が広がった。
 被災地全体で死亡・行方不明539人、負傷2万6026人。住家全壊・流失1万9131棟、同半壊10万1792棟、同床上浸水9万3116棟。同床下浸水30万8960棟、堤防決壊・破損3027か所、道路損壊5360か所、橋梁流失・破損1461か所、田畑流失・埋没及び冠水4万8145平方km、船舶沈没・流失及び破損2307隻。
 なかでも大阪市では2.4mの高潮が発生して2隻の客船が沈没するなど、大阪港に停泊していた船舶899隻に被害を出したのをはじめ、地盤沈下の進んだ沿岸部を中心に市域の21%に被害が生じたが、特に西淀川区では周囲を囲んでいる堤防90か所が決壊し、区内のほぼ全域が1~2mの高さまで浸水した。最西部の中島地区では2mの浸水が1か月以上も続き、住民はその間2階で生活をし外出には小舟を使用したという。大阪市の被害は被災者54万人余り、死亡・行方不明222人、住家全壊・流出5851棟、同半壊4万577棟、同床上浸水4万1035棟、同床下浸水2万6899棟。
 (出典:気象庁「災害をもたらした気象事例・ジェーン台風 昭和25年」、小倉一徳編、力武常次、竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅴ章 台風・豪雨災害>2 台風・豪雨災害の事例 481頁~484頁:ジェーン台風」[追加]、宮澤清治+日外アソシエーツ編「台風・気象災害全史>第Ⅰ部 大災害の系譜72頁~73頁:CASE19ジェーン台風」)

昭和25年台風29号「キジア台風」九州、中国、四国地方西部に被害(70年前)[改訂]
 1950年(昭和25年)9月13日~14日
 ジェーン台風が猛威を振るって去った後、10日ほどで新しい大形台風が訪れた。4日グアム島北西海上に発生した弱い低気圧が発達しながらゆっくりと北上、7日キジアと命名され本州南方海上を北西に進む。13日13時志布志湾に上陸、14日0時九州を縦断し3時ごろ日本海へ抜けた。
 キジアの来襲で、九州の平野部で100~160mm、大分、宮崎県の山岳部で600mmを超えるなど全体で300mm以上の雨量を観測、四国西部及び北部山岳部では豪雨となり総降水量が各地で500mmを超え、中国地方でも中国山脈西端山岳部で総降水量が400mmを超えたが瀬戸内側では南東風の吹付のため50~100mm位の雨量だった。
 この影響で、270年余景観を誇っていた山口県岩国市の名勝“錦帯橋”が流失するなど、九州ほぼ全域、四国愛媛、高知、徳島各県、中国地方は瀬戸内沿岸の山口、広島両県など17府県で暴風雨や高潮による被害が出た。
 死亡・行方不明43人、負傷75人。住家全壊・流失1069棟、同半壊3767棟、同床上浸水2万3485棟、同床下浸水9万8439棟、山崖崩壊1251か所、堤防決壊2181か所、道路損壊3416か所、橋梁流失426か所、田畑流失・埋没及び冠水900平方km、船舶沈没・流失及び破損845隻。
 (出典:気象庁編「気象要覧 昭和25年7月~12月>昭和25年9月>暴風雨 20頁~21頁Ⅰ.概況、2.低気圧 24頁~29頁:顕著低気圧①台風キジア」[追加]、小倉一徳編、力武常次、竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歴史>5 昭和時代中期の災害 197頁:昭和25.9.13~14 西日本風水害(キジア台風)」[追加])

スモン病の原因報告を受けキノホルム販売中止。一時感染症説横行し患者疎外される(50年前)[改訂]
 1970年(昭和45年)9月7日
 腹部に重苦しい感じのあと、激しい腹痛や下痢などが2週間ほど続き、さらに足の裏から次第に腹部や胸部など上に向かって、しびれ、痛み、麻痺が広がり、さらに進行すると筋肉の脱力から歩行困難となった。やや遅れて視力障害、膀胱直腸障害、中枢神経の麻痺などを起こし死亡するに至る奇病が、1955年(昭和30年)ごろから全国各地でみられるようになった。
 1958年(昭和33年)、横井賢造・和歌山県立医科大学教授が近畿精神神経学会総会でこの症例について初めて発表したが、原因がわからないまま1964年(昭和39年)5月の日本内科学会総会では、この奇病の患者の症状に基づき病名を“亜急性・脊髄・視神経・末梢神経障害”のラテン語の頭文字をとりSMON(スモン)と名付けた。
 この“奇妙なしびれ病”は、1961年(昭和36年)4月から国民皆保険制度が実施されると、経済的にも安心して診療が受けられると、隠れた患者も病院を訪れるようになり、1961年(昭和36年)の患者総数は153人だったが、4年後の1965年(昭和40年)には新規患者が450人を超え、さらに4年後の1969年(昭和44年)には2300人の新規患者が訪れるなど急激に増加していく。なかでも1964年(昭和39年)埼玉県の戸田漕艇場付近で46人の集団発生(戸田奇病)が起こるなど、特定の地域内や家族内で集団的に発生したので、マスメディアは風土病説を唱え報道したが、日本各地で患者が増加するにつれ、研究者の間ではその発生状況からウイルス感染症説が有力となり、病原菌を発見しようと躍起になっていく。
 特に1969年(昭和44年)に開かれた日本公衆衛生学会において、スモン感染説が発表され、人(スモン患者)から人への感染によってスモン病は今後増加するであろうとする警告が出された。この警告をまともに受け取った地方自治体の防疫担当部門の中には、スモン病が感染症であると確定していないのにもかかわらず、医学界の大多数が支持していたので、業務に忠実に住民を守ろうと、スモン病からの感染の注意を呼びかけるところまで現れた。
 これにより感染源とされたスモン病患者たちは、社会から差別され排除されていく。ただでさえ、肉体的にも精神的にも苦痛が増す病気である。医学者や行政をはじめ人々を感染症から守ろうとした「善意の行為」により、失業し、離婚され、婚約は破棄され、会社、学校、市民社会から疎外され、スモン病患者は周りの冷たい視線を浴びながら、治療法のないこの難病がしかも感染症であるとの宣告を受けた孤独と絶望の中で心の支えを失い、500人以上の患者が自殺に追いやられたという。
 ところがこの状況は1年ほどで大きく変化する。
 それは1969年(昭和44年)9月、厚生省(現・厚生労働省)にスモン調査研究協議会が発足、同協議会に参加した田村善蔵・東京大学薬学部教授がスモン病特有の舌や尿、便などに出現する緑色の色素の本体が薬剤キノホルムと鉄イオンの結合したものと判定した。この情報を把握した椿忠雄・新潟大学教授は、4年前に新潟水俣病の原因を解明した知見を活かし、早速、新潟・長野両県でスモン患者の薬の服用歴の調査を行い、患者がスモン病発症前、腹痛と下痢の抑制のためキノホルムを使用していたこと、服用量が多い患者ほど重症であることを突き止め、翌1970年(昭和45年)8月“スモン病キノホルム原因説(薬剤中毒説)”を厚生省に報告した。
 これを受けた厚生省は2か月ほど前に、スモン病ウイルスが発見されその電子顕微鏡写真と称する新聞報道の真偽を正さずに“スモン病に伝染病(感染症)予防法を適用する”と発表したばかりだったが、椿教授の調査報告を突き付けられて“結論が出るまでは同剤(キノホルム)の使用を見合わせるべき”とし、この日(1970年9月7日)製薬会社に通達しその販売を一時中止させた。同省としてはかなり勇気のいる方針転換だったが、これが人々を救うことになる。
厚生省の通達以降、急上昇を続けていたスモン病患者の発生は急激に減少した。同年1月から8月までの新規患者は1276人であったが、販売を中止させた以降の4か月間の患者はわずか23人に激減し、翌1971年(昭和46年)以降の新規患者はゼロになった。
 しかしそれまでの厚生省のキノホルムに対する判断は、患者擁護よりも企業擁護優先のそしりを免れない。キノホルムの毒性については、アメリカなど諸外国で何度も警告が出され、アメリカでの店頭販売は日本より9年も早い1961年(昭和36年)に中止されている。また1965年(昭和40年)には実験による犬や猫の死亡例が報告されていたが、製薬企業も厚生省もこれを無視し続けていた。その結果、同省が確認したキノホルム中毒患者は1万1000人にのぼり、600人以上が死亡した国内最大の薬害事件として歴史に残ることになる。 
 この事件及び立て続けに明らかになった、コラルジル薬害(1970年:昭和45年11月)、クロロキン薬害(1971年:昭和46年10月)を背景に、ようやく事件解明9年後の1979年(昭和54年)10月、改正「薬事法」が公布され、第1条中の“その適正をはかる”を“もつてこれらの品質、有効性及び安全性を確保する”に改正された。また同時に患者を薬剤の副作用から救済する「医薬品副作用被害救済基金法」も公布されたが、これらは1か月前の同年9月に、スモン集団訴訟で国が患者原告団と和解した後であった。また厚生省の企業擁護の姿勢はその後も基本的には変化せず、15年後の1985年(昭和60年)薬害エイズ事件を起こしてしまう。
 一方、スモン患者は一時期、世間の冷たい目にさらされていたが、スモン病が薬剤中毒であることが判明した翌1971年(昭和46年)5月、キノホルムを生産・販売していた日本チバガイギー、田辺製薬(現・田辺三菱製薬)、武田薬品工業及び管理責任を問うて国を相手に東京地方裁判所に集団提訴を行い、1979年(昭和54年)9月、和解一時金、健康管理手当、介護費用を受け取り、地域の保健所で患者ごとの在宅療養支援計画を策定することなどで、6491名の患者は和解した。しかし、当時の生存患者は1221名で平均年齢は82歳だったという。言い換えれば厚労省が確認した患者約1万1000人の内、600人以上がキノホルム中毒が原因で死亡したとされているので、約4000人が社会的無理解の中まともな治療や介護も受けられずに、5270人が8年間かかった裁判のさなか、勝訴の喜びを確認できずに亡くなっている。
 さらにこの事件を振り返ると、不確かな情報により、業務に忠実だったが、患者の立場に思いを寄せることができなかった行政も含めて、人々が患者を阻害し追い詰めてしまった。2021年の現在、後世の我々はこの教訓を充分に得ているだろうか、現在は改善されたとはいえ、新型コロナに関する不確かな感染デマを信じ、医療従事者を始め、感染を恐れるあまり関係者を疎外し追い詰めていなかっただろうか。スモン病事件の教訓から多くを学び取りたい。
 (出典:鈴木厚著「戦後医療事件史>昭和30年代 150頁~153頁:スモン(慢性キノホルム剤中毒)」[変更]、昭和史研究会編「昭和史事典>昭和45年 671頁:スモン病事件」、薬害資料館編「薬害の歴史>3.主な薬害事件>B.スモン事件(薬害SMON)」、衆議院制定法律「昭和54年10月1日・法律第56号 薬事法の一部を改正する法律」[追加]、衆議院制定法律「医薬品副作用被害救済基金法」[追加]、厚生労働省編「スモン訴訟及び恒久対策の概要」[追加]。参照:2015年6月の周年災害〈下巻〉「新潟水俣病、患者発生の原因を発表」[追加]、2010年11月の周年災害「コラルジル薬害が明らかになり販売中止に」[追加]2011年10月の周年災害「クロロキン薬害網膜症事件」[追加]、2015年5月の周年災害「薬害エイズ事件」[追加])

○六都県市合同防災訓練始まる。以降、順次拡大し2010年から九都県市に(40年前)[改訂]
 1980年(昭和55年)9月1日
 1878年(昭和53年)12月施行の「大規模地震対策特別措置法(大震法)」に基づき、翌79年(昭和54年)9月中央防災会議は東海地震の想定震源域を公表、「東海地震の地震防災対策強化地域に係る地震防災基本計画」を初めて策定した。 
 その年の7月、関東地方南部の東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県と政令指定都市の横浜市及び川崎市の知事、市長で構成される「六都県市首脳会議」が発足、この会議において当時話題を集めていた、予想される東海地震についても検討され、翌80年の9月1日に大震災対策として、同首脳会議参加の各都県市が主要震源域とされた静岡県と連携した6都県市合同の防災訓練を実施することを決め、この日、千葉県を幹事都県市とし、千葉市の千葉港中央ふ頭を中央会場として初めて開催された。
 以降、1992年(平成4年)の第13回は、千葉市が政令指定都市に昇格したのを機会に七都県市合同防災訓練になり、2003年(平成15年)の第24回は、さいたま市の昇格で八都県市に、2010年は相模原市の昇格により九都県市合同防災訓練とその規模を広げている。 
 この間1988年(昭和63年)12月、中央防災会議で「南関東地域直下の地震対策に関する大綱」が策定されるなど、この合同防災訓練の重要性はますます増している。
 (出典:九都県市首脳会議 防災・危機管理対策委員会編「はじめに第1回六都県市合同防災訓練」。参照:2018年12月の周年災害「大規模地震対策特別措置法施行」、2019年9月の周年災害「初の対策強化地域対応の地震防災基本計画制定」)

○平成2年台風19号、日本列島を秋雨前線と挟み撃ち(30年前)[改訂]
 1990年(平成2年)9月11日~20日
 9月13日グアム島の南東海上で発生、16日には沖縄本島の南東海上で猛烈な強さになった。19日20時過ぎ和歌山県白浜町付近に上陸、その後、北陸、東北を通過して岩手県宮古市付近から三陸沖に抜けた。
 一方、台風に刺激された秋雨前線が11日~15日本州をゆっくり南下し始め一部地域で雷や竜巻を伴った大雨となった。また17日頃からは台風による強い雨が九州、四国、紀伊半島で降りだし、中でも愛媛県伊予三島市で569mm、兵庫県豊岡市で515.5mmを記録するなど、期間降水量が四国と紀伊半島の山沿いの一部で900~1100mmの大雨となり、四国、中国、近畿、東海地方の広い範囲では平野部でも200~400mmの降水量となっている。また東北地方でも北部を中心に200~300mmの期間降水量となっており、日本列島は前線と台風により挟み撃ちとなり各地で浸水の被害が広がった。
 被災した44都道府県で死亡・行方不明44人、負傷197人。住家全壊240棟、同半壊816棟、同床上浸水8333棟、同床下浸水5万8029棟、耕地被害419.5平方km、船舶損傷413隻となった。
 (出典:気象庁編「災害をもたらした気象事例・前線、台風19号 平成2年」、小倉一徳編、力武常次、竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歴史>6 昭和時代後期・平成の災害>平成元年以降の主要災害一覧 266頁:平成2.9.16~20 全国各地風水害」、宮澤清治+日外アソシエーツ編「台風・気象災害全史>第Ⅱ部 気象災害一覧 407頁:2156 台風19号」)

○平成12年東海豪雨。停滞前線と台風14号による記録的な東海地方大雨が都市防災上の課題残す(20年前)[改訂]
 2000年(平成12年)9月7日~17日
 9月7日頃から本州付近に停滞していた秋雨前線に、2日マリアナ近海で発生した台風14号から、11日~12日にかけて暖かい湿った空気が流れ込んだため同前線の活動が活発になり、三重県宮川村(現・大台町)で1090mmを記録するなど、四国から愛知、三重、岐阜県の東海地方を中心に期間降水量800~1000mmの記録的な大雨となった。
 特に名古屋市では11日の降水量が平年9月の月降水量の2倍428mmとなり、翌12日と合わせた降水量は567mmに達した。市内の河川では、市域の西部を流れる新川、庄内川の左岸堤防が破壊されたのを始め、市域東部を流れる天白川流域の堤防も決壊し、市内だけで破堤3か所、越水17か所に及び、市内の約37%が浸水して死亡4人、負傷47人、住家全壊4棟、同半壊98棟、同一部破損18棟、同床上浸水9818棟、同床下浸水2万1852棟、がけ崩れ87か所に及ぶなど、1959年(昭和34年)9月の伊勢湾台風以来の大災害となった。
 この大雨は隣接する静岡、山梨両県にも及び、四国から東海地方にかけて全体の被害は、死亡・行方不明12人、負傷118人、住家全壊30棟、同半壊176棟、同床上浸水2万2885棟、同床下浸水4万6342棟を記録した。
 さらに21世紀を迎えた沿岸都市部の防災上の問題点として、ポンプによる排水能力をはるかに超える雨量に対する対応。東海道新幹線など鉄道車両や道路上の自動車など車両に閉じ込められた乗客などの救出。工場の操業停止、物流機能停止問題。さらに住家の畳や家具、電化製品。ショッピングセンター、スーパーマーケットなど大型販売店の商品。工場の原材料や製品など、被災時に浸水によって汚水に浸かり、短時間内に大量のごみと化したものに対する対応など、多くの課題を残した。
 (出典:気象庁編「災害をもたらした気象事例・停滞前線、台風14・15・17号 平成12年」、名古屋市編「東海豪雨水害に関する記録」[変更]、内閣府編「防災情報のページ>災害対応資料集>2000年(平成12年) 東海豪雨」[追加]、宮澤清治+日外アソシエーツ編「台風・気象災害全史>第Ⅰ部 大災害の系譜134頁~135頁:CASE50・2000年東海豪雨」[追加])

多剤耐性菌帝京大学病院で集団感染、国への報告も遅れる。抗生剤乱用の結果危険な細菌が横行(10年前)[追補]
  2010年(平成22年)9月4日
 
2010年(平成22年)の9月4日、ちょうどこの日は土曜日であったが、会社が休日でゆったりと朝刊を開いた人々、なかでも最近“抗生剤”を投与してもらい治療に専念していた人は人知れぬ不安にかられた。
 それは、朝刊のトップ見出しに“多剤耐性菌9人死亡”とあり、多くの患者が信頼を置いている大学病院の、それも病院内で46人も感染したという記事で、その上、最後の見出しの“抗生剤ほぼ効かず”がとどめを刺した。かかりつけの病院に問い合わせが殺到したのは当然であろう。
 古来より現在に至るまで人々は、貴賤を問わず発病して数日間で死に至らしめ、世界的な広がりを見せる感染症とたたかってきた。しかし顕微鏡の発明と進化により、19世紀末以降、肉眼では見えない感染症の病原体の一つ“細菌”が、次々とその姿を見せ、治療法が確立されてきたが、特に1942年、世界で初めて細菌に対する薬剤“抗菌薬(抗生剤)”としてペニシリンが実用化して以降、様々な抗生剤が開発され、細菌性感染症の特効薬として活躍の場を広げてきた。
 ところがそれが“仇”になる。原因は、抗生剤が適正に使われず、特効薬であるとして乱用されたことにあった。
 人々は昔から乳酸菌の作用によるヨーグルトやチーズ、納豆菌による納豆など、有用な細菌類を原材料の変化から選別して活用してきたように、人の体内に棲息する細菌もすべてが感染症の病原体ではない。ところが抗生剤の投与によって、体内に同居しているいわば善玉の細菌も死滅するか活動が抑制されてしまうが、なんの因果か、感染症の病原体である悪玉の細菌には、抗生剤によって打撃を受ける部分の遺伝子を、DNA(デオキシリボ核酸:遺伝情報の継承と発現を担う高分子生体物質)やRNA(DNAを鋳型として合成され、その遺伝情報の伝達やタンパク質の合成を行う)の変異によって変化させ、抗生剤を効かなくしてしまう“耐性菌”に変異して増殖をするという厄介な性質がある。
 この耐性菌が、抗生剤により善玉菌が死滅するか活動が抑制され多数派となると、増殖の機会を得て感染症原因菌として活躍をしだすという。そこで治療のため、手を変え品を変え別の抗生剤を開発し投与していくうちに、複数の抗生剤でも効果がない“多剤耐性菌”が現れてくる。ペニシリン実用化後70年が経過していた。
 といっても現在、すべての抗生剤が無力化したわけではなく“乱用”つまり適切に使用されなかったケースがあったからだという。
 抗生剤が一般化しその有効性が世に知れ渡ったころ、中には風邪気味であったり、少し熱が出た程度で、特に子供の重症化“予防薬”として処方を希望する人たちがおり、医療の世界でも“細菌の耐性化”についての知見が広くいきわたっておらず、その要望に応えてしまうケースがあったという。また病気の症状によっては非常に効果があるので、通常の薬剤でも十分な場合でも抗生剤を処方したケースがあったという。特に日本はなぜか世界的に“抗生剤の乱用天国”と言われていた。“病気を治すから医者である”とする一般的な風潮が乱用に拍車をかけたのか。
 この日報道された“多剤耐性菌”による院内感染と死亡の問題は、東京都板橋区にある帝京大学医学部付属病院で
発生したものだが、問題の細菌はアシネトバクターで、感染した患者のほぼ全員が血液や腎臓に重い病気を持っていた。そのうち27人が亡くなられたが、このうちの9人は細菌と死亡との因果関係を否定できないと発表された。厚生労働省では、この菌による病院内での感染では過去最大規模と公表した。
 不幸にしてアシネトバクタ-に感染された方は、35歳から92歳までの男性27人と女性19人。60台以上の方が7割を超えているが、急性骨髄性白血病や慢性腎不全などの重い病気に罹られて免疫力が低下していた方が多かったという。また感染した46人ほとんどの患者の菌の特徴が似ているところから“院内感染”とみられており、帝京大病院の調査では死亡された27人の内12人が持病が原因、9人が菌との因果関係を否定できず感染による死亡、残り6人は因果関係は不明だというが、感染が体力を奪い死亡に追いやられたと考えるのが妥当だろう。
 46人は2009年8月から2010年9月までの間に感染している。実は最初2010年2月ごろ散発的に患者から菌が検出されたので、感染制御部が警告文書を出したが、一部の抗生剤が効いたため、担当医が報告を上げず、病院としては集団感染の疑いがあると認識していなかったという。最初の死亡者は前年の10月ということは調査で分かり、患者が確認されたのは病院の4階から17階までの8フロワー11か所で複数の感染ルートがある可能性が認められるという。
 厚生労働省は多剤耐性アシネトバクター感染を危険視し、2009年1月都道府県に対し発生した場合の報告を求める通知を出していたが、帝京大学病院では、最初に菌を検出していた2010年2月の時点では報告をしていない。この問題について病院側は“患者の治療に専念することに念頭を置いていた”と説明をしたが、理由にもなっていない。病院の感染制御部が警告文を出していたのにかかわらず報告をあげない担当医もそうだが、外部へ菌が流出しなかったからよかったものの、当時の帝京大学病院の隠ぺい体質が、ほとんどの抗生剤が効かない危険なアシネトバクタ-感染症の市中感染から流行へと進む危険性をはらんでいた。当時、国立感染症研究所では、欧米では使える抗生剤が全くないスーパー多剤耐性菌が広まっているとした上で“今回の集団感染は、スーパー耐性菌の予備軍の大流行”と警告した。
 (出典:朝日新聞「2010年9月4日号」,AMR臨床カンファレンスセンター編「一般の方へ>感染症の基本、薬剤耐性菌について、私たちができること AMR防止3か条、日本の薬剤耐性菌の状況、アクションプラン」、同センター編「医療従事者の方へ>薬剤耐性菌について、現状、海外でのAMR対応、アクションプラン、AMRの院内感染対策、薬剤耐性(AMR)とワンヘルス」)

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