【目 次】

・明応地震。東海・東南海連動大地震か、浜名湖が遠州灘とつながった、36mの大津波も[改訂]

・慶長伏見地震、秀吉の地震対策指示及ばず伏見城倒壊。歌舞伎狂言・地震加藤のテーマも[改訂]

江戸日本橋で自衛消防組織“民営町火消組(店火消)”誕生、厳しい規律のもと初期消火担う

・停滞した梅雨前線と台風により西国を中心に大水害、延宝の第一次大飢饉招く[改訂]

・元禄15年8月末の台風、北九州・中国地方を席巻、筑前で50年来の大風雨[改訂]

寛保3年8月台風、筑後久留米藩領など北九州、中国・四国西部席巻

・延享元年8月台風、日本各地を襲い大傷をのこし縦断して去る

寛政3年8月台風、四国から近畿、東海、北陸縦断、伊勢湾沿岸部で高潮起き被害大きく

・文政11年8月「子年の台風(シーボルト台風)」北九州、西中国を荒らし史上最大の被害残す[改訂]

・嘉永3年8月台風、北九州、中国地方瀬戸内海沿岸部が洪水・高潮災害に[改訂]

【本 文】

明応地震。東海・東南海連動大地震か、浜名湖が遠州灘とつながった、36mの大津波も[改訂]
 1498年9月20日(明応7年8月25日)
 被災地、地震の規模などから、四国以西の史料が少なく定説化していないが、南海トラフ沿いを震源域とする、東海と東南海の連動地震ではないかとも推定されている。
 辰の刻(午前8時ごろ)、遠州灘を震源とするマグニチュード8.2~8.4と推定される巨大地震が、紀伊半島(和歌山県)から房総半島(千葉県)にかけての東海道沿岸域と甲斐(山梨県)を襲った。
 紀伊では熊野大社の本宮社殿、那智の坊舎などが倒壊、湯の峰温泉では10月まで湧出が止まったが、これは南海地震の特徴と考えられるという(宇佐美龍夫)。遠江(静岡県西部)では“山崩れ地が裂けた”と伝えられている。
 一方、震害より津波の被害が大きく、紀伊半島東岸部から房総半島南部海岸にかけて津波が襲った。
 中でも遠江では浜名湖と外海を隔てていた砂州が地盤沈下と津波で流失、湖から西流し海と結ばれていた浜名川は流れを変え、名勝と歌に詠まれた浜名橋と美しい松原も姿を消し、今切口(いまぎれぐち)と呼ばれる水路ができ同湖は汽水湖(淡水と海水が混ざり合った湖)となった。
 伊勢、志摩両国(三重県)沿岸部には6~10mに及ぶ津波が押し寄せ、伊勢大湊(三重県伊勢市)では家屋流失1000軒、5000人死亡。塩屋村(同県志摩市)で180軒の内100軒余が流失し、4、5人しか助からず、志摩荒嶋(同県鳥羽市)では250余人死亡するなど、両国全体で1万人が死亡したという。駿河志太郡の駿河湾沿岸域(静岡県焼津市から御前崎市の範囲)では、津波により2万人余が死亡したと記録されている。
 また東大地震研究所の調査で、駿河湾奥の沿岸、標高36mの沼津市平目平に、この地震による大津波の痕跡が残っていることがわかり、駿河湾内で起きた大津波で知られる宝永地震(1707年10月)、安政東海地震(1854年12月)の5m程度に比べ、沼津以外同湾沿岸域でも、それらより大きな6~12mの津波が押し寄せたと推定されている。
 さらに南伊豆の深根城(下田市内)一帯も甚大な被害を受け、抵抗力を失った同城に立て籠っていた伊豆最後の勢力関戸吉信が、少数の手勢で攻めた伊勢宗瑞(北条早雲)に破れたというエピソードを残している。さらに鎌倉由比が浜では、波が八幡宮の参道や大仏殿まで押し寄せ200人が死亡したという。房総では日蓮宗・小湊誕生寺が流失している。
 (出典:日本全史編集委員会編「日本全史>室町・戦国時代>1495-99・369頁:東海地方に地震、浜名湖、大津波で遠州灘とつながる」、宇佐美龍夫著「日本地震被害総覧>4 被害地震各論 52頁~53頁:068 東海道全般」、小倉一徳編、力武常次、竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歴史>1 上代・中世の災害>南北朝・室町時代の主要災害一覧 66頁:明応7.8.25東海道各地地震(明応地震)」、朝日新聞2011年9月18日号朝刊「15世紀の大津波、高さ36メートル到達か」、蛍(けい)著「徒然探訪録・北条早雲と明応の大地震」。参照:2017年10月の周年災害「宝永地震」、2014年12月の周年災害「安政東海地震」)

慶長伏見地震、秀吉の地震対策指示及ばず伏見城倒壊。歌舞伎狂言・地震加藤のテーマも[改訂]
 1596年9月5日(文禄5年閏7月13日)
 京洛の巷も伏見の港も城も寝静まった子の刻(午前0時ごろ)、京都南部を中心とした畿内をマグニチュード7.5の大地震が襲った。
 被害は京都の三条から伏見にかけて多く、京都では東寺、天竜寺、大覚寺、二尊院といった大寺院が倒壊、方広寺の塑像の大仏が大破。特に東寺では寺の中枢をなす食堂、講堂、灌頂院、南大門が倒壊するなど大きな被害となった。また市街地では民家の多くが倒潰し、一説では4万5000人が死亡したと記録されたほど死傷者も多く出たという。
 伏見では太閤秀吉の居城、伏見城の天守閣が大破、石垣が崩れた。秀吉はとっさに秀頼を抱きかかえ庭に逃れ無事だったが、上﨟(高級女官)73人、仲居下女(下働きの女性)500余人が犠牲になり、二の丸でも300人余りが死亡したという。この時、秀吉の怒りに触れ謹慎中だった加藤清正が、手勢を引き連れて登城し、城門を固めると同時に救助活動を行ったので、閉門を解かれたというエピソードがあり、後に歌舞伎狂言の「増補桃山譚(地震加藤)」のテーマになった。
 この大破した伏見城を秀吉が普請する構想を練ったのは、4年前の1592年9月(元禄元年8月)だが、この時、その6年前の天正地震で越中から美濃、伊勢にかけて、多くの城が倒壊したのを知っていたので、京都所司代・前田玄以にあてた翌1593年1月3日(同年12月11日)付書簡で“ふしみのふしん(普請)、なまつ(ナマズ)大事にて候まま”と、地震対策を指示していた。しかし、不幸にも予感は当たり多くの犠牲者を出してしまった。
 そのほか畿内では、奈良の唐招提寺で戒壇、僧堂、回廊が倒壊、金堂、講堂、東塔などが損壊。法華寺の金堂、海竜王寺、興福寺、大安寺の堂舎はことごとく破壊され、薬師寺の八幡廊、西院堂、東西の両門が倒潰するなど多くの寺院の建物が損壊した。また伏見周辺では、大山崎八幡離宮の門、鳥居が損壊し市街地の民家ことごとく倒潰。武田の安楽寿院の宝塔が倒壊している。
 和泉、河内(現・大阪府)、摂津(現・大阪府、兵庫県)でも、茨木の総持寺観音堂、箕面の竜安寺のほか、民家の倒潰が多く、有馬温泉では湯屋、民家の損壊とともに、泉質に変化が起きたという。市街地では、特に堺で600余人が死亡、大坂でも倒潰した家多く、兵庫(現・神戸市)では1軒残らず倒潰し火災となったという。全体で1500人余が犠牲になったとされ、近年の発掘調査により、中央構造線に連なる有馬-高槻断層系による最新の活動と推定されている。
 (出典:宇佐美龍夫著「日本被害地震総覧>4 被害地震各論 57頁~58頁・082 畿内及び近隣」、小倉一德編、力武常次+竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歴史>2.近世の災害 79頁:慶長7.閏7.12畿内地震(伏見地震)」、伊藤和明著・防災情報新聞連載「災害史は語る No140 慶長年間に相次いだ大地震」、伊藤和明著「災害史探報・内陸型直下地震編>第2章 京都を襲った直下地震 34頁~36頁:秀吉の城が潰れた大地震(慶長伏見地震)」[改訂]、国立国会図書館デジタルコレクション「豊太閤真蹟集解説 58 頁(74コマ);136 前田玄以宛秀吉消息」[追加]。参照:2016年1月の周年災害「天正地震」)

江戸日本橋で自衛消防組織“民営町火消組(店火消)”誕生、厳しい規律のもと初期消火担う
 1658年9月4日(万治元年8月7日)
 江戸の火消には大きく分けて、“大名火消”と“町火消”及び“定火消”の3系統があった。
 その内もっとも早く組織化されたのは、江戸城をはじめ武家屋敷地での火事に対応する、大名家家臣一同による“大名火消”だが、その初期形態は、1629年6月(旧暦・寛永6年5月)、参勤交代で江戸に残る在府大名10数家に老中が将軍の命令書「奉書」をもって出動を命じた“奉書火消”で、10年後の1639年9月(同16年8月)の江戸城本丸全焼を契機に、2か月後の11月(旧・10月)専任化され、1641年3月(同18年1月)の“桶町の大火”を契機に1643年11月(同20年9月)、6万石以下の大名16家を4家ずつの4隊による、本格的な火消部隊“大名火消”として再編成された。
 もちろんこの部隊がみずから“大名火消”と名乗ったわけではなく、これは後に“町火消”と区別するためにつけられた通称である。
  ところが、1657年3月(旧・明暦3年1月)、史上最大の火災“明暦の大火(振袖火事)”が発生、その後、江戸の防火及び消火体制が見直され、江戸の街を守らなければ江戸城をはじめ武家屋敷地も守りきれないと悟った幕府と、江戸の町政を取り仕切る町名主たちが、町人による独自の自衛消火体制を検討するなど、官民それぞれの立場で対策を立てることになる。
 幕府がとった対策は、今日の常備消防に通じる常設火消として、翌1658年10月(旧・万治元年9月)創設した、武士が指揮し町人が火消人足(がえん)となる“定火消”だった。
 一方、町人たちは自衛の火消組の編成を企画する。
 当時南伝馬町の名主・高野新右衛門は、町方(町家地区)の消火体制が、町奉行所のお触れによる“火事を発見したら町内総出で消火すべし”という程度で、武家屋敷地の“大名火消”のように組織化されていないことを痛感、町奉行所に自衛の火消組を作ることを申請、これが認められたので、“定火消”の創設より1か月早い9月4日(旧・8月7日)のこの日、日本橋の南伝馬町3町と南槙木町、桶町、鍛冶町、畳町など計23町が、南伝馬町3町の30人をはじめ、各町それぞれ6人から17人ほどの火消担当の人足を用意し、水かご、手桶、熊手、鳶口、しるし(纏:まといの原型)持ちと分担させ、合計167名の人足が協力して消火に当たる“民営町火消組”をつくり上げた。
 またその規則「定」として7か条の取り決めを作成したが、その主なものは次のようになっている。
 まず“1.火事出来之刻(火事が起きた時)定(め)置(き)候人足早速火本(元)江(へ)欠(駆け)集り可申候”とあるのは当然だが、それに続けて、人足たちの所属する町名や紋をつけた袖なし羽織を着用するとあるのは、現場での混乱を避けるため、所属する火消組を判別するためのものだが、後に火消人足のユニフォームとなる“火消はんてん”の原型となった。
 ついで“1.町々より月行事(月当番の家持町人)家持一両人相副(ふたりで)、火消人足引廻下知(命令)致、火消申候”と消火指揮者を決め、延焼防止のため“其(の)時々下知より家くずし申候事も可有之候間(あり得る)”と断ったうえで“定置候上は其家主少(し)もかまひ不申(不服を言わずに)くずさせ可申事”と念を押している。
 ついで“1.(前略)月行事幷(ならびに)家持下知次第ニ精出し可申候”とした上で“縦(たとえ)町々人足入乱申候共、頭たる衆中、下知少(し)も不相背様(背向く事なきよう)ニ町々堅(く)可申付候”と、火事場で町々の火消組が入り乱れることがあっても各組の指揮に従うこと、それにそむいて罰を受けても受け入れるとし“其外喧嘩口論堅仕間敷事”と、火事場での規律を厳しくした。
 また1.として、鎮火後、月行事は火消人足の札(身分証)を改め、断りもなく消火に参加しなかった者があれば“其町々ニて致吟味、為過料鳥目一貫文(約2万5000円)宛急度(きっと)出し可申候”と罰金を科しており、その状態によっては“家主何如様之好見(親しい))有之候者ニ而も、其場より町之内おひ払(追い払い)、置申間敷候”と、町内から追放するとしている。
 かなり厳しい内容だが、喧嘩早くて気ままな江戸っ子を束ね消火に当たらせようというわけで、高野新右衛門以下町名主たちは、これくらいの規律は必要と考えたのであろう。 
 またこの町の自衛火消組だが、記録が残っていたので日本橋で発祥したことは明らかになっているが、ほかの町方でも同じような火消組がつくられていたかも知れない。なお、同じ日本橋や神田辺りの大店(豪商)の家々でも、店の使用人や出入りの鳶(とび)職、大工などを集めて火消担当人足とした自衛火消組が編成されたと考えられる。
 幕府は“定火消”の創設に次いで、旗下の旗本、御家人に「防火の心得」を布令したが、その翌日の11月23日(旧・10月28日)江戸全町方を対象にした、町奉行与力指揮下に町人たちが火消役になる、いわば“官営町火消組”の編成を指示し、同時に次のお触れで町民自衛の“民営町火消組”も対象にした火事の際の行動についての「覚」とした。
 “火事出来候ハヽ、早々(すぐさま)火元江(へ)欠集(駆け集まる)可申候事。勿論近所に火事出来候ハヽ、人足集候ニ延引可申候間(人足が集まるのに時間がかかるので、その間)、人足出合次第壱人宛成共(人足が揃うまで一人でも良いから)、追々火本江欠集、火を消可申候(消火に当たること)。
 また、遠所之火事之時分ハ其所々江欠集(遠方の火事の場合は、その決まった場所へ集まり)、火之子消可申候(火の粉を消すこと)。
 火消之御衆御出無之前ニ(定火消の出動がある前に)、早速罷出可申候(いち早く現場へ出動すること)。万事町御奉行衆之御与力衆御差図次第ニ可仕候事(万事は奉行所の与力の指示に従うこと)”とした。 
 なおその集合場所は、一、日本橋から中橋までの間の町は、南よりの火事の場合は中橋通り、北よりの火事の場合は日本橋川通りへ集まる。一、日本橋から銀(しろがね)町南ヶ輪までの間の町は、南よりの火事の場合は日本橋舟町、鞘町裏河岸通り。北よりの火事の場合は銀町土手通りに集まる。一、銀町土手から連雀町、柳原町までの間の町は、南よりの火事の場合は銀町土手。北よりの火事の場合は連雀町、柳原町通りに集まる。一、神田旅篭町、湯島本郷、佐久間町通り、浅草旅篭町までの間の町は、浅草橋、佐久間町筋違橋通りに集まる。一、飯田町、市ヶ谷船河原町、糀町、四谷伝馬町、赤坂伝馬町、本赤坂の者共は、最初から火元へ集まる事。と決められた。
 このように官民がそれぞれ組織した一連の町方の火消は“店(たな)火消”と呼ばれている。というのは、各町内で火消人足となったのは、家持ちの富裕な町人ではなく、長屋住いの“店借”の職人や小商人などだったからで、大店の場合はその店の火消組なので、これは文字通り“お店の火消⇒店火消”と呼ばれた。
 これら“店火消”の役割だが、まず町内の自衛火消組の場合は、9月4日(旧・8月7日)に結成されたとき、その7か条の「定」の最後に、出火の際“精を出し火消可申候事”としているが、これは町内の小さな火事や“火之子消可申候”とよそからの飛び火に対する対応が目的で、そのあとに“若(し)大火事ニ罷成、御大名衆火消ニ御出被成候は、其所を立退き”とあり、これは結成時点でまだ“定火消”が創設されていなかったこと、江戸城内堀内郭の大名屋敷街(大名小路)は別として、江戸市中では大方、武家地と町方が混在していたので、大火事になると近くの大名屋敷の“大名火消”が、延焼防止のため町方にも駆けつけてくることがあったので、そこを退いてあとの消火をまかせる。と取り決めたのであろう。
 この「定」を町奉行が先の「覚」を作成した際に取り入れ、“御大名衆火消”とあるところを、お触れの時点では創設されていた“定火消”と読み替え、店火消全体に対する共通の指示とした。つまり自力で消火する町内の火事以外は、① 定火消が出動してくるまでに、すぐさま火元に駆け付けて来ること。② 延焼の原因となる火の粉を消すという初期消火にあたること。③ 消火活動については町奉行所の与力の指示に従うこと。というわけで、創設当初の店火消こと町火消は、町奉行所の与力の指示下、定火消が本格的な消火にあたる前の初期消火の要員として位置づけられており、消火を譲るのは“火消之御衆”こと“定火消”であった。
 このように官営、民営を問わず“店火消”はしろうと集団であり、自分たちの町内や店舗の初期消火と飛び火対策、及び鎮火の見通しが立ち“定火消”が撤去したあとの残り火消火も主な役割となっていたので、“跡火消”なる言葉も生まれている。
 しかし町奉行が、店火消に対する共通の消火ルールを定めても、自衛意識の強い“民営”と自らの町を守るとは言え強制された意識が強い“官営”とは、火災に対する消火意識や能力においてやはり差が出ることになり、自衛組の町は消火が終わってもよその町から延焼したというような、バランスを欠いた消火活動となり、江戸の町は守れず多くの問題が生じたであろう。そこで解決策は、享保の改革の一貫として1718年11月(旧・享保3年10月)、町奉行による本格的な町火消組合の編成を待つことになる。
 (出典:西山松之助編「江戸町人の研究 第5巻>池上彰彦著:江戸火消制度の成立と展開>第二章 江戸における自衛消防組織の成立 115頁~120頁:第二節 町火消制成立の前提」、魚谷増男著「消防の歴史四百年>江戸の消防>町火消の芽生えと発展 63頁~64頁:町火消の芽生え」、黒木喬著「江戸の火事>第三章 町火消の隆盛 68頁~72頁:一 店火消の時代」、中央区役所編「中央区史>第十八章 消防>第一節 江戸消防の沿革>五.町火消 1180頁~1182頁」、東京都編「東京市史稿>No.4>市街篇 第7>641頁~644頁:市民救火制」、近世史料研究会編「江戸町触集成 第1巻>万治1年 86頁~87頁:二二四、二二五」、東京都公文書館編「都史紀要28 元禄の町>はしがき」。参照:2019年7月の周年災害「諸大名帰国に際し、在府大名たちに火の番仰せつける、奉書火消の文献初出」[改訂]、2009年11月の周年災害「幕府、奉書火消役専任化し初めて組織的な消火体制に」、2011年3月の周年災害「江戸最初の広域大火・桶町の大火」、11月の周年災害・追補版(3)「幕府、初の組織的な大名火消制度創設」、2017年3月の周年災害〈上巻〉「1657江戸明暦の大火(振袖火事)」、2018年10月の周年災害「幕府、江戸の街を守る常設火消“定火消”を新設」、2018年11月の周年災害「町内に町奉行与力指揮下の官製・町火消(店火消)“火消組”編成へ」)

停滞した梅雨前線と台風により西国を中心に大水害、延宝の第一次大飢饉招く[改訂]
 1674年7月~9月(延宝2年6月~8月)
 1674年(延宝2年)の夏は、梅雨前線が長期にわたり停滞したのか、7月(旧暦6月)を中心に西国で大雨が続き、各地で河川が氾濫し田畑が冠水して大凶作となり、翌年の延宝の第一次飢饉というべき事態を迎えることになる。
 この年は晩春から初夏にかけて大雨が続いた。まず、4月(旧・3月)美濃(岐阜県)では大雨が続き洪水を起こす。5月に入ると、15、16日(旧・4月10、11日)畿内及び美濃大風雨。畿内では加茂川、桂川が氾濫し堤防を決壊、三条大橋が押し流される。美濃では4月(旧・3月)の洪水が引かないまま再び洪水となり民家84棟が倒潰するなど、季節外れの大雨に悩まされていた。
 その上である。6月ごろから北九州、西国地方で梅雨前線が停滞する。17日(旧・5月14日)伊予国(愛媛県)暴風雨、20、21日(旧・5月17、18日)筑後川氾濫し久留米大洪水、柳原の土居(土手)決壊し家屋流失、瀬下川に人馬流れる。
 7月(旧・6月)に入っても梅雨前線はまだ停滞し続け、中国地方中央部では雨が降り続いたため、1日(旧・5月28日)石見国(島根県)江川が氾濫、邑智(おおち)郡一帯が史上二番目の洪水となり、南部の広島藩領でも河川が氾濫、神田橋、京橋など次々と落ち田畑に冠水、被害額4万3580石(表高の12%)となる。4日から7日までの間(旧・6月1日~4日)に、ふたたび筑後川が氾濫し久留米大洪水となる。久留米の石原家の記録「石原家記」には“この節、隣国、遠国も同然の由”とあり、大坂、江戸でも洪水と伝えている。梅雨前線が東に延びたのか。
 14日(旧・6月11日)、京都ではおびただしい雷鳴と豪雨が、南は藤の森、西は松尾、桂の里あたりを中心に降り、その後、梅ほどの大きさの雹(ひょう)となり雹に当たって人や馬が死亡する。なかでも御所の東側、寺町通の円浄宗大本山・盧山寺の御堂に落雷、寺はことごとく破損した。翌15日(旧・6月12日)、今度は枚方から大坂にかけておびただしい雷雨降る。11、2か所に落雷、死亡者が出る。
 翌16日から17日(旧・13日~14日)にかけては、山城南部から摂津、河内、大和一帯(京都府南部、兵庫県東部、大阪府、奈良県北部)が大風雨にさらされる。淀川水系全域と大和川が氾濫、京都及び枚方から大坂、堺にかけて大洪水となる。17か所の堤防が決壊。京都では“人馬水溺死数を知らず(皇年代略記)”となり、大坂では天満橋、京橋、天神橋などが流失する。
 “河州(河内)、和州(大和)等の辺国(周辺の国々)迄水差込みて(氾濫して)民屋の棟を水越して、溺死数多く”また“摂州(摂津)高槻領一万石程(その程度生産する広さの土地が)永代の川(永久の川面)となり、大坂にては京橋天神橋落ちる(中略)天満橋は破損計りなり、且(つ)亦(また)野田という所の町家悉く(ことごとく)流る、尤も(もっとも)溺死夥し(おびただし)(玉露叢)”“溺死するもの幾万人とも数知れず未曾有なり(摂陽奇観)”と、当時の日記や随筆などに記録されるほどの大水害となった。停滞していた梅雨前線が太平洋の温かい空気に刺激されたのか、いまでいう集中豪雨だ。
 7月の最後は、28日から31日(旧・6月25日~28日)にかけての出雲(島根県)松江の洪水である“田畑の損害多し”と記録されている。当時、播州(播磨:兵庫県南部)に住んでいた軍学者・山鹿素行の日記によれば“陰雨不止、冷気如秋、蚊虫不食人”と記している。天候不順で雨が続いたので“冷気如秋”となり、農作物、特にコメの成長期に必要な温かさに恵まれることはなく、夏は過ぎた。
 8月、9月(旧・7月、8月)になると今度は台風であろう次々と来襲する。まず襲われたのは8月6日(旧・7月5日)越中、越後、羽前諸国(富山県、新潟県、山形県、秋田県)という日本海沿岸地方。ついで8月31日(旧・8月1日)美濃加納藩領(現・岐阜市)では、長良川の氾濫により堤防800間(約1.5km)が決壊、田畑2万7000石(表高の約40%)が冠水した。三つめは9月7日から13日(旧8月8日~14日)東海道が襲われ、特に天竜川流域が“百年来無類の出水”となる。
 とどめは9月中旬(旧・8月中旬)北九州、中国、四国地方に来襲し東北地方東部に去った台風で、9月15日から16日(旧・8月16日~17日)にかけて、特に豊前小倉、中津、豊後杵築(福岡県、大分県)、安芸広島、備後福山(広島県)、播磨小野、摂津高槻(兵庫県)各藩領及び四国讃岐(香川県)などで、各地の城郭に被害を与え、家屋や橋梁を破損させ、田畑に損害を与えるなど、九州北部から瀬戸内海沿岸地方を席巻。常陸(茨城県)では水戸藩領の田畑に冠水し利根川を氾濫させ、翌17日(旧・8月18日)には津軽(青森県西部)の農作物を荒らして平年の半作とさせるなど日本中を席巻し去っている。
 この結果“夏秋屡々(しばしば)風水の災あり、諸国大に飢荒”と、西国をはじめ各地方の田畑は水没して大凶作となり、同年末から米価が暴騰、翌1675年(旧・延宝3年)春“天下大飢饉、死人巷に満ちたり(続日本王代一覧)”という惨状となった。+
 (出典:小倉一徳編著、力武常次+武田厚監修「日本の自然災害>Ⅱ 記録に見る自然災害の歷史>近世の災害>江戸時代の主要災害一覧 86頁:延宝2~3 諸国大飢饉(延宝の飢饉)」、池田正一郎著「日本災変通志>近世 江戸時代前期 385頁~386 頁:延宝二年>○三月~」、西村真琴+吉川一郎編「日本凶荒史考 268 頁~280頁:延宝二年、この春旱……」、荒川秀俊ほか編「日本旱魃霖雨史料>霖雨之部 268頁~269頁:延宝二年 諸国 大雨、洪水」[追加]。参照:2011年3月の周年災害「延宝の大飢饉」)

○元禄15年8月末の台風、北九州・中国地方を席巻、筑前で50年来の大風雨(310年前)[改訂]
 1702年9月20日~21日(元禄15年8月29日~30日)
 秋雨前線が停滞した上に台風の襲来か、北九州と中国地方に大損害を与え駆け抜けている。
 筑後(福岡県南部)では9月7日(旧歴・8月16日)から16日(旧・8月25日)まで秋雨前線が停滞して雨が降り続き、32回もそこかしこで小さな洪水を起こしていた。その上、9月20日(旧・8月29日)夜半より翌日にかけて大風が吹き、21日(旧・30日晦日)には重さ1匁(約4g)の雹が降る。
 一方筑前(福岡県北部)では、21日の夜中、子の刻(午前0時ごろ)から辰の刻(午前8時ごろ)にかけて、50年来と言われる大風雨となった。同国上座(じょうざ)郡や下座(げざ)郡(現・朝倉市、東峰村)では百年来洪水はなかったが、今回は筑後川をはじめ周辺の河川が氾濫した。同国の大半を占める福岡藩(筑前藩)領ではこの台風で家屋1万1135軒(1万1890軒余とも)が倒潰、その内訳、藩士宅641軒、博多商家174軒、郷村の民家9342軒、海浜の民家978軒。田畑の損害29万5500石(表高の57%)、倒木1万8300余株という大損害を受けた。また秋月藩(朝倉市)領でも家屋倒潰1510軒、田畑の損害1万3800石(表高の28%)、倒木5490株の痛手を蒙っている。
 一方、この台風は備中、備前両国(岡山県)も襲い、旭川が氾濫して1万3398間(24.4km)にわたって堤防が決壊、1万8667間(34km)の堤防が流出、川の波よけ78か所が損壊し、田畑7038町(69.8平方km)が川水で冠水。また海岸の潮除け堤防も2万2266間(40.5km)にわたって決壊し、田畑1005町余(10平方km余)が海水で冠水、384町(3.8平方km)は荒れ地となった。水田の用水池の堤も539間(1km)が損壊、道路損壊6333間(11.5km)、橋の損壊110か所。市街地では岡山城内にも浸水して廓の所々が破損、藩士の屋敷町では床上浸水の家が続出するなど、岡山藩領内全域で家屋倒潰1939軒、同流出30軒などの損害を負った。
 また鳥取藩(因州藩)領でも、同日“西北の風強く吹き、大雨沃ぐ(そそぐ)が如くにして出水す。(中略)此日人屋流失し牛馬溺死す(因府年表)”となり、因幡、伯耆両国(鳥取県)の田畑の損害10万4936石(表高の33%)。東北の八戸藩(青森県東部)領でも1万7800石余(表高の89%)の大損害となるなど全国的な大災害となっている。
 (出典:小倉一徳編、力武常次、竹田厚監修「日本の自然災害>Ⅱ 記録に見る自然災害の歷史>近世の災害>江戸時代の主要災害一覧 89頁:元禄15.8.29 西日本地方大風雨」、荒川秀俊編「日本高潮史料 47頁~49頁:元禄十五年八月二十九日」、岡山市編「岡山市史・第4>第13章 災異>第1節風水害>閣老への損亡申牒書 2780頁:次いで元禄十五年七月二十八日風雨」)

寛保3年8月台風、筑後久留米藩領など北九州、中国・四国西部席巻
 1743年9月30日(寛保3年8月13日)
 
台風の襲来である。9月(旧暦でいえば8月)の台風は、日本列島を九州から入り四国、中国と進み関東、時には東北へと横断する。この日の台風も北九州から四国、中国各西部地方に大打撃を与えている。
 特に筑後(福岡県南部)久留米藩領が深手を負う“大風破損此ノ節破損ニ付風積リ損失ノ事、城下約一万軒、在々(農村部)四万三千五百軒(石原家記)”。四国伊予(愛媛県)では“洪水数回東予(東伊予)の地殊に被害多く加茂川の如き人畜家屋の漂着せるもの山の如く悲惨目も当てられず(新居郡誌)” 西日本の最高峰・石鎚山を源流とし西条を育んでいる母なる川が野生に帰ったのか。
 中国地方長州藩領(長門・周防:山口県)でも被害多く、この日の台風を中心に3月(旧・2月)以来の被害が次の通りと、11月21日(旧・10月6日)幕府へ報告している。田畑13万5520石余(表高の37%)、家屋倒潰3484戸、蔵193軒(棟)、藩の番所43軒、高札場14か所、寺社156か所が倒潰、舟42隻破損、16人死亡。
 (出典:荒川秀俊編「日本高潮史料 90頁~91頁:寛保三年八月十三日」、国立国会図書館デジタルコレクション・太田報助編「毛利十一代史. 第25冊 巻之62-66 観光公記>92頁~93頁(92コマ)」)

○延享元年8月台風、日本各地を襲い大傷をのこし縦断して去る
 1744年9月14日~18日(延享元年8月8日~12日) 
 
この秋台風は、九州日向(宮崎県)から豊後(大分県)を過ぎ四国伊予(愛媛県)讃岐(香川県)、中国長門・周防(山口県)安芸・備後(広島県)因幡(鳥取県)を通り日本海へ抜けたのち、加賀(石川県)を経て北海道へ再上陸している。
 九州日向では16日(旧暦10日)の大風雨と洪水により、8人死亡、水田210町(2平方km)3789石余、畑676町余(6.7平方km)4050石、家屋倒潰327戸、舟破損9隻。中でも佐土原(現・宮崎市)の被害が著しく300余戸の家屋が倒潰。豊後では大風と洪水により臼杵藩領内で家屋倒潰3200余戸。四国伊予では川水が22尺(約7m)も高くなり洪水となり松山藩領の損害2万6500石余(表高の18%)、隣国讃岐高松藩では同じ日の夜半海岸堤防が決壊し、海水が押し寄せた城下町は“漂牀毀(家屋の毀れた床板が漂い)”、“牆堤壁海堤防多壊(多くの堤防が決壊したので門や土塀、ため池の堤などが海岸すれすれになり)”村々の“禾稼大傷(コメの収穫に大傷を負った)(高松藩記)”。
 中国地方長州藩では、この台風での被害を中心に年間の被害は、20人死亡、田畑12万2220石余(表高の33%)、家屋倒潰5080余戸、社寺の倒潰20か所と幕府に届け出。安芸広島藩は広島城と浄土宗慈仙寺の石垣が崩壊。備後福山藩は30人死亡、舟42隻破損。因幡鳥取城内では16日午前8時頃(旧・10日辰刻)より大風が吹いて各所が損壊。
 台風が再上陸した北陸加賀藩領(石川県)の田畑被害23万6000石(表高の23%)、のち台風は北海道へ進出し、福山藩領では17日(旧・11日)“大風、迅雨(激しい雨)、海嘯(津波)あり”と記録され32人死亡、舟42隻破損。
 (出典:小倉一徳編著、力武常次+武田厚監修「日本の自然災害>Ⅱ 記録に見る自然災害の歷史>近世の災害>江戸時代の主要災害一覧 94頁:延享1.8.8~11 九州・中国等諸国 大風雨」、荒川秀俊編「日本高潮史料 91頁~92頁:延享元年八月十日」、荒川秀俊ほか編「日本旱魃霖雨史料>霖雨之部 305頁:延享元年 諸国 洪水」)

寛政3年8月台風、四国から近畿、東海、北陸縦断、伊勢湾沿岸部で高潮起き被害大きく
 1791年9月17日(寛政3年8月20日)
 
四国から関東にかけて大暴風雨が襲来し四国讃岐(香川県)、畿内大和(奈良県)、近江(滋賀県)、東海道伊勢(三重県)、尾張(愛知県)、北陸越前(福井県)など各国で大きな被害を負った。
 9月17、18日(旧暦・8月20、21日)は“廿日夕暮より雲出て海鳴揺(ゆるが)し、酉(午後6時頃)過るころより大風雨車軸を流して。明寅の刻(午前4時ごろ)鎮まる(武江年表)”という状況で、まず四国讃岐を襲い“大風洪水(高松藩記)”“潮汐上平地、城中民屋多壊”と、暴風による高潮である。高松城内及び城下の家屋が多く倒潰浸水した。次いで近畿地方に上陸、紀伊(和歌山県)では“暴風雨日高川洪水、堤防決潰”、大和(奈良県)では“奈良で家数108軒が倒れる”、和泉(大阪府)堺では“中浜筋一体海嘯(高潮)に襲わる”、摂津西成郡(大阪市西部)では“大風ありて高浪怒涛のため、新田方面損所(被害)を生ぜり。西島新田(西淀川区)にては堤防決潰潮入となり(中略)西島新田矢倉新田等は土砂となる(中略)大風雨津波にて、十三間川堤防決壊す(西成郡史)”と、各地に被害を及ぼしている。
 東海地方は、「本居宣長日記」によれば伊勢(三重県)松坂では“町中屋瓦多(く)落(ち)大木仆(倒)れる。端々(はしばし:あちらこちら)民家少々顛仆(転倒) 矣”とあり、特に農村部に被害が集中し“在中(地方:農村部)者(は)仆(倒)家殊(ことのほか)多(し)”という状況で、三重郡、鈴鹿郡では風害により家屋倒潰126戸、コメなど5740余石生産可能な田畑が被害を負った。尾張(愛知県)では、特に伊勢湾最奥部の熱田をはじめ沿岸部各地の新田が高潮に襲われ9か所の堤防が決壊、多くの家屋が倒潰・流失し死亡者も出た。“熱田(沿岸)に海嘯(高潮)ありて、源大夫祠(現・熱田神宮摂社・上知我麻神社)の南鳥居まで、押し上げられた船あり、熱田(新田)の潰家は二十八軒、市中(宮宿)は四十九軒なり(松濤棹筆雑開集)”柴田新田など沿岸部各新田では“右新田にて(中略)総〆(合計)死人九十四人、潰家総〆五千八百二十五軒(野史)”とある。
 尾張藩領内御国方支配地(国奉行支配農村部)では、家屋倒潰4399軒、河川の洪水で家屋流失34軒、堤防決壊92か所、54人死亡。同藩岐阜支配地では家屋倒潰1000軒、岐阜町内で300軒と同藩領内各所で被害が続出した。また美濃(岐阜県南部)大垣藩領でも御詰(御詰衆:家臣)の者の家の倒潰391軒、在中の家の倒潰3940軒余、(城下の)町家倒潰60軒余と内陸部は暴風による損害が多かった。飛騨(岐阜県北部)では“大風雨あり、作物大損害、国分寺の塔、大雄寺の門倒(れ)る(飛騨編年史要)”となった。
 北陸では、越中(富山県)富山藩領内では大南の風が吹きまくり倒潰家屋が続出した。富山城下で30軒、郡中(郡奉行支配農村部)で半潰ふくめ200軒、田畑8万石(表高の80%)損耗と大被害を負う(越中旧事記)。
 (出典:小倉一徳編著、力武常次+武田厚監修「日本の自然災害>Ⅱ 記録に見る自然災害の歷史>近世の災害>江戸時代の主要災害一覧 100頁 寛政3.8.20 四国・畿内・東海・北陸・関東諸国 大風雨」、荒川秀俊編「日本高潮史料>寛政三年 125頁~129頁:寛政三年八月二十日」、荒川秀俊ほか編「日本旱魃霖雨史料>霖雨之部 346頁~347頁:寛政三年 諸国 大雨、洪水」)

○文政11年8月「子年の台風(シーボルト台風)」北九州、西中国を荒らし史上最大の被害残す[改訂]
 1828年9月17日~19日(文政11年8月9日~11日)
 
17日午前0時ごろ(旧暦・9日夜九つ時)から18日午前9時ごろ(10日朝五つ時半)にかけて、肥後天草列島(熊本県)をはじめ、北九州から西中国各地が猛烈な暴風雨と高潮に襲われた。
 この台風は史上最大級の勢力により、風水害史上最大の被害を残して去っている。また発生した年の干支にかけて“子年の台風”とも、この台風によって蘭学弾圧のシーボルト事件のきっかけが作られたとして“シーボルト台風”とも呼ばれている。
 長崎で帰国直前のシーボルトが観測した数値によると、上陸時935ヘクトパスカルという大型で、最大平均風速55m/秒という非常に強い台風が、長崎南西海上の五島灘より北東に進み、西彼杵半島に上陸し、肥前(長崎県、佐賀県)、筑前(福岡県)、長門(山口県)を通過し日本海に抜け、北九州一帯から中国地方西部などに、南よりの激しい風を吹きつけた。その影響により、肥後熊本藩領の天草列島では、大暴風が起こした高潮により未曽有の大災害となり33人が死亡、2人負傷、家屋全潰4686軒、同半潰1415軒、田畑1339町(13平方km)が風波のため荒廃。廻船の287艘が流失し、23艘が破損、伝馬船266艘が流失、305艘が破損するなどで交通の手段を失い九州本土から孤立した。
 一方、九州本土の状況については同時代の記録随筆「宝暦現来集」に紹介された筑前(福岡県)福岡藩からの書状がこの台風のすさまじさを活写している。
 同藩領内では“八月九日夜五つ時(新暦9月17日午後8時)前より小雨降(り)、次第に荒に相成(次第に強くなり)、夜半比(ころ)より大風雨と成(り)、八つ時(翌午前2時)過(ぎ)(風の勢いで)地震(地揺れ)強く、両三度雷も(鳴り)数個所落(ちる)(中略)風雨強く(博多湾沿岸の)西誠人町(西職人町の誤記)不残(残らず)吹(かれて)倒家と成(り)、蔵の瓦等も何方(いずこか)へ(行方)不知(しれず)、大汐(高潮)町へ上り申候”という状況にあった。
 被害は、福岡城内の三階本櫓全壊、東三階櫓半壊、鉄物櫓崩壊、城門のすべてと藩主の御殿大破。また“奈多浜辺(あたり)は大汐(高潮)故(中略)潰家(倒潰家屋)過半吹崩(暴風による倒潰)汐(高潮による)崩、香椎の本迄塩満(香椎宮あたりまで高潮が達し)、志賀島辺は山の上迄汐吹上、崩所多(し)、博多新町辺は腰の上迄汐上(海水が腰のあたり迄達した)(中略)西の方(福岡城下、東が商人町の博多)は至て(非常に)倒木倒家多く、死人怪我人夥敷(おびただしき)有之候”と、福岡城下の方が博多に比べ被害が大きかったという。
 博多湾沿岸部も4m近い大汐に襲われており、同藩領内全域の被害は2353人死亡、3420人負傷、家屋全潰2万2018軒、同半潰1万7132軒、舟の破損420艘余、そのほか東照宮の回廊、松源院の客殿倒壊、筥崎(はこざき)宮の楼門が大破した。同じ筑前の秋月藩(朝倉市)領内では7月、8月(旧・6月、7月)に続く、この年3回目となる暴風雨に襲われ、復旧する間もなく大被害を受けている。
 北九州の西端、肥前(長崎、佐賀県)では、平戸で高潮が打ち上がり海辺の田畑をはじめ各所が破壊された。長崎では紅毛船(欧州からの貿易船)の2本の錨綱が切れて対岸の稲佐浜に座礁、唐船(中国からの貿易船)3艘の内1艘も稲佐浜へ2艘は長崎湾外の伊王島馬込と船津に吹き流されて座礁、熊本藩の湾内警備船2隻が沈没し乗組員35人死亡した。出島は特に風あたりが強く、石垣が崩れて島内に浸水しオランダ館は半潰、砂糖蔵全潰。市中及び周辺では高潮と暴風雨により45人死亡、103人負傷、家屋全潰2780戸、同半潰1049軒、船・舟破損562艘、田畑の被害960町余(9.5平方km)、石垣の損壊428か所。
 長崎に隣接する肥前(長崎県)大村藩領では、大風雨の中火災も起こり、3107人死亡、1059人負傷。町家全潰3000軒、同流失186軒、同焼失202軒、同半潰1729軒、侍屋敷全潰46軒、同半潰120軒、村々の役宅全潰22軒、番所6か所全潰及び流失、寺社諸堂など61か所全潰、土蔵18か所全潰。道路損壊811間余(1.5km)、山林倒木数知れず、舟流失368艘、破損1170艘。また薩摩藩の便船40余艘が、領内西彼杵半島沖の松島周辺に吹き流され座礁し100人余が死亡。
 同国北部の佐賀本藩や有力支藩では、領内が有明海最奥部沿岸を占めているため、国内史上最高値と推定される平均海面+6.3mの高潮に襲われ、干拓地のすべてが冠水するという状況となり、田畑の被害多く、家屋倒潰による死亡者、負傷者が多数に上りほぼ壊滅状態になった。
 佐賀本藩ではこの大風雨のさなか、佐賀城下を始め各所で火災が起き、風水害も含めて8278人が死亡、8422人負傷。家屋全潰2万7043軒(寺社含む)、同流失1512軒、同焼失1677軒、同半潰1万4565軒(寺社含む)、土蔵全潰353軒、同焼失23軒、籾(もみ)置蔵全潰24軒、城内役所全潰13か所、番所全潰13か所、同半潰9か所。山崩れ8318か所、道路損壊3105間(5.6km)、橋梁流失2501か所。舟流失813艘、同破損2832艘。川土居切所(川土手決壊)1万6993間(31km)、同半崩(半壊)2万2640間(41km)、河中の蛇篭2万2330間(41km)崩壊し、田畑7071町(70平方km)が冠水。堤(石堤)2864間(5km)決壊、汐土居切所(海岸の防潮土手決壊)1万1992間(22km)、同半壊528間(1km)で、7493町(74平方km)の田畑に海水が侵入し、3765町(37平方km)が砂の下に埋もれた。その損害31万石(表高の87%)という前例を見ない大被害を負っている。また佐賀藩領の陶器の名産地有田では、17日(旧・9日)の大風の夜から翌18日(旧・10日)の夕暮れまでの間、強風にあおられて大火災が起こり、1500軒余りが焼失し多くの死亡者を出し、陶器の生産がストップした。
 さらに現在は佐賀市内となっている同藩支藩の蓮池藩領では、同年5月以来の被害も含め、大風雨と高潮により、家中の屋敷や寺院、陣屋内の武器蔵、土蔵3か所が倒潰するなど被害が続出、1720人死亡、2450人負傷。家屋全潰2700軒(寺社含む)、同流失461軒、同半潰1839軒(寺社含む)。山崩れ739か所、道路損壊296間(540m)、橋梁流失366か所。舟流失19艘、同破損43艘。石堤決壊269間(490m)、川土居(土手)決壊3068か所、同半壊1007か所、蛇篭848間(1.5km)崩壊し、田畑714町(7平方km)が冠水。海岸の汐土居1595か所が決壊し、田畑458町(4.5平方km)に海水が浸水し、同483町(4.8平方km)が砂の下に埋もれるなど過半数の田畑が荒廃した。
 そのほか佐賀藩の支藩、鹿島藩(佐賀県鹿島市)領内の被害は、54人死亡、108人負傷、家屋全潰1292軒、同半潰888軒。汐土居決壊560間(1km)、田畑(汐下)海水冠水356町(3.5平方km)。同支藩、小城(おぎ)藩(同県小城市)の被害は、230人死亡、393人負傷、家屋全潰4329軒、同半潰3765軒(推定)。
 ちなみに佐賀藩は本藩、支藩とも壊滅的な被害を負ったが、被災2年後の1830年(天保元年)家督を継いだ15歳の鍋島斉正(のちに直正、号は閑叟)は、佐賀着任後、直ちに藩財政の倹約令を出して守旧派の切り崩しを行い、その6年後、父君から実権を掌握するや果敢に財政再建と復興に着手、藩が長崎警備の任務を務めている縁もあり、改革派を側近に登用して積極的に西洋の統治制度や学問・技術を導入。復興を成し遂げるや、藩兵の洋式化と西洋文物の国産化を実行、一大軍事藩に仕立て上げるとともに、その力で薩摩藩、長州藩、土佐藩とならぶ討幕勢力として明治維新に成功、その育てた人材とともに近代日本の礎を築いている。
 その佐賀藩の東の隣国、筑後(福岡県)では、高潮により筑後川が氾濫して久留米、柳川を襲い、久留米城下では大風雨中に出火、城内が大風雨で崩壊するなど同藩領内で208人死亡、563人負傷。家屋全潰1万78軒、同焼失800軒余。同国柳川藩領では3000人余死亡、1800人負傷。家屋全潰2630軒、同流失3200軒。同国秋月藩(朝倉市)領内では6月、7月に続くこの年3回目となる風水害に襲われ復旧する間もなく大被害を受けている。
 東に隣接する豊前小倉藩(北九州市)領内でも、この夜の一方ならぬ大風雨で、小倉城天守閣などの壁や屋根、大手門など諸門の門扉、本丸・北丸内の住居、下屋敷及び勘定所、評定所、蔵番所、鉄砲方役所など主要役所が大破した。藩の米蔵、菰蔵及び役人部屋9軒、堺鼻、藍島の遠見番所及び番人宅など7か所、城下では侍屋敷、組屋敷364軒、同長屋504軒、町家318軒、武家頭・禅家・高家の土蔵や蔵3249軒、寺社175軒、穢多(部落民)の家など579軒が全潰及び半潰となった。その上倒潰した家から出火し217軒が焼失。53人死亡、107人負傷。舟流失・破損289艘の被害となっている。
 同国中津藩領(大分県)でもこの夜の大風雨で洪水となり、17人死亡、607人負傷。家屋全潰2156軒、半潰数知れず、土蔵全潰27か所、同半壊22か所、神社社殿・拝殿全潰計26か所、寺院全潰2か所、番所半潰5か所、出役所、煙硝調合所、稽古場など藩関係家屋6か所全潰。山崩れ113か所、道路損壊475か所、橋梁流失64か所、林業が盛んな領内で倒木7万591本。田畑の砂入りおおよそ156か所などの被害となった。
 豊後(大分県)臼杵藩領でも、同日の大風雨で近年にない洪水となり、8月(旧・7月)の被害も含め、2人死亡、51人負傷。家屋全潰1354軒、同流失724軒。山崩れ4371か所、道路損壊2万335間(37km)、橋梁流失、破損154か所、舟流失・破損58艘、山林倒木4964本。川土手・堤防崩壊1万7040間(31km)により田畑冠水、海水浸入など202町(2平方km)の被害を負っている。
 関門海峡を越えた長門、周防(山口県)の長州藩領でも、18日(旧・10日)になり北東の風が夜半過ぎから吹き出し、翌19日(旧・11日)七つ半過ぎ(午前5時頃)になると激しさを増し、四つ前(午前10時頃)に最も強かったという。それにより赤間ヶ関(下関市)も高潮のため町家は大破し500人余が死亡。長州藩支藩の長府藩領(下関市内)では65人死亡、200人負傷、家屋半潰412軒。長州藩本藩では、山口宰判(藩代官管轄地)で500軒余、小郡(現山口市)宰判で1500余軒、三田尻(現・防府市)宰判では2670軒の家屋が全潰、田畑の損害13万石(表高の35%)である。
 その隣国安芸広島藩内も18日(旧・10日)明け方より東南の大暴風となり、巨木を倒し、屋根瓦を飛ばし、障壁を崩した。民家のほとんどが損壊し、51人死亡、家屋全潰・流失1603軒、半潰1万2104軒。稲田の荒廃大きく、石高で12万6841石(表高の25%)の損失となった。
 これら記録によると台風は、17日(旧・9日)北九州、翌18日(旧・10日)に西中国から四国各地を荒らし廻っていたわけで、台風の進行速度としてはかなり遅く、停滞が各地に大きな被害をもたらしたと言えるのではないか。この迷惑台風は、その後やや速度を上げ、中国地方西部を横断、日本海に出て加賀、能登(石川県)、佐渡(新潟県)、出羽(山形県・秋田県)に再上陸し、奥羽(宮城県・岩手県)へ横断し各地に被害を与えて去っている。主な被害は加賀藩領(石川県)で田畑損害78万石(表高の76%)、仙台藩領(宮城県・岩手県南部)同43万石(69%)など甚大である。
 この台風によって、北九州及び中国地方西部各地の主要港湾や城下町、長崎、有田、赤間ヶ関(下関)などが大打撃を受け、主要な城郭も破壊され、記録に残っている同地方だけでも、2万人近い死亡者を出し1万9500人近くが負傷。家屋の全潰約9万軒、同流失6000軒余、同焼失約4400軒、家屋半潰5万5000軒余。山崩れ1万3541か所、道路損壊延べ2万5022間(45.5km)、橋梁流失3085か所。船舟の流失、破損など約7500艘。海岸、川の土手や石堤の決壊延べ4万9718間(90km)及び4663か所、同半壊延べ2万3168間(42km)及び1007か所により、海・川水の冠水や砂の下に埋もれるなどによる田畑の荒廃2万2841町(約227平方km)及び損失約25万7000石という空前絶後の大災害であった。
 長崎出島のオランダ商館付医師として赴任したドイツ人医師シーボルトは、在任中、日本の西洋医学のみならず洋学の発展に尽くしたとして著名だが日本研究家でもあった。彼が収集した日本地図などを荷物にしまい、長崎から帰国の途についたのが9月17日(旧8月9日)、ちょうどこの台風が来襲した時である。乗船したオランダ船も台風に遭遇して難破、長崎に引き返したが、長崎奉行によって積荷が点検され、国外持ち出し禁止の日本地図などが発見され大問題となり、シーボルトは国外追放、地図を渡した蘭学者高橋景保は獄中で死亡、関係者が処罰されるという“シーボルト事件”が起きた。この台風で難破しなければ、何ごともなく帰国出来たはずで、そこからこの台風の愛称が生まれている。
 (出典:小倉一徳編、力武常次、竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅴ章 台風・豪雨災害>2 台風・豪雨災害の事例 437頁~439頁;「子年の大風」、池田正一郎著「日本災変通志>近世・江戸時代後期>文政11年600頁~602頁:〇九日夜半」、荒川秀俊ほか編「日本高潮史料 178頁~204頁:文政十一年八月九日」、小西達男著「1828年シ-ボルト台風(子年の大風)と高潮」[追加]、磯田道史著「天災から日本史を読みなおす>第4章 災害が変えた幕末史  112頁~127頁:1.軍事大国佐賀藩を生んだシーボルト台風」[追加]、広島市編「新修広島市史>第5章 災害と社会問題>第1節 災害・飢饉の頻発>第1項 天災・地変>風水害記録 330頁:文政十一年八月十日」。参照:2019年8月の周年災害「佐賀藩医楢林宗建、わが国初の種痘の実験に成功」)

嘉永3年8月台風、北九州、中国地方瀬戸内海沿岸部が洪水・高潮災害に[改訂]
 1850年9月11日~12日(嘉永3年8月6日~7日)
 
1850年(嘉永3年)は、7月上旬(旧暦5月下旬)から10月上旬(旧・9月上旬)の3か月もの間に、北九州から東海地方にかけて4回もの暴風雨と洪水や高潮に侵されている。これは3回目の記録である。
 中でも北九州から中国地方瀬戸内海沿岸部では、この間2度の大風雨が襲来、洪水や高潮によって大災害となった。
 この9月11日(旧・8月6日)夜半からの暴風雨については、豊後杵築藩(大分県杵築市:国東半島南部、別府湾北岸)が幕府に提出した次の届書(報告書)に詳しい。
 “八月六日(新暦9月11日)より小雨。北東雲行き早く、同夜大降り、翌七日降り続き、午前過ぎより北東風強く吹き出し、未刻(午後2時)頃より風雨次第に強く、申時(午後4時頃)甚しく、追々(風向きが変わり)東南風激しく吹き募り、夜亥刻(午後10時)頃より風雨とも少々軽くなり、子時(午前0時)頃鎮まり申し候。右大風雨につき、格外の洪水、高浪高潮にて海辺の人家幷ビニ(ならびに)田畑汐込み(海水冠水)に相成る場所も有之、漁舟など陸へ打ち上げ申し候”。
 “この損害、山崩れ百二十七ヶ所、岸崩れ百四十六ヶ所、橋落ち百三十五ヶ所、川土手切れ六十一ヶ所、倒れ家七百二十三軒、半倒れ家七百五十四軒、倒れ土蔵十九軒、半倒れ土蔵二十五軒。塩浜崩れ三十ヶ所、倒れ塩焼き屋十七軒。破船三十一艘。倒木・風折れ木五万六千九百七十本程。怪我人十人”。
 また隣国筑前秋月藩(福岡県朝倉市)もこの暴風雨で、領内では家屋全潰321軒、同半潰417軒、土蔵全潰8軒、同半潰2軒、神社全潰7宇の被害となっている。
 広島藩領では7月(旧5月)の被害とあわせ、60人死亡、家屋全壊・流失4425軒、同半潰3558軒、社寺破損134ヵ所、田畑の損害29万8434石(と表高の7割)に及ぶ大災害となっている。
 (出典:池田正一郎著「日本災変通志>近世・江戸時代後期 662頁:嘉永三年〇八月六日より」、中央気象台+海洋気象台編「日本気象史料 1>第1編 暴風雨 239頁:嘉永三年八月七日 筑前、紀伊、尾張諸国 大風、洪水」、広島県編「広島県史 別編 近世資料編>Ⅴ 災害と農民戦争>1 災害と飢饉>Ⅲ.旱魃・風水害 896頁:表342 広島藩の主な風水害・旱魃等による被害状況>嘉永3.8.7」。参照:7月の周年災害・追補版(5)「嘉永3年中国地方瀬戸内海沿岸部大洪水、高潮災害」、2020年8月の周年災害「嘉永3年東海豪雨、矢作川、豊川、天竜川の堤防決壊で穀倉地帯壊滅」)

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