【目 次】

・文安から宝徳へ改元。洪水、地震、疫病による(570年前)[改訂]

・江戸町奉行、町中の橋の上、橋のたもと、街角での商売を禁じる(370年前)[再録]

・元文4年出雲、隠岐に局所的集中豪雨で風水害(280年前)[再録]

・寛延2年播磨国中心に中国地方・畿内風水害(270年前)[再録]

・文政2年近江・美濃・伊勢地方地震。琵琶湖周辺と木曽川下流域で被害大きく(200年前)[追補]

・佐賀藩医楢林宗建、わが国初の種痘の実験に成功(170年前)[再録]

・安政6年南関東一円風水害。記録本と過去帳が語る大水害(160年前)[再録]

・中央衛生会開設、国内の防疫措置について審議し方針の一本化図る-わずか13年で警察行政に(140年前)[追補]

・明治22年8月台風、十津川大水害。被災家族の大半が北海道へ移住(130年前)[再録]

・富山明治32年の大火「熊安焼」県の行政・経済の中心機関壊滅(120年前)[再録]

・横浜明治32年雲井町。そぞろ歩きで涼をとる夏の夜に開港以来の大火(120年前)[再録]

・明治32年8月台風。別子銅山山津波で潰滅、鉱毒水の流出で広範囲汚染も(120年前)[再録]

・明治42年8月台風、九州中部を席巻(110年前)[追補]

・明治42年姉川(江濃)地震、琵琶湖湖底沈下、木曽三川沿岸部で液状化。
 文久2年の地震より北に約20kmの地下深くで(110年前)[追補]

・海軍初の給油艦志自岐、遭難沈没事故(100年前)[再録]

・昭和24年台風第9号「ジュディス台風」九州南部を横断(70年前)[再録]

・昭和24年台風第10号「キティ台風」首都圏を襲う(70年前)[再録]

・松川事件(旅客列車脱線転覆事件)、労働運動を切り崩したえん罪事件(70年前)[再録]

・昭和34年台風第7号「韋駄天台風」甲信越を襲う(60年前)[改訂]

・昭和34年梅雨前線豪雨。停滞した梅雨前線による中部地方集中豪雨(60年前)[再録]

・昭和44年梅雨前線豪雨。北陸から東北へ線上降水帯の移動(50年前)[再録]

・予測される巨大地震に対する地震防災対策強化地域、初の指定(40年前)[再録]

・スカイシティ南砂、初の超高層マンション火災(30年前)[再録]

・玄倉川(くろくろがわ)キャンプ水難事故(20年前)[改訂]

【本 文】

○文安から宝徳へ改元。洪水、地震、疫病による(570年前)[改訂]
 1449年8月25日(文安6年7月28日)
 昨年の洪水、今年に起きた地震と疫病、飢饉により、改元という。
 昨年の洪水というのは、1448年8月18日(文安5年7月19日)の梅雨末期の豪雨災害であろうか、長雨の後の洪水で五条大橋や大津の瀬田大橋が落橋し、渡っていた人たちが振り落とされ死亡している。
 今年の地震というのは、5月13日午前8時ごろ(旧・4月12日辰刻)起きたマグニチュード6~6.5と推定される地震で、山城(京都府南部)、大和(奈良県)の地を揺らした。京都では仙頭御所が傾き、東寺の築地塀や南大門、神泉苑の築地塀などが倒潰するなど、京都中の寺院の堂塔や築地塀が倒潰。奈良興福寺の筑地塀も倒れ、淀大橋、桂橋の橋桁が落ちている。山間を走る若狭街道では、長坂あたりで山崩れが起き通行中の人馬が犠牲となった。
 最後の疫病と飢饉だが“卯月(新暦5月)洛中疫癘、人民多く死亡(立川寺年代記)”とあるが詳細はわからない。
 (出典:池田正一郎著「日本災変通志>中世 室町時代 283頁:文安五年、宝徳元年」、中央気象台+海洋気象台編「日本の気象史料 1>第二編 洪水 307頁:文安五年七月十九日」、宇佐美龍夫著「日本被害地震総覧>4 被害地震各論 51頁:064 山城、大和」)

江戸町奉行、町中の橋の上、橋のたもと、街角での商売を禁じる(370年前)[再録]
 1649年8月19日(慶安2年7月12日)

 この日、橋の上や街角などで物を販売することを町奉行所が禁じた。
 「覚」として次のようにある“一.町中橋之上、両橋詰(橋のたもと)ならびに辻々道中(街角)にて商売人有之に付き、往行(往来)狭(くなり)候間、堅置申間敷事(堅く置くことを禁じる)”
 この橋の上などでの商売を禁じた当時の江戸は、浅草川と呼ばれていた隅田川と江戸城に挟まれた神田から日本橋、京橋にいたる地域に市街地が広がり、江戸湾から江戸城周辺に物資を運ぶ運河や河川が縦横に整備されていた。
 当然、橋も現在より数多くあり交通の要所であったが、その幅は狭かったようだ。江戸を代表する日本橋が1618年(元和4年)に架橋されたときの幅が4間2尺5寸(7.7m)、1657年3月(明暦3年2月)の明暦の大火後、江戸の市街を広げるためと避難路として、浅草川対岸の下総国に向かって架橋された両国橋が幅4間(7.3m)というから、他の橋は主な道路でも広くても3間(5.5m)程度ではなかったのではなかろうか。
 現在でも商店街の大売り出しの時、店の前の道路に商品ケース等が出っ張り道幅が狭くなるが、当時、橋の上で商売をするとなると、少なくても幅1m程度は占拠しただろうから、ふだんでも交通の妨げになる。
 特に近くで火事が起きた場合など、火消部隊の出動や情報連絡で馬を乗り飛ばすのにもじゃまになり、もちろん避難路としても狭くなり、橋の上の商売道具に延焼し橋が焼け落ちる危険もあったのだろう。
 またこれは商売に関することではないが、同じように橋の上に物を置くことを禁じたおふれがある。これは両国橋が架橋された間もなくの1661年4月(万治4年3月)に出されたもので“火事の砌(際)、町中諸道具長持、両国橋之上ならびに橋詰に置不申候様”とある。
 当時、両国橋を大橋、隅田川を大川と呼んでいたが、火事の際、大橋は大川の上だし広いしと、持ち出した道具類を延焼から守るために置いたのであろうが、いくら広いといっても、火事で避難するどさくさである、多分、橋の上に散乱して置かれたに相違ない。これでは通れる幅が狭くじぐざぐになり、せっかく火事の時の避難路として架橋した両国橋ではあるが、意味がなくなる。
 実はこのお触れの出た2か月前、神田元鷹匠町(小川町)で大火が起きている。その時、そのような事態が起きたのかも知れない。いずれにしても、これはまずいということで禁止となったのであろう。
 ちなみに、橋の上やたもとでの商売禁止のお触れは、なかなか徹底せず、寛文元年には9月(新暦・1661年11月)、11月(新・1662年1月)と、同主旨のお触れが立て続けに出されている。
 慶安2年(1649年)の時には、禁止されたのは商売人のほか乞食(物乞い)があったが、寛文元年の時は、商人のほか、算置(占い師)、願人(願人坊主:大道芸人)、行人(托鉢僧)までも禁止された。また場所としては橋の上や橋のたもとだけでなく、今で言えば商店街の入口にあたる町中の木戸の際も禁じられた。これは現在でもそのような所によく占い師や托鉢僧がいるので、彼らが目指す場所は古今同じなのだろう。
 なお、人通りということで言えば、道路際へ商売物を出して置く事も寛文元年の時禁じられている。これは現在でも同じ迷惑な事なのだ。
 (出典:東京都編「東京市史稿 産業編 第四 850頁~851頁:橋上橋畔並途上商人禁止」、同編「東京市史稿 産業編 第五 833頁~834頁:両国橋上橋詰火災時心得」、同編「東京市史稿 産業編 第五 896頁~897頁:道路橋上等商人並商品置事禁止」、同編「東京市史稿 産業編 第五 907頁~908頁:橋上橋台左右諸商禁止」、東京大学史料編纂所>所蔵史料目録データベース>東京都編「東京市史稿>No1.>橋梁編 第一 99頁:日本橋架橋」、同編「東京市史稿>No1.>橋梁編 第一 166頁~174頁:両国橋創架」。参照:2月の周年災害・追補版(1)「江戸神田万治四年元鷹匠町(小川町)の大火」)

○元文4年出雲、隠岐地方に局所的集中豪雨で風水害(280年前)[再録]
 1739年8月9日~10日(元文4年7月5日~6日)
 連日、出雲、隠岐地方(島根県)が、今でいうゲリラ豪雨か、局所的な集中豪雨に見舞われ大洪水となった。
 出雲では堤防大小2万7500余か所が決壊、波よけの石垣3500余か所、水柵4700余か所が破られて、倒潰した民家2123戸、神祠3戸、仏堂46戸。船舶の破損大小64艘。5人が死亡し、松江藩表高18万6000石の約四分の一の4万7370余石の田に損害が出た。
 隠岐の島では民家47戸が倒潰、7戸が流失した。破損および流失した船舶大小49艘、田の損害733石。
 この松江藩を揺るがした大水害については、同藩第六代藩主・松平宗衍(むねのぶ)公の事績を記した「天隆公年譜」に記述があり、それを原本として同藩の儒学者桃節山(好裕)が表した、藩領の出雲地方の歴史「出雲私史」に転写されている。
 (出典:島根県歴史大年表編集委員会編「島根県歴史大年表>江戸時代 320頁:元文4年」、桃好裕著「出雲私史269頁:元文三・四年」、小倉一徳編、力武常次、竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歷史>2 近世の災害>江戸時代の主要災害一覧 93頁:出雲国大風雨」)

○寛延2年、播磨国中心に中国地方・畿内風水害(270年前)[再録]
 1749年8月14日(寛延2年7月2日)
 瀬戸内海沿岸の備中、備前(岡山県)、播磨(兵庫県)から日本海側の但馬(兵庫県)、丹後(京都府)、京都から江戸(東京)にいたる各地がそれぞれ大風雨に襲われた。
 特に播磨国の被害が大きく、姫路城下では大洪水となり、1000人余死亡、姫路城の城門、塀、石垣などが崩れて流失し、被害地域全体で3000人余が死亡したという。
 (出典:小倉一徳編、力武常次、竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歷史>2 近世の災害>江戸時代の主要災害一覧 94頁~95頁:山陽・畿内大風雨」、池田正一郎著「日本災変通志>近世 江戸時代前期>寛延二年 496頁」)

○文政2年近江・美濃・伊勢地方地震琵琶湖周辺と木曽川下流域で被害大きく(200年前)[追補]
 1819年8月2日(文政2年6月12日)

 近江(滋賀県)から美濃(岐阜県)、伊勢(三重県)に至る本州のくびれ部分がマグニチュード7の大地震に襲われた。震源地は鈴鹿山地の西側付近と推定される内陸型地震である。
 特に琵琶湖周辺と木曽川下流域で被害が大きく、近江八幡(滋賀県)で家屋倒潰107戸、半潰131戸、5人死亡。琵琶湖西岸の大溝(高島市)では町家で損潰しなかった建物はなかったという。東岸の甘呂(彦根市)では105戸中70戸余が倒潰、南岸の膳所(大津市)では家屋倒潰50戸、90人死亡。
 揖斐川東岸の金廻(岐阜県海津市)で海寿寺(皆受寺か?)が倒潰して70人が圧死、西岸の香取(桑名市)で40戸が全潰している。各地の城郭では彦根城の石垣6カ所70間(127m)崩壊、近江水口城、美濃大垣城、尾張犬山城が小破、伊勢桑名では城の内外が破損、同じく神戸城(鈴鹿市)で櫓の壁が落ち、塀などが破損している。震源地から離れた地域では、大和郡山で被害が大きく家屋倒潰34戸、同半潰115戸、蔵の倒潰3、同半潰17などの被害が出た。死亡者は詳細が不明だが、近江八幡、膳所と金廻だけで160人以上という。
 (出典:宇佐美龍夫著「日本被害地震総覧>4 被害地震各論 134頁:229 伊勢、美濃、近江」、小倉一徳編、力武常次、竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歷史>2 近世の災害>江戸時代の主要災害一覧 103頁:伊勢・美濃・近江国地震」)

佐賀藩医楢林宗建、わが国初の種痘(世界初の感染症予防ワクチン)接種実験に成功(170年前)[改訂]
 1849年8月17日(寛永2年6月29日)
 天然痘(疱瘡:ほうそう)は、6世紀半ば以降、中国、朝鮮半島との交流が深まるにつれ日本に広まり、737年(天平9年)と995年(長徳元年)の大流行では、最高権力者までも感染し時の政権が瓦解している。
 天然痘は、流行性感冒(咳逆:インフルエンザ863年~)、麻疹(はしか998年~)などとともに、その後約1000年もの間、流行を繰り返し、国民病的な感染症として日本の貴賤を問わず多くの人達を苦しめてきたが、ユーラシア大陸の反対側イギリスから世界初となる感染症予防法がもたらされた。ジェンナーが完成させた世界初の“ワクチン”による感染症予防法である。
 ジェンナーは、乳しぼりの女性達が牛の乳房にできた水ぶくれ(水疱)に触れると、命は落とさないが、手に水ぶくれのできる天然痘によく似た病気(牛痘)に罹るがその後天然痘には罹っていないこと、また当時流行していた馬由来の皮膚疾患(馬痘)と牛痘との関係など18年間もかけて調査研究し、この牛痘の手にできる水ぶくれ内の液体をヒトに接種すれば、天然痘に罹らなくなる(免疫)のではないかと考え、1796年5月ついに使用人の子である少年に接種、軽い副反応を起こしただけで済んだので、6週間後いよいよ天然痘患者の膿庖から採取した液体を少年に接種(人痘接種)したが、感染することなく成功裡に終わることが出来た。ジェンナーはこの成果とその後の研究内容について1797年から1801年にかけて発表、この天然痘予防法は“牛痘接種法”として世界中に広まった。
 我が国にこの“種痘”による予防法が伝えられたのは、早くも1803年(享和3年)長崎出島のオランダ商館においてだが、書籍で知らされたのは1841年(天保11年)で、清(現・中国)の漢訳本からであったという。ところが仕組みはわかっても肝心なワクチン(痘苗)が入手できなければ施術はできない。そしてようやく1849年、当時オランダ領であったバタビア(現・インドネシア・ジャカルタ)からまだ生きている痘苗がオランダ商館に届いた。
 この日、シーボルトに学んだ佐賀藩(肥前藩;佐賀県)のオランダ医者・楢林宗建は、ジェンナーが開発した“予防接種法”によって、我が子に痘苗(ワクチン)を接種する“種痘”の実験を行い成功した。
 実験成功後、楢林は藩主の鍋島直正に接種し成功、続いて直正は我が子の淳一郎と娘の貴姫にも接種させた。また楢林は藩医の子どもたちにも接種し成功を収めている。
 同藩ではこれまで、海外から痘苗を輸入し研究を進めていたが、苗が古くウイルスが死滅していて成功には至らなかったという。しかし今回は、長崎のオランダ商館の医師に赴任したモーニケの協力によって、バタビアからの良質の痘苗を手に入れることが出来たのである。
 さらにこの種痘法は、伊東玄朴、緒方洪庵らによって各地に伝えられ、9年後の1858年6月(安政5年5月)には幕府の許可を得て江戸神田お玉が池に種痘所を開設(東京大学医学部の前身)、種痘は普及し、天然痘は急激に抑制されていくことになる。
 (出典:日本全史編集委員会編「日本全史>江戸時代>1849(寛永2) 865頁:楢林宗建が種痘の実験に成功、オランダ商館医も協力」、日本BD編「天然痘ワクチンの開発者 エドワード・ジェンナー」[追加]、加藤茂孝著「人類と感染症との闘い・第2回・天然痘の根絶-人類初の勝利>Ⅻ.ジェンナーの贈り物」[追加]。参照:2015年6月の周年災害〈上巻〉「天然痘、国内初、大陸から北九州に侵入」[追加]、2月の周年災害・追補版(1)「インフルエンザ3年越しの大流行起こり、初めて公式な史書に記録される」[追加]、2018年7月の周年災害「長徳4年赤疱瘡(麻疹:はしか)歴史上最初の大流行」[追加]、2008年6月の周年災害「伊東玄朴ら江戸神田お玉が池に種痘所を開設」)

○安政6年南関東一円風水害。記録本と過去帳が語る大水害(160年前)[再録]
 1859年8月22日~23日(安政6年7月24日~25日)
 嘉永年間(1848年~1853年)から明治にかけて幕末を中心とした記録本「嘉明年間録」がこの水害を記録している。
 “七月廿四日の夜より翌廿五日に至るまで、大風雨。利根川、荒川満水。利根川の堤は武州忍領北河原村(埼玉県行田市)にて決壊すること凡そ百五十間(約270m)、荒川堤は同領久下村(熊谷市と鴻巣市)にておなじく五か所、長さ合わせて三百十七間(約580m)、その他数か所、(中略)水一時に溢れて、夕七つ時頃(午後4時ごろ)より田畑冠水、水の高さ八、九尺余(2.5~3m)、水上の村々より水一円に押し来たり、床上四、五尺(1.2~1.5m)、五、六尺(1.5~1.8m)の浸水。(中略)忍領から葛西(東京東部の荒川下流一帯)に至る間、人馬家財などの流失数えきれず。(中略)堤切れ口より砂石押し入り、田畑損亡多く、荒川溢水、中山道往来絶ゆ”
 また相模(神奈川県)の河川も相模川などが氾らんした。同川の沿岸にある明窓寺(海老名市、東名高速海老名ジャンクション近く)過去帳に“廿五日八ツ時、前代未聞ノ大水、川上所々堤押切、東、河内筋、梁ケタ(はりの長さ)三間(約5.5m)八間(約15m)位ノ家、数々流レ来ル(中略)川筋、死人、家、材木多ク流レ来ル。村内何連(いずれ)も床へ水上ル”
 江戸の荒川沿岸も相模川沿岸も多くの家が床上浸水の被害を出し、相模川沿岸では、はりの長さ、間口と奥行きが5.5mと15mもあるような大きな家も水に流され田畑が冠水した。この時、暴風雨に見舞われたのは関東から東北にかけてで、江戸や相模川沿岸だけでなく、桐生や足利方面も大洪水となり、多数の死亡者が出たという。
 (出典:池田正一郎著「日本災変通志>近世 江戸時代後期>安政六年 697頁~698頁」、小倉一徳編、力武常次、竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歷史>2 近世の災害>江戸時代の主要災害一覧 112頁:関東地方大風雨」)

中央衛生会開設、中央・地方が連携し人民に直接関与する衛生行政確立するも-わずか13年で警察管轄に
 (140年前)[追補]
 1879年(明治12年)8月16日
 
明治政府において近代的衛生行政(保健及び医薬行政)を確立した長与専齊は、1895年(明治28年)当時、臨時検疫局長であったが、地方長官(現・都道府県知事)会議において、当の医薬行政機構が大きく変化した事情について次のように述べている。
 “明治8年(1875年)衛生局設立の翌年に医務取締(担当官名)を置きましたが、創設期のことでもあり(中略)特に著しい効果も見えませぬうちに、明治10年(1877年)のコレラ流行によって衛生の事務がにわかに膨張し、少しは衛生の必要を社会が感ずるようになりました。明治12年には中央に衛生会を置き、地方に衛生課および地方衛生会を設け、その時には医務取締の名称を衛生委員と改めました。(中略)時々衛生課長を本省に招集して会議を開き、また連合府県衛生会をもって一年に一度、もより十数府県の衛生課長または課員を便宜の地方に集め、また衛生局からも出張して衛生行政の事務につき相談会議を開き、その結果を各自その県に持ち帰り、郷村の衛生委員に伝え、漸次習熟させる等衛生行政を育成するために力を尽くして来ました。”ところが“この目的は他の種々の事情のために妨害され、明治18年(1885年)に衛生委員が廃止され、人民に直接関与する衛生行政機関は皆無となり、地方連合会も中止となって課員の研修の道も絶えました。”
 長与は、全国的な衛生行政機構の誕生と、それが中央と地方とが連携し情報を共有して人民(国民)に直接関与していた事を述べているが、その活動が妨害された「種々の事情」については明らかにしていない。言えない状況であったのだろう。
 中央衛生会が発足した1879年(明治12年)以降は、近代日本の礎となる憲法制定、国会開設、内閣制度の発足をめぐって国民世論の高まりを見せ、明治維新の功労者である薩摩(鹿児島県)、長州(山口県)各藩出身者を中心とした政府側(藩閥政権)に対し、そこからはじき出された土佐(高知県)、肥前(佐賀県)各藩の出身者達が自由民権(自由と民主主義)をかかげ一般民衆の側に立つなど、両者の政治闘争が高まりを見せ、衛生行政面でも一時的に中央と地方が連携する体制つくられた。しかしその後、急速に政権側の反撃が強まり、1882年(明治15年)4月、自由党総理板垣退助(土佐藩出身)が襲撃され、11月には福島事件で自由民権の活動家が一斉逮捕されている。1884年(明治17年)11月、農民を中心とした秩父困民党の一斉蜂起が自由民権活動の最後の抵抗と言えよう。この政権側の反撃が長与の言う「種々の事情」として衛生行政面にも反映し、人民と直接関与していた衛生行政も終わりを迎える。長与が地方長官達に語った1895年(明治28年)は、藩閥政権による近代日本最初の対外戦争・日清戦争(現・中国との対戦)の最中である。「種々の事情」を明らかにすることはできなかったが、強く力説したのは、中央と地方が連携して人民に対して直接関与し、そこで担当部門が研修し育成される行政のあり方と必要性だった。
 長与は続けて、明治18年(1885年)以降の状況についても述べている。“遂に一昨年(明治25年)行政整理の結果、府県の衛生課も廃止となり、地方衛生の行政機関)は全く打ち壊されてしまって、公衆衛生の事務は一切警察官吏に一任されました(中略)公衆衛生の全部を挙げて警察に委ねるようなことは世界にも比類のないことであります(中略)今は内務省衛生局は手足をもがれて空中に逆さに吊るされているような有様で”と言う。
 当時、すべての行政が戦争遂行のため中央集権化し、上意下達の機関と化し、人民に直接関与する行政などは望むことはできなかった。明治時代から1945年(昭和20年)太平洋戦争に敗戦するまでの警察は、完全に政権の国民管理監視機関として働いており、国民個人個人の生活を健康なものにする衛生行政から、国民の健康を国のために管理する行政へと変化させるには適任であった。
 ちなみに1938年(昭和13年)1月、衛生行政を専門に管轄する厚生省(現・厚生労働省)が内務省から分離独立するが、それを強く提唱したのは陸軍大臣であり、戦力の保持強化のため健康な国民が必要だったからに他ならない。
 (出典:山本俊一著「日本コレラ史>Ⅱ 防疫編>第2章 組織>第1節 中央衛生行政 356頁~358頁:(a)発展。第4節 衛生会 390頁:(a)中央衛生会」、日本全史編集委員会編「日本全史>明治時代>1880(明治13)935頁:国会開設の上願書提出、盛り上がる全国の民権運動。1882年(明治15)939頁:“自由は死せず”板垣、暴漢に襲われる」、福島事件pこる、県令、自由民権運動に鋭く対立)。1884年(明治17年)942頁:秩父困民党が一斉に蜂起!」。参照:2018年1月の周年災害「厚生省、軍部の強い提唱で内務省から分離独立」)

○明治22年8月台風、十津川大水害。被災家族の大半が北海道へ移住(130年前)[再録]
 1889年(明治22年)8月18日~21日
 18日から19日朝までに四国南海上に到達していた台風は、19日から20日には時速10~15kmの速度でゆっくり北上した。
 19日午前12時ごろ、高知市付近に上陸、午後6時ごろ岡山県に再上陸し、20日午前6時に鳥取沖に抜けた。その後日本海を北東に進み、21日午前6時には函館付近に到達している。
 この台風により、紀伊半島山間部を中心に推定130mm/時間の記録的な豪雨に見舞われ、四国地方から近畿、中部、関東にかけての各地で風水害が発生した。特に和歌山県では各河川が氾らんし、紀伊半島南西部を中心に家屋の流失と倒壊が続出、紀ノ川の氾らんによって和歌山市内とその周辺の家屋が多数浸水、同県下の死者は1221人にのぼった。
 奈良県では最南部の十津川(とつかわ)流域において、19日~21日にかけて記録的な豪雨に襲われた。1107か所の大規模な山崩れと地滑りを生じ、河川に落ちた無数の土砂によって河道はふさがれ、大海のような53の自然ダムが生じた。
 しかし、降り続く激しい雨によって、自然ダムの水かさはどんどん増えてやがて崩壊、以前より力を増した濁流が十津川郷を襲った。同郷では全体の4分の1に達する610戸の家が完全に流失、倒壊し、死者168人を出した。被災地全体では1496人の死亡者を出している。
 十津川村ではその後、被災家族の大半、640戸、2668人が北海道に移住、翌1890年1月、新十津川村(現・町)となり現在に至っている。
 (出典:宮澤清治+日外アソシエーツ編「台風・気象災害全史>第1部 大災害の系譜 40頁~41頁:十津川大水害」、小倉一徳編、力武常次、竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歷史>2 明治・大正時代の災害>明治時代の主要災害一覧127頁:四国・近畿地方風水害」)

富山明治32年の大火「熊安焼」県の行政・経済の中心機関壊滅(120年前)[再録]
 1899年(明治32年)8月12日
 午前0時半ごろ、中野新町の石油卸小売商桑田安左衛門方から出火した。
 折からの猛烈な南風にあおられて炎は富山市の中心街をなめ尽くし、同市全域の40%余を焼失した。富山県庁、市役所、病院1、銀行2、高等小学校1、小学校3、日枝神社、本願寺東西別院など主な建物が焼失、家屋全焼4697戸、同半焼9戸、消火のための潰家36戸、焼失土蔵83棟となった。
 特に市の中心部の地が大半焼失したため、市内は荒野のようになり、富山県の行政、経済の中心機関が潰滅したので、行政は滞り、市の発展を阻んだ。富山県庁は旧城内総曲輪内の焼け残った師範学校内に仮庁舎を開設した。
 大火による焼失家屋の面積は、12万6000坪(0.4平方km)、焼失区域は31万868坪(1.03平方km)と、全市の面積75万6557坪(2.5平方km)の実に41%にも達した。
 (出典:富山市編「富山市史>明治時代>富山県時代>市制施行時代 92頁:明治三十二年八月十二日」)

横浜明治32年雲井町の大火。そぞろ歩きで涼をとる夏の夜に開港以来の大火(120年前)[再録]
 1899年(明治32年)8月12日~13日
 午後8時30分、寝苦しい夜、寝もやらず繁華街のそぞろ歩きで涼をとっていたころ、繁華街の伊勢佐木通り南西部の雲井町1丁目5番地・湯屋勝盛館裏、路地を隔てた物置と隣家の間に、湯屋の煙突からの飛び火が落ち出火した。
 炎はすぐさま立ち上がり、日中からの南西の強風にあおられて、見る見るうちに足曳町、曙町、賑町、久方町、伊勢佐木通、若竹町、姿見町の両側など、横浜の繁華街を次々と北東の方へと延焼した。もう一方の炎は火元から松ヶ枝町、若葉町、羽衣町を焼き尽くし、二つとも南西の追い風を受けて吉田橋の方向にある吉田町、福富町へと火勢を扇形に拡げて延びていった。
 吉田川に沿う河岸一帯は火の海と化し、ついに炎は伊勢佐木警察署も焼き払い、吉田橋から柳町へと延焼した。風下にある湊町、尾上町、真砂町など関内一帯は、大岡川を隔てていたが、飛び火が雨のように降り注ぎ、余炎は長者町九丁目までおよんだ。7時間焼き続けて翌朝13日午前2時ようやく鎮火。
 出火当時、市民は店をのぞきながらぶらぶらと夕涼みを楽しんでいたので、通りは逃げまどう人で混雑を極め、風下の吉田町方面へ運び出した家財などもたちまち一塊の炎と化し、そのうえ前月来一滴の雨も降らず、街は乾燥しきっており、風も激しかったので、あっという間もなかった。
 わが国で初めて施設した自慢の消火栓も水道が断水して使えず、川水から給水可能の蒸気消防ポンプも僅か3台しかなく、野毛山貯水池の栓口を開いて送水したが、時すでに遅かった。
 被災戸数実に3173戸、内半焼は僅か49戸で他はすべて全焼。14人死亡。主な焼失建物、伊勢佐木警察署ほか銀行2、郵便局1、学校3、寺院3、神社1、教会など25、寄席8、勧工場(マーケット)4、劇場5、見せ物小屋3、繁華街らしい被害だ。
 (出典:横浜市消防局編「炎・横浜消防二十年史>災害の暦 74頁:横浜開港以来の大火」、横浜気象台編「神奈川県自然災害史>第2編 神奈川県の主な災害 250頁:大火 明治38年8月12日」)

○明治32年8月台風。別子銅山山津波で潰滅、鉱毒水の流出で広範囲汚染も(120年前)[再録]
 1899年(明治32年)8月28日
 28日朝、奄美大島東の海上に達した台風は、進路を北から北東に転じ、宮崎市の沖を経て足摺岬付近に上陸した。
 その後、四国地方を斜めに横切り、28日午後8時ごろ別子銅山を直撃、時速95kmの猛スピードで香川県多度津から岡山付近を通り日本海に抜けた。多度津測候所では最大風速26.3m/秒を記録している。
 中でも別子銅山のある別子山村では、28日の雨量が1日で416.7mmを記録し、同日夜には銅山を含む随所で山津波(山体崩壊による土石流)が起こり、地すべりに乗って多数の家屋が住民もろとも豪雨で増水していた銅山川に押し流された。“午後八時から九時ごろ、一天にわかに黒雲が空をおおい、猛烈な大風雨が襲ってきた。この時、異様な音がしたので、見ると家屋、人畜が幾百尺の渓谷に飛散し、上から岩石や土砂がこれを埋めて、たちまち修羅場となった(東京朝日新聞9月6日付け)”、1879年(明治12年)に建設した大溶鉱炉が倒潰したのをはじめ諸施設の損傷も激しく、銅山の機能は完全に失われた。その上、収銅所に溜めていた大量の鉱毒水が流出、周辺地域を広範囲に汚染させたのである。
 東京朝日新聞社の報道によると、愛媛、香川、高知、徳島、岡山、兵庫6県の被害合計は1218人死亡、3672人負傷。家屋全潰・流失2万530戸。中でも愛媛県の死亡者662人、内別子銅山513人。同負傷者1968人、内銅山28人。家屋全潰・流失2064戸、内銅山122戸を数えた。また香川県の被害も大きく、340人死亡、971人負傷。家屋全潰1万766戸となっている。
 (出典:宮澤清治著「近代消防連載・気象災害史127・台風、二大銅山を襲う(2)」、宮澤清治+日外アソシエーツ編集部編「台風・気象災害全史>第Ⅰ部 大災害の系譜 44頁~45頁:CASE05 別子銅山を直撃した台風」、小倉一徳編、力武常次、竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅴ章 台風・豪雨災害>2 台風・豪雨災害事例 445頁~447頁:別子銅山の台風災害」)

○明治42年8月台風、九州中部を席巻(110年前)[追補]
 1909年(明治42年)8月5日~6日
 8月3日、小笠原諸島南東方海上に発生した台風は、発達しながら北西に進み8月5日紀州沖を通過、翌6日九州中部を横断し五島列島付近から翌7日には済州島南方を経て、8日黄海を渡り9日中国大陸に上陸、10日には南京北方付近で消滅した。
 これにより、四国沿岸部、九州地方が暴風雨に襲われ多大な被害を与えた。特に土佐沖に出漁中のサンゴ採取船数十隻が暴風雨のため行方不明となり、宮崎県では、家屋破壊・流失99戸、同半潰84戸、同浸水511戸、田畑浸水270町(2.7平方km)余、12人死亡、同県沿岸に漂着した漁船26隻、同遺体88体。
 大分県では、河川が氾らんして洪水となり農作物に多大な被害が出た。家屋全潰398戸、同流失32戸、同半潰231戸、同破損3692戸、同床上浸水487戸、床下浸水1158戸、船舶流失22隻、同破損167隻、山崩れ152カ所。9人死亡、2人行方不明、28人負傷。そのほかの県下の被害状況は不明。
 (出典:中央気象台編「気象要覧 明治41年・42年>明治42年8月 8頁~13頁:暴風雨」、小倉一徳編、力武常次、竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歷史>3 明治・大正時代の災害>明治時代の主要災害 140頁:九州・四国地方風水害)

○明治42年姉川(江濃)地震、琵琶湖湖底沈下、木曽三川沿岸部で液状化。
 文久2年の地震より北に約20kmの地下深くで(110年前)[追補]
 1909年(明治42年)8月14日
 15時31分、滋賀県東部の姉川流域を震源とするマグニチュード6.8の地震が発生、被害は滋賀県東部から岐阜県南部に及んだ。 
 特に滋賀県虎姫村(長浜市)では、全戸数991戸のうち全潰284戸、同半潰518戸と81%が破壊され、寺院の本堂や鐘楼が転倒せず移動するという現象が起きている。同村の死亡者16人、負傷者1261人。また姉川河口付近の土地が陥没し、湖底が東西360m、南北540mに渡り45mから60mの深さになったという。
 岐阜県では県境の伊吹山などの山間部で山崩れが多発、特に春日村(揖斐川町)では70カ所計50町(0.5平方km)に及んだ。また木曽川、揖斐川、長良川流域の稲葉郡(岐阜市、各務原市と周辺)で2230カ所、羽島郡(羽島市と周辺)で1328カ所、安八郡(大垣市と周辺)で3134カ所、液状化による噴水現象がおきている。
 滋賀・岐阜両県の被害合計、家屋全潰978戸、同半潰2444戸。41人死亡、133人重傷、651人軽傷。
 ちなみに1819年8月2日(文政2年6月12日)に発生した上記「文政2年近江・美濃・伊勢地方地震」と姉川地震とは、その震央の経度は東経136.3度と全く同じで、南北の緯度が35.2度(文久2年)と35.4度(姉川)とわずか北に0.2度ずれているだけである。緯度1度の距離は東経35~36度の地点では約111kmとあり、姉川地震の場合、震央が約20km文久2年の地震の時より北にあったことになる。同じ内陸断層帯のずれによる地震と思われる。またそれが90年後、同じ8月に発生するとは奇跡的といえる。
 (出典:宇佐美龍夫著「日本被害地震総覧>4 被害地震各論 258頁~260頁:376 滋賀県姉川付近」、小倉一徳編、力武常次、竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歷史>3 明治・大正時代」の災害>明治時代の主要災害 140頁:滋賀・岐阜県地方地震)

○海軍初の給油艦志自岐、遭難沈没事故(100年前)[再録]
 1919年(大正8年)8月15日
 ボルネオ島タランカン港から佐世保港へ重油を輸送中の給油艦・志自岐が、台湾沖から台風に巻き込まれ、鹿児島県種子島南方海上で強烈な暴風雨に遭遇、源三郎礁付近で座礁し沈没した。
 志自岐は、1920年(大正9年)度から27年(同16年)度の8年間を実施期間とした、大日本帝国海軍の戦力増強計画で、大量の燃料用重油が必要になることが予測されたので、従来重油輸送を民間の給油艦(タンカー)に委託していたのを、海軍が初の自前で建造することになり、呉工廠に発注していたもの。16年(同5年)竣工し佐世保鎮守府に所属していた。
 この遭難により、乗組員15人死亡、93人行方不明、7人が生存帰還した。
 (出典:近代世界艦船事典「志自岐級給油船」)

○昭和24年台風第9号「ジュディス台風」九州南部を横断(70年前)[再録]
 1949年(昭和24年)8月13日~18日
 南西諸島東の海上を北北東に進んでいた台風は、発達しながら次第に北から北北西に向きを変え、8月15日午後9時ごろ鹿児島県志布志湾に上陸した。
 翌16日3時ごろ、八代海へ抜けて長崎県西方海上へ進み、17日には対馬の西で停滞、18日になりようやく東に進みはじめ、19日福井県若狭湾付近で消滅した。
 その結果、佐賀県で期間降水量が493.9mmに達するなど、九州で200~400mmの大雨が降り、鹿児島県、佐賀県など九州各地及び高知、山口各県で被害が発生した。
 特に鹿児島県霧島町では期間雨量が865mmに達し、温泉旅館街が大きな被害を受けるなど被害が相次いだ。被災地全体では154人死亡、25人行方不明、213人負傷。住家全壊569棟、同半壊1966棟、同床上浸水3万3680棟、同床下浸水6万8414棟。田畑の被害1019平方km、船舶被害124隻。
 (出典:気象庁編「災害をもたらした気象事例>ジュディス台風」小倉一徳編、力武常次、竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歷史>5 昭和時代中期の主要災害一覧 195頁:ジュディス台風」)

○昭和24年台風第10号「キティ台風」首都圏を襲う(70年前)[再録]
 1949年(昭和24年)8月31日~9月1日
 ジュディ嬢が去ったと思ったら、次にキティがやってきた。
 キティは8月25日南鳥島近海で誕生、31日10時ごろ八丈島を通過、進路を北寄りに変え、午後7時過ぎ神奈川県小田原市の西に上陸した。
 その後、東京西部、埼玉県熊谷市付近を通って、9月1日午前0時ごろ、新潟県柏崎市付近から日本海に進んで温帯性低気圧となった。
 この台風により、最大瞬間風速が八丈島で47.2m/秒、横浜で44.3m/秒を観測するなど、東海から関東、北日本の日本海側にかけて暴風雨となった。山岳部で降水量が多く小河川が氾らんし、群馬県東村沢入(あずまむらそうり:みどり市)では土砂崩れにより32名が生き埋めとなった。
 また台風の通過時刻と満潮が重なったため、関東地方では高潮となり、横浜港では港内に停泊中の大小の船舶約90隻の内、40隻余りが沈没、座礁または衝突し、その内26隻が沈没するなど、開港以来の大災害となった。
 東京の江東、荒川、葛飾、江戸川各区では1917年(大正6年)以来の高潮に襲われるなど、浸水や船舶の被害が相次いだ。また台風に伴う潮風が相模平野の奥深くまで入り込み、塩害が生じ、農作物や果樹類に多大な損害を与えている。
 この台風による被災地全体の被害は、135人死亡、25人行方不明、479人負傷。住家全壊・流失3733棟、同半壊1万3470棟、同床上浸水5万1899棟、同床下浸水9万2161棟。船舶の沈没、破損4041隻。
 (出典:気象庁編「災害をもたらした気象事例>キティ台風」、小倉一徳編、力武常次、竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅴ章 台風・豪雨災害>2 台風・豪雨災害事例 479頁~480頁:キティ台風」、宮澤清治+日外アソシエーツ編集部編「台風・気象災害全史>第Ⅰ部 大災害の系譜 70頁~71頁:CASE18 キティ台風」)

○松川事件(旅客列車脱線転覆事件)、労働運動を切り崩したえん罪事件(70年前)[再録]
 1949年(昭和25年)8月17日
 午前3時9分ごろ、国鉄(現・JR)東北本線松川駅(福島市)近くで上り旅客列車が転覆、乗員3人が死亡した。
 事故現場ではレールの犬釘が抜かれておりそれが転覆の原因と判明した。翌18日、自由民主党吉田内閣の官房長官増田甲子七は、集団組織による計画的妨害行為と発表、警察も同じ判断に立ち、翌9月、当時、人員整理に反対していた国鉄労働組合福島支部と、企業再建整備反対闘争を展開中の東芝松川工場労働組合の組合員で、共産党員を含む20名を逮捕した。
 裁判では翌1950年12月の第一審で死刑を含む全員有罪とされたが、次第に警察・検察側が政府発表にあわせ、共産党員による犯行とする予断を持ったえん罪事件との疑いが強くなり、作家弘津和郎も含めた民衆の裁判批判運動が起き、1963年9月、最高裁判所は検察側の上告を棄却、全員無罪が確定している。
 しかし三鷹事件も松川事件も、裁判で被告の無罪は確定したが、その間、国鉄労働組合をはじめとした労働運動は下火となり、政府、経営者に有利な結果となった。前月起きた下山事件も含め計画的・組織的犯行性が強い点から、朝鮮戦争(1950年6月~1953年7月)を前にした占領アメリカ軍による謀略説がある(松本清張著「日本の黒い霧」)。
 (出典:日本全史編集委員会編「日本全史>昭和時代 1097頁:福島県で列車転覆…松川事件。労働運動への圧力強まる」、昭和史研究会編「昭和史事典>1949(昭和24)年 408頁;松川事件」。参照:2019年7月の周年災害「三鷹事件(駅構内列車暴走事件)、共同謀議の犯行か、電車自走事故か?アメリカによる謀略か?」[改訂])

○昭和34年台風第7号「韋駄天台風」甲信越を襲う(60年前)[改訂]
 1959年(昭和34年)8月12日~14日
 8月12日9時に硫黄島の南東海上で発生した台風は、発達しながら速い速度で北上した。
 14日6時半ごろ静岡県の駿河湾から富士川河口付近に上陸、甲信越地方を横断して10時には新潟県上越市付近を通り日本海へ入り、15日には弱い熱帯性低気圧に衰え沿海州へ入った。
 この台風は範囲が狭かったが中心付近の風が非常に強く、甲府で最大瞬間風速43.2m/秒、石廊崎で64.0m/秒を観測した。また南海上に停滞していた梅雨前線が台風の接近で刺激され、近畿から関東地方にかけて期間総雨量200mmを超える大雨が降り、山間部での雨量は同じく600~800mmに達し、河川の氾らんや山崩れなどが各地で発生、続いた台風7号による暴風の影響で、山梨県や長野県で家屋の倒壊や果樹の落下被害が相次いだ。
 被災地全体の被害は、188人死亡、47人行方不明、1528人負傷。住家全壊3322棟、同流失767棟、同半壊1万139棟、同床上浸水3万2298棟、同床下浸水11万6309棟など。
 (出典:気象庁「災害をもたらした気象事例>台風第7号」、小倉一徳編、力武常次、竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歷史>5 昭和時代中期の主要災害一覧 212頁:関東・東海・近畿地方水害」、宮澤清治+日外アソシエーツ編集部編「台風・気象災害全史>第Ⅱ部 気象災害一覧 247頁:0946 台風7号(韋駄天台風)」)

昭和34年梅雨前線豪雨。停滞した梅雨前線による中部地方集中豪雨(60年前)[再録]
 1859年(昭和34年)8月25日~26日
 25日夜半から翌26日夕方にかけて、石川県奥能登地方、富山、岐阜両県、静岡県中西部を中心に、停滞した梅雨前線の影響による大雨が降った。
 雨量は静岡県島田市で5~6時間で320mm、石川、岐阜両県では両日で200mmを記録した。このため石川県輪島市、門前町(輪島市)、穴水町、能登町で住民37人が死亡・行方不明になるなど被災地全体で、47人死亡、4人行方不明、712人負傷。住家全壊190棟、同流失186棟、同半壊804棟、同床上浸水1万3123棟、同床下浸水3万3102棟。
 (出典:宮澤清治+日外アソシエーツ編集部編「台風・気象災害全史>第Ⅱ部 気象災害一覧 247頁:0949 豪雨」)

昭和44年梅雨前線豪雨。北陸から東北へ線上降水帯の移動(50年前)[再録]
 1969年(昭和44年)8月7日~12日
 7日から12日にかけて、北陸地方から信越、東北地方に、停滞した梅雨前線による局地的な大雨が断続的に降った。
 期間中、富山県東部山間部で773mm、新潟県糸魚川市や西頸城郡で150mmから200mm、山形県月山で216mm、酒田市で142mmの大雨が降った。
 このため、富山県で黒部川、常願寺川が決壊、長野県大町市で高瀬川の氾らんにより葛温泉街が潰滅、新潟県加茂市で住家5000戸余りが浸水した。被災地全体の被害は、32人死亡、9人行方不明、83人負傷、住家全壊152棟、同流失63棟、同半壊219棟、同破損174棟、同床上浸水1万3561棟、同床下浸水2万799棟。船舶沈没、流失16隻。
 (出典:宮澤清治+日外アソシエーツ編集部編「台風・気象災害全史>第Ⅱ部 気象災害一覧 315頁:1451 豪雨」)

○予測される巨大地震に対する地震防災対策強化地域、初の指定(40年前)[再録]
 1979年(昭和54年)8月7日
 前年の1978年(昭和53年)12月に施行された「大規模地震対策特別措置法(略称:大震法)」に基づき、この日、予測される東海地震の防災対策を強化する地域、つまり「東海地震の地震防災対策強化地域」が内閣総理大臣によって指定され、これにより巨大地震に対する防災活動が、それも特定の対策強化地域が指定されて具体的に展開されることになった。
 この対策強化地域の指定を決めた、大震法制定の背景となったのは、この3年前の1976年(同51年)8月に開かれた地震予知連絡会において、当時、東京大学理学部助手だった石橋克彦氏(神戸大学名誉教授)が発表した「駿河湾地震説(東海地震説)」があり、それを受けた地元静岡県の防災対策などが、国の関係機関・政府を動かし大震法制定に至ったもの。
 今後、この対策強化地域の指定により、国は予測される巨大地震ごとの「地震対策大綱」や「地震対策推進基本計画」を制定し、巨大地震に対応することになった。
 (出典:衆議院制定法律「大規模地震対策特別措置法」[追加]、中央防災会議・東海地震に関する専門調査会資料「地震防災対策強化地域の指定について」[追化]。参照:2016年8月の周年災害「東大理学部石橋助手、東海地震説発表-大規模地震対策特別措置法制定へ」、2018年12月の周年災害「大規模地震対策特別措置法施行」[追化]、2009年9月の周年災害「初の対策強化地域対応の地震防災基本計画制定」[追化])

○スカイシティ南砂、初の超高層マンション火災(30年前)[再録]
 1989年(平成元年)8月24日
 超高層マンションについて特に定義はないが、高さ60m以上、ほぼ16階以上の建築物に対して、建築基準法では 構造規準の設定が異なっているので、一応この高さ以上のマンションを超高層マンションとすると、28階建てのスカイシティ南砂の火災は、日本の消防機関が体験した初めてのケースといえる。
 午後3時50分ごろ、東京都江東区南砂にあるマンション・スカイシティ南砂(28階建・259世帯・950人入居)の24階2403号室から出火した。
 出火した24階は約63mの高さにあり、東京消防庁で一番高く延びる40m級のはしご車でも届かず、消火活動は下の23階を拠点とし、消火に必要な資機材を非常用エレベータで搬送、建物内部にある連結送水管にホースをつなぎ放水した。また3機の消防ヘリコプターを出動させ、消火作業と逃げ遅れた人々の捜索を行った。
 火災は一区画を焼いただけで約3時間後には鎮火した。また24階より上階に取り残された人々は、レスキュー隊によって救出されている。なおこの火災での活躍により、高層建築物の消火活動での消防ヘリコプターの存在が更に注目されたという。
 (出典:近代消防別冊「日本の消防 1948~2003>年表1 災害編>昭和64年・平成元年 160頁:超高層マンション・スカイシティ南砂火災」)

玄倉川(くろくらがわ)キャンプ水難事故。一連の状況がテレビに放映された(20年前)[改訂]
 1999年(平成11年)8月14日
 13日から16日にかけて、熱帯性低気圧が東海沖から関東南岸、北陸地方へと進んだ影響で、14日を中心に関東地方の山沿いで400mmを超える大雨となった。
 神奈川県丹沢山塊西部にあり丹沢湖に注ぐ玄倉川の川原には、事故前までは、約50のテントが張られていたという。13日15時ごろ、降り出した雨により上流にある玄倉ダムの流入水量がやや上昇した。貯水容量が少ない発電用ダムとして、これから予想される雨量に対してダムの貯水を放流する必要があったので、同20分ごろ、職員が大雨の心配から巡回しながらキャンプ客に待避を促したところ、大半の人たちは退去した。
 16時50分、神奈川県内全域に大雨洪水注意報発令。19時35分ごろ、雨脚が激しくなって来たので、玄倉ダムでは川の増水から放水予告のサイレンを鳴らし、同50分ごろ、職員が残っていたグループに直接待避を警告したが無視される。21時10分、ダム職員と地元警察署の警察官が再度警告したので残った一行21人のうち3人が待避した。一行はある横浜市の事業所の社員と女性の友人およびその家族だった。
 翌14日6時ごろ、前夜待避したメンバーが、残った18人に退去を呼びかけたが返事がなく、熟睡中とみてあきらめる。7時半ごろ、警察官が再三にわたり待避を呼びかけるが反応なし。8時ごろから25mm/時間の強い雨が降り出し、ダムでは警告のサイレンを流しながら放流を開始。8時半ごろ、すでにテントは流され中州は水没し一行は水中に取り残されていた。18人は中州の一ばん高いところに立ち、水位も膝が没する程度だったが対岸まで80mあり、激流のため徒渉は不可能になっていた。10時ごろから開始された警察・消防による数回にわたる救助活動も、当初、お盆の土曜日で少人数しか動員できず失敗を重ね、11時38分になると水位は胸の高さに達し、13人が急流に流されて死亡、5人は対岸に流れ、狭い岩肌にしがみついているところを救助される。
 14日朝、聞きつけた地元のテレビ局が救助活動を取材しようと駆けつけ10時半ごろから放映を開始した。赤ちゃんを抱いた男性と女性および子どもたち、それを守ろうとぐるりと囲んだ男たちの姿、だが力尽きて遂に流されていく状況なども放映された。ちなみにその赤ちゃんは、抱いていた男性が最後に対岸に放り出し流れているところを救助されている。この一連の映像は全国の視聴者に衝撃を与えた。
 事故をあつかった足柄上消防組合では、十分な救助体制をとれなかった事を教訓とし、隣接する足柄市消防本部と統合、翌年4月、足柄消防組合消防本部を発足させ組織体制を強化する。
 (出典:近代消防臨時増刊号「日本の消防1948~2003>年表1 災害編>平成11年 186頁:熱帯性低気圧による大雨・玄倉川水難事故」、安形康著「河川地形学的視点から見た玄倉川キャンプ水難事故」ほか新聞記事)

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