【目 次】
・清涼殿落雷惨事-道真の怨霊か?(1090年前)[改訂]
・養和の大飢饉、鴨長明が記録した惨状-平家遂に滅亡、完全な武士政権(幕府)の時代へ(840年前)[改訂]
・寛永7年北九州、京都及び越前大風雨、洪水(390年前)[再録]
・北海道駒ヶ岳寛永大噴火-内浦湾に大津波、700人余が犠牲に(380年前)[改訂]
・大坂城煙硝蔵に落雷-城内外大火災、犠牲者120人余(360年前)[改訂]
・江戸町奉行、建物二階での紙燭、油火、ローソク使用禁止(360年前)[改訂]
・安永9年関東平野大洪水。農民も町民も“みな袖乞に出る身なれば”(240年前)[改訂]
・感染症法につながる「伝染病(感染症)予防規則」公布、届出・報告義務、罰則規定を具体化(140年前)[改訂]
・刑法(旧刑法:明治15年刑法)治罪法公布。仏刑法典を参考に近代的原則盛り込むも保守派反撃(140年前)[改訂]
・明治有珠山噴火-室蘭警察署長独自判断による住民避難命令成功(140年前)[再録]
・客船鐵嶺丸座礁沈没事故、濃霧中“定期船には連絡時間の重責あり”とし強行200余人犠牲(110年前)[改訂]
・昭和5年九州、中国地方風害、田辺平学初の建築物被害実態調査を行い耐風構造について提案(90年前)[改訂]
・国宝金閣寺放火事件、三島由紀夫、水上勉の名作を生んだ事件(70年前)[改訂]
・東京で光化学スモッグ発生。吐き気、目に強い刺激、喉の痛みなど症状でる(50年前)[再録]
【本 文】
○清涼殿落雷惨事-道真の怨霊か?(1090年前)[改訂]
930年7月29日(延長8年6月26日)
この日、内裏の清涼殿(天皇の住居)の南廂(南側の建物)にある殿上の間では、諸卿(閣僚や関係官僚)10数名が集まり、前月から続く日照りに対し請雨(雨乞い)を行う事案について会議が開かれていた。
ところが午三刻(午後1時ごろ)、京都北郊の愛宕山あたりから京全体に黒雲がたれ込め激しい雷雨となった。そしてついに、目もくらむばかりの稲光が走り、大音響とともに清涼殿の坤(南西)角の屋根に雷が落ち火災となった。
殿上の間にいた大納言民部卿(財務相)藤原清貫は衣焼き胸裂かれて即死。内蔵頭(皇室経済担当長官)平希世は顔面を焼かれて重傷を負いまもなく死亡、さらに殿上人ら1人が即死、2人が重傷を負い死亡した。
死亡した藤原清貫が、かつて藤原時平と並び政権を担った、菅原道真の太宰府左遷にかかわった人物だけに、京の人びとは、落雷は道真の怨霊のしわざと噂した。また、901年に道真を政界から追放した時平、皇太子・保明親王および時平の子で次の皇太子・慶頼王など、時の醍醐天皇が親任した人びとが相次いで若死し、それが道真の怨霊のしわざと噂されていただけに、惨状を目の当たりにした天皇の衝撃は激しく病となり、3か月後の10月28日死去している。
一方、菅原道真の霊は、942年に託宣を受けた巫女の手でまつられ、987年には時の一条天皇の令により、北野天満宮に天神の神号を得て祀られた。
(出典:国立国会図書館デジタルコレクション「国史大系.第5巻 日本紀略(後編1)醍醐天皇812頁(416コマ):6月26日戊午」、日本全史編集委員会編「日本全史>930-939(延長8-天慶2)166頁:清涼殿に落雷、大納言らが即死する、道真の怨霊のしわざ?」、北野天満宮編「北野天満宮・ご由緒」)
○養和の大飢饉、鴨長明が記録した惨状-平家遂に滅亡、完全な武士政権(幕府)の時代へ(840年前)[改訂]
1180年7月~1182年(治承4年6月~寿永元年)
大飢饉の様相については、鎌倉時代の随筆家・鴨長明が著した「方丈記」が詳しい。またこの大飢饉によって当時権勢を誇っていた平家が源氏に敗れ、その後約700年近くも続く完全な武士政権(幕府)の時代が来たことから、歴史を次の時代へと転換させた歴史的な大災害であった。
公家・九条兼実の日記「玉葉」治承4年6月13日(1180年7月14日)の条に“終夜浮淀川、近日炎旱、河水干乾、淵変作瀬、船筏滞停”とある。養和の大飢饉をまねいた干ばつは、淀川の水も近日の日照りによって乾ききり、深い淵が浅い瀬となり船や筏が進むことも出来ずにいる。という状況で起きた。
この状況は2年ほど続き「方丈記」は“或は春・夏ひでり、或は秋、大風・洪水など、よからぬ事どもうち続きて、五穀事々くならず(中略)是によりて、国々の民、或は地(土地)を棄てゝ境(村ざかい)を出で、或は家を忘れて山にすむ”と、最後は農民さえも土地を捨て山にこもる様子となり、飢饉は進んでいく。
そして翌1181年(治承5年)、人々は年が明け少しは良くなるだろうと期待したのだが、前年11月(旧歴10月)、富士川の戦いで源氏の軍勢に敗れた平家が、京都を護ろうと数少ない米を兵粮米として徴収、街道の交通を遮断したため、各地からの物流が途絶え、京都の飢餓は加速され、群盗が横行した上に疫病が餓で体を弱らせた人々を襲った“あくる年は立ち直るべきかと思ふほどに、あまりさへ疫癘(感染症)うちそひて、まさゞまに、あとかたなし(よりひどくなった)”人びとは“ひたすらに家ごとに乞ひ歩く”しかし“歩くかと見れば、すなはち倒れ伏しぬ。築地のつら(側)、道のほとりに、飢ゑ死ぬる物のたぐひ(人々)、数も不知(しらず)”という一層悲惨な状況になっていく。
仁和寺の僧・隆暁法印が“(死体の)その首の見ゆるごとに、額に阿字(死者を供養する文字・阿)を書きて(中略)人数を知らむとて、四・五両月を数へたりければ、京のうち(中略)路のほとりなる頭、すべて四万二千三百余りなんありける”だったという。
これは前後の史料から寿永元年(1182年)の5月から6月の事のようだ。このような日照りによる大飢饉は平家が基盤としていた西日本の状況で、源氏の基盤の東日本は逆に作柄が良かったという。大飢饉で戦力を失った平家は、武士の時代への道を開いたが、1185年5月2日(寿永4年3月24日)壇ノ浦の合戦で遂に滅ぶ。
(出典:日本全史編集委員会編「日本全史>1180-84(治承4-寿永3)231頁:養和の大飢饉、累々たる餓死者、天変に加え、戦争も引き金に」、北原糸子編著「日本災害史>中世の災害>4.都市災害145頁~148頁:養和飢渇」、国立国会図書館デジタルコレクション:九条兼実著「玉葉.第二>治承四年六月・415頁(215コマ):十三日」、鴨長明「方丈記:第二段>又養和のころとか、………(養和の飢饉)」)
○寛永7年北九州、京都及び越前大風雨、洪水(390年前)[再録]
1630年7月28日(寛永7年6月19日
梅雨前線が九州北部から北陸にかけて長々と延びて停滞し、折から接近した台風の刺激を受け、各地に大雨を降らせたのか、大洪水の記録が散見する。
まず、筑後(佐賀県)久留米藩の歷史をつづった「石原家記」に“五月(新暦6月)入梅降り続き大洪水流家多し、此節宰府(太宰府)観世音寺伽藍倒る”とある。余談だが、倒壊した観世音寺は、天智天皇の誓願によって、670年(天智9年)ごろ創建されたという九州を代表する古寺だが、平安時代以降は度重なる火災や風害によって、創建当時の堂宇や仏像はことごとく失い、この時の暴風雨によって、唯一残っていた金堂(本堂)が倒壊し、廃寺同然の危機に陥った。
ついで7月28日(旧暦・6月19日)のこの日、京都では“賀茂川洪水、三条橋石柱抜出云々(資勝卿記)”と、三条大橋の石の橋台が洪水で押し流されたと、当時の公卿、日野資勝が日記に記している。
また京都のある山城国に隣接する越前(福井県)では“19日丁卯、大風雨ありて洪水す。越前大水あり死亡するもの二百数十人(小槻孝亮宿禰記、日本野史)”という大災害を引き起こしている。
(出典:池田正一郎編著「日本災変通志>近世 江戸時代前期 347頁:寛永七年」、荒川秀俊ほか編「日本旱魃霖雨史料>霖雨之部 252頁:寛永七年」、中央気象台編「日本の気象史料 1>第1編 暴風雨 86頁:寛永七年六月十九日」、国立国会図書館デジタルコレクション「飯田忠彦著 訳文大日本野史.第1>本記 第1 10>明正天皇 130頁(94コマ)」、古寺巡礼「観世音寺」)
○北海道駒ヶ岳寛永大噴火-内浦湾に大津波、700人余が犠牲に(380年前)[改訂]
1640年7月31日~8月下旬(寛永17年6月13日~7月初旬)
北海道渡島半島東部、内浦湾(噴火湾)南岸の北海道駒ヶ岳の大噴火は、7月31日に始まり8月2日まで軽石・火山灰を激しく噴出させ火砕流を発生、活動は8月下旬まで続く。
噴火の初日の昼ごろ、はげしい山鳴りの後に山頂部が崩壊、南側に崩れ落ちた0.3立方kmの岩塊は、折戸川をせき止め現在の大沼、小沼などの湖沼群を形成。一方、東斜面を流下した1.42~1.7立方kmという大量の土石は、大規模な岩屑なだれとなって鹿部町(現在)海岸から内浦湾に流れ込んで小山を造り、内浦湾全体に大津波を発生させた。
津波は津軽海峡や十勝方面にも押し寄せ、その高さ8.5mと伝えられている。津波は松前藩の商船や昆布漁船など100隻あまりを呑み込み人家を押し流し、沿岸一帯で700余名が犠牲となっている。
(出典:気象庁「北海駒ヶ岳>有史以降の火山活動>1640(寛永17)年」、伊藤和明のインサイト・アウト「災害史は語るNo.145 北海道駒ヶ岳・大噴火から80年」、小倉一徳編、力武常次+竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歴史>2.近世の災害 82頁:寛永17.6.13 北海道駒ヶ岳噴火・津波」)
○大坂城煙硝蔵に落雷-城内外大火災、犠牲者120人余(360年前)[改訂]
1660年7月25日(万治3年6月18日)
酉の下刻(午後7時ごろ)、大坂城青屋口引橋(可動式橋)の東北、かつて寝屋川に注ぎ外濠としてあった平野川に面して建つ土蔵造の煙硝蔵(火薬庫)に落雷があり大爆発を起こした。
当時、煙硝蔵には黒色火薬約2万2000貫(82.5トン)、鉛玉約43万個、火縄約3万6000筋が貯蔵されており、この大爆発でやや遠い天守閣が若干破損したほか本丸の損害はわずかで済んだが、青屋口の石垣が崩壊、多門矢倉、引橋が粉砕され、付近一帯が火災となり玉造米倉や城代を補佐する保科、安部の両定番屋敷もほとんどが倒壊延焼した。その火の勢いは城下にも及び、京橋付近の町家1408軒余が倒壊焼損、城内外の武士、町人120人が犠牲となった。
この城は豊臣(当時・羽柴)秀吉が1583年(天正10年)に築城したものだが、1615年(慶長19年)の大坂夏の陣で徳川方の攻撃により落城した後、徳川氏が10年の歳月をかけ再興、破損した天守閣は当時、江戸城に次ぐ偉容を誇っていたという。ところが、この落雷の日の6月18日が奇しくも豊臣秀吉の62回目の命日に当たっていたので、城下の町人たちは“落雷は太閤様(秀吉)のたたり”と噂をしたという。
(出典:日本全史編集委員会編「日本全史>江戸時代>1660(万治3)559頁:秀吉のたたりか?大坂城の火薬庫に落雷、大爆発で被害甚大」、国立国会図書館デジタルコレクション「大阪市史 第1巻>第4編 徳川時代>第2期 明暦元年より延宝八年に至る>火薬庫の爆発と天守矢倉の焼亡 361頁~362頁(205コマ)」[追加])
○江戸町奉行、建物二階での紙燭、油火、ローソク使用禁止(360年前)[改訂]
1660年7月(万治3年6月)
1657年3月(明暦3年1月)の江戸明暦大火後、同年11月(旧・10月)より幕府は江戸町奉行を中心に江戸の街の大改造を行い、翌1658年10月(旧・万治元年9月)には常設火消の“定火消”を創設、翌11月(旧・10月)には初の町火消の店火消を誕生させるなど数々の防火対策を行ってきた。
なかでも、町家の防火対策については、この年の4月(旧・3月)に、火災で焼けた復興住宅の場合、わらや茅葺きの屋根の場合はその上に土を塗ること、こけら葺き(板葺き)の屋根には蛎殻(かきがら)を敷き詰めるか、芝または土を塗るようにという指示をした。
今回の町奉行からの御触れは、防火のための禁止令の一つで、1649年2月(慶安元年12月)に町方に初めて出した警火のお触れの中にある“二階にて火を焚き申し間敷き事(火を使うことは禁止する)”を具体的に展開したものである。
この月、二階で禁じたものは、まず紙燭(棒に巻いた紙のこよりに油を引いて灯火にしたもの)はいうまでもなくとし、次に油火(灯明皿に灯芯を置き油でひたした照明具)及びローソクで、“自今以来(今後)、立申間敷く候(立てることは禁じる)”とした。また“焼火彌(弥)仕間敷候(火を焚くことはしてはいけない)”とも命じている。
いうなれば二階で簡易だが安定性のない照明具の使用を禁じ、失火の原因にならないように命じたもので、厳禁とした。また二階で火を焚くとは、当時どのようにしたものなのか、多分簡単な火鉢のようなものを使用したのかも知れないが、これもだめだとなった。
ちなみに禁止令や制限令で最も古いものは1609年8月(慶長14年7月)の路上タバコ喫煙禁止令で、ついで1634年3月(寛永11年2月)の最初の火事場出入り制限令、1646年5月(正保3年3月)江戸城内に火をつけた紙鳶(たこ)が落下したことからの紙鳶禁止令、1648年4月(慶安元年2月)最初の川べり、橋際、橋の上での商売、小屋がけの禁止令、同年8月(同年6月)の最初の花火禁止令、1649年1月(同年12月)左毬杖(左義長)での薪の積み上げ制限令、1651年6月(慶安4年5月)最初の二階での火の使用禁止令、1653年3月(承応2年2月)風の強い日の外出制限令、1654年1月(承応2年11月)湯屋、風呂屋の営業時間制限令、1655年8月(明暦元年7月)の街なかや川端でのゴミ焼き禁止令などがある。
火事場出入り禁止令は別としても、それらは江戸の市民生活に根付いていたものか年中行事、趣味・娯楽に関するもので、防火上とはいえ禁止や制限で庶民のフラストレーションがたまったかも知れない。またそのほとんどが三代将軍家光の治世期(1623年~1651年)の政策であり、徳川三百年の礎を築いたと評価されている将軍の時代の政策らしいと言えそうだ。
(出典:東京都編「東京市史稿>産業編>第5 130頁:湯屋時刻制限、757頁:楼上紙燭其他禁止」、魚谷増男著「消防の歷史四百年>江戸の消防>火災予防のいろいろ 25頁~30頁:ごみ焼きの禁止、花火も一般に禁止、風呂屋は午後六時まで、たばこ禁止令」。参照:2017年3月の周年災害〈上巻〉「1657明暦江戸大火」[改訂]、2017年11月の周年災害「幕府、明暦の大火を機に江戸の街の大改造行う」[改訂]、2018年10月の周年災害「幕府、江戸の街を守る常設火消『定火消』を新設」[改訂]、2018年11月の周年災害「町内に町奉行与力指揮下の官製・町火消(店火消)“火消組”編成へ」[改訂]、2020年4月の周年災害「幕府、頻発する火災についに腰を上げ、初の町家防火対策を示達」[改訂]、2019年2月の周年災害「江戸町奉行、火災シーズンを前に、町方に一連の“警火の町触”出す」[改訂]、2月の周年災害・追補版(3)「……タバコの火から神田で火事-2年半後、タバコ禁止令出る」[改訂]、3月の周年災害追補版(4)「江戸町奉行、火事場泥棒対策で「覚」出す(火事場出入り制限令)」、5月の周年災害・追補版(3)「……、火をつけた紙鳶(凧:たこ)江戸城内に落下、市中での紙鳶遊び即禁止に」[追加]、4月の周年災害・追補版(5)「……、河岸端、橋際、橋の上での商売、小屋がけなどを禁止」[追加]、2018年8月の周年災害「江戸町奉行、防火対策で華美禁止にかこつけ花火禁止」[改訂]、2019年1月の周年災害「左毬杖(さぎちょう:左義長)行事に“薪を沢山積み重ねるな”と制限令[追加]」、6月の周年災害・追補版(5)「二階で火を使うこと、消し炭の処理について飽きずに具体的な禁止指示」[追加]、3月の周年災害・追補版(3)「風の強い日の外出制限や帰宅指示」[追加]、2015年6月の周年災害〈上巻〉「大芥溜設置で江戸のゴミ処理システム整う」)
○安永9年関東平野大洪水。農民も町民も“みな袖乞に出る身なれば”(240年前)[改訂]
1780年7月13日~30日(安永9年6月12日~29日)
江戸幕府代々の将軍ごとにその時代を記録した幕府の公式史書「徳川実紀」の「浚明院殿(第10代家治)御実紀・巻42」の巻末に“此月なかばより雨ふりつゞきて。武蔵。上総。下総。上野。下野。常陸の国国に水あふれ。漂溺の民屋あまた有し……”とある。ほぼ関東全域を襲った大洪水である。
「東京市史稿」によれば、7月6日、7日(旧暦・6月5日、6日)にかけて、夏なのに天候の不順で袷衣(あわせの着物)や綿服を着るほどの寒さを感じ、13日(旧・12日)ごろよりほとんど1日おきに、晴れたり雨が降ったりの天気が27日(旧・26日)まで続き、28日午前0時ごろ(旧・27日子の刻)急激に雷混じりの大雨が、翌々日30日午後2時ごろ(旧・29日未の刻)まで降り続く。典型的な梅雨期の大雨である。これが関東地方に大災害を招いた。
21日(旧・20日)ごろからの断続的な雨で増水していたところ、28日からの大雨で、利根川水系の渡良瀬川や神流川、烏川および戸田川(現・荒川)などの河川が決壊“関東の大川をかぎり、水溢れ堤切れ崩れ、むさし下総ともに一面の地卑の地方(農村地帯)に洪水となり(中略)田畑とも見えわかたず大海原のごとくになり、人数家数あまた押流せり(後見草)”と、特に下流の江戸近郊が大洪水となり耕地は壊滅、人も家屋も多く流され、江戸では本所方面が10日間ほど水没したのを始め“両国川(隅田川)の水はやき事矢をつくよりもはやし、永代橋、新大橋も一時に砕落たり(後見草)”となった。
そして被災した人々は“土民の難儀大方ならず(中略)十人二十人ほどづヽ、毎日まいにち打群れて、御府内(江戸)に入来り、戸毎に食を乞ひ、漸よう飢を凌ぎしもの、其数更に知るべからず(知ることが出来ないほどだ)(後見草)”。その上ほぼ関東一円の耕地が水没したので、翌“七月より米價(価)貴し(武江年表)”と、被災農民も江戸の町民も悲惨な状況となった。そこで江戸っ子は落首“たへもの(食べ物)は今より後は葉もあらし(あらじ、嵐)、みな袖乞(乞食)に出る身なれば(続談海)”。
(出典:国立国会図書館デジタルコレクション「続国史大系.15巻・徳川実紀第7編>浚明院殿御実紀巻42・618頁(314コマ):安永九年七月」[追加]、東京都編「東京市史稿 No.2>変災編 第2・419頁~429頁(407コマ~417コマ):安永九年水災」[追加]、畑市次郎編著「東京災害史>第4章 風水災>第2節 江戸時代の風水災132頁~133頁:安永九年の水災」[追加]、荒川秀俊ほか編「日本旱魃霖雨史料>霖雨之部 321頁~322頁:安永九年 諸国 大雨、洪水」[追加]、中央気象台編「日本の気象史料 1>第二編 洪水 357頁:安永九年六月二十六日 江戸並関東諸国 大雨、洪水」[追加]、小倉一徳編、力武常次+竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歴史>2.近世の災害 98頁:安永9.6.関東諸国大洪水」)
○感染症法につながる「伝染病(感染症)予防規則」公布、届出・報告義務、罰則規定を具体化(140年前)[改訂]
1880年(明治13年)7月9日
日本では明治10年代(1877年~1886年)毎年のように死者5000人を超すコレラの大流行を繰り返していた。
そこで当時の太政官(内閣)は、コレラに対する最初の対策指針として「虎列刺(コレラ)病予防法心得」を1877年(明治10年)8月に内務省(内政、民政全般の担当省)達として出し、1879年(明治12年)にはコレラ大流行の兆しが見えていたので、初めて統一された予防規則として「虎列刺病予防仮規則」を今度は太政官が布告した。
ところがその甲斐なく、この年の大流行は患者数約16万人、死者約11万人という惨状だったので、内務省では当時、衛生関係の法案諮問機関だった中央衛生会に、同仮規則に変わる総合的な予防法規について諮問した。
諮問を受けた同会は“伝染病について1875年(明治8年)に太政官・達が出されたが、対象とする病名などは確定せず一般予防法も確立していない。また伝染病が流行したとき臨時の布達を出してきたが、これでは予防策も手遅れとなるおそれがある”と指摘、“当会では国内で流行してきた伝染病名を選び伝染病予防規則(案)としてまとめている”と答申した。
こうして、現在の「感染症法」につながる、わが国初の総合的予防法規「伝染病予防規則」が太政官布告された。中でも第1条で、同規則の対象病として虎列刺(コレラ)、腸窒扶私(腸チフス)、赤痢、実布垤利亜(ジフテリア)、発疹窒扶私(発疹チフス)、痘瘡(天然痘)をあげ予防対象とする感染症を明確にした。また第2条で、医師及び前年12月に「太政官達」によって編成された各地方衛生委員の届出義務を、第3条で地方長官(現・都道府県知事)の内務省への報告義務を定め、違反したときの罰則(医師:第22,官吏:第23、人民:第24各条)を規定、1874年(明治7年)に「医制」第46条で規定した内容をより具体的にし、国を挙げて感染症に対して厳しく取り組む姿勢を示した。
各対象病に対する措置については、コレラを筆頭に上げ第9条から第15条で感染予防及び流行予防措置を定め、他の対象病の措置で適用可能な場合、同一の内容をそれぞれの病にも適用している。また第4条でコレラ、発疹チフスの患者が発生したときは、発生した地方庁(現・都道府県庁)では直ちにこの規則を施行し、他の4病については流行し出したときに規則を施行すると定めたこと。第6条でコレラ、赤痢、発疹チフス、痘瘡(天然痘)が流行したとき、地方長官は予防のため避病院(感染症専門病院)の設置を内務卿(大臣)に具状(具体的に状況報告)して行うと定めたことなど、当時の感染症流行の状況に対応した規定となっている。
(出典:国立国会図書館デジタルコレクション「法令全書.明治13年 89頁~92頁(784コマ):太政官布告第34号 伝染病予防規則」、同コレクション「法令全書.明治12年 478頁~379頁:太政官 達 第54号 中央衛生会植生及事務章程。479頁~481頁:太政官 達 第55号 地方衛生会規則」[追加]、山本俊一著「日本コレラ史>Ⅱ 防疫編>第1章 法令 269頁~319頁:第3節 伝染病予防規則」。参照:2017年8月の周年災害「内務省、虎列刺(コレラ)病予防法心得公布」[追加]、2019年6月の周年災害「内務省、急きょ初の感染症予防法規:虎列刺(コレラ)病予防仮規則を布告」[追加]、2014年8月の周年災害「医制発布され近代的医事衛生制度発足、初の法定伝染病の指定と届出及び予防法の公的指示」[追加])
○刑法(旧刑法:明治15年刑法)治罪法公布。仏刑法典を参考に近代的原則盛り込むも保守派反撃(140年前)[改訂]
1880年(明治13年)7月17日
明治新政府(太政官)は1871年2月(明治3年12月)、中央集権国家にふさわしい統一的刑法典を目指した「新律綱領」を発令。1873年(明治6年)6月には同綱領を条文ごとに整えた「改定律例」を太政官布告した。しかし、これらは当時の中国、清帝国(1636年~1912年)の律令刑法と、前時代の江戸幕府の刑法を参考にしたもので、およそ近代刑法といえるものではなかった。
そこで司法省(現・法務省)では、近代的法制度に基づいた刑法の整備を進めるため、1875年(明治8年)からフランス人法律顧問ボアソナードに草案の作成を依頼、ボアソナードはフランス革命後の人権擁護など近代的思想により制定されたフランス刑法典を参考にし、日本の伝統的な法思想をも取り入れた草案をとりまとめた。その後、太政官(内閣)内の刑法草案審査局で検討、この日、犯罪、刑罰を定めた「刑法」と訴訟手続、裁判所などを定めた「治罪法」の2法を太政官布告した。
この刑法の特徴は、時の権力者による恣意的な刑罰を排除した罪刑法定主義(立法府が制定した法令による処罰主義)を貫き、第2条に“法律ニ正条ナキ者(条文化されていないもの)ハ何等ノ所為ト雖モ(いえども:あろうとも)之ヲ罰スルコトヲ得ス(ことはできない)”と明記した点にある。またボアソナードは司法省からの諮問に対する答申で、「改定律令」が参考にした清帝国の刑法を“支那ノ刑法ノ甚ダ残酷ニシテ、且細苛(細部にわたり厳格)ナルコトハ(中略)我日本ニ於テハ既シテ今日ハ死物トナルタリナリ”と痛烈に批判し、残虐な刑罰の禁止など近代的な原則を「刑法」編集の中心においていた。
ところが、江戸時代からの体制維持的伝統を重視、人権よりも国家権力強化を狙う保守的国家主義者らはこれに反発し改定案を提出、帝国議会での5度にわたる廃案も弁護士会からの反対も押し切り、1907年(明治40年)4月、国家と国民の関係を規律する公法的原則によるドイツ刑法を模範とした「刑法:明治40年刑法」として改定、明治15年刑法を廃止した。そしてこの改定刑法は、特に昭和時代前半(~20年まで)における、国家権力の国民に対する恣意的な権力行使、なかでも「治安維持法」に代表される、思想弾圧に特徴づけられた時代を支えることになる。
(出典:日本全史編集委員会編「日本全史>明治時代>1880(明治13)93頁:フランスを範とする近代的法典、刑法・治罪法公布」、国立国会図書館デジタルコレクション「法令全書.明治13年 101頁~163頁(80コマ):太政官布告 第36号 刑法」、同コレクション「同書、同年163頁~239頁(111コマ):太政官布告 第37号 治罪法」、同コレクション「法令全書.明治3年 573頁~666頁(319コマ):第944上諭 新律綱領」、同コレクション「法令全書.明治6年 224頁~293頁(187コマ):太政官布告 第206号別冊 上諭 改定律例」、同コレクション「法令全書.明治40年 68頁~108頁(68コマ):法律 第45号 改正刑法」[追加]、西原春夫著「刑法制定史にあらわれた明治維新の性格>2 旧刑法による日本の近代化と外国法の影響」[追加]、大庭裕介著「明治初期の思想状況と旧刑法の意義>3 旧刑法の特質と罪刑法定主義」[追加]。参照:2015年4月の周年災害「治安維持法、普通選挙法と引き替えに公布」[追加])
○明治有珠山噴火-室蘭警察署長独自判断による住民避難命令成功(110年前)[再録]
1910年(明治43年)7月19日~9月
北海道洞爺湖南岸の有珠山北麓で、7月19日から地震が頻発し始めた。この地域を担当していた室蘭警察署長はこの前兆地震に危険を感じ、みずからの判断で23日には避難勧告を出し、翌24日には有珠山から約12kmの範囲にわたり避難命令を出して住民を安全な場所に誘導していた。
25日夜10時ごろ、洞爺湖に近い金昆羅山で最初の水蒸気爆発が起き、それからほぼ2週間にわたり、西北西から東南東の向きの割れ目に沿って大小45に及ぶ爆裂火口が生じた。爆裂火口から発した泥流は洞爺湖に流れ込んだが、農耕地に大きな被害をもたらし1人が泥流にのみこまれて死亡している。
8月に入ると、西丸山東側の湖岸一帯が著しく隆起し始め、11月ごろまでに約170m上昇し明治新山(四十三山)が形成された。また、噴火地点に近い湖岸で42度の熱さの温泉がわき出ているのが発見され、以降、この地点を中心に洞爺湖温泉街が形成されて行く。
(出典:内閣府「有珠山噴火災害教訓情報資料集>報告書ダウンロード>第1期 有珠山の歴史>1-1有珠山について>2 有珠山の過去の噴火>06 1910年の噴火では……」)
○客船鐵嶺丸座礁沈没事故、濃霧中“定期船には連絡時間の重責あり”とし強行200余人犠牲(110年前)[改訂]
1910年(明治43年)7月22日
日ロ戦争(1904年~05年)の勝利により日本の租借地となった大連(中国遼寧省)は、満州(中国東北部)開発の拠点港として栄えたが、大阪商船会社(現・商船三井)は05年1月、旅順開城とともに日満航路・大阪~大連線を開設し、鐵嶺丸(2143トン)はその翌年この航路に就航している。
遭難前夜から、同航路は荒天で波が高いうえ濃霧に閉ざされていた。しかし、船長は“定期船には連絡時間の重責あり、濃霧進路を冒すあれど停船は船長の採るべき時ならず、いわんや怒濤中海洋上にて停船は不可能なり”とし、朝鮮半島沿岸ぞいに進路を変えたという。
午後7時、霧はますます深くなり船長はやむを得ず停船を命じたが、そこは韓国木浦沖羅州群島の七発島付近の難所だった。そこで鐵嶺丸は脱出することになり濃霧の中30分ほど南へ進んだが、午後7時54分ついに珍島沖で座礁し船体は大破した。
乗客、乗員246人の内、6隻の避難ボートに171人が乗船したが、潮流がはげしいうえ濃霧のため4隻が沈没、2隻、40人のみが半島南岸の全羅南道加士島に上陸できた。
(出典:井出値著「鐵嶺丸沈没遭難体験縦横記」)
○昭和5年九州、中国地方風害、田辺平学初の建築物被害実態調査を行い耐風構造について提案(90年前)[改訂]
1930年(昭和5年)7月17日~18日
7月17日から18日にかけて九州西部を通過した台風は、長崎県五島列島付近で中心気圧953ヘクトパスカルを記録、九州地方を始め山口県、岡山県で強風による被害が相次いだ。死者・行方不明者88人、家屋崩壊1万586戸。
なおこの災害後、建築学者の田辺平学らが、初めて被害地における建築物被害の実態を調査、建物の配置と被害発生の関係を明らかにし、木造家屋の耐風構造について提案を行った。その後、台風災害のたびに建築分野から風害実態調査が行われるようになる。
(出典:小倉一徳編、力武常次+竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歴史>4.昭和時代前期の主要災害162頁:昭和5.7.17 九州・中国地方風水害」、気象庁編「気象百年史>第18章 災害>5.昭和前期>5.1 風水害・水害 512頁(註:記事では田辺原学とあるが、内容から建築学者田辺平学の誤植と思われる)」[追加])
○国宝金閣寺放火事件、三島由紀夫、水上勉の名作を生んだ事件(70年前)[改訂]
1950年(昭和25年)7月2日
京都洛西、鹿苑寺の国宝・舎利殿“金閣”が、同寺の修行僧の手によって放火され全焼するという、特異な事件が起きた。足利義満、夢窓国師の木造なども消失、火災報知機は前月30日から破損していた。
鹿苑寺(俗称・金閣寺)にある金閣は、室町幕府3代将軍・足利義満が創建した、室町時代初期の北山文化を代表する建物で、義満が造営した山荘・北山殿の庭園に舎利殿として造られた。北山殿は遺言により死後、無窓国師が鹿苑寺として開き、金閣が文字通りの金箔貼りで特に有名なため、同寺が金閣寺と呼ばれるようになったという。
これに放火した僧・林承賢は、自分の恵まれない生い立ちや“どもり”など不自由な身体に比べ、金閣寺の美しさに反感を覚え、これと心中しようと思ったと供述したという。ちなみに彼の母親は責任を感じ、事件後自殺している。
のち、この事件に作家魂を揺さぶられた耽美(たんび)派作家の三島由紀夫は、“美への嫉妬”をテーマにした小説「金閣寺」を発表。水上勉は、放火した主人公が通っていた遊女を主人公とした「五番町夕霧楼」を創作し、それぞれ映画化されている。
(出典:朝日新聞 昭和25年7月3日付「金閣寺全焼す」[追加]、同紙7月4日付「“美しさ”に反感」「金閣放火の責負い、林の母親が自殺」[追加]、相国寺編「金閣寺について」[追加]、三島由紀夫著「金閣寺」[追加]、水上勉著「金閣炎上」、「五番町夕霧楼」[追加])
○東京で光化学スモッグ発生。吐き気、目に強い刺激、喉の痛みなど症状でる(50年前)[再録]
1970年(昭和45年)7月18日
午後1時ごろ、都道環状七号線に近い杉並区にある東京立正中学校・高等学校の校庭で、体育の授業中の生徒43人が、突然吐き気や目に対する強い刺激、のどの痛みを訴えて近くの病院に運ばれた。
東京都公害規制部(現・環境局)と都公害研究所(現・環境科学研究所)は、新しい公害と見て原因究明に乗り出した。
原因物質は工場や自動車の排気ガスなどに含まれる窒素酸化物や炭化水素が、紫外線の影響で光化学反応を起こし生成された光化学オキシダント(強酸化性物質)と、高湿度の中で発生した硫酸ミストによる複合汚染であると発表した。
その後、各自治体では光化学オキシダント濃度が一定量超えた場合、光化学スモッグ注意報を出し、住民に戸外に出ないように呼びかけるなど、対策を立てるようになった。
(出典:日本全史編集委員会編「日本全史>昭和時代>1970(昭和45)1144頁:光化学スモッグ発生、新型複合汚染は排ガスと紫外線が原因」、総理府編「昭和45年度 公害白書>公害の現況>第1章 大気汚染>第4節 大気汚染による被害>1 健康医被害>(4)煙害事件と光化学スモッグ事件>イ 光化学スモッグ事件」[追加])
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(2021.6.5.更新)