【目 次】
・貞観三陸地震。M8の巨大地震、東北地方太平洋沖地震は再来か、
人々を救った“末の松山”が後に説話や詩歌の世界へ(1150年前)[改訂]
・京都四条河原勧進田楽の桟敷席倒壊事故。100人余死亡(670年前)[再録]
・諸大名帰国に際し、在府大名たちに火の番仰せつける、奉書火消の文献初出、治安強化策の一環か(390年前)[再録]
・慶安2年武蔵、下野地震-避難路拡大で往来での商売禁ず(370年前)[改訂]
・寛政元年梅雨前線豪雨、中九州、近畿、北陸、信遠で大洪水、天竜川「酉の満水」(230年前)[追補]
・海港虎列刺病伝染予防規則(検疫停船規則と改正)布告-検疫記念日に制定(140年前)[追補]
・わが国最初の損害保険会社、東京海上保険会社に設立認可(140年前)[再録]
・明治22年熊本地震-日本最初の余震観測。遠隔地での地震観測の端緒(130年前)[再録]
・布引丸事件。フィリッピンへの武器密輸とアメリカ政府抗議、密輸で巨額の富を得た代議士は失脚(120年前)[再録]
・大阪明治42年「北の大火」大阪の中心部壊滅-大阪府消防誕生。
森田正作、日本初ガソリンエンジン付き消防ポンプ開発の契機に(110年前)[改訂]
・特設消防署規定公布、4大都市に次いで戦時下の最重要都市に官設常備消防を設置(100年前)[再録]
・改正工場法施行。資本家・企業主またもや猛反対、1923年公布するも実施は6年後(90年前)[再録]
・三鷹事件(駅構内列車暴走事件)、共同謀議の犯行か、電車自走事故か?アメリカによる謀略か?(70年前)[改訂]
・昭和34年台風第5号+梅雨前線豪雨(60年前)[再録]
・熊本大学研究班、水俣病原因物質は有機水銀と発表(60年前)[再録]
・東名日本坂トンネル火災事故、最新防災設備、断線で機能せず(40年前)[再録]
・大雪山系トムラウシ山遭難事故、強風雨の中ツアー決行の悲劇(10年前)
【本 文】
○貞観三陸地震。M8の巨大地震、東北地方太平洋沖地震は再来か、
人々を救った“末の松山”が後に説話や詩歌の世界へ(1150年前)[改訂]
869年7月13日(貞観11年5月26日)
この日、三陸沿岸部をマグニチュード8.3±1/4という巨大地震が襲った。貞観三陸地震である。
2011年(平成23年)3月に発生し東日本大震災を引き起こした東北地方太平洋沖地震は、その規模、震源地、津波など被災状況から、この巨大地震の1100年余の時を経た再来といわれている。
わが国の正史「日本三代実録巻十六」に次のような記述がある。“廿六日癸未。陸奥國地大震動。流光如晝隱映。頃之。人民呼。伏不能起。或屋仆壓死。或地裂埋殪。馬牛駭奔。或相昇踏。城郭倉庫。門櫓墻壁。頽落顚覆。不知其數。海口哮吼。聲似雷霆。驚濤涌潮。泝徊漲長。忽至城下。去海數十百里。浩々不弁其涯涘。原野道路。惣爲滄溟。乘船不遑。登山難及。溺死者千許。資産苗稼。殆無孑遺焉”。
26日、陸奥国に大地震があった。夜であるにもかかわらず、空中を閃光が流れ、暗闇はまるで昼のように明るくなったりした。しばらくの間、人々は恐怖のあまり叫び声を発し、地面に伏したまま起き上がることもできなかった。ある者は、家屋が倒壊して圧死し、ある者は、大地が裂けて生き埋めになった。馬や牛は驚いて走り回り、互いを踏みつけあったりした。
多賀城の城郭、倉庫、門、櫓、垣や壁などは崩れ落ちたり覆ったりしたが、その数は数え切れないほどであった。河口の海は、雷のような音を立てて吠え狂った。荒れ狂い湧き返る大波は、河を遡り膨張して、忽ち城下に達した。海は、数十里乃至百里にわたって広々と広がり、どこが地面と海との境だったのか分からない有様であった。原や野や道路は、すべて蒼々とした海に覆われてしまった。船に乗って逃げる暇もなく、山に登って避難することもできなかった。溺死する者も1000人ほどいた。人々は資産も稲の苗も失い、ほとんど何一つ残るものがなかった。このなかの“流光如晝隱映(空中を閃光が流れ、暗闇はまるで昼のように明るくなったりした)”は、わが国で最古の発光現象の記録である。
被災当時の多賀城(宮城県多賀城市)は、陸奥国国府として政治・軍事中心都市であったが、郊外には多くの商店が軒を並べ東北地方随一の商都としても栄えていたとの伝承がある。
日本気象協会渡邊偉夫の調査によると、貞観三陸地震に関わる伝承は岩手、宮城、福島、茨城4県に67件もあったという。その中の大津波に関わるものは、舟山万年が採話し1907年(明治40年)に出版した「塩松勝譜」に「本郷原」「猩々(しょうじょう)池」の2話があり、「本郷原」では“此地古八幡神廟ノ門前ニ在リ居民千余家頗る(すこぶる)繁華ノ地タリキ呼テ八幡巷ト曰フ(中略)亀山応安中海水暴カ(にわか)湧キ家屋標没シ居民散亡ス”とある。
亀山天皇も応安の時代も貞観三陸地震の時代よりはるか後世だが、採話したのが江戸時代末の1823年というから、大津波が大昔というだけで、いつの時代だったのかは忘れられていたのだろう。また多賀城市が編さんした「たがじょう風土記」の「小佐治物語」には“一千余戸の市街、船舶、人畜諸共に天上から吹き出して来た様な大津波にまかれてしまった。(中略)上千軒、下千軒と言われた八幡の町も、一瞬にして砂原と化してしまった”とある。この八幡の町の上千軒、下千軒の伝承がいつ生まれたかは定かではないが、江戸時代までは“居民千余家”と伝えられていたのは確かで、上手と下手に千軒ほどの大きな町があるほど繁栄していたということが、上千軒、下千軒の伝承となったのであり、実際に二千軒の町があった訳ではなかろう。ちなみに現在、伝承に該当する町名は“八幡(やわた)”と呼ばれているが、これは八幡(はちまん)神社からの転訛と思われる。
実は、1980年(昭和55年)から始まった多賀城下の発掘調査によれば、城の外郭(回廊)南門から南北に大路が走り、5町(545m)ほど進むと東西大路が外郭に平行に伸び、南北大路の西側を中心に住宅地が形成されていたことがわかった。「三代実録」の記す犠牲者1000人はその人たちだろうか。また城下には、東西大路との交差点より南は南北大路と平行に、城の北西より流れ下ってきた砂押川を活用した運河が掘られ、流れは南下して東西に流れる七北田川(旧河道)と合流、東へと流れを変え仙台湾に注いでいる。その南側一帯が現在の八幡となる。この地理的条件から、八幡の地では砂押川の河口から船運で物資を運び、仙台平野の農産物や、隣接する盬竃(しおがま)湊に上がる魚介物などを、政庁に納めるほか、砂押川運河西側一帯の住宅地に住む役人や兵士たちに販売する一方、近隣の産物の集積地・販売拠点として東北地方一帯を商圏にして商い栄えたのであろう。津波はこの繁栄を築いた砂押川を膨張させながら西へとさかのぼり、説話の地八幡を始め運河を遡上して城下を襲い(泝徊漲長。忽至城下)城内を襲ったのである(城郭倉庫。門櫓墻壁。頽落顚覆)。
前記「塩松勝譜」の「猩々池」と、太平洋戦争(1941年~1945年)前に採話された「たがじょう風土記」の「小佐治物語」に、それぞれの主人公が名勝“末の松山”に避難して津波から逃げ延びたというよく似た話がある。
その主人公は「塩松勝譜」では居酒屋の近くに住む老人で、「たがじょう風土記」では居酒屋で働く娘になっている。しかしその内容は基本的に同じである。「塩松勝譜」によると、居酒屋に現れ村の若者たちに襲われた猩々の化身を老人が助けるが、その助けたお礼に津波が襲ってくることを教えられ避難する。この津波の際人々の避難先となったのが“末の松山”だが、「おくのほそ道の風景地」として国の名勝指定を受けた独立した丘陵であり、現在でも松の巨木が生い茂っていて、説話通り多賀城市八幡にある。東北地方太平洋沖地震の際も、津波はすぐ近くまで迫ったがここまでは到達していない。
猩々の化身を救いお礼の予言を受け、末の松山に避難して救われる娘の説話は「小佐治物語」と呼ばれているが、多賀城市と仙台市を挟んで南にある名取市には、京都から旅して来た“小佐治”と名乗る若者と土地の長者の娘“幾世”との悲恋物語が残っており、浄瑠璃「小佐治物語」として上演されている。同じ小佐治である。津波が絡む「小佐治物語」の方が太平洋戦争前の採話で新しいといわれているので、江戸期までの老人の話を、明治以降、名取に残る説話の主人公の名を借り、主人公の老人を若い娘に替え美化させたのだろうか。
ちなみに貞観三陸地震より36年後に編さんされた「古今和歌集」では、貞観地震津波についてその序文で“まつ山のなみ”として取り上げ、末の松山が詠まれた歌が2首集録されている。その後、清少納言の父、清原元輔が陸奥国府在任中に詠んだ(渡邊)とされる“契りきな かたみに袖を 絞りつつ 末の松山 浪こさじとは”が、藤原定家が百人一首を編さんした際、古今の名歌の一つとして選ばれた。巨大な大津波も超すことが出来ず、大勢の命を救った“末の松山”が次の時代になると、何事をも超すことが出来ないシンボルとして、恋の歌に詠みこまれている。
(出典:国立国会図書館デジタルコレクション国史大系.第4巻「日本三代実録>巻16>288頁(151コマ)」、宇佐美龍夫著「日本被害地震総覧>4 被害地震各論 45頁:021」,飯沼勇義著「解き明かされる日本最古の地震津波>第1部 歴史津波>第4章 古代国家施設建設時代と津波被害の実態>歴史津波6(貞観地震・貞観津波)」[追加]、日本防火・防災協会編・地域防災2018年4月号論説・伊藤和明著「歴史に学ぶ津波災害>1 貞観地震津波」[追加]、舟山万年著「塩松勝譜>本郷原、猩々池」[追加]、多賀城市編「たがじょう風土記>4.伝説 小佐治(こさじ)物語」[追加]、柳澤和明著「869年貞観地震・津波発生時における陸奥国府多賀城周辺の古環境>3.陸奥国府多賀城址の概要とその立地」[追加]、宮城県多賀城市調査研究所編「多賀城址」[追加]、多賀城市教育委員会編「多賀城市の文化財>古代都市発見」[追加]、渡邊偉夫著「貞観十一年地震・津波と推定される津波の波源域>4.県、郡、市、町、村などの各史(誌)から伝承(物語)など>付録-2>2 宮城県多賀城市:末の松山、猩々ヶ池」[追加]、消防庁消防研究センター編「平成23年東北地方太平洋沖地震の被害及び消防活動に関する調査報告書 464頁:参考資料>2.長沢純一著・東日本大震災と歴史上の巨大津波との類似性>2.貞観地震・津波と末の松山>小佐治物語」[追加]、名取市編「なとり100選>歴史>81.幾世姫と小佐治の墓」[追加]、国立国会図書館デジタルコレクション・斎藤報恩会博物館図書部研究報告「第5 御国淨瑠璃集 207頁(117コマ):小佐治物語」[追加]。参照:2021年3月の周年災害「2011年東北地方太平洋沖地震:東日本大震災」)
○京都四条河原勧進田楽の桟敷席倒壊事故。100人余死亡(670年前)[再録]
1349年7月5日(貞和5年6月11日)
京都四条橋建立の勧進(募金)のため、四条河原で田楽(中世に流行した舞踊)興行が催されたが、余りにも多く観客が詰めかけ、演技も人びとの興奮を盛り上げるほどの上乗の出来であったので、最高潮に達したとき、とつぜん桟敷が倒れ100人余の死亡者を出す惨事となった。
この日は朝から曇りで雨模様だったが、猿楽の2大スター、京都白河にある本座の一忠と奈良新座の花夜叉が競演するというので人びとは興奮し、時の将軍足利尊氏を始め、摂政や天台座主なども臨席するなど、多くの観衆が詰めかけ開幕を迎えた。
田楽の舞台では、新旧の2座が交互に出演し、秘芸の限りを尽くしたので、観客の興奮は最高潮に達した。その時、新座猿楽の小童(子どもの演者)が、猿の面をつけ、曲芸のような芸を披露した。観客は口々に“面白や、堪えがたや”と歓声をあげ足を踏みならす。
その瞬間、249間(約450m)もある三階建ての桟敷が将棋倒しとなった。
当時の歴史書「太平記」は、この事故が翌年から始まった尊氏の弟直義と尊氏の執事高師直との争い“観応の擾乱”の前触れで天狗の仕業ではないかという京洛の噂を記している。
(出典:日本全史編集委員会編「日本全史>室町・南北朝時代 304頁:田楽の桟敷倒れ大惨事。四条河原で犠牲者100人超す」)
○諸大名帰国に際し、在府大名たちに火の番仰せつける、奉書火消の文献初出、治安強化策の一環か(390年前)[再録]
1629年7月5日(寛永6年5月15日)
明治政府により編さんが進められた「古事類苑」は古代から江戸時代までのさまざまな文献から引用した事象を分野別に編さんしている。その「官位の部24」は、江戸時代の官位(役職)任命事項を記録しているが、その中に次のような記録がある。
“寛永六年五月十五日、今度諸大名御暇に付、火之番代り被仰付候。大名十余輩、一万石三十人之積りを以、火消之者召連、火事場可出旨、上意之趣信濃守(永井尚政)伝之”。
まず冒頭の“今度諸大名御暇付”というのは、当時はまだ、定期的に諸大名が江戸城へ出仕して将軍に拝謁するいわゆる“参勤交代”は制度化されていなかったが、諸大名は江戸城防備を名目に、同城周辺に屋敷を与えられて居住していた(在府)。そこで領地へ帰国する際は将軍に伺出て“暇(いとま:帰国休暇)”を与えられていたので、文章の意味は“このたび、諸大名が暇をもらい領地へ帰国するので”となる。
そうすると火災の際、奉書(将軍の命令書)で消火の役目を仰せつけることができなくなり、江戸に残っている在府大名たちに“火之番代り被仰付候(消火の役目を代わりに仰せ付けるから)”と予告し、火事の際は“大名十余輩(10余人の大名たちに)”“一万石三十人之積りを以、火消者召連、火事場可出旨上意之趣(1万石当たり30人の消火担当の者を率いて火事場に出向くようにとの将軍の命令を)”当時の老中“信濃守(永井尚政)”が在府の諸大名に“伝之(将軍の命令を伝えた)”ということになる。
この在府大名による火消部隊編成策は、2か月前の同年5月(旧暦3月)、幕府が武家屋敷街へ“辻番所”を設置させた治安維持対策の一環をなすものではなかろうか。
しかしこの時点では、まだ専任化した大名火消は存在していなかったので、在府のどこの大名10数家が火消部隊に任命されるのかはわからない。その上、参勤交代も制度化していないので、在府しているのが何家なのかも決まっておらず、老中が火災の緊急時に奉書で火消を任命するのも、在府リストから適宜に選ばざるを得ず、選ばれた大名家すべてがふだんから火消道具の準備や消火訓練をしているわけではなく、30年ほど前の関ヶ原時代の出陣態勢をそのまま活用せざるを得なかったのではないだろうか。ただし“消火”と“戦闘”は似ているようで同じならずで、火事の現場で戦力が発揮できたとは思えない。この奉書火消役が専任化したのは、10年後の1639年11月(寛永16年10月)で、2か月前に本丸殿舎を焼失させた教訓による。
ちなみに参勤交代が制度化したのは、6年後の1635年8月(寛永12年6月)の「武家諸法度」改定(寛永令)の際で、次のように明文化された。“大名、小名在江戸交替相定むる所なり、毎歳夏四月中、参勤いたすべし”。
(出典:国立国会図書館デジタルコレクション「古事類苑 官位部 24>官位の部78・徳川氏職員27・大名(交替寄合) 1701頁(78コマ):[営中御日記]寛永六年五月十五日」、日本全史編集委員会編「江戸時代>1635(寛永12) 516頁:武家諸法度の大改定なる、参勤交代を制度化」 。参照:2019年5月の周年災害「幕府、江戸武家屋敷街に辻番所設置」[改訂]、2009年11月の周年災害「幕府、奉書火消を専任化し初めて組織的な消火体制に」)
○慶安2年武蔵、下野地震-避難路拡大で往来での商売禁ず(370年前)[再録]
1649年7月29日(慶安2年6月20日)
丑の刻(2時頃)、下野国(栃木県)武蔵国(埼玉県、東京都、神奈川県の一部)をマグニチュード7.0とされる地震が襲った。
川越で町屋700軒ばかり大損壊、江戸では江戸城二ノ丸の石垣、塀が破損。大名屋敷では越前村上藩に国替えになったばかりの松平藤松(直矩)屋敷で、屋敷内の長屋が倒壊し家老を始め40人が死亡、4、50人が怪我を負うなど犠牲者が出た。そのほか南北の雄藩、松平(島津)薩摩守、松平(伊達)陸奥守の屋敷でも長屋が倒壊し多くの死傷者が出るなど、大名屋敷や町屋の多くが倒壊、破損し、少なからぬ死傷者が出ている。
江戸町奉行は地震後の8月19日(旧歴7月1日)、地震や火災に備えて往来を拡げるため、橋の上、両橋詰め、辻(四つ角)、道路などでの商売は、橋や道路の幅を狭くするとしてこれを禁じた。乞食の物乞いも同じとして禁じているが、盂蘭盆会(お盆)で、戸外に施餓鬼棚を設け僧侶に施餓鬼供養をしてもらうのは、一時的な年中行事の例外として禁じてはいない。
また、路傍での商売や日陰をつくるために始まった、屋根のひさしの先に今ひとつひさしをつける孫ひさしについて、道幅を狭くするとして、早々と取り壊すよう指示している。
さらに、この地震でかわら葺きの大名屋敷がことごとく倒壊したので、復興時にはこけら葺き(薄い板葺き)に変えたという(玉滴陰見)。
(出典:宇佐美龍夫著「日本被害地震総覧>4 被害地震各論 62頁:108」、東京都編「東京市史稿・No.2>変災篇 第1・44頁~47頁:慶安二年六月の震災」、同編「東京市史稿>産業篇 第4・850頁~851頁:橋上橋畔並途上商人禁止」)
〇寛政元年梅雨前線豪雨、中九州、近畿、北陸、信遠で大洪水、天竜川「酉の満水」(230年前)[追補]
1789年7月3日~13日(寛政元年6月11日~21日)
停滞していた梅雨前線が台風の刺激を受けて、7月上旬(旧歴・6月中旬)ごろより活発化したのか。九州中部から近畿、北陸にかけて同時期に大雨が降り、各地で河川が氾らんし洪水となり、多くの被害が出た。
九州中部では肥後国球痲(磨)郡(熊本県)で6月下旬(旧・6月上旬)ごろから雨が激しく降っていたが、7月6日夕方から7日(旧・6月14日夕方~15日)にかけて大雨となり、各地で河川が洪水を起こす。
山城国丹波(京都府)では8日から10日(旧・同月16日~18日)にかけて洪水が起き、京都では桂川が氾らん嵯峨あたりで水深3mほどになったという。鴨川下流では東九条村の堤防が切り離され各地の稲田に損害が出た。稲荷村は土砂にまみれ、桂川との合流点周辺の東岸竹田村の耕地は冠水して300石余が失われ、西岸の上鳥羽村ではおよそ1300石余の損害となり、合流点にほど近い塔森村では夥しい土地が水没し、鳥羽街道が冠水して不通となった。また下流の淀川では、摂津国加島村の堤防が決壊して下新庄村(共に大阪市)辺り一円が水没した。
越中国(富山県)では7月6日(6月14日)、神通川と成願寺川が洪水を起こし村々を侵した。中でも神通川の勢いがすさまじく舟橋の鉄鎖を寸断、堤防を破壊して流失させ富山城内にも浸水し堀や塀を壊した。両川の洪水による被害は人家718戸が損壊・流失、3314人が被害を負った。
越後国(新潟県)では信濃川の氾らんで、笈ヶ島(燕市)と出来島町(新潟市)では、7月13日(旧・6月21日)に水位が4mに達し、堤防が破壊され耕地数百町歩(数平方km)の土地が冠水。
信濃国(長野県)では7月3日から13日(旧・6月11日~21日)にかけての大雨で木曽川が氾らん、木曽街道沿いに被害が及んだ。特に上流の福島(木曽町)より妻込宿(妻籠:南木曽町)にかけての被害が激しく、両岸の山々が土砂崩壊を起こし街道は途絶。
信濃から遠江(静岡県)に流れ下る天竜川では、長雨の後の7月9日から11日(旧・6月17日~19日)の大雨で、9日・10日(旧・17日・18日)には満水となり、84年ぶりの大洪水を起こす。特に上流では高遠領内(高遠市)で田畑を流失させ、島田村割石塚堤防が決潰、川路村(飯田市)の大半が水中に没した。中流の大薗村、渡ヶ嶋村(浜松市天竜区)を始め、下流の上嶋村、中瀬村で堤防の破壊があいつぎ、上善地村、善地村(以上同市浜北区)及び河口に近い石原村(同市南区)では“18日、19日満水にて大川一面に押し込み、大囲堤多分に切所に及び、畑亡に罷成り、場所により百姓家居まで大破に及び候”という状況になった。
(出典:中央気象台編「日本の気象史料 1>第2編 洪水 364頁:寛政元年六月 諸国 大雨、洪水」、同編「日本の気象史料 3>第2編 洪水 77頁~78頁:寛政元年六月 諸国 大雨、洪水(補遺)」、笹本正治編「天竜川の災害年表 31 頁:寛政元年・1789」、静岡県編「静岡県史 別編2 自然災害誌>第3章 静岡県の自然災害のさまざま>第4節 暴れ天竜>近世の水害 371頁~372頁:寛政1年の水害」)
〇海港虎列刺病伝染予防規則(検疫停船規則と改正)布告-検疫記念日に制定(140年前)[追補]
1879年(明治12年)7月14日
「海港虎列刺(コレラ)病伝染予防規則」がこの日布告された。この規則は文字通り海港でコレラの感染が拡大するのを予め防ぐもので、主にコレラ流行地から入港してくる船舶の乗客や乗員、積載貨物などをその海港で検疫し、コレラの流行を予防しようとする規則である。
実は同じ目的の検疫のための規則は、2年前の1877年(明治10年)7月、清国(現・中国)厦門(アモイ)でコレラが大流行しているのをいち早くキャッチした内務省(現・厚生労働省)が、1858年(安政5年)以来19年ぶり、明治になり初めての大流行の危険を察知し、翌8月、急きょ「虎列刺病予防法心得」を布達、その第1条で外国領事との協議、第2条で船舶検疫の方法と権限を定め、第3条、4条では患者を収容する臨時の避病院(現在の感染症科-感染症病棟)の設置と運営について定めていた。
ところが、在日公使代表のイギリス公使パークスが“厦門での流行はすでに収束しているから避病院の必要はない”と暗に検疫に反対したので、1858年(安政5年)に修好条約を締結した欧米5か国(イギリス、アメリカ、オランダ、ロシア、フランス)の船舶に対し実施は不可能となり、他の外国船に対する検疫も行われなかった。ところが案じたとおり、翌9月、横浜のアメリカ製茶会社の検疫を逃れた商品と長崎に入港したイギリス軍艦からコレラ菌が侵入、1万3816人が発症し8027人の死亡者を出してしまった。
若き日、尊皇攘夷(天皇を敬い欧米人を排除する)運動に身を投じ、その後の留学や視察によって欧米列強の力を学んだ明治維新政府の高官たちの新日本建国の基本方針は“富国強兵”“殖産興業(産業、資本主義の育成)”にあった。しかし諸外国との貿易を盛んにするために海運を発達させ、国内の交通網を整備し人と物の交流を図ったことにより、反面、感染病菌の国内への侵入と流行を容易にする。
この危険性を察知していた明治政府は、1868年(慶応4年・明治元年)の戊辰戦争の時から西洋医学による新しい医事制度確立の準備をし、官立医学校の開設を進め、1874年(明治7年8月)には、わが国の医師法と医療制度の根源となった近代的医事衛生制度「医制」を定め、東京、大阪、京都の3府に 通達、その第46条で“悪性流行病”として茅扶私(チフス)、虎列刺、天然痘、麻疹(はしか)をあげ、別冊で「流行病予防法」をまとめていた。
明治維新当初から感染症の流行を抑えることに力を注いでいた政府だが、その努力を無にし感染症菌の日本国内への侵入を許したのが欧米列強であり、これら諸国と締結したのが安政の修好条約であり、なかでも列強諸国の日本の法律への拒否権の根拠となったのが、日本国内においても自国民は自国の法律において裁断されるとする“領事裁判権”であった。
この年、1879年(明治12年)3月、突然、愛媛県魚町(現・松山市)でコレラ患者が発生した。4月下旬から爆発的に感染は拡大、4月中旬になり感染地の住民たちが、大分県の別府及び浜脇(現・別府市)に湯治に出かけて発病し、そこから4月下旬以降、鹿児島県、沖縄県から九州一円に、5月中旬以降は西日本一帯に拡大した。
この状況の報告を受けていた政府は、1月に原案作成済みの総合的な「伝染病(感染症)予防規則」から急きょコレラ予防に関連する部分を抜粋、6月27日「虎列刺病予防規則」を布告、それにより首都圏の防疫を管轄している東京警視本署(現・警視庁)では、7月27日、流行地方を経て横浜港へ入港する船舶はすべて長浦(現・横須賀市)に停留させ、乗組員の健康を確認し、積載している物品を消毒した上で横浜港への入港を許可するよう神奈川県に通達した。また4日には、乗客のいない貨物船等の場合でも、乗組員は10日間一切上陸を禁止するという隔離政策を通達、首都圏での感染防止を図った。ついで政府は国内全体の防疫策として、この日検疫規定として専用化した「海港虎列刺病伝染病予防規則」を公布、諸外国公使にもその旨を通知、7日後の21日にはこれを改正した「検疫停船規則」を公布、コレラ流行地域から来日する船舶に対する検疫を強化しようとしたのである。
これらの処置に対し、アメリカ、清国、イタリアなど各国代表は異議のないことを回答したが、再びイギリスとフランス公使、それに当時国力の伸張著しいドイツの公使までも2国に加わり、この規則には“外国船に適用する”とした規定がないことなど規則に不備があるとして反対、中でもイギリス公使パークスが、安政日米修好通商条約第5条に規定された領事裁判権を持ち出し、在日中でも“検疫規則がイギリスの規則でなければ、イギリス人に守らせることができない”と反対した。それにより各国公使には検疫に協力を依頼するという形でしか行えず、実際には清国と朝鮮国(現・大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国)との便船にしか検疫出来なかったという。
それらも影響し、この年の全国のコレラ発症者数16万2637人は明治期を通じて最大の数となり、死亡者10万5786人、死亡率65%という大惨事となった。これらの事は新聞報道によって全国民に知れ渡り、不平等条約改正を目指す官民挙げての運動が一層活発化した。その後1894年(明治27年)以降、明治政府は欧米各国と順次、安政修好条約の改正に成功、1899年(明治32年)には法的に整備された「海港検疫法」が公布されその全面的実施が可能となった。この間20年である。
82年後の1961年(昭和36年)、厚生省(現・厚生労働省)と日本検疫衛生協会がこの日を“検疫記念日”に制定している。ちなみにこの前年1960年(昭和35年)は、日米安全保障条約の締結を巡って、アメリカからの完全独立を主張し全国的な反米、反岸自民党政権に対する闘争に発展した“60年安保闘争”の年である。
日本政府による“検疫”に抵抗を続ける欧米列強に対し、敢然と検疫を実行しようとした根拠となった規則布告の日を、82年後という中途半端な年に記念日としたのには、検疫に専用化した規則内容と清、韓両外国船への検疫開始というほかに、中央官僚も含めた当時の若い人たちの安保闘争に対する共感が、記念日制定に反映していたのではないかと思うのは我田引水だろうか。
(出典:国立国会図書館デジタルコレクション・法令全書.明治12年「太政官布告 58頁~63頁(59コマ):第28号(別冊)海港虎列刺病伝染予防規則」、同コレクション・同書 同年「太政官布告 63頁~69頁(61コマ):第29号(別冊)検疫停船規則、第30号 正誤表」、同コレクション・法令全書.明治10年「内務省達 421頁~425頁:乙第79号(別冊)虎列刺病予防法心得、425頁~430頁:予防法付録消毒薬及其方法」、同コレクション・法令全書.明治32年「法律 26頁~31頁(20コマ):第19号 海港検疫法」、国立国会図書館・大久保利通関係文書「医制 第46条」、大阪市南医師会編「日本医事史抄>明治時代Ⅱ 、山本俊一著「日本コレラ史>Ⅲ 検疫編>第3章 検疫関係諸規則 552頁~573頁:第1節 海港コレラ病伝染予防規則、第2節 検疫停船規則」、雑学ネタ帳「検疫記念日」。参照:2017年8月の周年災害「内務省、虎列刺(コレラ)病予防法心得公布」、2019年3月の周年災害「明治12年、コレラ史上最大級の流行始まる」、2014年8月の周年災害「医制発布され近代的医事衛生制度発足」、2019年6月の周年災害「内務省、急きょ初の感染症予防法規:虎列刺(コレラ)病予防仮規則を布告」、2019年2月の周年災害「海港検疫法公布、感染症の侵入を水際で防ぐ」)
〇わが国最初の損害保険会社、東京海上保険会社に設立認可(140年前)[再録]
1879年(明治12年)7月30日
現在の東京海上日動火災保険(株)の前身である東京海上保険会社が創業したのは、二日後の1879年(明治12年)8月1日だが、この日、設立認可が下りている。
明治維新以降、時の政府の中心的政策は“富国強兵”であり、それには鉱工業を中心とした産業の発展、海運・貿易を中心とした商業の発展が欠くことが出来ず、“殖産興業政策”と呼ばれ、中心的政策として位置づけられ推進された。これにより産業は発展、海運のニーズは拡大、物資や旅客の輸送量や貿易額も増えていたが、相手は荒海であり、台風列島日本であり、海難も増大した。当時欧米では、海難や火災など不時の災害により、出荷先の荷物や自社などの船舶を失い損害を蒙った場合の保険、つまり海上保険など損害保険の制度があり、専門に扱う会社、損害保険会社が運営されていた。
そこで、海運業の先頭を走っていた郵便汽船三菱会社の経営者・岩崎弥太郎は、自らの会社で海上保険業を兼業したいとの意向をもち、この年、政府に出願したが却下されていた。一方、当時わが国初の商業銀行(株)第一国立銀行(現・みずほ銀行)の初代頭取だった渋沢栄一も、旧大名家から集めた資金の有効利用策として、国家に有用な事業に投資することを検討していた。
その点から渋沢も損害保険なかでも海運立国を支援する海上保険の必要なことを見抜き、わが国初の海上保険会社設立の発起人となり、海運業界の雄、岩崎弥太郎と提携することとし、両者の交渉の結果、岩崎が資本金の3分の1を出資することになったという。岩崎も政府から却下された事業に出資することで参加にこぎ着けた。
岩崎の資本参加は、出資者の不安を解消し、海上保険会社に対する世間の信用は高まり、各地の有力企業や貿易・海運会社が続々と出資を申し込んだ。当時、ここまで広範囲な株主構成を持つ企業はほとんど無かったという。また商法がわが国で成立するのは、この年より21年も後の1899年(明治32年)3月だが、この海上保険会社の定款は、商法の後ろ盾がなくても質量ともに充実しており、その面でも画期的で、わが国初の本格的株式会社と評価されている。
このわが国初の海上保険会社は、東京海上保険会社と名乗り、この日政府の認可を得た。初代の頭取は旧徳島藩主蜂須賀茂韶、取締役には幕末四賢候の一人として活躍した旧宇和島藩主伊達宗城が名を連ね、大株主の筆頭は岩崎弥太郎だが、次から9番目までは旧大名が占めるという布陣だった。これは渋沢栄一の旧大名家から集めた資金の有効利用策としての投資が反映している。このそうそうたる布陣で、8月1日創立の運びとなり、従業員は僅か10人前後とごく小規模で船出、その取り扱い品目は貨物保険のみであった。
(出典:日本経営史研究所編「東京海上百二十五年史>序章 創業1世紀の軌跡>創業と経営の確立 3頁~5頁:東京海上の創業」、日本経営史研究所編「東京海上火災保険株式会社百年史 上>第1章 東京B海上保険会社の創立 33頁~77頁:第2節 東京海上保険会社創立の沿革、東京海上保険会社の創業」、東京海上日動火災保険編「東京海上日動の歷史>創業」。参照:2017年7月の周年災害「日本初の火災保険会社東京火災創立認可おりる」、2012年12月の周年災害「大阪紡績会社三軒家工場火災」)
○明治22年熊本地震-日本最初の余震観測。遠隔地での地震観測の端緒(130年前)[再録]
1889年(明治22年)7月28日
23時45分、熊本市西北部の金峰山東麓を震央とするマグニチュード6.3の直下地震が起きた。
震央付近での被害が大きく、熊本市西南部の飽田郡(あきたぐん:現・熊本市)では、600か所に及ぶ地割れが生じ、田んぼに凹凸が生じて噴砂も見られた。島原半島眉山で山崩れ起こる。熊本市に被害が多く熊本城の石垣が崩れた。被災地全体の被害20人死亡、54人負傷。家屋全潰239戸、同半潰326戸。またこの地震がドイツのポツダムの重力計に記録されるなど、遠隔地における地震観測の端緒となっている。
さらに地震後、余震や鳴動が長期間にわたって続き、震源地の金峰山が破裂するとのうわさが流れたので、日本で最初の余震観測が行われ、熊本県庁では地震発生の翌日以降、8月18日までの余震回数を記録した。これがわが国での余震記録の先駆けとされている。
(出典:宇佐美龍夫著「日本被害地震総覧>4 被害地震各論 210頁:295」、小倉一徳編、力武常次、竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歷史>3 明治・大正時代の災害 127頁:熊本県地方地震」)
○布引丸事件。フィリッピンへの武器密輸とアメリカ政府抗議、密輸で巨額の富を得た代議士は失脚(120年前)[再録]
1899年(明治32年)7月21日
汽船布引丸(ぬのびきまる)が上海沖で暴風に遭遇し難破沈没、船長以下19人の船員・乗客全員が行方不明となった。
同船は、憲政党代議士の中村弥六が所有する船で、同代議士は、フィリッピン独立運動を支援する宮崎㴞天(とうてん)や同党の犬養毅(つよし)から依頼を受け、同船には同独立運動を支援する日本人有志と独立戦争用の武器・弾薬を積んでいたのである。
1898年4月、キューバ独立革命をきっかけに起きたアメリカとスペインの戦争で、当時スペイン領だったフィリッピンを手に入れたいアメリカは、スペインからの独立を願うフィリッピンの革命勢力と提携することを考えて香港で密約をかわし、4月30日~5月1日のマニラ湾海戦でスペイン艦隊を破り、独立運動家たちをフィリッピンに帰国させ、6月の独立政府樹立も黙認した。しかし、最終的にはスペインとの戦争に勝利して12月の講和会議でスペインからフィリッピンの領有権を獲得したアメリカは、すぐさま同国の独立を否定、この年の2月からアメリカのフィリッピンへの武力侵略が始まり、都合良く利用され裏切られたフィリッピンはこれに対抗する。
30年前に明治維新を成し遂げ、この年欧米との不平等条約も改定したわが国の有志たちは、当時、同じアジア人の欧米からの独立運動を積極的に支援していたのである。
そこに布引丸事件が起きる。日本人有志の独立運動支援に関する情報を入手していたアメリカ政府は、日本の外務省に武器密輸事件として抗議したが、政府はこれを否定した。一方、中村代議士は独立運動に乗じて武器密輸で巨額の利益は得たとして所属する憲政本党から除名され、政治的には失脚したという。
(出典:日本全史編集委員会編「日本全史>明治時代>1899(明治32)977頁:布引丸、上海沖で難破、フィリッピンの独立運動へ武器・弾薬を輸送中」)
〇大阪明治42年「北の大火」大阪の中心部壊滅-大阪府消防誕生。
森田正作、日本初ガソリンエンジン付き消防ポンプ開発の契機に(110年前)[改訂]
1909年(明治42年)7月31日~8月1日
午前3時40分ごろ、北区空心町二丁目の玉田庄太郎所有のメリヤス製造工場から出火した。
原因は、台所の柱にかけていたランプのガラス油壺に灯芯が燃え込んで破裂、下にあった石油缶に燃え移り、缶もまた破裂して、かまどの下の薪とかまどの上にあった番傘20本に燃え移り、さらに床に積んであったメリヤスの原料に燃え移ったという。
当時、大阪は連日の炎天つづきの上、低気圧が接近していたので、炎は風速10m/秒前後の猛烈な東風にあおられて西南西の方向へと延焼、午前10時には天満宮を残し北方一帯は火の海となった。消防組(現・消防団)の消防力だけでは手に負えず、第四師団の将兵が応援して家々を次々と取り壊し延焼を防ごうとしたが、11時前には天満郵便局が燃え落ち、12時になると天満堀川(堀川:現・阪神高速守口線)に達した。消防隊の堀川筋の第1防火線をやすやすと突破した炎の勢いはますます強く、一気に南北に広がりながら西へ西へと大阪の中心地を舐めていく。道幅の広い梅田新道(現・御堂筋)の第2防火線も効果なく、北は曽根崎方面に侵入。炎はさらに西へと進み堂島一帯まで延焼、江戸期蔵屋敷名残の倉庫群や商社の建物など、商都大阪のシンボル堂島米穀取引所を燃え上がらせ、ようやく堂島川(旧淀川)沿岸で焼け止まる。しかし午後6時ごろには曽根崎、堂島方面は全焼した。
午後7時には大江橋が焼け落ちる。午後9時、勢いを増した炎は桜橋電車道(現・四つ橋筋)を越え、第3防火線の出入橋線(現・阪神高速1号環状線)ではかえって延焼区域を拡げ、午後11時には出入橋も焼け落ちる。第4防火線の福島方面の狭隘な場所にポンプを集中して防火、翌8月1日朝午前5時ごろ福島の中の天神付近(現・ミモレ堂島)が火の海となり、午前6時半には西野田の田んぼで焼き落とすものもなくなり、ようやく27時間にのぼる大火災も鎮火した。
被害は、20町が全焼し31町が罹災、焼失面積1.2平方km、家屋焼失1万1365戸、被災者4万3533人。焼失した主要建物は、北区役所、大阪地方裁判所、北警察署、大阪測候所など官公庁を始め、堂島米穀取引所、繁華街の北の新地、お初天神などで、同市の中心部をなめ尽くした。
この大火を契機に大阪市では翌1910年(明治43年)4月、官設の常備消防として同市内に東、西、南、北の消防署を設置した。ちなみに当時、南区北炭屋町(現・中央区西心斎橋一丁目)で、小型消火器と手動腕用ポンプの製造販売を扱う個人経営の小さな会社・火防協会を営んでいた、(株)モリタ創業者・森田正作が、この大火を間近で目撃、当時の消防力の弱さを痛感、日本初のガソリンエンジン付消防ポンプ開発の契機となったという。
(出典:新修大阪市史編纂委員会編「新修大阪市史 第6巻>第4章 社会生活と文化の諸相>第3節 市民生活の諸相>2 大災害の発生 810頁~813頁:北の大火」、玉置豊次郞著「大阪建設史夜話>第20話 明治大阪の大火記録 163頁~166頁:明治四十二年七月三十一日 北の大火」。参照:2020年5月の周年災害「森田正作、我が国初のガソリンエンジン付ポンプの創作に成功」[追加])
○特設消防署規定公布、4大都市に次いで戦時下の最重要都市に官設常備消防を設置(100年前)[再録]
1919年(大正8年)7月16日
特設消防署規定の公布によって、すでに設置されていた東京、大阪を除く大都市、京都、神戸、名古屋、横浜の四つの都市に、官設の常備消防が2署ずつ設置されることになった。
明治新政府の殖産興業を中心にした富国強兵政策は、わが国の資本主義経済を発展させ、中心都市に人口が集中し都市化が進んだが、明治維新以降、全国的に消防力は、江戸時代の町火消を改組し、警察の指揮下に置いた消防組(現・消防団)が中心だった。しかし、各地方の中心都市にも工場が進出し都市化が進んでくると、火災の危険も増え消防力の需要が高まった。この状況に対し、これまでのボランティア的な消防組だけではなく、消防の中心に、官設の常備消防を据える方向に動いていく。
今回、特設消防署設置の対象となった各都市は、かつての首都で文化遺産の多い京都市を別にすれば、阪神工業地帯の一翼を担う神戸市、中京工業地帯の中核名古屋市、京浜工業地帯の一翼を担う横浜市と、明治維新以降、港湾と工業活動で人口を集中させ大都市となり、京都も含め火災の危険と延焼地帯の広域化が憂慮される地域である。
当時既設の官設常備消防があったのは、首都東京と大工業都市で商都の大阪だった。まず東京の場合は、新政府軍、江戸城入城の年1868年の7月(慶応4年5月)、江戸時代の常備消防、定火消を新政府の軍務官(現・防衛省)所属火災防御隊として再編成した。しかし、幕末すでに1組128人の勢力しかなく、かつての江戸城で皇居となった消防担当にしたが、結局、町火消との競合に破れ、翌1869年8月(明治2年7月)軍務官が廃され兵部省となった月、解散された。明治10年代に入り、東京に工場が進出し大都市化がいっそう進むと、1880年(同13年)3月、消防を管轄する東京警視本署(現・警視庁)は、「消火卒採用規則」を制定し消火卒300人を採用、大隊、中隊、小隊の消防各隊を編成した。近代的な官設常備消防組織の最初である。
その後同年6月、内務省警視局に属する消防本部が設けられ消防各隊を統率。翌1881年(同14年)1月、首都警察として警視庁が設置されると、消防本部は消防本署と改称し同庁に所属。6月には消防各隊の制度を廃止し東京各地域に6消防分署が設けられ、現在に通じる体制となった。
一方、大阪の場合は、1868年6月(慶応4年5月)大阪府が誕生すると、翌1869年(明治2年)江戸時代の北組、南組、天満組の三郷を廃止し、東、西、南、北の4大組が誕生した。これを機会にそれまでの町火消制度を廃止し、10組の消防組と別に水運び方をおき、その指図役に府の部課長級を任命、その費用一切を府が負担するという、実質的な官設常備消防となった。
1889年(同22年)4月大阪市制施行に伴い、大阪府から大阪市消防組へと所属替えを行う。1910年(同43年)3月、前年7月に起きた北の大火(前項参照)の教訓から、市街地消防の強化を図るため、国は勅令(天皇の命令)で「大阪市消防規定」を制定公布し、大阪市負担だった消防を大阪府負担とし、大阪府消防として正式に官設化している。
この日の勅令「特設消防署規定」の公布により、常設消防署を設置する道府県市が指定され、東京、大阪を除く全国各都市に、現在まで続く官設の消防署が設置されることになり、それぞれ関係各府県知事が指揮する警察部長の下に消防専任の事務官・技官が消防事務を執ることになった。これは画期的な消防体制の革新で、従来の警察署長指揮下のボランティア的な消防組体制中心から、別の専門の職員を置いた常備化された消防体制が誕生したのである。
その後、皮切りとなった4大都市のほか、1940年(昭和15年)12月に川崎市など6都市、翌1941年(同16年)12月に堺市など5都市、1942年(同17年)12月に横須賀市など7都市、1943年(同18年)7月に新潟市など8都市、1944年(同19年)3月に川口市など4都市に官設常備消防が設置され、合計で先の6大都市をあわせ、官設常備消防の設置都市は36を数えた。
これらの都市はいずれも重工業地帯を形成しているか、軍需産業都市あるいは軍港、交通の要衝都市で、そこには太平洋戦争開戦(1941年:同16年12月~)下、敵機からの空襲に備えた防空消防体制強化の意図が明確であった。これは民間の消防組が、当時防空のための市民自衛組織であった防護団と、1939年(同14年)1月に統一し、警防団として“防空、水防、火消防その他の警防に従事する”とされた施策と共通した目的を持っており、ここに官の常備消防を中核として、民の警防団がそれを補佐し、戦時下の空襲などの火災から、施設や住民を守る体制ができあがったのである。
(出典:東京の消防百年記念行事推進委員会編「東京の消防百年の歩み>大正期 135頁~136頁:特設消防署の設置」、狭山市消防団編「狭山市消防団50年のあゆみ>第1編 火消制度の誕生>第3章 大正・昭和時代の消防>『特設消防署規定』と公設消防署」、大阪市消防局編「大阪市消防年報 令和元年版>付録編 196頁~212頁:大阪市消防のあゆみ」。参照:2018年7月の周年災害「明治新政府、旧幕府定火消を解体し火災防御隊編成-のち消防署に発展」[改訂]、2019年1月の周年災害「警防団発足、防護団、消防組と統一した住民による自衛防空・防火組織」[改訂])
〇改正工場法施行。資本家・企業主またもや猛反対、1923年公布するも実施は6年後(90年前)[改訂]
1929年(昭和4年)7月1日
1916年(大正5年)9月、わが国初の労働者保護法規として「工場法」が、1911年(明治44年)の公布後、5年を経てようやく施行された。しかし同法の適用範囲、就業最低年齢、年少者・女子の就業制限などが、労働者にあまりにも過酷のものだったので、大正デモクラシーを背景とした労働運動の高まりの中、政府も同法改正に着手、7年後の1923年(大正12年)3月、改正法が公布された。しかしまたもや資本家や企業主たちが反対運動を起こし、同法施行令が制定されたのは3年後の1926年(同15年)6月だが、若干の改正を経て実際に施行されたのは、そのまた3年後のこの日、1929年(昭和4年)7月1日である。
ではどのように改正されたのか、まず適用範囲だが、当初の“常時15人以上職工を使用するもの(工場)”という規定が、“10人以上”となり拡大された。次に就業の最低年齢だが、工場法が改正公布されたのと同時に制定公布された、工業労働者最低年齢法に規定をゆずり、原則として14歳未満の者の使用は禁止され(2条)、工場法の適用されない10人未満の工場にも規定が適用されることになった。
最期に年少者と女子の就業制限だが、年少者の範囲が16歳未満と1歳引きあげられ、就業時間も11時間と1時間減少された。また年少者と20歳未満の女子の午後10時から早朝午前4時までの徹夜作業の禁止規定は、法施行後15年間の猶予期間が2年間に短縮されている。ちなみに現在常識となっている1日8時間労働制は、太平洋戦争後(45年:昭和20年8月~)の47年(同22年)4月、工場法に替わる労働者保護法として制定された労働基準法まで待たねばならない。
(出典:国立国会図書館デジタルコレクション「官報 1911年03月29日付698頁(3コマ):明治44年 法律第46号 工場法」、同コレクション「官報 1916年08月03日付57頁~60頁(1コマ):大正5年 勅令第193号 工場法施行令」、同コレクション「官報 1923年03月30日付763頁~764頁(2コマ):大正12年 法律第33号 工場法中左ノ通改正ス」[追加]、同コレクション「官報 同日付 764頁~765頁(3コマ):大正12年 法律第34号 工業労働者最低年齢法」[追加]、同コレクション「官報 1926年6月07日付 157頁~160頁(1コマ):大正15年 勅令第153号 工場法施行令中左ノ通改正ス」[追加]、神戸大学経営研究所編「新聞記事文庫 労働者保護・中外商業新報 大正15年6月3日付:改正工場法要旨」、国立国会図書館デジタルコレクション「官報 1929年06月26日付 657頁(1コマ):昭和4年 勅令第202号 工場法施行令中左ノ通改正ス」[追加]。参照:2016年9月の周年災害〈上巻〉「わが国初の体系的な労働者保護法規“工場法”骨抜きされようやく施行」)
○三鷹事件(駅構内列車暴走事件)、共同謀議の犯行か、電車自走事故か?アメリカによる謀略か?(70年前)[改訂]
1949年(昭和24年)7月15日
夏時間の夜、午後9時24分、国鉄(現・JR)中央線三鷹駅車庫から無人電車が車止めを突破して暴走、駅改札口と階段をぶち抜き、駅前巡査派出所を全壊させ民家へ突入した。6人が即死、20人余が重軽傷を負った。
当時、政府は経済再建のため、行財政整理の一環として国鉄職員9万3000人余の人員整理を計画、同労組はこれに強く反対し闘争を続けていた。その最中の10日前、時の下山定則国鉄総裁が常磐線の線路上で死体となって発見されている(下山事件)。
電車暴走の翌16日、民主自由党(現・自由民主党)吉田茂首相は“現在、社会不安を起こしているのは一部の労組で共産主義者の扇動によるもの”と非難した。
国鉄八王子管理部では、事件は人員整理に反対して辞令返上闘争を続けている、三鷹電車区の国鉄労働組合の一部策動分子が故意に起こしたものと見て、鉄道公安官を派遣し調査した。結局、同電車区国鉄労組の共産党員9人と非党員1人の共同謀議による犯行とされ、電車往来危険、同転覆、同致死罪容疑で検挙されたが、裁判の結果、同党員による共同謀議は“空中楼閣”と判定され無実となった。しかし、非党員の竹内恵助被告のみ有罪とされ、無実を訴えながらも獄中で病死した。
事件の真相は未だ不明だが、暴走したモハ六三型電車は、太平洋戦争(1941年:昭和16年12月~45年:同20年8月)の末期、1944年(同19年)に、軍需工場へ通う労働者を多く輸送することを目的に緊急に開発された車両で、設計にかなりずさんな面があり、そのためこの事件の2年後の1951年(同26年)4月には、桜木町事件、別名“六三型電車炎上事件”と呼ばれ、乗客106人を死亡させた事件を起こしている。それ以外にも、三鷹事件前までに故障が多く、電車の暴走は事故による自走ではないかとも見られている。
ちなみに、この三鷹事件の翌月、同じように労働組合運動の壊滅と共産党への弾圧を狙ったと見られている“えん罪事件”で、走行中の旅客列車を転覆させた“松川事件”が起こっている。こちらはレールの犬釘を抜くという明らかな人の手による犯行であり、その点からまたもや国鉄労働組合員(福島支部)と、当時企業再建整備反対闘争中であった東芝松川工場労働組合員で共産党員の20名が逮捕され全員が死刑を含む有罪とされた。後にえん罪事件であるとの疑いが強くなり、最高裁判所で全員無罪が確定したが、その間、国鉄労働組合を初めとした労働運動は下火となり、自民党政権と経営者に有利な結果となっている。
下山事件も含め、3事件とも計画的・組織的犯行性が強い点から、現在では、時の政権の暗黙の了解を得て行ったアメリカ軍諜報部隊の謀略説が強い。実は北朝鮮と韓国が激突し、現在でも“停戦中”の朝鮮戦争は、翌1950年6月に起こっている。同戦争は半島統一を狙った北朝鮮金日成政権による侵攻説が有力だが、アメリカがこのように戦争状態を意識しての地ならしをしている点から、侵攻を事前に同国情報機関のCIAが察知していたのではないかとする説がある。
(出典:日本全史編集委員会編「日本全史>昭和時代>1949(昭和24)1097頁:国鉄合理化提案のなか、無人列車が暴走。三鷹事件おこる」、昭和史研究会編「昭和史事典>1949(昭和24年)407頁:三鷹事件」。参照2011年4月の周年災害「桜木町 事件」、2009年8月の周年災害「松川事件(旅客列車脱線転覆事件)」[追加])
○昭和34年台風第5号+梅雨前線豪雨(60年前)[再録]
1959年(昭和34年)7月13日~16日
13日から16日にかけて、北上する台風第5号に停滞していた梅雨前線が刺激を受け活動が活発化し、九州北西部から中国、近畿、東海、関東地方にかけて豪雨となった。
特に九州北西部で雨量が多く、期間中の雨量が長崎県平戸市で628mmを記録するなど各地で400mm前後を記録した。その結果河川の氾らんや土砂崩れが相次いだ。
被災地全体で、44人が死亡、16人行方不明、77人負傷。住家全壊144棟、同流失49棟、同半壊182棟、同床上浸水8539棟、同床下浸水6万8749棟、耕地被害224.5平方kmの被害となった。
(出典:宮澤清治+日外アソシエーツ編集部編「台風・気象災害全史>第Ⅱ部 気象災害一覧 246頁:0943 豪雨」、小倉一徳編、力武常次、竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歷史>5 昭和時代中期の災害 212頁:中部地方以西風水害」)
○熊本大学研究班、水俣病原因物質は有機水銀と発表(60年前)[再録]
1959年(昭和34年)7月22日
1956年(昭和31年)4月下旬、新日本窒素肥料(現・チッソ)水俣工場付属病院小児科で、手足が震え、うなり声を上げる5歳の幼女が診察を受け入院し、続けて同一症状の患者が入院したことから、5月1日、院長の細川一(はじめ)が水俣保健所に原因不明の中枢神経疾患の集団発生と報告した。
それ以降、感染症説、食品中毒説などが流れる中で、この謎の中枢神経疾患症は“水俣病”と名付けられ、細川院長を含む関係各機関で原因の追求が行われた。同年11月3日、熊本大学医学部水俣奇病研究班は第1回の報告会で“ある種の重金属に汚染された水俣産の魚介類を食べたことによる中毒である”と報告した。
その後熊本大学の研究班は、病気の原因となっている物質を特定する作業に入り、この年、海外の文献から、水俣病と有機水銀中毒症の症状が似ている点に注目、ネコに有機水銀を与えると水俣病になったことや、新日本窒素肥料の排水溝から水銀が流出していることなどを確認し、この日“水俣病の原因物質は有機水銀と考えられる”と発表した。
しかしこれに対し、原因企業と目された新日本窒素肥料は“工場では無機水銀を使用しているが、有機水銀を使用していないので、工場の排水により水俣湾が有機水銀に汚染されたとは考えられない”との反論を寄せた。当時、有機水銀を正確に分析する技術はなく、その存在を証明することは大変難しかった。
2年後の1961年(同36年)11月、水俣湾の貝ヒバリガイモドキから、翌1962年(同37年)8月には、同工場のアセトアルデヒド生産設備から採取した触媒滓から、有機水銀の一種メチル水銀化合物を取り出すことに成功。ついに新日本窒素肥料水俣工場は、翌1968年(同43年)アセトアルデヒドの製造工程の稼働を中止した。水俣病公式発表から実に12年の歳月が経っていた。その間、患者は増え続けた。
(出典:環境省水俣病情報センター編「水俣病の原因究明」、 水俣病資料館編「水俣病関係年表」。参照:2016年5月の周年災害〈下巻〉「水俣病公式7確認」[改訂])
○東名日本坂トンネル火災事故、最新防災設備、断線で機能せず(40年前)[再録]
1979年(昭和54年)7月11日
東名高速道路下り線、全長2045mの日本坂トンネルの焼津市側出口付近で、大形トラック2台が接触した小さな事故があった。そのため出口付近が渋滞した。
この渋滞地点から数百メートル後尾を走っていた名古屋ナンバーの大型トラックが、渋滞に気づくのが遅くあわてて急ブレーキをかけた。そこへ後続の大型トラックが追突、これを見た後続の乗用車が速度を落としたところ、前方の様子がわからないまま、その次の後続大型トラックが乗用車に追突、乗用車は前後をトラックに挟まれた形となった。
ところが乗用車に追突したトラックの後を、時速100kmの猛スピードで別の大型トラックが走っており、速度をゆるめる間もなく前方の4台の追突現場に突っ込んだ。トラック4台、乗用車1台の4重追突事故である。
前後から大型トラックに挟まれた乗用車は、サンドイッチ状態となって押しつぶされ、ガソリンタンクに裂け目が生じ電気配線のショートにより引火、爆発、火災となった。炎は連なった5台に燃え広がり、黒煙がトンネル内に立ちこめた。
事故地点のすぐ後ろにいた車の運転者は、自分の車両を後退させ、少なくとも70mぐらいの間隔をとったというが、その後の火勢の強さのため類焼し、後続車両を含む173台が次々と炎上した。また、追突した乗用車の中には運転手ら3人、トラックの中に運転手1人が閉じこめられ、後続車の運転手らが救出しようとしたが炎と煙が激しく、近寄れなかったため、約3km離れた日本坂パーキングエリアに徒歩で行き、その場で事故発生を通報したという。しかし、熱と煙で逃げ場を失った追突車を含むドライバー7人が死亡、2人が負傷した。
日本坂トンネル内の安全性は世界最高レベルと当時の道路公団は自負していたが、換気排煙が正常に作動していたのみで、他の照明、消火設備のほとんどがケーブル断線、ヒューズ切れなどにより異常状態となった。また、トンネル入口附近の警報により進入禁止を呼びかけたが、それ以後も80台程度が進入したという。ハイウエイ時代を迎え再発防止への教訓的な事故だった。
(出典:科学技術振興機構「失敗知識データーベース:東名日本坂トンネルの火災」)
〇大雪山系トムラウシ山遭難事故、強風雨の中ツアー決行の悲劇(10年前)
2009年(平成21年)7月16日
2016年(平成28年)の総務省調査によれば、10歳以上で登山・ハイキングを行った人は年間1134万6千人だが、その内最も多い年齢層が65歳~69歳で125万9千人(11%)となっている。これに60歳~64歳の92万人を足せば217万9千人で19.2%となり、他の世代と比べかなり多い。また60歳から74歳までの年齢層で一番多い運動は、ウォーキングと軽い体操だが、2番目が登山・ハイキングで、旅行して温泉に浸るだけでなく、体がまだ動くときは軽くハイキングや登山をしようとする傾向が統計上でも裏付けられている。
非常に良い傾向だが、過去に登山歴があったとしても、実際は基礎体力が落ちているだけに、一歩誤れば悲劇が待っている。その事例として、北海道大雪山系トムラウシ山で起きた遭難事故をあげることが出来る。
遭難したパーティは、アミューズトラベル(株)(廃業)が主催した旅行企画に応募した人たちで、61歳~69歳の男性客5人、55歳~69歳の女性客10人、ガイド4人の合計19人だったが、ガイド1人が雪渓通過後、避難小屋に戻ったため遭難時は18人となっていた。
旅行計画は、大雪山中腹の旭岳温泉をスタートし、ロープウエーで山頂駅に向かい、徒歩で白雲岳避難小屋とヒサゴ沼避難小屋を利用しながら大雪山系の主稜線を縦走、トムラウシ温泉に下山する2泊3日のツアーで、稜線と言ってもさほどの標高差はなく、季節は夏である。晴天ならば広大な大雪高原の残雪と花々を愛でる、快適なトレッキングとなった筈であった。以下実際の動きは「トムラウシ山遭難事故調査報告書」による。
7月13日。旭岳温泉での天気予報から15日、16日は崩れるだろうとガイドが予測。
7月14日。朝5時50分パーティは予定通り出発。主峰・旭岳山頂から2000mの稜線12kmを踏破して白雲岳避難小屋に宿泊。当日は強風だったが晴れていた。夜から雨が降り始めたので天気予報を確認したところ15日午後に天気が悪化することを知り、出発時間を30分早めることにする。18時過ぎ就寝。
7月15日。5時出発。朝から大雨、風はなく体感温度は低くなかった。パーティはふたたび2000m級の稜線16kmを踏破して10時間弱でヒサゴ沼避難小屋へ15時前に到着。しかし小屋の中は雨漏りだらけでぬれた衣類を乾かすことも出来ず、ずぶ濡れの寝袋に横になる。雨で展望もない泥道を長時間歩き疲労困憊だったという。19時~20時就寝。
7月16日。午前5時出発の予定だったが、雨と風が強く出発を30分遅らせる。ガイドらはラジオで十勝地方の予報“曇り、昼過ぎから晴れ”を聞き、午後から天候が好転すると見越して出発を決定。しかし生存した2人の女性客は不安を感じたという。
雪渓の通過時、足場も悪く20m~25mの強風をまともに受け転倒する人が続出。8時30分、ロックガーデンに到着したが、通常の倍近い時間がかかり、男性客M(66歳・死亡)が突然ふらふら歩き出し、気力も失せて座り込むようになる。10時トムラウシ山頂下の北沼に到着。大雨で沼からあふれた水が2m幅の膝を浸す川となり徒渉したが、多くの人がずぶ濡れとなる。その時、客を支えていたガイドC(38歳・添乗員)が強風に飛ばされずぶ濡れとなり低体温症が加速。徒渉後、女性客K(62歳・死亡)がおう吐、奇声を発す。
10時半ごろ、女性客J(68歳・死亡)が徒渉後、急激に歩行困難となり、ガイドたちが声をかけても反応をしなくなり意識が薄れていく。一行が徒渉を終えた段階で風が一段と強くなり、岩陰に散々伍々座り込み待避。後に自力下山した男性客C(65歳・登山歴33年)が“これは遭難だ。救援を要請しろ”と怒鳴り、結局ガイドAが意識不明となった女性客Jに付き添ってビバーク(緊急野営)したが、ガイドA(61歳・死亡)自身の表情もうつろだったという。
一行はしばらく進んだが、北沼分岐点で別の女性客N(62歳・死亡)とH(61歳)が歩行不能となり、一行から遅れていた。また雪渓を登り切ったところで、歩行不能となった女性客I(59歳・死亡)に元気な男性客D(69歳・登山歴53年)が付き添い残っていたので、ガイドたちはその場で相談し、午後12時ごろ女性客N、H、Iに男性客DとガイドB(32歳)がその場でビバークとなる。
昼食後、歩行可能と思われた男性客4人と女性客6人をガイドCが引率して、トムラウシ山頂を迂回し西側の平坦な道を選び下山を開始。この時ガイドCは下山を急いだため隊列が伸び、全員を確認できなくなっていた。
客たちが続いて歩き出してまもなく、13時30分ごろ南沼キャンプ場手前で男性客M(66歳・死亡)が遅れだし、男性客F(61歳)が歩かせようとするが動かずやむなく断念、Mは意識不明となり死亡。続いてトムラウシ公園上部では、衰弱していた女性客K(62歳・死亡)とL(69歳・死亡)も歩行が覚束なくなり意識不明に、このころ風は弱まり雨もやんでいた。Lを助けていた女性客A(64歳)は、追いついてきた男性客FにKとLのサポートを頼み救援要請のため先を急ぐ。先に進んだガイドCは低体温症をさほど自覚はしていなかったが、携帯電話が通じる場所を探すのと、身の危険を感じ自然に急いでしまったのかも知れない。
午後3時ごろ、女性客G(64歳)とガイドCが前トム平に到着、先に進むが、ガイドCが低体温症のため急に座り込み歩けなくなる。女性客がガイドを励ましている間、偶然にも女性客の夫から携帯電話に着信。ガイドに頼まれ最初の110番通報を依頼(午後3時45分)。結局40分間以上も励まし続けたが歩くことができず、先に下りてくれと言われたので、やむを得ず追いついてきた男性客E(64歳)と共に自力で下山する。
午後5時21分以降、ガイドCは必死の力で110番に何回か通報、通話後緊張の糸が切れ失神、翌日の10時44分、前トム平下部のハイマツの中で、別の登山客に発見されヘリで救出される。
一方、北沼付近のビバークではテントに入って程なく女性客NとIの脈拍が停止、それを見届けたガイドBは最初のビバーク地点に戻ると女性客J及びガイドAも絶望的な状態だった。午後5時前後、主催したアミューズトラベル(株)札幌営業所に社長あて救助要請と状況についてメールをしている。
午後6時30分ごろ、女性客B(55歳)はトムラウシ公園上部付近で女性客O(64歳・死亡)を介抱していたが、暗くなり道に迷うことを考えビバークを決意。Oはすでに意識不明となっていた。後ろにいた男性客C(65歳)が追い越していく。
男性客1人、女性客6人、ガイド1人の合計8人が低体温症のため意識不明となり死亡。男性客3人、女性客2人が自力で下山、ほかの5人はヘリで救出されている。死亡した客の内2人は不明だが、ほかの5人は6年~10数年の登山歴があった。その上高齢とはいえガイドが死亡している。
パーティを組んだ人々がお互い初めて会った人たちで、その中でツアーを日程通り消化したいとする点から、旅行会社に雇用されたガイド側の判断に難しさがあったのだろう。直接の原因は、冷たい強風雨の中ツアーを強行したことだが、そこには夏山という油断もあったのかも知れない。
しかし、夏期(7月~8月)の山岳遭難及び遭難者数は、近年では2018年(平成30年)が最多で、発生件数721件、同遭難者は793人だが中でも60歳代が最も多く184人、70歳代を追加すると345人となり全体の43.5%を占め、これに40、50歳代を加えた中高年全体を見ると605人で全体の76.3%となっている。
(出典:トムラウシ山遭難事故調査特別委員会編「トムラウシ山遭難事故調査報告書」、やまびこ会編「大雪山系トムウウシ遭難」、総務省統計局編「平成28年社会生活基本調査結果>スポーツの種類別行動者数」、同局編「平成23年登山・ハイキングの状況」、警察庁編「令和2年夏期における山岳遭難の概況」)
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(2021.6.5.更新)