『稲むらの火』の濱口梧陵、
日本の医療の発展にも貢献
コロナ禍にあって梧陵翁に再びスポットライト
――東大医学部の前身にあたる「お玉ケ池種痘所」再建に貢献
●濱口梧陵――江戸末期から明治にかけて、多分野で社会貢献にかかわる
2020年は「濱口梧陵翁生誕200年」の年だった。「『稲むらの火』で知られる濱口梧陵は、1820(文政3)年6月15日、和歌山県広村(現・広川町)に生まれている。
>>和歌山県広川町:令和2年(2020)は、濱口梧陵翁生誕200年
和歌山県広川町では梧陵の偉業を記念して、2020年に各種イベントを企画したが、新型コロナウイルス感染症によりその多くは中止となった。いっぽう、梧陵および『稲むらの火』の防災・復興の精神を若い世代につなげる試み――トーチリレーはつながっていて、その一例を本紙は昨年11月16日付け記事で、伊藤和明氏の寄稿「稲むらの火と防災教育」(同日付け)とともに紹介した。
>>WEB防災情報新聞:「梧陵翁生誕200年 トーチリレー交流会」
本紙はこれまで濱口梧陵と『稲むらの火』を機会あるごとに紹介してきた。2015年に国連総会で11月5日を『稲むらの火』にちなんで「世界津波の日」と定めたとき、2018年に『稲むらの火』が日本遺産に認定されたとき、それぞれ特別記事を掲載した。
>>防災情報新聞:防災の時事用語 世界津波の日
>>防災情報新聞:日本遺産に「稲むらの火」
今回、改めて濱口梧陵に触れるのは、いま新型コロナ感染症という世界的な災禍にあって、再びスポットライトが梧陵翁に当てられるからである。
濱口梧陵は防災のみならず、多くの分野で社会貢献を果たしている。以下、広川町の「稲むらの火の館」資料室をはじめ諸文献、そして千葉科学大学・藤本一雄危機管理学部教授による「濱口梧陵を模範として、100年先の危機に備える」などを参考に、その業績の概略をまとめてみよう。
梧陵は広村で分家濱口七右衛門の長男として生まれ、12歳の時に本家の養子となり、銚子(千葉県)での家業であるヤマサ醤油の事業を継いだ。若くして江戸に上って見聞を広め、開国論者となり海外留学を志願するが、開国直前の江戸幕府に受け入れられず、30歳で帰郷して事業を行った。
1854(安政元)年、梧陵が広村に帰郷していたときに、安政南海地震が発生、紀伊半島一帯を大津波が襲う。梧陵は稲むら(稲束を積み重ねたもの)に火を放ち、この火を目印に村人を誘導して安全な場所に避難させた。これが『稲むらの火』の“原典”となる。
津波により村は大きな被害を受け、梧陵は故郷の復興のために被災者用の小屋の建設や農機具・漁業道具等の提供をはじめ復旧作業を指揮した。また、津波から村を守るべく、長さ600m、高さ5mの防波堤の築造にも取り組み、後の津波による被害を最小限に抑えた。
この一件で梧陵は『稲むらの火』として知られる“レジェンド”へと浮上するのだが、ほかにも、教育面では江戸時代末期に私塾「耐久社」を開設、剣道や学業などの指導にあたり、同塾は変遷を経て、現在の耐久中学校になっている。
また、1871(明治4)年に梧陵は大久保利通の命を受けて初代の駅逓頭(郵政大臣に相当)に就任したのをはじめ、1879(明治12)年には和歌山県議会初代議長に選任された。そして議長辞任後は木国同友会を結成し、民主主義を広める活動を展開した。
余談だが、日本防災士会会長・浦野修氏は全国郵便局長会を率いて防災士制度の支援を機関決定した当事者だが、『稲むらの火』の濱口梧陵が初代駅逓頭であったことを後に知り、同じ“郵便事業者”として防災にかかわる大きな動機づけ・確信の裏づけともなったと語っている。
濱口梧陵は1885(明治18)年、長年の願いであった欧米への視察途中、ニューヨークにて病没。享年64歳であった。
>>稲むらの火の館:資料室 濱口梧陵 年譜
●「寄付者の名を関する米国なら、(お玉ヶ池種痘所は)「濱口梧陵種痘所」に
梧陵はさまざまな社会事業を手がけたが、とくに医学への支援を厚く行っていることでも知られる。コロナ禍のいま、梧陵に改めてスポットライトをあてるゆえんである。
梧陵の支援と影響を受けた一人が、医師・関寛斎であった。当時、江戸では天然痘やコレラなどの感染症が流行していたことから、寛斎は1856(安政3)年、銚子で医院を開業し、梧陵との知遇を得た。『稲むらの火』から2年後で、防疫に意を傾けていた梧陵は、寛斎を江戸の西洋種痘所に赴かせ、種痘所の蘭方医である伊東玄朴、三宅艮斎(ごんさい)らのもとでコレラの予防法を学ばせ、銚子でのコレラ防疫に業績をあげた。
1858(安政5)年、天然痘の予防・治療を目的として、江戸在住の蘭方医83名が資金(計約580両)を出し合って「お玉ヶ池種痘所」(後の東京大学医学部)を開設する。しかし、その同じ年に種痘所は付近で発生した火災により全焼してしまう。三宅艮斎から種痘所再建の窮状を相談された梧陵は、300両を寄付、そのお蔭で1859(安政6)年に種痘所は再建され、その後、お玉ヶ池種痘所は「西洋医学所」、「医学校」、「東京医学校」などと改称をして、現在の「東京大学医学部」に至るのである。
作家・司馬遼太郎は「胡蝶の夢」のなかで、「もし寄付者の名前を冠するアメリカの場合なら、(お玉ヶ池種痘所)は濱口梧陵種痘所というふうに称せられたにちがいない」と濱口梧陵の篤志に賛辞を贈っている。
ちなみに梧陵は前述の寛斎を経済的に支援し、1860(万延元)年に長崎に留学させた。蘭学医・ポンペのもとで1年間学んだ寛斎は、1862(文久2)年、銚子に戻る。梧陵は寛斎に長崎での留学を続けるよう勧めたが、寛斎は翌1863年に徳島藩の藩医となり徳島へ移住する。寛斎はのちに梧陵の勧めに従わなかったことを悔いたという。梧陵は1862(文久2)年に出版された司馬凌海・著、関寛斎・校の医学書『七新薬』の出版に関わる費用を援助するなど、日本の近代医学の発展にも深く関わっている。
●梧陵 3つの「防」(防災、防疫、防衛)で優れた功績――藤本一雄教授
千葉科学大学危機管理学部・藤本一雄教授は、稲むらの火の館の「やかただより」(2020年11月号)に、「濱口梧陵を模範として、100年先の危機に備える」のタイトルで寄稿し、濱口梧陵は、3つの「防」(防災、防疫、防衛)の面で優れた功績をあげたと紹介している。
それによると、1つ目の「防」は言うまでもなく「防災」で、『稲むらの火』の功績。2つ目の「防」は、前段で述べたお玉ヶ池種痘所支援など、「防疫」での功績である。そして、3つ目は、「防衛」をあげている。
江戸時代のわが国は、鎖国政策のもとにあったが、18世紀末から日本の近海に異国船が頻繁に現れるようになり、欧米列強による植民地化に対する危機意識が次第に高まっていった。梧陵は、1851(嘉永4)年、異国船から広村を守るため、村内の成年男子を集めて「広村崇義団」を結成した。この当時の梧陵は、やや攘夷的な思想で、その後、佐久間象山や勝海舟らとの交友を通じて、攘夷論から開国論へと変わったという。
開国するためには教育による人材育成を先決すべきとの考えから、1852(嘉永5)年、村内の青年たちへの教育事業として「広村稽古場」を開所。また、1853(嘉永6)年に黒船が来航したときには、鎖国政策のなか、海外渡航を熱望したものの断念した。また、1859(安政6)年、勝海舟に咸臨丸への同乗を誘われたが断念しているという。1866(慶応2)年、広村稽古場は耐久社へと改称され、これが現在の和歌山県立耐久高等学校、広川町立耐久中学校に至っている(前述)。また、1869(明治2)年、紀州藩の大広間席学習館知事になった。
藤本教授はこうした梧陵の功績を総括し、「濱口梧陵は、防災面での『安政南海地震の津波からの避難誘導』と『広村堤防の建設』だけではなく、防疫面では『銚子でのコレラ防疫』と『お玉ヶ池種痘所の再建への寄付』、防衛面では『広村崇義団の結成』と『広村稽古場の設立などを通じた教育事業』に取り組んでおり、これらの面でも先駆的かつ卓越した功績をあげていたことを確認できた。
これらを踏まえて、濱口梧陵の防災・防疫・防衛面での功績が、①低頻度・巨大損失事象の体験・教訓の伝承、②リスクマネジメントとクライシスマネジメント、③自助・共助・公助――の3点において特筆され、危機管理教育における有効な題材となりうる」としている。
〈2021. 02. 20. by Bosai Plus〉