○読者の皆様へ

「周年災害」は2005年1月から掲載を開始し、10年単位で過去の大災害や特異災害、防災関連の施策などを記事化してご紹介しております。

そこで、① 記事化して各10年後に再度ご紹介する場合、見出しの変更程度か内容に大きな変更のない場合は、訂正のないものも含め[再録]と表示します。

② 内容が新しい情報に基づき訂正された場合は、目次と本文見出しの後に[改訂]、出典資料が改訂または変更になった場合は、資料紹介の後に[改訂]、追加の場合は[追加]と表示します。

③ 新規に追加した記事は、掲載月より10年前の災害などを除き[追補]と表示します。

また、書き残されている大災害や防災施策などについては“追補版”として掲載月と同じ月のものを選び、基本的には発生の古い災害等の順に補足記事化しております。

なお、各記事末に参照として、記事に関係ある最新の「周年災害」がリンクされ読めるようになっています。

【2019年2月の周年災害】

・長徳から長保へ改元。はしか歴史上初めての大流行、藤原摂関政治の終焉のきっかけに、水害も

(1020年前)[改訂]

承徳地震は南海トラフ沿い地震か。土佐国での被害の記録をめぐり再検討される(920年前)[改訂]

・江戸町奉行、火災シーズンを前に、町方に一連の「警火の町触」出す,後の定式町触の基本(370年前)

[改訂]
・定火消、初の出初式挙行、江戸っ子を前にお披露目、復興への意欲高める(360年前)[改訂]

・大和郡山元禄12年の大火、城下の3分の1焼失(320年前)[再録]

・大坂宝永5年の大火「道修(どしょう)町焼」商都大坂の中心部焦土に(310年前)[改訂]       

・天明から寛政へ改元。京の9割を焼いた史上最大の大火“どんぐり焼け”による(230年前)[再録]

・肥後藩雇用のアメリカ船ハーマン号、上総勝浦沖で遭難。官軍塚由来(150年前)[再録]

・川越明治2年の大火、城下900軒が焼失、城内、人馬は無事(150年前)[改訂]

・静岡明治22年、東海道線静岡駅開通の日の大火(130年前)[再録]

海港検疫法公布、感染症の侵入を水際で防ぐ。22年前、最初の検疫法規実施にイギリス公使反対し

コレラの侵入許す。その後欧米との条約改正を経て、全面実施可能に(120年前)[追補]  

・後藤七郎と塩田廣重、先人のさまざまな試みと失敗を糧に、日本で最初の近代的輸血に成功(100年前) [再録]

・宮城県気仙沼昭和4年の大火。治安、金融、水産、交通を司る主要な建物が全焼(90年前)[再録]

・伊号第六十三潜水艦衝突沈没事故、僚艦が船灯を見誤る?(80年前)[再録]

・能代昭和24年の大火-国が消防施設強化促進法制定へと動く(70年前)[再録]

・北陸、東北、北海道地方で暴風、陸や海で事故多発、ホテル火災も(50年前)[追補]

・磐梯熱海温泉・磐光ホテル火災、戦後最大の犠牲者が-火災後進んだ可燃物防炎規制(50年前)[改訂]

・自動車や工場の排煙から排出される亜硫酸ガス(二酸化硫黄)、公害対策基本法による環境基準第1号

(50年前)[再録]

・気象庁、東京に史上初の濃煙霧(スモッグ)注意報。国の環境基準シリ目の大気汚染(50年前)[追補]

○長徳から長保へ改元。はしか歴史上初めての大流行、藤原摂関政治の終焉のきっかけに、水害も

(1020年前)[改訂]

  999年2月6日(長徳5年1月13日)
 前年(998年:長徳4年)の疫癘(えやみ:疫病、感染症)と天変災旱(ひでり)の災いによるとある。
 この時代に編集された歴史書「日本紀略」の七月の項に“今月。天下衆庶煩疱瘡。世号之稲目瘡。又号赤疱瘡。天下無免此病之者(現在、多くの人々が疱瘡(ほうそう)にかかっている。この病気は稲目瘡(いなめかさ)とも赤疱瘡とも呼ばれている。世の中でこの病気から免れている人はいない)”とある。なかでも同時代の歴史物語「栄花物語」では、この感染症の大流行が物語を進める上での大きなポイントとなっている。たとえば「嶺の月」では“あかもがさといふもの出てきて、上中下わかず病みのゝしるに”と宮廷内から庶民まで階層の別なく病気にかかっているとした上で、「浦々のわかれ」では、その病状の観察が細かく“今年例のもがさ(天然痘)にはあらで、いと赤き瘡(かさ:かさぶた)のこまかなる出てきて”とあり、この年の夏から冬にかけて大流行した感染症は、天然痘ではなく麻疹こと“はしか”だったとわかる。

そしてこれら文献が、わが国における“はしか”大流行の最初の記録とされており、余談だが「栄花物語」で描かれたこの年の大流行と26年後の大流行で道長が愛娘・嬉子を喪ったことにより、道長時代を頂点として250年余にわたり続いた藤原北家による“摂関政治”が終焉(しゅうえん)期を迎えるという因果関係が「栄花物語」の主題になっているのではないか。

 次の天変災旱だが、これは8月30日(旧暦8月1日)の長雨から起きた洪水で一条の堤防が決壊し、京市内が海のようになった災害と、翌9月18日(旧・8月20日)の大風で宮中の武徳殿や御書所など多くの建物が転倒した災害によるものをさし、旱(ひでり)の記事は見当たらない。
 (出典:池田正一郎著「日本災変通志>平安時代後期 132頁:長徳四年、長保元年」、立命館大学歴史都市防災研究所編「京都歴史災害研究 第6号>京都歴史災害年表>901年-1000年>44~45頁」[改訂]、国立国会図書館デジタルコレクション「国史大系 第5巻:日本紀略>後編10 一条天皇(長徳) 1036頁(528コマ):七月」、富士川游著「日本疾病史>麻疹>疫史 177頁~178頁:長徳4年」、国立国会図書館デジタルコレクション・国文叢書 第10冊「栄華物語>嶺の月 526頁」、同「栄華物語>浦々のわかれ 150頁(87コマ)」、加藤茂孝著「人類と感染症との闘い 第7回 麻疹(はしか)>Ⅱ 麻疹の歷史>3 摂関政治 天然痘で栄え、麻疹で衰退」。参照:8月の周年災害・追補版(2)「あかもがさ(麻疹:はしか)流行、藤原嬉子感染し崩御、摂関政治の終焉へ」)

○承徳地震は南海トラフ沿い地震か。土佐国での被害の記録をめぐり再検討される(920年前)[改訂]
 1099年2月22日(承徳3年1月24日)
 卯の刻(午前6時ごろ)、マグニチュード8.0~8.3と推測される巨大地震が南海道、畿内を襲ったとされ定説化していたが、疑問点もあり論争が続いている。
 当時の被害記録で確かなのは、大和国(奈良県)興福寺で大門と回廊が倒壊、西金堂と塔が損傷したこと。

摂津国(大阪府)の天王寺では回廊が倒壊したことが伝えられている。

このくらいの被害だとマグニチュードも6.4程度で、震央も奈良付近とされていたが、1968年(昭和43年)に“土佐国潮江庄(うしおえしょう)康和二年正月(欠字)四日地震之刻、国内昨田千余町皆以海底畢”と書かれた古文書が発見され“康和二年(1100年)”は“元年(1099年)”の誤記と解釈されたことで、2年2か月前の1096年12月(嘉穂3年11月)に“永長地震”と呼ばれるマグニチュード8~8.5の巨大地震が発生しており、それが東海と東南海を襲ったことから、それと連動した南海トラフ沿いに起きた南海地震のひとつと評価されていた。

近年ではそれについて、京都付近にほとんど被害がないことなどから疑問が出され、否定する意見も多い。また地震の名称についても、この年の旧暦8月28日、承徳から康和へと改元されたので、“康和地震”と呼ばれているが、承徳年間に発生しているので、“承徳地震”と呼ばれることが増えている。

(出典:宇佐美龍夫著「日本地震被害総覧>4 被害地震各論 48頁:039 南海道・畿内」、石橋克彦著「1099年正徳(康和)南海地震は実在せず、1096年嘉保(永長)地震が「南海トラフ全域破壊型」だった可能性」[追加]。2016年12月の周年災害「永長地震(東海、東南海連動地震)起きる。2年後の康和地震(南海地震)とも連動か」)

○江戸町奉行、火災シーズンを前に、町方に一連の「警火の町触」出す、後の定式町触の基本(370年前)

[改訂]
 1649年2月2日(慶安元年12月21日)
 江戸の人口は、幕府初期の17世紀で約40万人と推定されているが、最盛期の18世紀には120万人を

擁していたという。

その中で武士と町人の割合はほぼ半々だが、武士が、江戸の街の7割を占める武家地の広大な藩邸内か、街の表通りに居住していたのに対し、町人の土地(町方)は街全体の1割にも満たず、中でも圧倒的に多い、職人や建設労働者、小商人などの一般庶民は、通りの裏の路地の奥にある棟割り長屋、つまり裏長屋に住んでいた。狭い土地に詰め込まれたように長屋が建ち並び、そこに50万人前後が住んでいたわけで、いったん火事ともなれば一瞬のうちに焼け、隣接する町へと延焼し被害を広げた。
 江戸の街を管轄していた江戸町奉行は、このような状況から、特に町方の防火に注意を向け“定式(じょうしき)町触”として、火災シーズン前になるとほぼ数年おきに、若干内容を変えながら“警火(防火)の町触”を出している。
 この日の町方への“警火の町触”は、前年6月(旧暦・同年4月)に出された防火と警備についての初の町触れの中から、防火(警火)に関する部分を抜き出しより詳細にまとめた内容だが、後に火災シーズン前に出される定式町触の先駆けを成す基本的な内容となっている。

一、町中の夜番は交替で行い、月行事(月当番の町名主:町の管理を請け負った町人)は夜番所の見まわりを行うこと。店借人や借家の者どもなど人びとに火の用心を徹底すること。家主は貸している店借人や借家の者たちの火の用心を油断なく見届けること。(防火管理のルール)
 一、火事が起きた時は、家財道具などにかまわず、まず火元の者に消火させ、その町の家作人(貸家所有者)から借家人、店借人の区別なく残らず火元に駆けつけさせ、消火に当たること。もし消火に参加しない者がいれば、後で詮議をして罰金を取る。(消火活動のルール)
 一、火事が起きた時は、町内の辻番に告げ、連絡を各町に出すこと、もし辻番が寝ていたりしたら、捕らえて橋の上にさらし者にし、してはならないこととだと注意する。(火災時の辻番に対するルール)
 一、町ごとに水桶、手桶、天水桶に水を入れておくこと。梯子をかけておくこと。もし以上の道具類が

壊れていたら修理しておくこと。(消火用具の日常的整備のルール)
 一、二階で火を使うことは禁止する。(防火対策の一つ)などで、具体的な防火対策を織り込みながら、かなり詳細に火災時の動きから平常時に用意することなど、細かい点をルール化し指示をしている。
 (出典:日本全史編集委員会編「日本全史>江戸時代 792頁~795頁 日本史展望-28・江戸の下町」、近世史料研究会編「江戸町触集成 第1巻 正保五戊子年(二月十五日慶安と改元)>6~7頁:10 四月十日御触」同編「同>7~8頁:13 子五月廿七日」、同編「同>9~10頁:20 十二月廿一日御触」、山本純美著「江戸の火事と火消>江戸の町づくりと防火政策 158~160頁:触書にみる江戸の警火」、東京都編「東京市史稿No.4>市街編第6>505頁~506頁:警火令」。参照:2018年6月の周年災害「将軍日光社参に際し、町人たちに町の防火・警備について初のお触れ」、2018年8月の周年災害「江戸町奉行、防火対策で華美禁止にかこつけ花火禁止」、2019年1月の周年災害「江戸町奉行、左毬杖(左義長)行事に“薪を沢山積み重ねるな”と制限令」)

○定火消、初の出初式挙行、江戸っ子を前にお披露目、復興への意欲高める(360年前)[改訂]
 1659年2月25日(万治2年1月4日)
 明暦3年1月(1657年3月)の明暦の大火を機に、幕府は翌1658年10月(万治元年9月)、常設の消防組織“定火消”を新設した。
 その翌年のこの日、時の老中・稲葉伊与守正則が自ら指揮を執り、旗本4家に命じてつくらせた定火消隊を率い、上野東照宮前で江戸っ子を前に、お披露目パレード“出初式”を行い、明暦江戸大火の復興途上の人々に意欲と安心感とを与えたという。
 これを契機に翌年以降、現在まで毎年正月の定例行事として、この1月4日を中心とした休日を利用し、消防出初式として各地の自治体消防ごとに行われている。
 その内容は、現在の定火消、消防局(署)の消防職員だけでなく、江戸時代の町火消の伝統を継ぐ消防団から、各町内会や企業の自主(自衛)消防組織、消防少年団など、すべての消防関係者が一同に集まり、伝統的な演技、消防・救急救助訓練、パレードなどを繰り広げ、年に一度の消防大イベントとして、今日まで続いている。
 (出典:東京消防庁編「消防雑学事典>消防出初式の移り変わり」。参照:2018年10月の周年災害「幕府、江戸の街を守る常設火消“定火消”を新設」、2017年3月の周年災害〈上巻〉「1657明暦江戸大火:振袖火事」)

○大和郡山元禄12年の大火、城下の3分の1焼失(320年前)[再録]
 1699年2月25日~26日(元禄12年1月26日~27日)

 深夜、子の刻(午前0時ごろ)郡山城下本町東より出火した。
 猛り立った炎は本町、魚町、塩町から堺町、新町、中町、藺(いぐさ)町、錦町、今井町と延焼、ついで雑穀町、鍛冶町、奈良町から柳一、二丁目、豆腐町などを焼き、家中五軒屋敷を焼失させて、翌日巳の刻(午前10時ごろ)ようやく鎮火した。
 持家490軒、借家434軒、寺4ヵ寺焼失、消火のための崩家6軒と記録されている。
 (出典:大和郡山市刊「ふるさと大和郡山歴史事典 73頁~74頁:元禄の大火」)

○大坂宝永5年の大火「道修町(どしょうまち)焼」商都大坂の中心部焦土に(310年前)[改訂]
 1709年2月8日~9日(宝永5年12月29日~30日)
 深夜、丑の刻(午前2時ごろ)道修町淀屋橋筋南横町(現・御堂筋)より出火した。
 折りからの西風にあおられて東堀へ飛び火し上町大川筋八軒屋へ延焼。東は天満橋お城際の馬場まで、南は鑓屋(やりや)町あたりまで焼けた。北は過書町(かしょまち:現・北浜)まで、西は淀屋橋筋まで焦土となった。平野町、道修町、伏見町、高麗橋筋浮世小路、今橋筋、堺筋から東へ右側は東横掘までが丑の刻過ぎから次々と延焼し、翌日おおみそかの夜半過ぎごろまで、丸一昼夜焼けに焼けて鎮火した。 

被害は65町、1501軒、かまど数(世帯数)にして7491軒、土蔵202か所、寺15か所、神社2か所、高麗橋、今橋、平野橋など橋3か所を焼いた。大坂の中心で大店が多く長屋が少ない割にはかまど数が多いのではないかと言われているが、現在で言えば、東は天満橋筋から西の御堂筋まで、北は安治川辺りから南は中央大通りに囲まれた今も昔も大阪の中心部が焦土と化している。
 (出典:大阪市消防局編「大阪市消防の歷史 20頁:道修町大火」、玉置豊次郞著「大阪建設史夜話>17.大阪の災害記録>幕政時代初期の大火の記録 116頁:宝永五年十二月二十九日 道修町焼」)

○天明から寛政へ改元。京の9割を焼いた史上最大の大火“どんぐり焼け”による(230年前)[再録]
 1789年2月19日(天明9年1月25日)
 内裏炎上などの災異のため改元とある。 

 前年の1788年3月7日(天明8年1月30日)、京都で2昼夜燃え続けた“どんぐり焼け”と呼ばれた天明の大火があり、御所(天皇の住居)や二条城をはじめ東西の本願寺も焼失、町家約3万7000軒など京都の9割方が焦土となった。そこで年が改まったのを機に天明から寛政へと年号を改めたもの。
 (出典:池田正一郎著「日本災変通志>近世 江戸時代後期 560頁:天明九年」。2018年3月の周年災害「京都天明の大火「どんぐり焼け」、京史上最大の火災」)

○肥後藩雇用のアメリカ船ハーマン号、上総勝浦沖で遭難。官軍塚由来(150年前)[再録]
 1869年2月13日(明治2年1月3日)
 戊辰戦争の時、新政府側に参加した津軽藩藩主・津軽承昭からの援軍要請を受けた実弟の肥後藩執政・長岡護美は、前日の12日(旧暦・1月2日)、アメリカから雇った蒸気船ハーマン号に350人の将兵を乗せ、東京の高輪沖を出港させた。
 ところが、この日の四つ時(午後10時ごろ)、大暴風雨に遭遇、下総国河津村(現・千葉県勝浦市)沖650mほどのところで暗礁に乗り上げた。アメリカ人乗組員はすぐさまボートを下ろし避難したが、80人の内22人が死亡。肥後藩将兵は避難するべく甲板上で待機していたところ、突如、ハーマン号が分解し沈没、藩兵たちは厳寒の暗い海に投げ出され225人が死亡した。地元では、内42遺体を火葬の上、東京に送棺、183遺体は遭難した海を望む華立岬に埋葬し、1878年(明治11年)碑を建てた。後にこれを官軍塚と称するようになったという。
 (出典:津々堂編「肥後細川藩拾遺>閑話休題 肥後細川藩四方山話>ハーマン号沈没事件」、新熊本市史編纂委員会編「新熊本市史 通史編 第5巻>第一編 近代熊本の黎明>第二章 熊本の維新>二 戊辰戦争と肥後藩 140頁~142頁:津軽藩支援のハーマン号座礁」、千葉県高等学校教育研究会歴史部会編「千葉県の歴史散歩>長生と夷隅の山と海>太平洋にはぐくまれた夷隅の海辺 252頁~253頁:勝浦城跡⑯」)

○川越明治2年の大火、城下900軒が焼失、城内、人馬は無事(150年前)[改訂]
 1869年2月26日(明治2年1月16日)
 未の中刻(午後3時ごろ)、川越城下小久保村の百姓・兼造という者の家から出火、折からの烈風にあおられ川越の街まで延焼した。
 家中(侍)屋敷482軒、町在家420軒(内8軒が社寺)、土蔵、物置多数が焼失したが、城内は無事で済み、人馬とも怪我は一切なかったと、京都の明治新政府に報告している。
 (出典:川越市編「川越市史 史料編 近世Ⅰ>松井(松平)家時代>光西寺保管松井家文書 759頁:正月朔日(差出日は晦日)於京都差出」)

静岡明治22年、東海道本線静岡駅開通の日の大火(130年前)[再録]
 1889年(明治22年)2月1日~2日
 午前2時30分、一番町住吉小路六番地の焼き芋屋乗松万蔵方と隣の石垣清蔵方あたりから出火した。
 折からの激しい西風にあおられてたちまちの内に通車町へ延焼、そこから炎は東へと三方に分かれ、一つは屋形町より本通二丁目、上石町一丁目を焼き、もう一方は本通三丁目から上石町二丁目、人宿町三丁目を焼き払い、ついに七間町二丁目まで焼け抜けた。またいま一方は本通四丁目から梅屋町、人宿町三丁目まで延焼し、七間町三丁目の向かい側の長谷川酒店で、翌日午前9時ごろ焼け止まった。
 延焼時間は31時間に及び、上記以外焼けたのは火元の一番町の一部、人宿町一丁目、二丁目など市の中心部、都合13か町、1100余戸。主な焼失建物は静岡公立病院、静岡郵便局、静岡南学校、英学校、神明社、東本願寺別院、八朔社、明泉寺など。
 当日は東海道線が国府津から静岡まで開通した日で、静岡駅の開業記念式典が盛大に行われる予定だったが、駅北部で大火災が起こったことで、式は質素に行うことになり、投げ餅や来賓向けに用意した折り詰めはすべて被災者に提供されたという。
 (出典:静岡市史編纂委員会編「静岡市史編纂資料 第5巻>第1編 火災>第3章 明治時代より昭和時代まで 48頁~49頁:明治二十二年二月一日」、静岡大務新聞社刊「明治22年2月1日附・静岡大務新聞3335号付録」)

○海港検疫法公布、感染症の侵入を水際で防ぐ。22年前、最初の検疫法規実施にイギリス公使反対し

コレラらの侵入許す。その後欧米との条約改正を経て、全面実施可能に(120年前)[追補]

1899年(明治32年)2月13日

古来、アジア大陸から侵入して大流行を起こして政権を倒し、あばたづら(顔)を残した“天然痘”や、幕末、開国と同時期に押し寄せ、三日ほど病んで死亡するので“三日ころり”と恐れられたコレラなど、

重症化する感染症の多くは、日本の風土で育ったものではなく外来種である。重症化し死亡率の高いのは、日本人の体質に免疫力が低いからであろう。

 そこで外来感染症の大流行を防ぐ最善の方法が“水際作戦”となるが、その最大の武器が“検疫”であり、航空機による渡航が行われる前は、港をつなぐ船舶、旅客船の乗客、船員や積載物に対する検査だった。水際作戦と呼ばれる由縁である。

 この措置を法的に規定する近代的な法体系「開港検疫法」がこの日公布された。

 しかし検疫そのものは、すでに21年半前の1877年(明治10年)9月にすでに行われようとしていた。これは同年7月、清国(現・中国)台湾海峡沿岸部の港、厦門(アモイ)でコレラが流行しているとの情報をいち早くキャッチした内務省衛生局(現・厚生労働省)が、幕末以来の大流行の危険を察知、急きょ「虎列刺(コレラ)病予防法心得」をとりまとめ、翌8月27日に公布したが、その第2条で船舶検疫の方法や権限を定め、1858年(安政5年)に欧米5か国(イギリス、アメリカ、オランダ、ロシア、フランス)と締結した修好通商条約による開港場、神奈川(横浜)、兵庫(神戸)、長崎の3港に避病院(感染症専門病院)を設置し、入港する船舶を検査して船内でコレラ患者を発見した場合は、避病院に入院させる手はずを整えた。

 ところがこの処置に在日各国公使代表のイギリス公使パークスが、自国の船舶に立ち入ることは治外法権を犯すもので条約違反だとして反対したので、修好条約締結5か国の船舶への検疫は不可能となった。しかし案じたとおり、早くも翌9月上旬、横浜のアメリカの製茶会社と長崎のイギリス軍艦からコレラが侵入、その年、1万人を超える患者を出してしまった。

このとき、北海道の小樽港に臨時に設けられた検疫所が、横浜港経由で小樽に入港した郵便汽船三菱会社(現・日本郵船)所属の秋津州丸に乗船していた日本陸軍の屯田兵(駐屯地の開拓を行う兵隊)1000人の中から、5人のコレラ患者を発見、仮病舎を海岸に設置し収容したというお手柄を立てている。

その後、79年(同12年)7月14日、各地の開港場に検疫所を設け、検疫活動を行う法的根拠として「開港虎列刺病伝染予防規則(7日後、検疫停船則と改称)」を太政官(現・内閣府)布告したが、これにもイギリス公使パークスが、自国民には自国の法律でなければ守らせることはできない、と反対したので、各国公使に検疫に協力を依頼するという形でしか行えず、清国(現・中国)や韓国との間の便船しか検疫できなかったという。そのためこの年1879年(明治12年)は、10万5000人余が死亡するという、コレラ史上最大級の流行の年として記録されている。

しかしこの規則の公布日7月14日は、1961年(昭和36年)に厚生省(現・厚生労働省)と日本検疫衛生協会によって“検疫記念日”とされ、7月14日~20日の1週間は港の衛生週間として検疫の大切さをPRするイベントが催された。

以上の試練を経たこの日、海港検疫についての初めての規則が公布されてから20年余、1894年(明治27年)以降、明治政府は欧米各国と順次、安政修好通商条約の改正に成功し、ようやく法的に整備された「海港検疫法」が公布され、その全面的実施が可能となった。

同法では、第1条で内務大臣が検疫を行う海港と対象となる伝染病(感染症)を指定すること。第2条で海外諸港から来る船舶は、入港前に検疫を受け許可証を得た後でなければ他船との交通、乗組員の上陸をはじめ物件の陸揚げができないこと。第3条で乗客および乗組員は検疫官の訊問に応え、また乗組員は所定の用紙に事実を書きサインして報告すること。船長は検疫官の請求に応じ航海日誌を提出、船内各部の検査に応じること。第4条で、①入港時に伝染病患者もしくは死亡者があるもの。②航海中、伝染病患者もしくは死亡者があったもの。③伝染病流行地を出発したか、その地を経て来航したか、もしくは伝染病毒(細菌、ウイルス)に汚染された船舶と交通したもの、は入港前より許可証を得るまで、検疫中であることを明示する“検疫信号”を掲げること。など、基本的な点が詳細な法になっている。

なお検疫法はその後、航空機による渡航が始まると、1927年(昭和2年)には「航空機検疫法」が制定され、61年(同26年)6月には海・空が一本化された「検疫法」の誕生となり、現在の新型ウイルスの侵入に対応している。

(出典:国立国会図書館デジタルコレクション「法令全書.明治12年58頁~63頁(59コマ~):太政官布告 第28号 港虎列刺病傳染病豫防規則、63頁~70頁(61コマ~):同布告 第29号 検疫停船規則(含む第30号正誤表)」、同コレクション「法令全書.明治32年 27頁~30頁(22コマ)>法律 第19号 海港検疫法」、衆議院制定法律「法律第201号 検疫法」、厚生労働省横浜検疫所編「横浜検疫所の変遷」、同省小樽検疫所編「機構と沿革」、厚生労働省編「検疫所における明治150年関連イベント等の実施について」、日本全史編集委員会編「日本全史>江戸時代>1858(安政5)880頁:日米修好通商条約を締結。アメリカの威圧にやむをえず」、山本俊一著「日本コレラ史>Ⅲ 検疫編>第2章 明治初期>第2節 経緯 544頁~548頁:(a)明治10年」、同著「同署>Ⅲ 検疫編>第3章 検疫関係諸規則>第2節 検疫停船規則 564頁:(a)成立過程」。参照:2017年8月の周年災害「内務省、虎列刺(コレラ)病予防法心得公布」、2017年9月の)周年災害「明治期初めてのコレラ3系統で大流行」、2009年3月の周年災害「明治12年、コレラ史上最大級の流行始まる」)

○後藤七郎と塩田廣重、先人のさまざまな試みと失敗を糧に、日本で最初の近代的輸血に成功
 (100年前)[再録]

 1919年(大正8年)2月、6月
 人間への輸血の最初の試みは、フランス国王ルイ14世の主治医を務めたジャン=バティスト・デニが、1667年6月、貧血と高熱に苦しんでいた16歳の少年に、おとなしく採血出来る小羊の血液を、約225mmリットル輸血したのが始まりという。この少年は回復したが、それは輸血の量が少なく拒絶反応が少なかった故と評価されている。
 人の血液を初めて人に輸血したのは、イギリスの産科医ジェームズ・ブランデルで、1818年12月、数人の助手から採取した血液を、内出血で瀕死の男性患者に輸血し、患者は2日半ほど元気を取り戻したが結局は死亡した。ブランデルが成功したのは1825年で、出産分娩後に出血を起こした産婦に輸血をした症例である。その後ブランデルは10人の産婦などに輸血したが、成功率は50%だったという。まだ血液型が知られていない時代で賭博(ばくち)のような方法だったが、出産後に出血で死亡する産婦の多いことに悩んだ医師の貴重な症例だった。
 その後、輸血を必要としたのは戦争で、1861年~65年にアメリカの南北地域で、奴隷問題を焦点とした南北戦争と、70年~71年にプロイセン(ドイツ)とフランスとの間でドイツ統一問題を契機に戦われた普仏戦争における、戦傷した将兵に対するものだった。これらでの輸血の症例は論文にまとめられ世界的に流布した。
 わが国において出版された輸血に関する最初の論文は、1875年(明治8年)7月刊行の「弗(ホ)氏生理書」で、イギリスのホユチソンがまとめた人間の生理に関する論文を翻訳し、時の文部省が医学教科書として採用したその第七に血液循環編があり、輸血に関する問題が取り上げられていたという。
 その後、明治10年代後半から20年代(1890年代)にかけて、日本人医師による人の血液を人に輸血する手法について、かなり具体的に非常にくわしく記載された論文が出版されており、その点から、日本でも実際に輸血が行われたのではないかとの推測が可能だが、実際の症例報告はなく、輸血に伴う重大な副作用の発生や手法の煩雑さなどから、実施されていたとしても症例は少なくまた失敗が多く、それで症例報告がないのではないかと推測されている。
 現代に通じる近代的な輸血方法の確立は、1900年、オーストリアの病理学者カール・ラントシュタイナーによる血液型の発見と、14年の抗凝固剤(クエン酸ナトリウム)の発見によるという。これにより、輸血のために重い副作用に犯されたり死亡した原因がわかり、また採血した血液を保存しておくことが可能になった。
 なお、ラントシュタイナーが血液型を発見することが出来た背景には、1900年に北里柴三郎が発見した“抗原抗体反応”の概念があり、血液を混ぜることによって起こることがある凝集反応に注目し、赤血球の凝集の有無でグループ分けを行い血液型として結論づけたという。
 日本で最初の近代的輸血を行った後藤七郎は、陸軍軍医校の教官としてイギリスに留学中、ある病院で輸血を実際に見学したという。帰国時、見学の時に使用されていたジャンブロー式輸血器を購入し持ち帰っている。
 1919年(大正8年)2月、後藤は、肺の外側の胸腔内に膿が溜まった“膿胸”の患者の手術を行い多数の肋骨を切除した。その時、貧血のため患者の脈拍が非常に悪くなったので、付き添っていた親戚の人の血液を採取し患者に輸血したという。
 この時、突然の事態だったので血液型検査は行われなかったが、供血者から得た血液を抗凝固剤の入ったガラス器に入れている。輸血の際は患者の静脈があまりにも細く、輸血器が挿入できなかったので、注射器を使い1分間50グラムの速度で輸血をしている。その際、血液が少し凝固気味であったが、ガーゼで濾過して注入したという。手術後数時間して、患者の脈拍は正常となり危険な状態から脱している。
 後藤は検査をしなかった理由として、世界大戦(1914年7月~18年11月)のヨーロッパの戦場でも、緊急性があるので輸血の際、あらかじめ検査を行っていないが、危険は非常にわずかだと報告を受けた。と、軍医らしい説明をしている。しかし、親戚だから血液型が合う確立が高かったのかもしれないが、かなり大胆な施術だった。
 次に輸血を行ったのは、日本赤十字の救護班医長としてフランスへ派遣され、フランス陸軍直轄の第4厚誼病院の軍医として、世界大戦の傷病兵の治療に当たった塩田廣重で、同年6月、子宮に鶏卵大の潰瘍が出来た子宮筋腫の患者が子宮出血を起こし、高度の貧血状態になったので手術が不可能と判断、まず輸血を行うこととし、患者の姪から血液の供給を受け輸血をした。この時は血液検査を行い問題のないことを確認して後藤から借用した輸血器で輸血を行っている。
 塩田は、1930年(昭和5年)11月、時の浜口首相が、東京駅で右翼の男に狙撃され重傷を負った際、駆けつけて緊急輸血を駅長室で行い命を救った。このことにより輸血は一般に知られるところとなり、急激に普及したという。
 (出典:ダグラス・スター著/山下篤子訳「血液の歴史>第1部 血液と人間>1章 十七世紀の輸血-おとなしい家畜の血を人間に 30頁~33頁:子羊から人へ、同2章 近代的輸血医学の幕開け-輸血方法の改善、血液型の発見、抗凝固剤の開発 62頁~65頁:一八〇〇年代の輸血の試みと挫折、65頁~67頁:ラントシュタイナー、血液型を発見」、日本赤十字社 大阪府赤十字血液センター編「血液事業を知ろう>輸血の歷史」、TERUMO編「医療の挑戦者たち⑩ 運を天に任せる輸血から科学に基づく輸血へ。「血液型の発見」」、日本血液代替学会 会誌「人工血液」第19巻3号掲載・松田利夫、清水勝著「明治時代の「輸血学」」、1919年(大正8年)「日本外科学会雑誌」第20巻掲載・塩田廣重著、後藤七郎寄稿「子宮筋腫に因する高度の貧血患者にジャンブロー氏輸血法を施行し好結果を得し一例の供覧」、日本全史編集委員会編「日本全史>昭和時代>1049頁:「男子の本懐」浜口雄幸首相、東京駅で狙撃され重傷」 )

○宮城県気仙沼昭和4年の大火。治安、金融、水産、交通を司る主要な建物が全焼(90年前)[再録]
 1929年(昭和4年)2月23日~24日
 この晩は旧小正月の14日、俗にいう“女の年越し”で、元旦が男の正月とすれば、女衆がようやく正月の来客接待などから解放されてのんびり過ごした晩であった。午後11時50分後ごろ、八日町横丁山下から火の手があがった。
 火元の筋向かいに警察署があり、署員の半数に当たる10数名がまだ署にいた。停電したが、火の手を

目撃した署員が警鐘を乱打して市民に急を告げた。折からの北西の強風が炎の勢いを増し、翌日の午前1時半ごろには警察署が焼失した。そこから炎は二手に分かれ、魚町一丁目と大堀丁の町のはしから東と南へ走った。
 この大火の時、気仙沼にはまだ上水道がなく水利が悪かった。消防署長は全署員を招集し、消防組、自警団なども指揮をして消火にあたったが、消防の機動力はガソリンポンプ、蒸気ポンプ各2台、腕用ポンプ5台しかなく、消火よりも避難誘導が精いっぱいだったという。
 朝4時ごろになると中心街の魚町、南町の家並みは跡形もなくなっていた。そして炎の勢いは更に増し南町、柏崎まで焼き、さらに魚町は三丁目から続く入沢、太田の奥の方まで進んだ。そして強風に乗った炎は、気仙沼湾を越えて対岸の大浦に飛び、藁葺き(わらぶき)屋根8戸、30余棟を焼いたあと、午前8時半ようやく鎮火した。
 全焼897戸、棟数にして1672棟、内住宅が764棟、非住家907棟。鹿折村大浦は8戸全焼、棟数にして30棟余が焼失。主な焼失建物は、警察署、八十八銀行支店、東北無尽会社、岩手銀行支店、気仙沼公立病院、水産試験場分場、郡水産会館、三陸冷蔵庫、気仙沼冷蔵庫、葛原冷蔵庫、気仙沼製氷会社、三陸汽船会社、三陸自動車会社など、気仙沼の治安、金融、水産、医療、交通を司る主要な建物が消え、市の中心産業、漁業、水産加工業に大打撃を与えた。
 (出典:気仙沼市史編さん委員会編「気仙沼市史 4 近代・現代編>第1章 昭和前期 384頁~388頁:第2節 気仙沼の大火」)

○伊号第六十三潜水艦衝突沈没事故、僚艦が船灯を見誤る?(80年前)[再録]
 1939年(昭和14年)2月2日
 伊号第六十三潜水艦は当日未明、配備点の豊後水道水の子灯台西方の海上で襲撃訓練に備えて停泊し、舷灯と艦尾灯を点灯していた。
 これを見た同僚の伊号第六十潜水艦が、暗闇の中、漁船2隻の灯火と見誤り、その間を通り抜けようとして同艦の右舷に直角に衝突した。衝突された同艦はまもなく沈没、艦長以下81名が殉職。衝突した伊号第六十潜水艦も艦首に重大な損傷を負った。衝突された伊号第六十三潜水艦が配備点を誤って停泊していたとの証言があったという。(出典:海軍艦艇殉難史「伊号第六十三潜水艦」)

○能代昭和24年の大火、市街地の42%を焼失-国が消防施設強化促進法制定へ動く(70年前)[再録]
 1949年(昭和24年)2月20日
 午前0時30分頃、秋田県能代市の西側、清助町にある三国仁三郎製樽工場・樽丸作業場から出火したのを消防署の望楼が発見、直ちに出動し午前1時ごろ、作業場1棟を焼いただけで鎮火させた。ところが……。
 ところが、その10分ほど前、この地方特有の13m/秒に及ぶ北西の強い季節風にあおられて、東方約130mの風下にある梁瀬木工場に飛び火していたのだ。同工場をひとなめにした炎は、そこから更に三方へ飛び火し次から次へと延焼して米代川沿岸の材木工場街を全焼させた。消防部隊は急きょ、清助町から引き返したが及ばず、風速は18m~20m/秒に強まり、消防活動はほとんど不能に陥り、炎はなおも東へ東へと延び、午前2時ごろになると風向きは北西へと代わり、東から東南方面へと焦土を拡大、無防備のままの市の中心部へと延焼した。そのころ、近郊各地から応援の消防部隊が続々到着、消防陣を張ったが、道路に散乱した持ち出した家財などが邪魔になり、活動は思うようにならなかったが、徐々に強力な消火活動が効を奏し、午前8時ごろようやく鎮火した。
 能代の古老からの言い伝えに「西北の風が強いとき、清助町から火の手が上がったら大火になる」というのがあったという。この火災でそれを裏付けてしまった。
 戸数で1775戸、8790人が被災。棟数で住家1360棟、非住家878棟、合計2238棟が焼失。焼失面積は市街地の42%にも上り、3人死亡、265人負傷。能代史上最大の火災となった。
 この大火を機に国は、翌1950年(昭和25年)5月、消防法を改正し火災警報の発令権を、都道府県知事から現地に精通した市町村長へと移し、51年(同26年)3月の消防組織法の改正、53年(同28年)7月の消防施設強化促進法の制定へと消防体制を強化して行く。
 (出典:能代市史編纂委員会著「能代市史稿 第7輯 現代 下編 大正・昭和時代>第8章 二度の大火災>第2節 昭和二十四年の大火災 300頁~305頁」、中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査会編「報告書(1976 酒田大火>第3編 近現代における北部日本海域の大火>第2章 秋田県域>2 秋田市、能代市における主な大火の実態と特徴 82~84頁:(2) 1949(昭和24)年の能代市大火(第1次)」[追加]、近代消防社編刊「日本の消防1948~2003>年表>1.災害編>昭和24年・能代市大火」)

北陸、東北、北海道地方で暴風、陸や海で事故多発、ホテル火災も(50年前)[追補]

 1969年(昭和44年)2月3日~7日

2月3日夜、台湾沖に発生した低気圧は、本州南岸に沿って速い速度で北東へ進み、5日午後には三陸沖へ達した。一方、4日朝には日本海西部に別の低気圧が発生、急速に発達しながら5日朝津軽海峡を通過、その後この二つの低気圧は、それぞれ北進してオホーツク海南部で一つになりカムチャッカ方面へと去った。

 この影響により、5日から6日にかけて北陸地方、東北地方で強風が吹き、郡山市の磐光ホテルで戦後最大の犠牲者が出た大惨事が起きた(下記)ほか、農作物、鉄道、船舶などに被害が出た。なかでも北海道では暴風雪となって、道路の不通、鉄道の運休、航空便の欠航や雪崩による住家の破損など多くの被害があった。

 当時、海上では5日午前中、本州東方海上で25m/秒の強風により大しけとなり、北海道西方海上では5日朝からしけ始めた。次いで5日午後からは北西の風が急に強まり日本海沿岸の海上では北西の波浪が

急激に発達、非常に高い暴風による波とうねり、暴風雪による視界不良が重なり、各地で遭難する船舶が続出した。また宗谷海峡では流氷の一部が流出して漁船が遭難するなど、この大しけは7日いっぱい続く。 

 主な被害は北海道で、鉄道が4日から8日までに2156本運休。道路は5日から6日にかけて国道18路線、道道187路線が不通、中でも江別市近郊の国道12号線ではバス、乗用車約500台、約1500人が吹雪の中、車中に閉じ込められた。航空便では5日に千歳、札幌、帯広、釧路各空港が閉鎖され、青函連絡船73隻が欠航し北海道は猛吹雪の中、本州と切り離された。そのほか船舶関係では漁船など1085隻が破損、転覆などで23人が死亡。貨物船は留萌港防波堤近くで1隻が座礁し8人が死亡している。

 陸上での直接の被害は雪崩によるものが多く、北海道ほか被害地全体で117棟の住宅が全・半壊し、床下浸水99棟。停電は1万6000戸に及んだ。死亡・行方不明者は磐光ホテルでの犠牲者も含め合計62人、負傷者82人。

 (出典:気象庁編「気象要覧 昭和44年>異常気象および気象災害 17頁~22頁:2. 4日~7日 北海道・東北・北陸の暴風雪、関東南部・東海の強風・たつまき(低気圧・季節風))

○磐梯熱海温泉・磐光ホテル火災、戦後最大の犠牲者が-火災後進んだ可燃物防炎規制(50年前)[改訂]
 1969年(昭和44年)2月5日

北陸地方から東北、北海道にかけて強風にさらされているさなか、火災による大惨事が発生した。福島県郡山市磐梯熱海温泉の磐光ホテルで起きた。
 5日21時頃、大広間ステージ裏の控室で、出演準備中のショーダンサーが、ベンジンを両端にしみ込ませた小道具のタイマツ4本を、石油ストーブの脇に置いたところまもなく引火、室内の衣類や段ボールに燃え移った。
 ダンサーたちは、その火を自分たちで消そうとしたが消火器もなく、まもなく炎は間仕切りの壁からステージの緞帳(どんちょう:幕)へと燃え移った。当時、同ホテルは全館暖房をしていたので館内は乾燥していた。緞帳に移った炎は本館天井部分まで拡大、多量の煙を伴って天井から従業員専用階段やエレベータシャフトを通って2階から4階へと急速に広まり、各室のふすまや家具に燃え移り、強風にあおられ瞬く間に全館は炎に包まれた。ついで風速20m/秒の強風にあおられて本館から附属施設の磐光パラダイス、ニュー磐光、別館レストハウスへと次々に延焼した。
 火災当時、館内の自動火災報知器が故障していて感知せず、そのため誰も火災とは気づかず、防火シャッターも閉められずに放置されたままで、全館放送も行われなかった。一方、宿泊客は突然の煙と炎に逃げようとしたが、全館が停電し非常口が施錠されていたこともあり、複雑な通路を逃げ惑い暗闇の中大混乱に陥り、充満した煙に巻き込まれて逃げ場を失い、戦後最大の31人が死亡、41人が負傷(一酸化炭素中毒)した。駆け付けた消防車も凍った道路や吹雪にさえぎられて現場到着が遅れ、放水した水も吹雪で巻き上げられ目標に命中できなかったという。
 火災時の半年ほど前の1968年(昭和43年)6月、消防法の一部が改正され、不特定多数の人びとが集合、使用する設備の緞帳、カーテン、掲示用合板などの防炎規則が改正されていたが、同館では規則に基づいて改修しておらず、悲劇を招いた。この火災後、可燃物の防炎規制が急速に進められた。
 (出典:近代消防社編・刊「日本の消防1948~2003>年表>1.災害編 107頁:昭和44年・磐梯熱海温泉・磐光ホテル火災、消防防災科学センター編「消防防災博物館>消防防災関係者向け>火災・事故>特異火災事例>昭和40年~昭和49年>磐光ホテル」[追加])

○自動車や工場の排煙から排出される亜硫酸ガス(二酸化硫黄)、公害対策基本法による環境基準第1号に(50年前)[再録]
1969年(昭和44年)2月12日

1年半前の1967年(昭和42年)8月に制定された公害対策基本法に基づく規定により、四日市ぜんそくの原因物質とされ、工場排煙や自動車の排気ガスから大量に排出される亜硫酸ガス(二酸化硫黄)を、それまでの時期の企業単位の規制から、一定地域を単位とする環境基準で規制することになった。
 前年の2月、国の生活環境審議会の専門委員会が、空気中の亜硫酸ガス濃度が、1日平均の1時間値が0.05ppmまたは1時間値が0.1ppmになると、人間の健康に害が出るとしていたが、今回の環境基準では、亜硫酸ガスの1日平均値を0.05ppm以下でかつ1時間値は0.2ppm以下などとした。これは東京などの中程度の汚染地帯に相当した数値だという。
 また達成期間として、汚染状況に応じて地域を三つに分け、著しく大気汚染が生じている地域は10年以内、大規模な工業開発が進んでいる地域は5年前後、新しく工業開発を予定している地域は当初から、としたもの。
 なおこの規制値は、4年後の1973年(昭和48年)5月の環境庁告示(環告)25で、当初の専門委員会報告に基づき、この規制を厳しくして1日平均値を0.04ppm以下に、1時間値は0.1ppm以下であると改正、現在に至っている。
 (出典:昭和史研究会編「昭和史事典>昭和44年 649頁:亜硫酸ガス環境基準」、環境省編「大気汚染に係る環境基準」。参照:2017年8月の周年災害「公害対策基本法公布」、2010年4月の周年災害「四日市ぜんそくで住民が市役所に陳情」)

○気象庁、東京に史上初の濃煙霧(スモッグ)注意報。国の環境基準シリ目の大気汚染(50年前)[追補]
 1969年(昭和44年)2月14日
 亜硫酸ガスの環境基準がようやく告示された2日後のこの日、東京新聞に“スモッグすっぽり東京”なる大見出しの7段抜きという記事が出た。
 そのリードにいわく“青空がほしいと市民の願いがみのってやっと亜硫酸ガスの環境基準が決まったが、産業界への気がねからか基準は低いし、最終目標に到達するまで十年もかかるという相も変わらぬ「人間不在」ぶり”と痛烈に批判。“こうしたお役所仕事をシリ目に十三日の東京は濃いスモッグにおおわれ、今冬十三回目、三日連続スモッグ注意報発令という深刻な新記録を出した。東京の空は、もはやスモッグ追放作戦を一日も遅らせられないほどの重症だ”と指摘した。
 この日の亜硫酸ガス濃度は、東京都公害部の測定によると都庁前(有楽町駅前の旧庁舎)で0.46ppmと、国が環境基準制定の際、発表した東京の1時間値0.2の2.3倍となっていた。
 同紙によると、都庁前の昨年(1968年・昭和43年)1年間の平均は0.063ppmと国の発表より0.013ppm多く、また1日平均値0.05ppm以下が70%以上でなければならないのに対し、わずか51.3%しかなかったと指摘する。また同じ期間の都内の汚染状態で、この亜硫酸ガス環境基準に合格するのは、8か所のスモッグ測定点の内、世田谷と板橋東保健所管内だけであったが、その板橋東でさえこの日は午前8時の0.21ppmから始まり10時には0.42ppmという前例のない数値を出していた。東京都の富沢公害部長は「国の施策の生ぬるさばかりを指摘するわけにはいかなくなった」とし、都独自の公害防止への強力な指導を図る段階に来た。との認識を示していた。
 そしてついに翌2月14日、気象庁は4日連続のスモッグ注意報を出すと同時に、初めて大気汚染による濃煙霧(スモッグ)注意報を発令した。都公害部はそれを受け、緊急体制をひき、都庁舎のビル暖房を中止し、区役所、都立病院にも足並みをそろえるよう要請。また東電、東京ガスなど大手工場やビル協会に

も、暖房燃料の硫黄分の低いものへの切り替え協力を申し入れている。都立病院では、入院患者でさえも暖房なしで過ごさなければならないという異常事態となっていた。
 (出典:東京新聞「昭和44年2月13日及び14日号」)

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