パンデミックも大災害も、
人類(一人ひとり)にとって、「不条理」な災害
●わが国では毎年いつでも、1000年に1度の大災害が起こりうる
本紙は防災に特化したメディアとして、いま“世界の災禍”となっている「COVID-19」パンデミック宣言(認定)と、わが国の“千年の災害”である東日本大震災発災から9年の周年が、たまたま日時(3月11日 *日本時間)が合致したことに特別な意味を持たせている。それは、パンデミックも大災害も、人類(一人ひとり)にとって、「不条理」な災害であるという点で共通テーマであり、象徴的に歴史に刻まれる日付けとなるからだ。
一般的に「災害」は、地震、津波、火山噴火など地理的な変動に起因するもの、台風や大雨・洪水など気象に起因するもの、火災や事故、紛争など人的な要因によるものなどを幅広く含むことから、本紙・防災情報新聞の「日本の災害・防災年表」では当然のように「感染症」が独立したカテゴリになっている。いっぽう、一部防災専門家や被災者支援団体、防災関連メディアでは、「COVID-19」については関心対象外とするところが少なくないようだ。しかし、災害の結果として環境の変化から起こる感染症はもとより、自然発生的・無差別的に私たちの安全・健康・命・生活を脅かし被害をもたらす“外力”ハザードとして、感染症の広がり自体が明らかに「災害」であり、その感染者は被災者だろう。
東日本大震災は発災当時、「千年に1度の災害」と言われた。その規模がケタ外れで、貞観地震(869年)にも同規模の大地震津波が発生したと見られることから、ざっくりと「千年に1度」となった。しかし、例えば、理屈を言えば、1000年に1度が明日起こっても不思議ではないし、南海トラフはもとより日本海溝や千島海溝、日本海側で1000年に1度、内陸活断層でも1000年に1度の事変が起これば、それこそ、毎年いつでも、わが国で1000年に1度の大災害が起こりうることになる。つまり、1000年に1度の東日本大震災だとしても、それから9年で風化の兆しがあるとすれば、それはあまりにも健忘症すぎるということではないか。
●「災害周年」で、教訓と災害レジリエンスの積み重ねを検証する
昨年(2019年)3月の三陸鉄道・リアス線の全線開通(19年台風19号豪雨で甚大な被害を受けて再び不通に。全線運行再開は来たる3月20日の見通し)に続いて、震災と原発事故で全線での運転を見合わせていたJR常磐線が昨日3月14日、全線開通し、9年ぶりに運転を再開。原発事故による帰還困難区域だったJR双葉駅前の避難指示が3月4日に解除され、双葉駅ホームに電車が入ってきた。
ただ、被災地の一部地域はいまだに避難指示の解除が解けておらず、解除された地域も人口が戻っていない。被災地では復興はまだ道半ばとの認識が根強くあるのだ。
いっぽう政府は3月6日、閣議で「COVID-19」の感染拡大を防ぐため、3月11日に予定していた政府主催の東日本大震災追悼式を中止すると決めた。安倍晋三首相は「あらゆる手を尽くすべき時期であることから、誠に遺憾ながら開催を断念するのやむなきに至った。関係者にお詫びを申し上げる」との談話を発表した。
これとは別に、政府は本年1月、政府主催の東日本大震災追悼式を2021年で終了する方針を発表している。2021年が東日本大震災発生からちょうど10年となる節目の年であるため、区切りをつける意味で終了することになったようだ。
前段で「1000年の大災害」と述べたが、それはもちろん、千年でも万年でも記憶に残すべきという修辞的な表現ではあるが、政府主催を10年で打ち切りというのは驚きでしかない。とくに国策として推進した原発の最悪レベルの事故を誘発した大災害であればこそ、政府主催で半永久的に大震災の犠牲者を追悼し、その教訓を記憶すべき大災害のはずである。加えて、東日本大震災での福島県の死者は、震災直接死よりも関連死が多いことを肝に銘じるべきだ(福島県の死者・行方不明者(直接死)1810人、震災関連死2286人/復興庁調べ)。
本紙は、災害周年をイベントとしてはとらえない。むしろ、次の「千年の災害」に向けて、災害犠牲者の追悼の念を新たにし、教訓と災害レジリエンスを積み重ねる意味での「災害周年」と考える。言うなれば「数年ごとの国難可能性と千年の大災害を経過観察」を考える機会――「数年ごとの国難可能性」は、パンデミックを起こしうる感染症が数年おきに発生していること、わが国のパンデミック対策の遅れを充実へと導く道筋の「経過観察」であり、「千年の大災害の経過観察」の意味は、まさに前述の「周年災害」の実践である。
〈2020. 03. 16. by Bosai Plus〉
ピンバック: 世界経済「第4位」に転落確定 日本 | Creator's Room