○読者の皆様へ
「周年災害」は2005年1月から掲載を開始しましたので、2014年12月でちょうど10年となりました。しかし災害は終わってはいません。そこで次の10年をめざして2015年1月から連載を続けております。
また、大災害や防災施策などお伝えしなければならない事項が書き残されておりますので、現在“追補版”としてご提供しております。
その際、記事化される事項は、災害により季節ごとの特徴がありますので、従来通り掲載月と同じものを選び、基本的には発生の古い災害等の順に補足記事化しておりますのでご了承下さい。
16年4月以降の当追補版は毎年(2)(3)……となり、原則として災害等の発生の年が年々新しくなりますが、中には新しい情報に基づいて、時代をさかのぼり追補する記事があると思いますのでご了承下さい。また当追補版に掲載された記事は、16年4月以降の該当月の記事中に吸収されますのであわせご了承下さい。
【11月の周年災害・追補版(4)-1600年代、1800年代-】
・大番、書院番、小姓組番に初の昼夜廻り(市中巡回)仰せつけ、市中警備(防火)体制を整備
・江戸町奉行、夜番(火の番見廻り)に対する指示を強め防災体制強化
-後に増番、中番、火の見櫓番、屋根番へと火の番役を増やす[改訂]
・江戸町奉行、町方の防火体制強化指示、官製・店火消姿なく町人自身の自衛消火(駆付火消)指示[改訂]
・箱館(函館)文化3年の大火「青山火事」、大火後、箱館奉行は日月消防組を設置
・天保3年晩秋、インフルエンザ大流行し長髪での登城を許可
○大番、書院番、小姓組番に初の昼夜廻り(市中巡回)仰せつけ、市中警備(防火)体制を整備
1629年11月29日(寛永6年10月7日)
幕府は、将軍の親衛隊である大番、書院番や小姓組番に属している旗本たちに、江戸市中を定期的に巡回させ、防火や警備に当たらせており、必要に応じて別隊を編成していた。
その巡回役をはじめて任命したのがこの日とされている。明治政府が編さんした百科事典「古事類苑」の官位の部に徳川氏職員として“昼夜廻”という職務が、徳川実紀などを引用して紹介されている。
それによると“大番、書院番、小姓組番ヨリ出役シテ、各江戸市中ヲ巡廻(回)シ、非常ヲ警戒ス。並ニ称して昼夜廻(り)と云う。此事寛永六年(1629年)ニ始マル”とある。
その勤務時間と人数は“当時ハ夜中ニ限リシガ、後ニハ、昼夜共ニ時ヲ定メテ巡廻(回)スルコトヽナリ、又其人数モ初メハ大番ヨリ十五人、書院番ヨリ八人、小姓組番ヨリ七人ヲ出スニ過ギザリシガ、元禄十年(1697年)ニ至リ、書院、小姓組ノ両番ヨリ各百人ヲ出シ、大番ヨリ八十人を出スコトヽナリ、宝永六年(1709年)以後ハ、両番ヨリ各七十四人ヲ出シ、大番ヨリ四十八人ヲ出スコトヽナレリ。又巡廻(回)ニ遠近ノ別アリテ、両番ハ江戸城ニ近キ内郭ノ地ヲ廻リ、大番ハ、遠キ外郭ノ地ヲ廻レリ”とある。
次いでその詳細を見ると、最初の編成の月日は寛永6年10月7日で新暦の1629年11月29日にあたる。時の将軍は三代家光だが、内政面では1633年(寛永10年)に幕府機構を確立させ、35年(同12年)には参勤交代制を制定するなど次々と幕府体制の基礎固めを行っているが、本拠である江戸市中の警備及び消防(防災)については、それらより早いこの29年(同6年)に次々と対策を立てている。
まず5月(旧暦・3月)、江戸城を囲む外堀と内堀の間、内郭にある武家屋敷街へ、現代の交番に通じる“辻番所”を、内堀から江戸湾、隅田川の間に広がる日本橋、神田など町人街には町木戸を設置させ、警備体制の整備を図った。次いで7月(旧・5月)には領地に帰国せず江戸に残っている在府大名たちに“火の番”つまり大名火消の始まりとなる、火事発生の際、将軍の命令書・奉書によって出動する“奉書火消”を誕生させている。将軍親衛隊による江戸市中の巡回は、これら警備、消防体制整備の一環であった。
ではその市中巡回の範囲だが、まず“近廻り”と呼ばれた城の内郭の巡回は書院番、小姓組番の両番が命じられ、飯田町一、田安もちのき坂ノ上、市ヶ谷御門の内、四谷御門の内、赤坂御門の内、永田町、麹町、牛込御門の内、土手限りで、現在のほぼJR中央線の内側に当たる地域を担当した。
次の“遠廻り”と呼ばれた城の外堀(外郭)郊外の巡回は、戦国時代の旗本備えの先鋒を勤め屈強をうたわれた大番組が命じられ、雑司ヶ谷、大塚、小石川、牛込、河田ヶ久保(現・市谷柳町)、市ヶ谷御門の外、食違(見附)、鮫が橋(現・新宿区若葉二、三丁目周辺)、権田原、千駄ヶ谷、青山、四谷大木戸の内、内藤(新)宿、中野、大久保、高田馬場限りで、現在のほぼ山手線と中央線に挟まれた地域で、当時の江戸の西北部一帯となりかなりの広範囲である。
次に巡回する1組の人数とその期間だが、近廻りの書院番衆と小姓番衆合計15人と遠廻りの大番衆15人の合計30人を、遠近二手各6人ずつ2組に分け、昼夜それぞれ分担して5日交代で巡回した。また遠近とも残りの各3人を予備要員とし、その内各2人を警備大事の日とした際に支援する“助廻り”とした。巡回する期間は2月(新暦・3月)から10月(新・11月)までとなっている。
ところが、97年12月(元禄10年11月)になると合計280人と9倍以上の大幅増員となった。これは前月11月30日(旧・10月7日)、府内大塚の日蓮宗善心寺門前町から出火し牛込から麹町、飯田町あたりの武家屋敷876軒と周辺の見附門、町家などを灰とした大火災が影響したものと思われる。その12年後の1709年4月(宝永6年3月)になり合計198人と少なくしたのは、将軍親衛隊としての他の職務に差し支えがあったと思われるが、江戸の市街地の広がりが3割減程度にとどめているのではないか。さらに1667年7月(寛文7年6月)から当時の新開地である本所、深川にも巡回するようになり“本所昼夜廻り”といわれた職務を増やしたのも、江戸の発展を物語っている。
今一つ、はじめて“昼夜廻”を設置した10年後の39年11月(寛永16年10月)に、同じ大番、書院番、小姓組番の番衆に“市中夜廻之衆”として、別の配置の職務が命令されているが、これは2か月前の同年9月(旧・8月)に天守閣を残し本丸が全焼、その再建工事に際し、火事が起こらぬよう、臨時に設けた職務であろう、その巡回する範囲は神田筋(方面)、山之手筋、桜田筋で、従来からの昼夜廻衆の守備範囲を補強するものだったと言える。
そのほか警備(防火)ではなく火事後の対応を命じられたケースもあり、49年6月(慶安2年5月)には書院番30人、花畑番(小姓組番)30人ずつが昼夜交代して武家屋敷街を見廻り、屋敷内の独身武士などが住まう長屋などで大火事があった際、その主人に注意し、近くの辻番人がその時油断して熟睡していたのであれば、よく調べて処罰して良いとした(“辻番油断大寐(寝)など仕ニ於てハ、相断可”)。この処置は、同じ年の2月(旧・慶安元年12月)に町方に出した「警火令」のお触れの中に“若辻番之者臥(寝)候ハヾ、からめ捕、橋之上ニさらし”という指示と似ており、辻番の職務怠慢に対する処置を番衆、町人それぞれに指示したもので興味深い。
(出典:文部省ほか編「古事類苑>官位部 六十八>徳川氏職員 1096頁~1103頁:附・昼夜廻」、東京都編「東京市史稿>No.4>市街編 第6>505頁~506頁:警火令」 。参照:2009年5月の周年災害「幕府、江戸に辻番所を設置」、5月の周年災害追補版(4)「幕府、町木戸設置させ辻番と後の自身番と共に治安強化はかる」、7月の周年災害・追補版(3)「諸大名帰国に際し、在府大名たちに火の番仰せつける、奉書火消の文献初出」、2017年11月の周年災害「江戸大塚-麹町元禄10年の大火」、11月の周年災害・追補版(2)「幕府、本丸殿舎全焼を受け、奥方火之番を任命し表火之番と分ける」、2009年2月の周年災害「江戸町奉行、町方に初の警火令おふれ」)
○江戸町奉行、夜番(火の番見廻り)に対する指示を強め防災体制強化
-後に増番、中番、火の見櫓番、屋根番へと火の番役を増やす[改訂]
1649年11月20日(慶安2年10月16日)
冬の夜、火事から町を守るために町内を巡回する火の番見廻りこと“夜番”がいつ頃から始まったのかわからないが、人々が生産活動を行い集落を形成し始めてから、人の目が少なくなる夜間、防火や警備のために担当を決めて、集落内を巡回する事は、自然発生的に起こったのだろう。
また夜番などがよく持ち歩く、注意をうながすための道具“拍子木”や上部に輪状の環をつけた“金棒”などは、古来より宗教儀礼や祭礼、相撲、演芸の世界でよく使われており、夜番が巡回するとき金棒を突き鳴らして“火の用心!”などと、声を張り上げるところから、ちょっとした噂を大げさにあちらこちらで言いふらす人のことを“金棒引”と呼ぶことがあるほどだ。
ところで江戸では、1649年2月(慶安元年12月)町奉行が出した、町人たちに防火をうながす初のお触れ(警火令)で、“町中夜番之儀”として“一時替ニ可仕候(いっとき替え:2時間交替とし)““月行事(その月の当番の町役人)は時々夜番之所え見舞可申付候(訪れること)”と指示している。これによると、このお触れが出たときには、各町内にはすでに複数の夜番担当者がおり、巡回の間に待機する夜番之所(夜番詰所)があったことがわかる。
その夜番之所だが、当時、江戸の町には町ごとに町木戸があり、外部からの不審な者の侵入を防いでいたが、その木戸の側に複数の番太郎(番太)こと番人が居住する番小屋(番所)があった。まだ自身番小屋(番屋)も火の見櫓も各町内にない時代なので、富裕な町は別としてほとんどの町では、この日より20年ほど前からあるこの木戸番小屋を夜番之所として活用していたのではないかと思われる。
ところで、先の初の防火のお触れが出た9か月後のこの日、江戸町奉行はその夜番の勤務体制を強化することを町触れで指示した。すなわち“町中夜番之儀、九ツ(午前0時)迄ハ唯今之ごとく相勤(今まで通りに勤め)九ツより以後ハ一時替ニ番可仕候(2時間交替で夜番を行うように)”という指示である。
つまり前の町触れでは、一律に2時間交替を指示していたのが、午前0時以前は今までどうりで良しとし、2時間交替は午前0時以降と変更している。これは町内によって、夜番の担当者が少ないのか、町の状況によって、放火などの危険性は少ないと判断し一人で夜番を勤める町があったのか、町奉行としては、各町内の状況に合わせた指示であろうか。
またそれだけでなく、夜番の管理強化を町名主に指示をしている。すなわち“月行事持まハり(夜番所を巡視して)無油断可申付候(油断をするなと申し付けなさい)、若(もし)番之者臥せり候は(寝ているようであれば)搦捕(捕らえて)月行事より急度可申上候(必ず言い聞かせなさい)、自然見のかしに仕候ニおい ては(もし見逃すようであれば)月行事ニ御掛り可披成候事(月行事の過失となるぞ)”と申し渡している。
この夜番の熟睡監視指示は、前項で述べた辻番人の熟睡監視と同じ1649年(慶安2年)のことで、当時、番人が寝ていて大事に至った事例があったのだろうか、幕府の閣僚たちも細かなところに気を使っている。
ついで2年後の51年9月(同4年7月)には“火之用心之儀、風吹候時は取分心懸、増番を置”と、風が吹く夜は夜番の増員を指示した。この指示は前年50年5月(同3年4月)、6大名家に風が激しく大火になるおそれがあるときの“増火消”こと、増援の大名火消を命じたのと同じ発想からであろう。
翌52年1月(同年12月)には、町奉行は武家屋敷街の辻番所と同じように、町人居住地にも治安維持のための番小屋の設置を家持ちの町人たちに命じた。“自身番”の誕生である。
以降、手狭な木戸番小屋から出動していた夜番たちは、ここに夜警の道具や消防器具などを置いて出動することになる。また昼間は月行事の町役人が出勤し行政事務を執るなど、現代で言えば町内(自治)会館+消防団詰め所であろうか。その設けた場所は、たとえば日本橋通りのように町のほぼ東西を大通が走っている町では、町木戸で大通を仕切っているその北側角に木戸番小屋を南側角に自身番小屋を設けたという。
このように夜番体制が強化される中、56年2月11日(明暦2年1月16日)“明後18日より自身番可仕候、但、昼之内は中番斗、尤(もっとも:とはいえ)夜斗自身番可仕事”とするお触れが出た。49年5月(慶安2年4月)当時の将軍世子(世継)家綱の日光社参に際して各町の中ほどに番小屋を設けさせた“中番”を、昼間の内の防火要員として活用したのであろうか、61年11月(寛文元年9月)の覚では、はっきりと“中番之者”を“町中火之用心”のためと防火要員として位置づけている(下記・町方の防火体制強化指示参照)。
さらに時は進み、八代将軍吉宗による享保の改革の一環として江戸の町の防火体制の強化が取り上げられ、その一つとして、1723年9月(享保8年8月)火の見櫓の設置基準が決まると各町の町木戸の側や自身番小屋の上などに次々と建てられ、自身番が管理した。86年10月(貞享3年9月)には“火之見やぐらに番置候儀”と火の見やぐら専任の番人を置く事が指示され、櫓下に専任の番小屋も造られるようになり、その勤務には“来月中(10月:旧・9月)は風吹候日計差置可申候”と、風が吹く日だけの勤務でよいが、“十一月よりハ昼夜差置可申候事”と11月(新暦・12月)からは昼夜別なく勤務するようにとの指示になった。
そこでこの町木戸近くの番小屋3点セットだが、それらの費用はすべてその町の負担なので、富裕な町は別として実際の多くは、町の規模や財政状況、地形によって、それぞれの番小屋が兼用されたり、複数の町で兼用したようだ。
さらに翌87年12月(同4年11月)になると“屋根番彌昼夜共無油断差置”と、火の見やぐら番だけでは江戸の空の監視が不充分と見て、屋根に上がって監視する番人を置くことを指示、その監視については“少煙立候共、早速知らせ可申候、見そこなひ(い)候分は不苦候、少之儀にても町中知らせ申候”と、わずかな煙が立ちのぼって見えたときでも、見損ないでもかまわないから早く知らせること、少々の事でも町内中に知らせるように、と監視→報告→通報のクイックレスポンスを徹底させている。またこの屋根番には“尤(もっとも)日用取候もの屋根番に差置申間敷候”と、屋根番には日雇いではなく常勤者を使えと、その監視の目の習熟を重視している。
(出典:黒木喬著「江戸の火事>第四章 江戸の防火対策 123頁~130頁:一 自身番と木戸番、137頁~144頁:三 警火令と住民」、山本純美著「江戸の火事と火消>火消の道具 124頁~129頁:火の見櫓、火の見櫓再建」同著「同>江戸の町づくりと防火対策 163頁~166頁:火の番勤務」、東京都編「東京市史稿>No.4>市街編 第6>505頁~506頁:警火令」、同編 「同>No.4>市街編 第6>570頁~571頁:附記二 夜番町觸(触)」、近世史料研究会編「江戸町触集成 第1巻>慶安4年 20頁~21頁:五九」、同編「同>慶安4年 22頁~23頁:六七」、東京都編「東京市史稿>No.4>市街編 第6>1095頁:附記 町触(二)」、同編「同>No.4>第7>1192頁:警火町触れ 覚」、同編「同>No.4>第20>839頁:火見所建設」 、高柳真三+石井良助編「御触書寛保集成 二十六>火事并火之元等之部 773頁:一四六六 貞享三寅年九月、774頁:一四六七 貞享四卯年十一月」。参照:2009年2月の周年災害「江戸町奉行、町方に初の警火令おふれ」、5月の周年災害・追補版(4)「幕府、町木戸設置させ辻番と後の自身番と共に治安強化はかる」、5月の周年災害・追補版(2)「幕府、増火消を6大名家に初めて命じる」、2012年1月の周年災害「町奉行、家持町人に自身番設置を命じ、失火責任も」、5月の周年災害・追補版(4)「江戸町奉行、将軍世子(世継)家綱日光社参に際し、治安強化策として中番を置く」、2013年9月の周年災害「幕府、火の見やぐら設置基準定め建設を推進させる」)
○江戸町奉行、町方の防火体制強化指示、官製店火消姿なく町人自身の自衛消火(駆付火消)指示[改訂]
1661年11月9日~12月11日(寛文元年9月18日~10月20日)
「火事と喧嘩は江戸の華」と言われた通り江戸の町は火事が多く、幕府は江戸城や武家屋敷街などを守るため、1641年3月(寛永18年1月)の“桶町の大火”を契機に、2年半後の43年11月(同20年9月)6万石以下の大名からなる常備消防“大名火消”を誕生させた。
一方、町人居住地(町人地)が多数を占める江戸の街を対象にした消防組織は、57年3月(明暦3年1月)に起きた史上最大の火災“明暦の大火(振袖火事)”の惨事を受けて、翌58年10月(万治元年9月)、ようやく常設火消の“定火消”を創設した。同じころ、富裕な商人や町名主を中心に町人たちの間でも自衛消防組織をつくる動きがあり、江戸の中心日本橋地区では23町が連盟し、定火消の誕生より1か月早い9月(旧暦・8月)自衛の町火消を創設、大店(豪商)の間でも使用人や出入りの鳶(とび)職、大工などによる自衛の店火消を創る動きがあった。
一方、町奉行所でもこれらの動きを見て、翌々(月)の11月(同年10月)、江戸中にお触れを出し、奉行所の与力が指揮をする官製の町火消を誕生させた。これらは自衛組も含め“店火消”と呼ばれたが、特に官製店火消の編成は、お上の命令にもかかわらず、ほとんどの町人に無視され進まなかったという。それでもやっと出来た火消組は当番制で集められた素人火消?が多く、消火訓練もろくにしていないので火事の時の駆け付けも遅く、士気も上がらず、さほど戦力にはならなかったという。
ところが、61年2月19日(万治4年1月20日)に起き大小名屋敷6~70軒、町家42町、787軒を焼いた“万治4年の大火”の教訓から町奉行所は、町の防火体制強化の御触れを4回にわたり続けて命じることになる。
その町触れの初めは同年の11月9日(寛文元年9月18日)で、まず“町中火事出来候節”として“向(側の)三町、左右(の)貳(二)町、裏町(の)三町、火元之町共ニ合わせて九町(の人々が)、早速駈集り火を可消事(消火にあたること)”と、火事の際の出動範囲を決め、近所の人々による消火活動を改めて義務づけた。これを“駆付火消”と呼んだが、特に組織的なものではなく、それまで町奉行所が出した消火のお触れとくらべ、出動範囲を明確にした以上のものではなく、訓練も装備も不足しせいぜい初期消火と延焼防止に奮闘した程度であったようだ。またそこにはせっかく創り上げた筈の官製店火消の姿はなかった。
この時さらに、町ごとに用意する消火用手桶と水道を引いていない町での水溜桶(後の天水桶)、はしごの数なども指示している。
ついで2回目の11月13日(同年9月22日)には、“町中為火之用心”として“来ル十月(新暦11月)より来年二月(新・3月)中迄、中番之者、壱町之内片輪(側)ニ弐人宛、両輪ニ四人宛、夜中斗差置可申候(特に夜中配置せよ)”と中番を防火要員として位置づけている(前項参照)。さらに“町中(の)わら(藁)ふき(葺き)茅葺(き)小屋之屋根(には)、土ニて塗可申候(土を塗りなさい)”と、火の粉からの延焼を防ぐことなどを命じた。
3回目の11月22日(同年10月1日)では、町ごとの用水桶や手桶の数を“片輪ニ弐つ宛壱町ニ四ツ置可申候”などと指示し“水ため(用水桶)にも手桶ニも不断水絶不申候様ニ可仕候”と用水桶や手桶には絶えず水が用意されているように注意し、井戸のない町では一つの町ごとに井戸を5~6か所掘ることを命じている。
最後の町触れは12月11日(同年10月20日)で、町中のわら葺き、茅葺きの小屋は今後、板葺きに改装すること、屋根の土ぬりを早く終わらせること、わら葺き、茅葺き小屋の新築は許可しないこと、また防火道具類は油断なく揃えるよう指示している。
これら町触れはかなり具体的でその後、火災シーズンを迎える晩秋になると定式町触れとして同様の内容のものが何回も出されたが、防火効果はさほどなかったという。
江戸の街が本格的な防火体制で強化されるのは、組織面では1718年11月(享保3年10月)町人に対する町火消組合編成の指示と、町づくりでは20年5月(同5年4月)の土蔵造りや瓦屋根の許可という“享保の改革”まで待たねばならない。
(出典:東京都編「東京市史稿>No.4>市街篇 第7>1190頁~1193頁:警火町觸(触)」、黒木喬著「江戸の火事>第三章 町火消の隆盛>一 店火消の時代 68頁~71頁」、魚谷増男著「消防の歴史四百年>町火消の芽生えと発展>町火消の芽生え 63頁~65頁」。参照:2011年3月の周年災害「江戸最初の広域大火・桶町の大火」、11月の周年災害・追補版(3)「幕府、初の組織的な火消制度“大名火消”創設」、2017年3月の周年災害〈上巻〉「1657江戸明暦の大火(振袖火事)」</a>、2018年10月の周年災害「幕府、江戸の街を守る常設火消“定火消”を新設」、11月の周年災害・追補版(3)「町火消(店火消)お目見え、町内に自衛消火組織や町奉行与力指揮下の火消組誕生」、2018年11月の周年災害「町内に町奉行与力指揮下の官製・町火消(店火消)“火消組”編成へ」、「江戸町奉行、町火消組合編成を命じる、町人自身による消火活動で江戸を守る体制へ」、2010年5月の周年災害「幕府、土蔵造りや瓦屋根を許可」)
○箱館(函館)文化3年の大火「青山火事」、大火後、箱館奉行は日月消防組を設置
1806年11月14日(文化3年10月5日)
函館は江戸時代18世紀より北海道南部、渡島半島の南端部にある江差、松前とともに蝦夷三湊と呼ばれたほど、当時から海産物の交易港として栄えていたが、火事が多く対策に苦慮していた。
この日、子の下刻(午前1時ごろ)弁天町の河岸市店(船着場近くの市場の店)青山方から出火、折からの北西の強風にあおられて炎の勢いはすさまじかった。箱館奉行は自ら消防の指揮をとり、駐在していた南部、津軽(青森県)両藩の手勢を繰り出して消防に尽くしたが、炎は四方に燃え拡がり、西は弁天町表通り両側、内澗町の浜田屋兵四郎店まで焼け抜け、山の上町の半分、実行寺、称名寺、淨玄寺など寺々も類焼、奉行所坂下の惣門(正門)及び門番所、高札場、交代屋敷、官庫(奉行所の倉庫)、板倉を焼き払ったうえ、八幡町、会所町まで類焼するなど、当時の箱館の半ばに近い350戸を焼失した。
この火災では、行政の中心である奉行所の建物や、経済の中心部である弁天町、大町などが類焼し、大打撃となった。大火後、箱館奉行はこの大火の教訓から、当時、この箱館で井戸掘業を営んでいた井戸屋吉兵衛を大火の翌々日に呼び出し、その配下の者も含めた14名を、奉行が直々の消防常雇いとし日月消防組と名付けた。常備消防・函館消防の前身である。
(出典:函館市消防本部編「函館の大火史>2 文化3年10月5日「青山火事」)
○天保3年晩秋、江戸でインフルエンザ大流行し長髪での登城を許可
1832年11月(天保3年10月中旬~11月上旬)
江戸を始め西国や奥羽(東北地方)でも、この時期インフルエンザが大流行した。
江戸時代末期の漢方医・多紀元堅はその著作「時還読我書」で次のように証言している。“天保壬辰十月中旬ヨリ霜月上旬マテ(1832年11月の間)、都下(江戸府内)感冒大ニ行レ(大流行し)、免ルヽモノ殆少シ(まぬがれた人はほとんどいない)、其証(症状)ハ、軽易ニシテ(軽く)、葛根柴桂諸湯(薬湯)ニテ癒タリ(治癒した)”。そして流行した地域と時期は“西国は九月下旬(新暦・10月中旬)ヨリ始リ、奥羽ハ霜月下旬(新・12月中旬)ニ行レタリト”。これで流行が、他の外来感染症の場合と同じだが、九州、中国地方から来て江戸を通り、東北地方へと広がっていったことがわかる。その早さについて同書は“僅ニ二月ニ満スシテ、衆人同病サルハナシ”と記している。
インフルエンザが外国から侵入してくることは平安時代にはすでに知られており、この年のインフルエンザを“琉球(沖縄)風”と名付けたという。当時の随筆家・斎藤月岑は“この年、琉球人が来朝せしより、琉球風という(武江年表)”と、当時、独立国であった琉球国からの使者が江戸へ来たので、その一行がインフルエンザウィルスを侵入させたという風聞を記したのだが、真相はどうだったのか、ただこの時期、インフルエンザが2年前の1830年から中国、南アジアで流行し、31年、32年にかけてロシアからヨーロッパへ広がっていたので、ウィルスが貿易船に乗って、当時交易の盛んな中国から沖縄へと渡り、江戸へと侵入したのかもしれない。
流行当時、厳格な江戸城でも、勤務する武士たちに対し“此節風邪流行致し候間、長髪ニ而(て)登城致し候而(にて)も不苦、且供人格別減少いたし候而(にて)も不苦”頭の月代を剃らずに登城しても、お供の人数が少なくてもよろしいとし、“風邪流行に付、御用無之詰御番之面々者、御廻り後勝手次第致退散候而(して)も不苦候”と、精鋭で鳴る御番之面々(大番、書院番、小姓組番など将軍親衛隊)に対しても、持ち場をひとまわりしたら早退しても良いとの許可が出ていたと、当時の幕府の記録「御徒士方万年記」に記されている。
(出典:東京都編「東京市史稿>No.2>変災篇 第3>999頁~1004頁:天保三年風邪」、酒井シヅ著「病が語る日本史>第二部 時代を映す病>三 万病のもと風邪 147頁~148頁:4 風邪、インフルエンザ。6 インフルエンザと愛称 152頁」)
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(2018.11.05 更新)